死にたがりの最強物理おじさん、拾った幼女に殺されないよう守られてます   作:一丸壱八

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第14話 悪夢を食べる少女

 巨大な白い墓標が、雨の闇に突き立っていた。

 墓石じゃない。風雨に剥がされ、塗装の皮膚を失った長方形。

 かつては映画を映し、口づけと喧嘩と別れを、同じ白さで受け止めていたスクリーンだ。

 

 特区の最果て。打ち捨てられたドライブインシアター跡地。

 駐車場は雑草に食われ、スピーカー用のポールが等間隔に並んでいる。

 ここにいた連中は、笑ったり泣いたりした。今は雨が代役をやっている。

 

 鏑木ジンは『鉄牛(アイアン・バッファロー)』を映写室だった廃墟のひさしの下へ滑り込ませた。

 重低音が止む。すると世界が、急に厚みを失う。

 残るのは、ボンネットを叩く雨音だけ。ドラムのブラシみたいな細い音が、延々と同じフレーズを繰り返す。

 

「……今日はここで野営だ」

 

 ジンは吐き捨てると、ダッシュボードから軍用の缶詰を引っぱり出した。

 ラベルは剥げ、文字は雨に溶けたみたいに読めない。中身は「肉らしきもの」のシチューだ。

 ドアを開け、雨の中へ出る。

 ジンは重いボンネットを片手で持ち上げ、熱を持ったベルトや繊細なプラグコードを避け、エンジンの側面にある焼けた鉄の隙間に、慣れた手つきで缶詰をねじ込んだ。

 

 車内に戻り、ようやくシートに深く沈み込む。

 この手の場所は嫌いじゃない。終わったものは、黙っている。人間と違って。

 

「デカい壁が、ドローンの目隠しになる」

 

 皮肉だ。

 黄色いレインコートのノアを、映画の相棒みたいだなんて柄にもなく思ったせいか。舞台まで用意されちまった。

 だが上映時間はとっくに終わっている。ここにあるのは、観客のいない荒野と、終わらない雨だけだ。拍手もブーイングもない。つまり、俺向きだ。

 

 数分後。

 軍手で熱々の缶を取り出し、ナイフで蓋をこじ開けると、湯気と共に濃い獣脂の匂いが車内に広がった。

 ジンは軍手越しにも伝わる熱が引くのを少し待ってから、助手席のノアに差し出した。

 

「……こんな泥臭い飯、お嬢様にはキツいか?」

 

 ノアは黄色いレインコートのフードを目深に被ったまま、小さな手で缶を受け取る。

 何も映らないスクリーンを見つめ、スプーンを一口運んだ。

 その咀嚼が、やけに丁寧だった。

 味がどうこうじゃない。生きるための手順を、間違えないようにしているみたいな動き。

 だが、飲み込んだあと、ノアは小さく息を吐き、ほうっと頬を緩めた。

 

(……これを、うまい顔で食えるのは才能だな)

 

 清潔なテーブルクロスと、毒見役付きの皿。企業の会長の子供なら、そういう世界の匂いを背負っていてもおかしくないのに、こいつは廃油と(すす)の車内で、得体の知れない肉を大事そうに噛む。

 笑える。笑えない。どっちでもいい。こういう不条理を笑い飛ばすのが、俺の仕事だ。

 

 数口のあと、ノアがスプーンをジンへ差し出した。

 合図は無言だ。

 

「……俺はいい。しっかり食え」

 

 ノアは引かない。スプーンを突き出したまま、紫の瞳でじっと見てくる。

 ジンは鼻で笑って、受け取った。

 負けたことにするのが早い。勝っても得がない相手だ。

 

 同じスプーンで、ゴムみたいな肉を口に放り込む。塩辛い。舌が「水をくれ」と騒ぐ。

 ジンはわざと不機嫌そうに言った。

 

「……不味いだろ」

 

 ノアは首を横に振る。

 黄色い袖口の奥から、汚れた熊の耳が覗く。

 その光景が妙に腹立たしい。家族ごっこに見えるからだ。

 ジンはそういうのが嫌いだった。嫌いなはずだった。嫌いと言い切ると、胸の奥が少しだけ痛むから、今日は「腹立たしい」にしておく。

 

 缶が空になるまで、二人は交互にスプーンを動かした。カツン、とスプーンが底を叩く乾いた音が、完食の合図だった。

 この車内では、分け前のルールだけがまともだ。

 

 食後、ジンは車外へ出た。

 雨は止まない。スクリーンは相変わらず白い。何も映らないくせに、世界でいちばん偉そうだ。

 

 ジンは『赤烏(レッド・クロウ)』を咥え、ライターを擦った。シュボッ、と小さな着火音がして、次の瞬間、煙が肺の奥まで落ちていく。

 湿った夜に、乾いた毒。生きている証拠としては、これで十分だ。

 

 白いスクリーンを見上げながら、独り言を落とす。

 

「……俺の人生も、つまらねぇ映画みたいなもんだ」

 

 どうせ最後はバッドエンド。

 誰も救われないし、拍手もない。

 むしろその方が、余計な期待をしなくて済む。期待は、刃物より人を殺す。

 

