死にたがりの最強物理おじさん、拾った幼女に殺されないよう守られてます 作:一丸壱八
巨大な白い壁が、鉛色の空を切り取って聳え立っている。
特区と外の世界を隔てるゲートは、まるで都市に穿たれた巨大な傷口のようだった。
そこから先は清潔な楽園で、こちら側は掃き溜めだ。
鏑木ジンは、『
助手席では、ノアが黄色いレインコートのフードを目深に被り、薄汚れたテディベアを胸に抱いたまま固まっている。
検問所の強烈な白いライトが、フロントガラス越しに二人の汚れを暴き立てていた。
「……顔を上げるなよ。ここからは人間のふりをしなきゃならねぇ」
ジンは短く告げ、窓を開けた。
湿った雨の匂いは、ゲートの数メートル手前で不自然に途切れていた。
向こう側から吹き込んでくるのは、空調管理された乾いた風と、微かなオゾンの匂いだ。
検問ブースの防弾ガラス越しに、無機質な目をした衛兵が座っていた。
スピーカーから合成音声のように抑揚のない声が響く。
「IDの提示を」
正規のIDなど持ち合わせているはずがなかった。
ジンは懐から、分厚い紙幣の束を取り出した。特区の泥と油と、誰かの手垢で黒ずんだ、現物の金だ。
「……ほらよ。これが俺のIDだ」
ジンはスライド式の金属トレイに札束を放り投げた。
衛兵は眉一つ動かさず、汚物を見る目でそれを一瞥した。そして、白い手袋をした手でスプレー缶を取り出し、金に向かって躊躇なく吹き付けた。
シューッ、という音がマイク越しに漏れる。
アルコールと塩素が混ざったような刺激臭が鼻を刺す。ばい菌を殺すように、札束が濡れていく。
「通過を許可する。排ガスと汚物は指定区域以外での排出を禁ずる」
ゲートが重々しく開く。
ジンはアクセルを踏み込みながら、バックミラーに映る消毒された金を睨みつけた。
「清潔な楽園の鍵が、結局は薄汚い金か。笑えねぇな」
吐き捨てるジンの横で、助手席のノアがテディベアを強く抱きしめた。
上空をドローンが滑り、青白いライトが二人を舐めた。
その光がノアのフードに触れた瞬間、ドローンの機体がふらりとぶれた。プロペラが不快な異音を上げた気がしたが、すぐに制御を取り戻して去っていった。
ゲートを抜けると、世界の色が変わった。
道路は白く舗装され、空へ伸びるビル群はクリスタルガラスのように透き通っている。ゴミ一つ落ちていない。吸い殻も、泥水も、酔っ払いもいない。
歩いている人間たちは、例外なく清潔な服を着て、虚空を見つめながら無言で移動している。網膜に投影された情報を見ているのだろう。
誰もが同じ歩幅、同じ速度、同じように幸福そうな表情で、ベルトコンベアに乗せられた製品のように流れていく。
その中で、薄汚れたグレーのトレンチコートを着た大男と、鮮やかすぎる黄色いレインコートを着た少女は、手術室に迷い込んだ野良犬のように浮いていた。
ジンは路面に青く発光するパーキング枠を見つけ、そこに鉄牛をねじ込んだ。
周囲の車はすべて、滑らかな曲線の
「……休憩だ。喉が渇いたろ」
ジンは自販機を探した。白い流線型の筐体が並んでいる。極彩色のジュースの画像が空中にホログラムで浮いていた。
だが、硬貨を入れる投入口がない。あるのは、つるりとしたパネルと、IDを読み取るセンサーだけだ。
ジンが試しに、革手袋のままパネルを指で叩く。
瞬時にセンサーが走査光を放ち、赤い光が点滅した。
『警告。ID認証が必要です』
『市民ランクを確認できません。未登録の生体反応を検知』
パネルに触れるたびに、冷ややかな電子音と共に拒絶された。
「……ケッ。水一本買うのに、立派なIDがいるのかよ」
ジンは舌打ちし、筐体の横っ腹をガンと蹴り飛ばした。
特区の機械なら、叩けば一つくらいは吐き出す愛嬌があるものだが、こいつらは冷ややかな説教を垂れるだけだ。
諦めて近くのベンチに腰を下ろそうとした瞬間、今度はベンチが喋った。
『未登録市民です。利用権限がありません。退去してください』
座面から不快な振動が伝わり、座っていられないように斜めに傾き始めた。
「徹底してやがる。ここでは座る権利にまで料金がつくらしい」
ジンは立ったまま、ポケットの『
道を行き交う人々は、誰一人としてジンたちを見ようとしなかった。
視界には入っているはずだ。だが、彼らの視線はジンたちを透過している。関われば汚染されるとでも言うように、不自然なほど滑らかに動線を逸らして避けていく。
ノアは、黄色いフードの縁を指で掴み、深く引き下げた。
テディベアを胸に押し付け、その耳を不安そうに指でいじる。
「……行くぞ、ノア」
ジンが歩き出そうとした、その時だった。
雑踏の隙間から、懐かしい声が響いた。
「……ジン!」
振り返ると、街頭ビジョンの光を背にして、一人の男が立っていた。
かつて裏格闘技のリングで、泥と汗に塗れてジンと拳を交わしたライバル。
今の彼は、塵ひとつない純白のスーツに身を包み、髭の剃り残しひとつない顎をしていた。無臭。あるいは、微かな消毒液の匂い。
かつての獣のような熱気は消え失せ、代わりにガラス細工のような、透明な空気を纏っている。
「……レオ、生きてたのか。いや、何だその格好」
ジンが鼻で笑うと、レオは穏やかに微笑んだ。その笑顔は、絵画のように完璧で、少しも揺らぎがない。
