死にたがりの最強物理おじさん、拾った幼女に殺されないよう守られてます 作:一丸壱八
巨大な白い墓標が、雨の闇に突き立っていた。
墓石じゃない。風雨に剥がされ、塗装の皮膚を失った長方形。
かつては映画を映し、口づけと喧嘩と別れを、同じ白さで受け止めていたスクリーンだ。
特区の最果て。打ち捨てられたドライブインシアター跡地。
駐車場は雑草に食われ、スピーカー用のポールが等間隔に並んでいる。
ここにいた連中は、笑ったり泣いたりした。今は雨が代役をやっている。
鏑木ジンは『
重低音が止む。すると世界が、急に厚みを失う。
残るのは、ボンネットを叩く雨音だけ。ドラムのブラシみたいな細い音が、延々と同じフレーズを繰り返す。
「……今日はここで野営だ」
ジンは吐き捨てると、ダッシュボードから軍用の缶詰を引っぱり出した。
ラベルは剥げ、文字は雨に溶けたみたいに読めない。中身は「肉らしきもの」のシチューだ。
ドアを開け、雨の中へ出る。
ジンは重いボンネットを片手で持ち上げ、熱を持ったベルトや繊細なプラグコードを避け、エンジンの側面にある焼けた鉄の隙間に、慣れた手つきで缶詰をねじ込んだ。
車内に戻り、ようやくシートに深く沈み込む。
この手の場所は嫌いじゃない。終わったものは、黙っている。人間と違って。
「デカい壁が、ドローンの目隠しになる」
皮肉だ。
黄色いレインコートのノアを、映画の相棒みたいだなんて柄にもなく思ったせいか。舞台まで用意されちまった。
だが上映時間はとっくに終わっている。ここにあるのは、観客のいない荒野と、終わらない雨だけだ。拍手もブーイングもない。つまり、俺向きだ。
数分後。
軍手で熱々の缶を取り出し、ナイフで蓋をこじ開けると、湯気と共に濃い獣脂の匂いが車内に広がった。
ジンは軍手越しにも伝わる熱が引くのを少し待ってから、助手席のノアに差し出した。
「……こんな泥臭い飯、お嬢様にはキツいか?」
ノアは黄色いレインコートのフードを目深に被ったまま、小さな手で缶を受け取る。
何も映らないスクリーンを見つめ、スプーンを一口運んだ。
その咀嚼が、やけに丁寧だった。
味がどうこうじゃない。生きるための手順を、間違えないようにしているみたいな動き。
だが、飲み込んだあと、ノアは小さく息を吐き、ほうっと頬を緩めた。
(……これを、うまい顔で食えるのは才能だな)
清潔なテーブルクロスと、毒見役付きの皿。企業の会長の子供なら、そういう世界の匂いを背負っていてもおかしくないのに、こいつは廃油と
笑える。笑えない。どっちでもいい。こういう不条理を笑い飛ばすのが、俺の仕事だ。
数口のあと、ノアがスプーンをジンへ差し出した。
合図は無言だ。
「……俺はいい。しっかり食え」
ノアは引かない。スプーンを突き出したまま、紫の瞳でじっと見てくる。
ジンは鼻で笑って、受け取った。
負けたことにするのが早い。勝っても得がない相手だ。
同じスプーンで、ゴムみたいな肉を口に放り込む。塩辛い。舌が「水をくれ」と騒ぐ。
ジンはわざと不機嫌そうに言った。
「……不味いだろ」
ノアは首を横に振る。
黄色い袖口の奥から、汚れた熊の耳が覗く。
その光景が妙に腹立たしい。家族ごっこに見えるからだ。
ジンはそういうのが嫌いだった。嫌いなはずだった。嫌いと言い切ると、胸の奥が少しだけ痛むから、今日は「腹立たしい」にしておく。
缶が空になるまで、二人は交互にスプーンを動かした。カツン、とスプーンが底を叩く乾いた音が、完食の合図だった。
この車内では、分け前のルールだけがまともだ。
食後、ジンは車外へ出た。
雨は止まない。スクリーンは相変わらず白い。何も映らないくせに、世界でいちばん偉そうだ。
ジンは『
湿った夜に、乾いた毒。生きている証拠としては、これで十分だ。
白いスクリーンを見上げながら、独り言を落とす。
「……俺の人生も、つまらねぇ映画みたいなもんだ」
どうせ最後はバッドエンド。
誰も救われないし、拍手もない。
むしろその方が、余計な期待をしなくて済む。期待は、刃物より人を殺す。
ふと車内を見る。
ノアは外へは出てこない。黄色いレインコートの小さな影が、ガラス越しにこちらを見ていた。
