死にたがりの最強物理おじさん、拾った幼女に殺されないよう守られてます   作:一丸壱八

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第16話 飼い犬の幸福論

 『自由とは、痛みを増やす欠陥である。記憶とは、再発する事故報告書である。平穏とは、選択肢を削り、心拍を整え、人格を安定化することで得られる製品である』――アーカーシャ社 創業者訓辞「平穏の製造法」より

 

 真銀レオは、その訓辞を正しい呼吸法のように自身の起動シークエンスへ組み込んでいる。

 窓の外に広がる補正済みの夜景は、揺らぎを知らない。

 揺らぎがないからこそ、美しい。そして彼の首元の半月は、揺らぎを見つけ次第、静かに電流と薬で消し去る。

 

     *

 

 リビングから通された『スカイテラス』は、地上数百メートルの高さにあった。

 足元を見ると、床は透明な強化ガラス張りで、遥か下の街明かりが透けて見える。まるで空中に板一枚で浮いているような、狂気的な開放感だ。

 だが、そこには風もなければ、雨の匂いもなかった。

 

 鏑木ジンは、存在しない手すりのようなガラス壁に背を預けながら、無意識に空を見上げた。特区では常に鉛色の雲が垂れ込め、酸性雨が降り注いでいるはずの空が、ここではプラネタリウムのように澄み切っている。

 星が見えた。だが、それはあまりにも整然としすぎていて、瞬きのタイミングさえ同期しているようだった。

 

「……ここでは雨も降らねぇのか」

 

 ジンが呟くと、真銀レオはグラスを片手に微笑んだ。

 

「気象制御システムが稼働しているからね。不快な湿気も、靴を汚す泥もない。常に快適な温度と湿度が保たれている」

 

 レオが指を鳴らすと、眼下の夜景がふわりと揺らぎ、色彩が一段階鮮やかになった。

 ビルの輪郭が補正され、汚い路地裏や工事現場の暗がりが、美しい光の粒子で塗りつぶされる。高度なホログラムによるリアルタイム補正だ。

 

 ジンは足元の透明なガラス床を、靴底でコツコツと確かめるように踏んだ。

 まるで空中に浮いているような浮遊感。どうにも落ち着かない。

 

 ジンは眉をひそめ、ポケットから『赤烏(レッド・クロウ)』の箱を取り出し、一本咥えた。

 オイルライターを擦る。シュボッ、と小さな炎が生まれ、紫煙が立ち上る。

 その灰色のアナログな煙だけが、この高解像度なデジタル世界における唯一の異物だった。

 煙は風に乗ることもなく、テラスの境界に設置されたエアカーテンに触れると、ジュッと音を立てて吸い込まれ、無臭の粒子へと分解されて消えた。

 

「……煙たがられるのは慣れてるが、存在ごと消されるのは癪だな」

「浄化だよ。ここでは汚れは許容されない」

 

 レオはグラスの中身を揺らしながら、穏やかな声で言った。

 

「ジン、君もこちら側に来ないか? 君の戦闘評点(スコア)なら、企業は高く評価するはずだ。セキュリティ部門の指導官として、安定したポストと高い等級(ランク)が用意される」

 

 スコア。評価。安定。ランク。

 レオの口から出る言葉は、配合飼料の袋に貼られた成分分析表(スペックシート)みたいだった。

 かつて、死ぬときは前のめりがいいと笑ってリングに上がっていた男の言葉とは思えない。

 牙を抜かれてやがる。

 

「……安定ねぇ。俺は、いつ爆発するか分からないようなポンコツ車を、騙し騙し走らせるのが好きなんでな」

 

 ジンは皮肉を返したが、レオには通じなかった。

 彼は本気で心配そうな顔をした。眉間のシワさえ、計算された角度で刻まれている。

 

「君はまだ、そんな死にたがり(エラー)を抱えているのか。……可哀想に。我々の技術なら、それも治療できるよ」

 

 レオが空中に指を走らせると、ホログラムのウィンドウが開いた。

 映し出されたのは、清潔な白い建物の画像だった。アーカーシャ厚生センターという文字が踊っている。

 そこには、レオの娘と同じような、穢れのない笑顔を浮かべた子供たちの写真が並んでいた。

 白い歯。白い服。白い壁。

 だが、その瞳は光を反射するだけのガラス玉だ。そこには生きている熱がない。

 

「その子のことも、心配いらない。この施設に預ければ、適切な調整プログラム(最適化)を受けられる」

 

 レオは、ジンのコートの陰に隠れているノアに視線を向けた。

 

「見たところ、その子は過酷な環境で強い精神的負荷(トラウマ)を受けているようだ。だが、この施設の最新技術なら、脳の特定領域に干渉して、悪い記憶だけをきれいに消去(デリート)できる」

「……記憶を、消すだと?」

「そうだ。恐怖も、痛みも、悲しみも。そんなエラーログは、生きる上で邪魔なだけだ。全て消去して、真っ白な状態に初期化(リセット)してやれる。素晴らしいと思わないか?」

