死にたがりの最強物理おじさん、拾った幼女に殺されないよう守られてます   作:一丸壱八

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第15話 漂白された再会

 巨大な白い壁が、鉛色の空を切り取って聳え立っている。

 特区と外の世界を隔てるゲートは、まるで都市に穿たれた巨大な傷口のようだった。

 そこから先は清潔な楽園で、こちら側は掃き溜めだ。

 

 鏑木ジンは、『鉄牛(アイアン・バッファロー)』を検問の手前で停めると、眩しさに目を細め、トレンチコートの襟を無造作に立てた。

 助手席では、ノアが黄色いレインコートのフードを目深に被り、薄汚れたテディベアを胸に抱いたまま固まっている。

 検問所の強烈な白いライトが、フロントガラス越しに二人の汚れを暴き立てていた。

 

「……顔を上げるなよ。ここからは人間のふりをしなきゃならねぇ」

 

 ジンは短く告げ、窓を開けた。

 湿った雨の匂いは、ゲートの数メートル手前で不自然に途切れていた。

 向こう側から吹き込んでくるのは、空調管理された乾いた風と、微かなオゾンの匂いだ。

 

 検問ブースの防弾ガラス越しに、無機質な目をした衛兵が座っていた。

 スピーカーから合成音声のように抑揚のない声が響く。

 

「IDの提示を」

 

 正規のIDなど持ち合わせているはずがなかった。

 ジンは懐から、分厚い紙幣の束を取り出した。特区の泥と油と、誰かの手垢で黒ずんだ、現物の金だ。

 

「……ほらよ。これが俺のIDだ」

 

 ジンはスライド式の金属トレイに札束を放り投げた。

 衛兵は眉一つ動かさず、汚物を見る目でそれを一瞥した。そして、白い手袋をした手でスプレー缶を取り出し、金に向かって躊躇なく吹き付けた。

 シューッ、という音がマイク越しに漏れる。

 アルコールと塩素が混ざったような刺激臭が鼻を刺す。ばい菌を殺すように、札束が濡れていく。

 

「通過を許可する。排ガスと汚物は指定区域以外での排出を禁ずる」

 

 ゲートが重々しく開く。

 ジンはアクセルを踏み込みながら、バックミラーに映る消毒された金を睨みつけた。

 

「清潔な楽園の鍵が、結局は薄汚い金か。笑えねぇな」

 

 吐き捨てるジンの横で、助手席のノアがテディベアを強く抱きしめた。

 上空をドローンが滑り、青白いライトが二人を舐めた。

 その光がノアのフードに触れた瞬間、ドローンの機体がふらりとぶれた。プロペラが不快な異音を上げた気がしたが、すぐに制御を取り戻して去っていった。

 

 ゲートを抜けると、世界の色が変わった。

 外周都市(スマートシティ)

 道路は白く舗装され、空へ伸びるビル群はクリスタルガラスのように透き通っている。ゴミ一つ落ちていない。吸い殻も、泥水も、酔っ払いもいない。

 歩いている人間たちは、例外なく清潔な服を着て、虚空を見つめながら無言で移動している。網膜に投影された情報を見ているのだろう。

 誰もが同じ歩幅、同じ速度、同じように幸福そうな表情で、ベルトコンベアに乗せられた製品のように流れていく。

 

 その中で、薄汚れたグレーのトレンチコートを着た大男と、鮮やかすぎる黄色いレインコートを着た少女は、手術室に迷い込んだ野良犬のように浮いていた。

 

 ジンは路面に青く発光するパーキング枠を見つけ、そこに鉄牛をねじ込んだ。

 周囲の車はすべて、滑らかな曲線の電気自動車(EV)だ。武骨な鉄塊である鉄牛は、ここにあるだけで景観条例違反になりそうだった。

 

「……休憩だ。喉が渇いたろ」

 

 ジンは自販機を探した。白い流線型の筐体が並んでいる。極彩色のジュースの画像が空中にホログラムで浮いていた。

 だが、硬貨を入れる投入口がない。あるのは、つるりとしたパネルと、IDを読み取るセンサーだけだ。

 ジンが試しに、革手袋のままパネルを指で叩く。

 瞬時にセンサーが走査光を放ち、赤い光が点滅した。

 

『警告。ID認証が必要です』

『市民ランクを確認できません。未登録の生体反応を検知』

 

 パネルに触れるたびに、冷ややかな電子音と共に拒絶された。

 