テディベアを抱え、最前列の観客みたいにじっとしている。
「……
ジンは煙を吐き、雨の向こうへ散らした。
煙は雨粒に殴られて千切れ、すぐに夜へ溶ける。
もう一度吸って、短く灰を落とす。赤烏の火が、雨の中で情けなく瞬いた。
吸い殻を潰し、ジンは雨と一緒に煙を払いのけるように手を振った。
濡れた空気を引きずり込まないように、体をねじって車内へ滑り込む。
今夜見る夢も、どうせロクなもんじゃない。井戸の底か、血の海か。
それでも隣で、ちいさな体温が眠りはじめる気配がした。
なぜか、ほんの少しだけ、上映がマシになる気がした。
落ちた瞬間、夢が来た。
いつもの夢だ。
湿った壁。底のない井戸。
泥水が満ちてくる。
見上げると、遥か上に小さな出口が見える。
手がある。届きそうで届かない手。握れば救えたはずの手。
ジンの指は、いつもそこで止まる。引き金を引けなかった指。掴めなかった指。
恐怖。圧倒的な無力感。
死にたい。こんな思いをするなら、死んでしまいたい。
「……やめろ、俺は……」
声は水の中で泡になって消える。
冷たい。肺が縮む。沈む。沈む。
どうせ沈むなら、派手に沈め。
そう言い聞かせても、体が勝手に恐がる。恐がる自分が一番気に食わない。
その時、世界の温度が変わった。
冷たさの縁に、柔らかい熱が触れた。
それは、泥水を無理やり押しのけるような、強引な光だった。
毛布みたいな熱と重みが、恐怖を上から押さえつけてくる。
胸の奥へ届く、細い鼓動。
沈んでいく体が、ふわりと底で受け止められた気がした。
朝。
目を開けた瞬間、ジンは自分の頭が妙に軽いことに気づいた。
胸の奥に沈んでいるはずの泥が、今朝は薄い。
「……いつもと違ったな。珍しい」
口が勝手に言った。
寝覚めが驚くほどスッキリしている。
視線を落とすと、ノアがいた。
ジンの胸に顔を埋め、テディベアを抱えたまま眠っている。
黄色いフードがずれて、銀髪が頬に張りついていた。
額にはびっしりと汗が浮かび、レインコートの下の体は、高熱を出した後のように小刻みに震えている。
まるで一晩中、何かと戦っていたみたいに。
「番犬のつもりか? 重いんだよ」
ジンは悪態をつきながらも、その体を退かすことはしなかった。
代わりに、自分のトレンチコートの前を外し、震える小さな背中を包み込むように掛け直してやった。
毛布みたいな真似はしない。
ただコートが被さっただけ。言い訳の立つやつだ。
ノアは起きない。
テディベアの頭が、ジンの胸元に強く押し付けられている。
その横で、小さな指が、無意識にコートの布を握りしめていた。
ジンはそれを見て、訳もなく視線を逸らした。
腹の奥が、ちくりとする。
(……こいつ、昨日も寝てねぇのか?)
しばらく続いた沈黙に被さるようにして、ひさしの外から低い羽音が届いた。ドローンだ。
雨の幕の向こうで、目玉が回っている。ここまでは入ってこない。だが、存在だけで十分だ。
この先にはゲートがある。壁の向こう側のまともな世界。
まとも、なんて言葉ほど信用できないものはない。
まともな顔をした連中ほど、汚れを上手に隠す。
だが、ガキがこんな風に震えなくて済むなら、多少の嘘臭さには目を瞑ってやってもいい。
ジンはゆっくり起き上がり、ノアの肩を二度、軽く叩いた。
「行くぞ。上映は終わりだ」
ノアが
目を擦り、テディベアの耳をいつものように弄った。確認の儀式みたいに。
それから助手席に座り直す。その手はコートの裾を掴んだまま離さない。
ジンは舌打ちして、掴まれている裾を引き剥がさずに前を見た。
「……離すなよ。迷子は面倒だ」
鉄牛のキーを回す。エンジンが低く唸り、古い獣みたいに目を覚ます。
雨音に混じって、ジャズの残り香みたいな音が車内に戻ってきた。
ひさしの下を抜け、鉄牛は濡れた駐車場へ鼻先を出した。
雨の向こうに、壁は黙って立っている。ゲートはそのどこかに口を開けている。
外の世界が待っている? 違う。
待っているのは、続きを食いにくる現実だ。
ジンはハンドルを握り直し、独り言みたいに呟いた。
「……ここからが三流映画の本編だ」