死にたがりの最強物理おじさん、拾った幼女に殺されないよう守られてます   作:一丸壱八

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第17話 首輪の代償

 『最適化された暴力は、暴力ではない。それは行政手続きである。迷いを排し、無駄を排し、反射的衝動を排せ。正解だけが許可される』――アーカーシャ社 安全保障局資料「行動最適化要綱」より

 

 真銀レオは、戦闘を会話だと教わってきた。

 会話には正しい文法があり、言葉の選択肢は最小であるべきだ。

 だが、野良犬の喧嘩は、その文法を平然と踏み抜いてくる。

 

     *

 

 白い光が、ガラス張りのテラスを漂白していた。

 偽りの夜景の向こうに整列した無数のドローンが、一斉にレーザーサイトを照射する。

 ジンの胸と、ノアの額に、無数の赤い点が踊る。その一部は透明な床を突き抜け、遥か下の闇へと伸びていた。

 逃げ場はない。背後のリビングとは、分厚いシャッターで隔絶されている。

 ここは見えない床の上に浮かぶ空中の檻だ。一歩踏み外せば墜落。留まれば蜂の巣だ。

 

「……遅いな、ジン」

 

 真銀レオの声が落ちた瞬間、世界が加速した。

 

 予備動作がない。

 肩も動かず、膝も沈まない。純白のスーツを着たレオの体が、氷の上を滑るように間合いを食い破っていた。

 最先端の戦闘理論とテクノロジーにより、筋肉の収縮を電気信号で制御し、摩擦係数すら計算に入れた、物理法則への冒涜的なまでの最適化。

 

 ヒュッ、と風を切る音よりも早く、レオの掌底がジンの顎を捉えていた。

 

 ジンがガードを上げるコンマ数秒、その隙間に正確にねじ込まれた一撃。

 ゴッ、と乾いた音がして脳が揺れる。

 衝撃は表面ではなく、頭蓋骨の縫合線を伝って脳漿を直接揺さぶる。

 

「ぐっ……!」

 

 視界が明滅する中、ジンは足元のガラス床を軋ませてたたらを踏んだ。

 だが、レオの攻撃はそこで終わらない。

 顎を跳ね上げられたジンのバランスが崩れた瞬間、レオの右肘が最短距離で鳩尾へ突き刺さる。

 呼吸が止まる。

 内臓が悲鳴を上げたのと同時に、左の蹴りがジンのふくらはぎの外側――腓骨神経を正確に捉えた。

 

 完璧だった。

 そこには無駄はおろか、躊躇いという名の人間的なノイズが一切混じっていない。数万回のシミュレーションが導き出した、芸術的なまでの暴力の数式。

 

 鋭い痛みが全身を駆け巡り、ジンは膝から崩れ落ちた。口の中に広がった鉄錆の味を噛み締める。

 レオの息は乱れず、スーツには皺ひとつない。

 首元のデバイスが、青白く、規則正しく明滅している。

 

(……味がしねぇ拳だ)

 

 痛みはある。骨もきしんでいる。

 だが、そこには殺意という熱がない。

 かつてリングで殴り合った時の、肌が粟立つようなヒリついた感覚がない。

 これは、ただのデータ処理だ。ジンという障害物を排除するための、事務的な削除作業だ。

 

「衰えたな。それとも、あの泥水ばかり啜っていたせいで、脳の回路が錆びついたか?」

 

 レオが構えを解かず、無機質に告げる。

 ジンは口元の血を手の甲で拭った。革手袋が赤く汚れる。

 

「……ケッ。行儀が良いこった」

 

 ジンは重心を落とした。

 構えなどない。ただの棒立ちに見える、隙だらけの姿勢。

 だが、その膝はバネのように柔らかく沈み、足裏はガラスの床を鷲掴みにしている。

 

「教科書通りの綺麗な動き」

 

 ジンがニヤリと笑った。

 泥沼の底から相手を引きずり込む、野良犬の目だ。

 

「……行くぞ!」

 

 ジンが短く吼えた。同時に、レオが踏み込む。

 ジンの筋肉の動き、視線、呼吸。すべてを解析し、次の行動を予測した上での、完璧なカウンターのタイミング。

 右ストレート。ジンの眉間を撃ち抜く必殺の軌道。

 

 ――だが。

 

 ドガッ!

 

 鈍い、骨が砕けるような音が響いた。

 レオの表情が、一瞬だけ苦悶に歪んだ。

 レオが踏み込んだ左足首を、ジンの革靴の踵が、全体重を乗せて踏みつけていたからだ。

 

「ぐ、ぅ……!?」

 

 痛みにレオの思考が一瞬停止する。

 最適化された戦闘理論では、足を踏まれた時の対処法など優先順位の最下層にあるはずだ。

 その思考の空白を、ジンは見逃さない。

 

 ジンはさらに体を沈め、レオの懐へと深く潜り込んだ。

 レオが反射的に顎を引く。

 だが、ジンの狙いは顎ではない。

 下から突き上げるように、自身の額の生え際――頭蓋骨で最も硬い部分を、レオの鼻梁へと叩きつけた。

 

 ゴッ!