「……ケッ。水一本買うのに、立派なIDがいるのかよ」

 

 ジンは舌打ちし、筐体の横っ腹をガンと蹴り飛ばした。

 特区の機械なら、叩けば一つくらいは吐き出す愛嬌があるものだが、こいつらは冷ややかな説教を垂れるだけだ。

 

 諦めて近くのベンチに腰を下ろそうとした瞬間、今度はベンチが喋った。

 

『未登録市民です。利用権限がありません。退去してください』

 

 座面から不快な振動が伝わり、座っていられないように斜めに傾き始めた。

 

「徹底してやがる。ここでは座る権利にまで料金がつくらしい」

 

 ジンは立ったまま、ポケットの『赤烏(レッド・クロウ)』を取り出し、箱の角を指で叩いた。火は点けない。この街には灰皿すらない。煙を吐けば、即座にドローンが飛んできそうだ。

 

 道を行き交う人々は、誰一人としてジンたちを見ようとしなかった。

 視界には入っているはずだ。だが、彼らの視線はジンたちを透過している。関われば汚染されるとでも言うように、不自然なほど滑らかに動線を逸らして避けていく。

 ノアは、黄色いフードの縁を指で掴み、深く引き下げた。

 テディベアを胸に押し付け、その耳を不安そうに指でいじる。

 

「……行くぞ、ノア」

 

 ジンが歩き出そうとした、その時だった。

 雑踏の隙間から、懐かしい声が響いた。

 

「……ジン!」

 

 振り返ると、街頭ビジョンの光を背にして、一人の男が立っていた。

 真銀(マシロ)レオ。

 かつて裏格闘技のリングで、泥と汗に塗れてジンと拳を交わしたライバル。

 今の彼は、塵ひとつない純白のスーツに身を包み、髭の剃り残しひとつない顎をしていた。無臭。あるいは、微かな消毒液の匂い。

 かつての獣のような熱気は消え失せ、代わりにガラス細工のような、透明な空気を纏っている。

 

「……レオ、生きてたのか。いや、何だその格好」

 

 ジンが鼻で笑うと、レオは穏やかに微笑んだ。その笑顔は、絵画のように完璧で、少しも揺らぎがない。

 

「久しぶりだな、ジン。君がここへ来るなんて珍しい。……それに、可愛いお連れさんも一緒とはね」

 

 レオの視線が、ノアに向けられる。

 値踏みするような目ではない。ただのデータをスキャンするような、フラットな視線。

 ノアはジンの背中に隠れ、テディベアをさらに強く抱きしめた。

 

「立ち話もなんだし、急いでいないなら、私のところに来ないか? 今はこの先のタワーに住んでいるんだ」

 

 レオが言った。

 ジンは少し考え、頷いた。このまま街を彷徨(さまよ)っても、水一滴ありつけない。それに、企業の追っ手から身を隠すには、皮肉にもこの管理された檻の中の方が都合がいいかもしれない。

 

「着いたばかりでちょっと汚れてるんだが、いいのか?」

「構わないさ。ここは浄化が得意だからね」

 

 レオの部屋は、都市の中心部にほど近い超高層ビルの最上階にあった。

 エレベーターは無音で上昇し、気圧の変化で耳が詰まる。

 通されたリビングは、モデルルームのように生活感が欠落していた。

 白い革張りのソファ、ガラスのテーブル、壁一面の窓からは街が一望できる。

 

「座ってくれ。すぐに食事を用意させる」

 

 レオが乾いた音で手を叩くと、足音ひとつ立てずに奥のキッチンからエプロン姿の女性と、小さな女の子が現れた。

 

「紹介しよう。妻と娘だ」

 

 美しい女だった。髪の一本一本まで計算されたような乱れのなさ。彼女は広告写真(コマーシャル)のように完璧な角度で微笑みながら、湯気の立つカップを運んできた。

 娘と呼ばれた少女は、ソファの隅に座り、一度も瞬きをせずにノアを見つめていた。その瞳は、ガラス玉のように光を反射しているだけで、奥に感情の色がない。

 人形の家に招かれた気分だ。

 

「……その子は、君が育てているのかい?」

 

 レオがコーヒーを口に運びながら言った。

 

「管理が大変だろう」

 

 ジンの眉がピクリと動いた。

 

「ああ。育ちが良いからな。舌が肥えてて世話が焼ける。昨日は泥水みたいなシチューを食わせたら、無言で抗議されたよ」

 

