死にたがりの最強物理おじさん、拾った幼女に殺されないよう守られてます 作:一丸壱八
地下の空気は、肺にまとわりつく。
雨の匂いじゃなく、古いコンクリートが吐く、湿った息だ。
旧地下鉄網のさらに下層、廃棄された保守用通路。
使われなくなった古い有線網をハッカーが裏回線として再利用しているおかげで、電話線だけが、まだ生きている。
鏑木ジンは、壁際に設置された朽ちかけのベンチに腰を下ろし、革手袋を外した。
指先が白い。
戦闘の熱が引くと同時に、地下の冷気が肌を刺してくる。
「……怪我は」
問いかけようとして、ジンは言葉を止めた。
目の前で、ノアが
ノアはベンチの上に広げたリュックに、ジンの予備弾倉を三つきれいに並べて詰め込んでいた。
さらに、どこから出したのか、タオルでジンのトレンチコートの泥を拭おうとしている。
ジンは呆れ半分で鼻を鳴らし、ノアの手を止めた。
「座ってろ。落ち着かねぇ」
ノアはびくりと肩を震わせ、大人しくベンチの端に座った。
テディベアを胸に抱きしめる力が、いつもより強い。
ジンはしゃがみ込み、ノアの体を点検する。
肩、腕、
触れた瞬間に嫌がるなら、どこか痛めている。
ノアは逃げない。ただ、顔色は悪い。
地下の頼りない蛍光灯の下で、その肌は透き通るほど青白く見えた。
「……ん?」
ジンの目が、ノアの抱えているテディベアに吸い寄せられた。
薄汚れたぬいぐるみの腹の縫い目。
そこだけ、糸が新しい。縫い直した跡がある。
粗く縫い合わせているが、隠す気はある痕跡。
ジンの指がそこに触れた瞬間、ノアの体が硬直した。
ノアはテディベアを隠そうとはしなかったが、その瞳が大きく見開かれ、呼吸が止まったのが分かった。
ジンは縫い目を爪でこじ開けた。
出てきたのは、米粒よりも小さな、黒い金属チップだった。
微かに青い光を放っている。
発信器。魔力マーカー。
呼び方はどうでもいい。要するに、首輪だ。
「……いつの間に」
ジンの声が、地下の静寂に低く落ちた。
(……俺たちの居場所が筒抜けだったわけだ)
奴らの奇襲が完璧だった理由。
それは、この首輪が二人を売り飛ばしていたからだ。
ジンは冷めた目でチップを眺め、そのまま親指と人差し指で挟み込んだ。
握り潰すように力を入れると、金属が湿った音を立てて砕けた。
パチッ。
ほんの小さな火花が散り、焦げた電子臭が鼻を刺す。
ジンは砕けた破片を掌で払った。
床に落ちた黒い粉が、湿ったコンクリートに吸い込まれる。
「これで正確な位置はバレないが、最後の信号でおよそのエリアは絞られたはずだ。急いで移動するぞ」
ジンが声を掛けると、ノアが震えていた。
寒さのせいじゃない。
ノアはテディベアの耳を一度だけ弄り、次に両腕でぎゅっと抱きしめた。
その肩は小さく縮こまり、視線は床の黒い粉と、ジンの顔を交互に
唇がわなないて、音のない言葉を紡いでいる。
――ごめんなさい。
自分が原因だ。だから、捨てられる。
そんな強烈な恐怖が、小さな体から溢れ出しているのが、ジンにもわかった。
(……面倒くせぇ顔をするな。別に怒ってねぇよ)
ジンはため息をつき、立ち上がった。
ノアの頭に手を置こうとして、やめる。今は何をしても怯えそうだ。
代わりに、壁際に設置された黒電話に目を向けた。
この街で一番信用できる通信機は、盗聴されやすいスマホじゃない。
地下深くに根を張った、前時代の亡霊みたいな太い銅線だ。
ジンは受話器を取り、埃を払った。
ダイヤルを回す乾いた音が、湿った地下道に響く。
雨音すらない場所で、その音だけがやけに生々しい。
呼び出し音が三回。四回。
五回目でふっと途切れて、女の声が混ざった。
『……誰よ。こんな時間に』
「早く出ろよ」
『……なんだ、死に急ぎさんじゃない』
「死に急いでるのはお前の化粧だ」
『うるさいわね。……で?』
ジンは短く息を吐いた。
言葉を選ぶ。余計な情報は出すな。誰もが敵の可能性がある。
「追跡されてた。……ぬいぐるみの腹から、発信器が出た」
『……はぁ?』
電話口で、何かを叩く音がした。灰皿か、机か。
レイコの機嫌が一段落ちたのが分かる。
『それ、あたしじゃないわよ。そんな安っぽい真似。やるならもっと綺麗にやる』
「食えない女だ」
笑い声。
香水とメンソールの匂いが受話器越しに届いてきた気がする。
「それで、回収班。あれは何だ」
『あなた、まさか関わったの?』
「向こうから挨拶に来たんでな。丁重にお帰り願ったが」
『馬鹿ね……。あいつらは、一度ターゲットを決めたら手段を選ばないわよ』
レイコの声が低くなる。
『聞いて。ここだけの話よ。最近、企業のトップ周辺で妙な噂があるの』
「妙な噂?」
『ええ。どうやら会長がひた隠しにするスキャンダルよ。表沙汰になったら株価が大暴落するような、ね』
「……スキャンダルか」
ジンは片眉を上げた。