 

 レオは恍惚とした表情で言った。

 ジンは赤烏のフィルターを噛み潰した。

 記憶を消して、都合の良い幸福を上書きする。それは、人間を修理可能な部品としか見ていない発想だ。

 だが、レオにとってはそれが救済なのだ。首輪に繋がれた飼い犬としての、歪んだ幸福論。

 

 ジンは背後を見た。

 ノアは、黄色いレインコートのフードを目深に被り、その視線は、レオの首元で白銀に輝くデバイスに釘付けになっていた。

 半月状の金属が、呼吸するように青白く明滅している。

 ノアの顔から血の気が引いていた。

 小さく後ずさりし、さらに深くジンの背中へと潜り込んだ。

 

(……ガキの勘は鋭いな)

 

 あの首輪が元凶だと、本能的に悟ったらしい。

 ジンは無造作に手を伸ばし、レインコートのフードの上からノアの頭を掴んだ。

 ガシガシと、乱暴に撫でる。

 ノアの体がビクリと震え、それから、すがるようにジンの脚にしがみついてきた。

 

「……悪いな、レオ。このガキは人見知りが激しくてな。それに、俺の教育方針とは合わねぇようだ」

 

 ジンは短くなった赤烏を足元の透明なガラス床に直接押し付け、グリグリと揉み消した。

 灰と焦げ跡が、清潔な世界に泥のような染みを作る。

 

「教育方針? ……君にそんなものがあったとはね。で、どうするつもりだ? またあの汚い掃き溜めに戻って、泥水をすするのか?」

 

 レオの声に、哀れみが混じる。

 

「ああ、そのつもりだ」

 

 ジンはニヤリと笑った。

 

「俺の死に場所は、消毒液の匂いがするベッドの上じゃねぇ。……痛みも、恐怖も、死にたいって思う絶望も、全部俺のものだ。誰かに管理された安全な人生なんて、生きてるとは言わねぇよ」

 

 それは、ジンなりの決別だった。

 目の前の男は、もうかつてのライバルではない。

 システムに飼い慣らされ、牙を抜かれた、ただの抜け殻だ。

 ここには、ジンが求めていた死に場所としての価値すらない。

 

「……残念だ」

 

 レオが呟いた。

 その瞬間、彼の首元のデバイスが、ピカッと鋭く発光した。

 

 シュッ。

 

 微かな噴射音。

 レオの表情から、瞬時に人間味が消滅した。

 哀れみも、友情も、笑顔さえも。

 まるで電源を切られたディスプレイのように、能面のような無表情へと切り替わる。瞳孔が開き、そこにはターゲットを捕捉する冷徹な光だけが宿る。

 

「交渉決裂だ。対象(ターゲット)の確保、および危険分子の排除コードを承認」

 

 レオの声質が変わった。抑揚のない、業務的な報告音声。

 

「……おいおい、切り替えが早いな」

 

 ジンが身構えるより早く、場の空気が変わった。

 背後のリビングとの境界で、防爆シャッターが高速で降りる。

 

 ズドンッ!

 

 退路が断たれた。密室になったテラスは、逃げ場のない檻へと変わる。

 

 そして、テラスの外、偽りの夜景の向こうから、無数の赤い光点が浮き上がってきた。

 

 ブォォォォォォン……!

 

 腹の底に響く重低音と共に、足元のガラス板がビリビリと振動する。現れたのは、球体の防衛ドローンたちだった。

 銃口のようなカメラアイが、一斉にジンとノアを捉える。レーザーサイトの光が、ジンの胸とノアの額に赤い点を描く。

 

「通報は済ませてある。……君はここで、重要資産(アセット)の強奪を企てたテロリストとして処理される。そういうシナリオだ」

 

 レオがゆっくりと、その洗練された構えをとった。

 企業の近接戦闘術(CQB)。隙がなく、美しい。

 だが、そこにはかつてのような、ヒリつく殺気がない。あるのは、プログラムされた最適解だけだ。

 

 風のないテラスで、ノアがジンのコートの裾を握りしめる力が強くなった。

 ジンは、その小さな手の震えを感じながら、革手袋のベルトを締め直した。

 ギュッ、と革が鳴く。

 

「……ハッ、上等だ」

 

 ジンはパイルバンカーの杭が、カチリと装填される感触を確かめた。

 絶体絶命の包囲網。

 だが、ジンの口元は、このきれいな街に来て初めて、自然な形に歪んでいた。獰猛な、野良犬の笑みに。

 

「あの味気ないセメント飯の腹ごなしには、ちょうどいい運動だ」

 

 ジンは足元のガラスを蹴った。

 

「……漂白なんかされてたまるかよ!」

 

 清潔すぎるテラスが、一瞬にして、硝煙と鉄の匂いがする戦場へと変わった。

 

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