 ジンはわざとらしく肩をすくめた。

 レオは、理解できないというように眉を寄せた。

 

「抗議? ……奇妙だな。生存本能(サバイバル・アルゴリズム)が正常なら、味より栄養価を優先するはずだが。感情野の抑制が甘いんじゃないか?」

 

 レオの言葉選びがおかしい。子供の話をしているはずなのに、まるで家電製品の不具合を語るような口調だ。

 その時、レオの右の首筋にある銀色の金属が、微かに青く発光した。

 皮膚にフックで固定された、半月状のデバイスだ。

 

 ピッ。

 

 電子音が鳴り、続いてシュッという微かな噴射音。

 レオの表情から、瞬時に疑問の色が消えた。思考を放棄したような、安らかな弛緩。

 

「……まあいい。個体差はあるものだ。さあ、食事にしよう」

 

 テーブルに並べられたのは、銀色のチューブと、灰色のブロック状の物体だった。

 完全栄養食だとレオは言った。

 

「必要なカロリーとビタミン、それに精神の安定を保つサプリメントが、完璧なバランスで配合されている」

 

 ジンは灰色のブロックを手に取り、齧った。

 砂を固めて、薄めたバリウムで練ったような味がした。

 

「……セメントか? 特区の泥水の方がまだマシな味がするぞ」

 

 ジンが吐き捨てると、レオは平然と自分のブロックを咀嚼し、飲み込んだ。

 

「そうか? 効率的で、とても合理的だと思うが」

「合理的すぎて、生きてる気がしねぇよ。……なぁ、レオ。覚えてるか? 昔、試合の後に食ったあの屋台のラーメン」

 

 ジンは挑発するように言った。

 あの頃、泥だらけのリングを降りて、二人で(すす)った安っぽいスープの味。油と化学調味料を煮込んだ暴力的な味。

 

「お前、文句言いながら完食しただろ。『こんな下品な味は初めてだ』って笑いながら」

 

 レオの手が止まった。

 その瞳が、一瞬だけ揺らぐ。()いだ水面に、小石が落ちたような波紋。

 

「……ああ、覚えているとも。あれは、確かに……」

 

 レオの表情筋がピクリと引きつり、人間らしい苦笑、あるいは懐かしさの形を作ろうとした。

 顔に血の気が戻りかける。瞳に、かつての熱が宿りかけた。

 その瞬間。

 

 ピーッ。

 

 首元のデバイスが、先ほどより高く鋭い警告音を鳴らした。

 

 プシュッ、プシュッ。

 

 二度の噴射音。

 ガクン、とレオの首が前に折れた。

 そして次の瞬間、顔を上げたレオの瞳孔は大きく開き、そこには張り付いたような穏やかな笑顔だけが残っていた。

 

「……不衛生な食事だったね。今の私には、この栄養食があるから十分だよ。私はとても満たされているんだ」

 

 ジンは手に持っていた灰色のブロックを皿に放り投げた。

 カラン、と乾いた音が部屋に響く。

 目の前の男は、もう人間じゃない。感情を管理され、幸福を強制された家畜だ。

 それに比べれば、特区の野良犬どもの方が、よほど生きている。

 

 ふと見ると、ノアは一口も食べようとせず、テディベアの目を手で塞いでいた。

 その視線は、レオの顔ではなく、首元で明滅を続けるデバイスに釘付けになっている。

 

「……ご馳走さん。腹がいっぱいになったよ」

 

 ジンは立ち上がった。

 これ以上、この男と向き合っていると、自分の中の何かが削り取られそうだった。

 だが、レオも立ち上がり、完璧な笑顔のまま言った。

 

「そう急ぐことはないさ、ジン。……君に、見せたいものがあるんだ」

 

 レオが指差したのは、リビングの先にある『スカイテラス』だった。

 窓を開放すると、そこには遮るものが何もない。

 床も、手すりも、すべてが透明な強化ガラスで出来ている。まるで空中に透明な板一枚で浮いているような、狂気的な開放感だ。

 庶民が洗濯物を干すような場所じゃない。下界を見下ろすためだけに作られた、神様の特等席だ。

 

 ジンはノアを引き寄せ、いつでも動けるよう警戒しながらレオに従った。嫌でも、幸福論を聞かされる予感がしていた。

 背後では、レオの完璧な家族たちが、微動だにせず、無言で微笑んでいた。

 

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