『あいつらはそれを回収、いいえ、きっと抹消するために動いてる。……あの子、関係あるんじゃない?』
ジンはノアを見た。
薄暗い地下の灯りの中、ベンチに座ったノアの服の裾が揺れる。
(企業の会長。表に出せない存在。人間を数字で管理。失敗作。708……)
「……なるほどな」
『何が、なるほどよ』
「隠し子か」
『えっ?』
「金持ちってのは、ガキに番号つけて管理するような悪趣味なプレイが好きなのか? 気色悪い」
『……は? 番号? ちょっと待って。……もしかして、頭を殴られたの?』
レイコの声が一瞬だけ真面目になった。
『スキャンダルって、そういう意味じゃ……』
「違うのか」
『……違うわよ。もっと、吐き気がするような……』
珍しく、レイコが言い淀む。
言葉にした途端、取り返しがつかなくなる種類の話。そういう匂いがした。
ジンはそこを深掘りしない。
流儀という名の臆病だ。臆病は、長生きのコツでもある。
「ノアは、企業の権力闘争の犠牲になった可哀想な子供だ。ただ、親の都合で番号を振られ、捨てられ、今また消されようとしている、会長の『愛人の子』さ。……筋が通った」
『……もう。都合よく納得する才能だけは、一級品ね』
「才能じゃない。習慣だ」
ジンは受話器を持ち直し、声を低くした。
ここからが本題だ。
「すまんが、もう一つ頼みがある」
『なによ。まだあるの?』
「車だ。……事務所の裏に停めたままなんだ。今頃、あいつらに囲まれてるだろうが」
愛車『
この街を脱出するには、あの装甲と馬力がどうしても必要だ。
だが今、ジンが取りに戻れば、間違いなく狙い撃ちにされる。
『……まさか、取ってこいって言うんじゃないでしょうね』
「お前じゃ無理だ。裏の『運び屋』を手配しろ。スペアキーの隠し場所は知ってるな? リアバンパーの裏、シャーシの隙間だ」
『はぁ……。あなたねぇ、あの車、目立つのよ? 動かしただけで蜂の巣にされるわよ』
「だからプロに頼むんだ。……南の廃棄ルート、地下道の出口まで回させてくれ」
レイコが向こうで大きく溜め息をつく音が聞こえた。
ライターの石を擦る音。煙を吐く音。
『……高くつくわよ』
「ツケとけ。必ず払う」
『とっくに貸しは増えてるわよ。……分かったわ。腕のいい
「恩に着る」
ジンは短く礼を言い、受話器を置いてノアの方へ向き直った。
ノアはまだ、ベンチの端で固まっていた。
自分が追っ手を招いた罪悪感で、小さな体が押しつぶされそうになっている。
ジンはノアに歩み寄り、その頭に無骨な手を置いた。
ノアがビクッと肩をすくめる。
「安心しろ」
ジンの声は低く、そして揺るぎなかった。
「俺は企業の掃除屋ごときに、拾ったもんを返してやるほどお人好しじゃねぇ」
ノアが顔を上げる。
その瞳が大きく揺れている。
ジンはノアの目を見て言った。
「ノア。お前はノアだ。……忘れるな」
ノアの瞳から、大粒の涙が
子供の涙だ。
ノアはジンの腰にしがみつき、顔を埋めて泣いた。
ジンは困ったように天井を見上げ、その頭をガシガシと乱暴に撫でた。
「……泣くな。湿気る」
それから二人は休憩を挟みながら、長い地下道を歩いた。
地下道の湿った闇を抜け、錆びついた鉄格子を蹴破る。
外に出ると、夕方の雨が顔を叩いた。
南区画の路地裏。
そこには、泥だらけの『鉄牛』が、主人の帰りを待つ忠犬のように濡れて停まっていた。
ジンは無言で車体に近づく。
敵の包囲網の中から車を運び出し、追っ手を撒き、車をおいて立ち去る。
「……いい仕事だ」
ジンは短く唸り、ロックを解除してドアを開けた。
ノアを助手席に乗せ、自分も運転席に滑り込んだ。
キーを回す。
鉄牛が咳き込み、唸り、目を覚ます。
雨の中に、排気の匂いが溶ける。
ジンはサンバイザーの裏を見た。何もない。
次にダッシュボードを開ける。中には薄いマグネットケースに入ったスペアキーが入っていた。
小さく頷いて、ダッシュボードを閉じる。顔も見えない同業者との、無言の意思疎通だった。
ジンはシートに体を沈めてハンドルを握ると、雨でぼやけたフロントガラスを見つめた。
(……俺たちがここに居座れば、次はあいつらの店ごと焼かれる。クソみたいな街だが、泥水の味まで変えられるのは気に食わん)
バックミラーに、特区のネオンが映る。
薄汚れた光が、雨で滲んで、墓標みたいに揺れている。
「……行くぞ。
ジンが呟いて、アクセルを踏む。
鉄牛は濡れたアスファルトを掴み、ゆっくりと前へ出る。
助手席の小さな影は、当たり前みたいにそこにいる。
ジンはそれを日常と呼ぶのを、まだ許していない。許していないが、ノアのシートベルトを確認して、アクセルをさらに踏み込む。
雨がワイパーに叩かれ、視界がクリアになる。
その瞬間、前方の闇が、一本の道として開いた。
ロードムービーの始まりは、いつだって、湿った街を背にするところからだ。