 ふと車内を見る。

 ノアは外へは出てこない。黄色いレインコートの小さな影が、ガラス越しにこちらを見ていた。

 テディベアを抱え、最前列の観客みたいにじっとしている。

 

「……切符(チケット)代にしちゃ、高くついたな」

 

 ジンは煙を吐き、雨の向こうへ散らした。

 煙は雨粒に殴られて千切れ、すぐに夜へ溶ける。

 もう一度吸って、短く灰を落とす。赤烏の火が、雨の中で情けなく瞬いた。

 

 吸い殻を潰し、ジンは雨と一緒に煙を払いのけるように手を振った。

 濡れた空気を引きずり込まないように、体をねじって車内へ滑り込む。

 

 今夜見る夢も、どうせロクなもんじゃない。井戸の底か、血の海か。

 それでも隣で、ちいさな体温が眠りはじめる気配がした。

 なぜか、ほんの少しだけ、上映がマシになる気がした。

 

 落ちた瞬間、夢が来た。

 いつもの夢だ。

 湿った壁。底のない井戸。

 泥水が満ちてくる。

 

 見上げると、遥か上に小さな出口が見える。

 手がある。届きそうで届かない手。握れば救えたはずの手。

 ジンの指は、いつもそこで止まる。引き金を引けなかった指。掴めなかった指。

 恐怖。圧倒的な無力感。

 死にたい。こんな思いをするなら、死んでしまいたい。

 

「……やめろ、俺は……」

 

 声は水の中で泡になって消える。

 冷たい。肺が縮む。沈む。沈む。

 どうせ沈むなら、派手に沈め。

 そう言い聞かせても、体が勝手に恐がる。恐がる自分が一番気に食わない。

 

 その時、世界の温度が変わった。

 冷たさの縁に、柔らかい熱が触れた。

 それは、泥水を無理やり押しのけるような、強引な光だった。

 毛布みたいな熱と重みが、恐怖を上から押さえつけてくる。

 胸の奥へ届く、細い鼓動。

 沈んでいく体が、ふわりと底で受け止められた気がした。

 

 朝。

 目を開けた瞬間、ジンは自分の頭が妙に軽いことに気づいた。

 胸の奥に沈んでいるはずの泥が、今朝は薄い。

 

「……いつもと違ったな。珍しい」

 

 口が勝手に言った。

 寝覚めが驚くほどスッキリしている。

 

 視線を落とすと、ノアがいた。

 ジンの胸に顔を埋め、テディベアを抱えたまま眠っている。

 黄色いフードがずれて、銀髪が頬に張りついていた。

 額にはびっしりと汗が浮かび、レインコートの下の体は、高熱を出した後のように小刻みに震えている。

 まるで一晩中、何かと戦っていたみたいに。

 

「番犬のつもりか? 重いんだよ」

 

 ジンは悪態をつきながらも、その体を退かすことはしなかった。

 代わりに、自分のトレンチコートの前を外し、震える小さな背中を包み込むように掛け直してやった。

 毛布みたいな真似はしない。

 ただコートが被さっただけ。言い訳の立つやつだ。

 

 ノアは起きない。

 テディベアの頭が、ジンの胸元に強く押し付けられている。

 その横で、小さな指が、無意識にコートの布を握りしめていた。

 ジンはそれを見て、訳もなく視線を逸らした。

 腹の奥が、ちくりとする。

 

(……こいつ、昨日も寝てねぇのか?)

 

 しばらく続いた沈黙に被さるようにして、ひさしの外から低い羽音が届いた。ドローンだ。

 雨の幕の向こうで、目玉が回っている。ここまでは入ってこない。だが、存在だけで十分だ。

 

 この先にはゲートがある。壁の向こう側のまともな世界。

 まとも、なんて言葉ほど信用できないものはない。

 まともな顔をした連中ほど、汚れを上手に隠す。

 だが、ガキがこんな風に震えなくて済むなら、多少の嘘臭さには目を瞑ってやってもいい。

 

 ジンはゆっくり起き上がり、ノアの肩を二度、軽く叩いた。

 

「行くぞ。上映は終わりだ」

 

 ノアが(まぶた)を持ち上げる。紫の瞳が、雨より静かにこちらを映す。

 目を擦り、テディベアの耳をいつものように弄った。確認の儀式みたいに。

 それから助手席に座り直す。その手はコートの裾を掴んだまま離さない。

 

 ジンは舌打ちして、掴まれている裾を引き剥がさずに前を見た。

 

「……離すなよ。迷子は面倒だ」

 

 鉄牛のキーを回す。エンジンが低く唸り、古い獣みたいに目を覚ます。

 雨音に混じって、ジャズの残り香みたいな音が車内に戻ってきた。

 ひさしの下を抜け、鉄牛は濡れた駐車場へ鼻先を出した。

 雨の向こうに、壁は黙って立っている。ゲートはそのどこかに口を開けている。

 外の世界が待っている? 違う。

 待っているのは、続きを食いにくる現実だ。

 

 ジンはハンドルを握り直し、独り言みたいに呟いた。

 

「……ここからが三流映画の本編だ」

 

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