「久しぶりだな、ジン。君がここへ来るなんて珍しい。……それに、可愛いお連れさんも一緒とはね」
レオの視線が、ノアに向けられる。
値踏みするような目ではない。ただのデータをスキャンするような、フラットな視線。
ノアはジンの背中に隠れ、テディベアをさらに強く抱きしめた。
「立ち話もなんだし、急いでいないなら、私のところに来ないか? 今はこの先のタワーに住んでいるんだ」
レオが言った。
ジンは少し考え、頷いた。このまま街を
「着いたばかりでちょっと汚れてるんだが、いいのか?」
「構わないさ。ここは浄化が得意だからね」
レオの部屋は、都市の中心部にほど近い超高層ビルの最上階にあった。
エレベーターは無音で上昇し、気圧の変化で耳が詰まる。
通されたリビングは、モデルルームのように生活感が欠落していた。
白い革張りのソファ、ガラスのテーブル、壁一面の窓からは街が一望できる。
「座ってくれ。すぐに食事を用意させる」
レオが乾いた音で手を叩くと、足音ひとつ立てずに奥のキッチンからエプロン姿の女性と、小さな女の子が現れた。
「紹介しよう。妻と娘だ」
美しい女だった。髪の一本一本まで計算されたような乱れのなさ。彼女は
娘と呼ばれた少女は、ソファの隅に座り、一度も瞬きをせずにノアを見つめていた。その瞳は、ガラス玉のように光を反射しているだけで、奥に感情の色がない。
人形の家に招かれた気分だ。
「……その子は、君が育てているのかい?」
レオがコーヒーを口に運びながら言った。
「管理が大変だろう」
ジンの眉がピクリと動いた。
「ああ。育ちが良いからな。舌が肥えてて世話が焼ける。昨日は泥水みたいなシチューを食わせたら、無言で抗議されたよ」
ジンはわざとらしく肩をすくめた。
レオは、理解できないというように眉を寄せた。
「抗議? ……奇妙だな。
レオの言葉選びがおかしい。子供の話をしているはずなのに、まるで家電製品の不具合を語るような口調だ。
その時、レオの右の首筋にある銀色の金属が、微かに青く発光した。
皮膚にフックで固定された、半月状のデバイスだ。
ピッ。
電子音が鳴り、続いてシュッという微かな噴射音。
レオの表情から、瞬時に疑問の色が消えた。思考を放棄したような、安らかな弛緩。
「……まあいい。個体差はあるものだ。さあ、食事にしよう」
テーブルに並べられたのは、銀色のチューブと、灰色のブロック状の物体だった。
完全栄養食だとレオは言った。
「必要なカロリーとビタミン、それに精神の安定を保つサプリメントが、完璧なバランスで配合されている」
ジンは灰色のブロックを手に取り、齧った。
砂を固めて、薄めたバリウムで練ったような味がした。
「……セメントか? 特区の泥水の方がまだマシな味がするぞ」
ジンが吐き捨てると、レオは平然と自分のブロックを咀嚼し、飲み込んだ。
「そうか? 効率的で、とても合理的だと思うが」
「合理的すぎて、生きてる気がしねぇよ。……なぁ、レオ。覚えてるか? 昔、試合の後に食ったあの屋台のラーメン」
ジンは挑発するように言った。
あの頃、泥だらけのリングを降りて、二人で
「お前、文句言いながら完食しただろ。『こんな下品な味は初めてだ』って笑いながら」
レオの手が止まった。
その瞳が、一瞬だけ揺らぐ。
「……ああ、覚えているとも。あれは、確かに……」
レオの表情筋がピクリと引きつり、人間らしい苦笑、あるいは懐かしさの形を作ろうとした。
顔に血の気が戻りかける。瞳に、かつての熱が宿りかけた。
その瞬間。
ピーッ。
首元のデバイスが、先ほどより高く鋭い警告音を鳴らした。
プシュッ、プシュッ。
二度の噴射音。
ガクン、とレオの首が前に折れた。
そして次の瞬間、顔を上げたレオの瞳孔は大きく開き、そこには張り付いたような穏やかな笑顔だけが残っていた。
「……不衛生な食事だったね。今の私には、この栄養食があるから十分だよ。私はとても満たされているんだ」
ジンは手に持っていた灰色のブロックを皿に放り投げた。
カラン、と乾いた音が部屋に響く。
目の前の男は、もう人間じゃない。感情を管理され、幸福を強制された家畜だ。
それに比べれば、特区の野良犬どもの方が、よほど生きている。
ふと見ると、ノアは一口も食べようとせず、テディベアの目を手で塞いでいた。
その視線は、レオの顔ではなく、首元で明滅を続けるデバイスに釘付けになっている。
「……ご馳走さん。腹がいっぱいになったよ」
ジンは立ち上がった。
これ以上、この男と向き合っていると、自分の中の何かが削り取られそうだった。
だが、レオも立ち上がり、完璧な笑顔のまま言った。
「そう急ぐことはないさ、ジン。……君に、見せたいものがあるんだ」
レオが指差したのは、リビングの先にある『スカイテラス』だった。
窓を開放すると、そこには遮るものが何もない。
床も、手すりも、すべてが透明な強化ガラスで出来ている。まるで空中に透明な板一枚で浮いているような、狂気的な開放感だ。
庶民が洗濯物を干すような場所じゃない。下界を見下ろすためだけに作られた、神様の特等席だ。
ジンはノアを引き寄せ、いつでも動けるよう警戒しながらレオに従った。嫌でも、幸福論を聞かされる予感がしていた。
背後では、レオの完璧な家族たちが、微動だにせず、無言で微笑んでいた。