 

 レオの鼻から鮮血が噴き出して、純白のスーツを赤く汚した。

 鼻への衝撃が、生理的な涙を強制的に絞り出し、レオの視界を滲ませる。

 

「が、ぁ……っ!?」

 

 レオが鼻を押さえてよろめき、怒りで拳を振り上げようとした、その時だった。

 

 バチッ!

 

 首元のデバイスが、青白い火花を散らした。

 

『警告。感情値の上昇を検知。非効率的行動を確認。鎮静プロセスを開始します』

 

 無機質な合成音声と同時に、レオの体が硬直する。

 

「あ、が……っ、ぐ……!」

 

 振り上げた拳が空中で止まり、痙攣する。痛みで歪む顔と、薬物で強制される笑顔が、交互に浮かび上がる。まるで壊れた信号機だ。

 

(……殴ってるのはレオじゃねぇ。あの首輪だ)

 

 感情を持つことすら許さない。それがこの街の強さの正体か。

 だが、戦場は二人だけではない。

 

 ブォォォォン……!

 

 テラスの外、強化ガラスの向こう側から、待機していたドローン群が殺意を向けていた。

 レオの制御が乱れたのを察知したのか、あるいは危険分子の即時排除へとプログラムが切り替わったのか。

 赤いレーザーサイトが、再び網の目のようにジンを捉える。

 そしてその一部が、瓦礫の陰にうずくまる、黄色いレインコートのノアに向けられた。

 

 ノアの額に、赤い点が灯る。

 テディベアの耳を握りしめるノアの指が、白くなるほど力を込めた。

 その瞬間。

 

 キィィィィィィィン――!!

 

 耳鳴りのような高周波音が、テラスの空気を切り裂いた。

 

 バチバチバチッ!

 

 屋外の照明が一斉に明滅した。まるで電圧が不安定になったかのように、激しく点滅を繰り返す。

 それに呼応するように、整列していたドローンの編隊が乱れた。

 

 ウィーン、ガガッ……!

 

 先頭の一機が、突然制御を失ったように急旋回し、隣のドローンに衝突した。プロペラが砕け、火花を散らして落下していく。

 別の一機は、味方のドローンに向けて機銃を掃射し始めた。

 

 ダダダダダッ! ドカーン!

 

 爆炎が上がり、偽りの夜景が黒煙で汚される。

 ドローンたちは互いを敵と誤認したかのように、同士討ちを始めていた。

 

「……ハッ。企業の最新兵器にしちゃ、お粗末なAIだな」

 

 ジンは口元を歪めた。

 背後を振り返る。

 ノアは膝をつき、うずくまっていた。

 その手はテディベアの首を絞めるように強く握りしめ、肩だけで荒い息をしている。

 フードの下、その整った鼻孔から、ツーッと一筋の鼻血が流れ落ち、透明なガラス床に赤い染みを作っていた。

 顔色は蝋のように白い。紫の瞳は焦点が合わず、虚ろに揺れている。

 

「ノア、大丈夫か!」

 

 ジンはノアがドローンに攻撃されたのだと直感した。

 

(限界だ。これ以上、こんな危険な場所にガキを置いてはおけない)

 

「う、うあぁぁぁ……っ! 私の……私の評価が……!」

 

 レオが頭を抱えて叫んでいた。

 錯乱してもなお、体は戦闘の継続を選択しようと動き出す。

 焦点の定まらない目で、ゆらりと立ち上がるレオ。その姿は、誇り高い戦士などではなく、糸が絡まった操り人形のようだった。

 

「排除……排除しなくては……。スコアを……維持……」

 

 譫言(うわごと)のように繰り返しながら、レオがジンの前へと立ちはだかる。

 その構えには、元裏格闘技ランカーとしての美しさの欠片もない。

 

「……哀れなもんだな、レオ」

 

 ジンは右の革手袋を噛み、締め直した。

 ギュッ、と革が鳴く。

 

「痛みも、恐怖も、自分の意思で飲み込めなくなった時……人間は死ぬんだよ」

 

 ジンが踏み込む。

 レオが反応する。反射的な迎撃。

 鋭い右ハイキックが、ジンの側頭部を狙って跳ね上がる。

 ジンはそれを避けなかった。

 強引に首をすくめ、僧帽筋と肩でその蹴りを受け止める。

 

 バシィッ!

 

 骨がきしむ音がする。強烈な衝撃が首を走る。

 だが、ジンは一歩も引かない。

 蹴りの反動でレオの体勢が浮いた一瞬。

 ジンは、さらに深く、懐へと侵入した。

 

 ジンの拳が、レオの喉元へと突き出される。

 狙いは一つ。

 忌々しい首輪だ。

 

 ――バギィッ!!

 

 硬質な破砕音が、テラスに響き渡った。

 ジンの拳にプラスチックと金属、そして微細な回路が悲鳴を上げて砕け散る感触が伝わる。

 

 プシュゥゥッ……!

 

 砕けたデバイスから、圧縮されていた白いガスが漏れ出し、霧のようにレオの顔を包み込む。

 

「が、はっ……!?」

 

 衝撃でレオの体が弾かれたように、テラスの隅にあるガラスのバーカウンターに激突した。

 高級なボトルが砕け、琥珀色の液体が透明なガラス床に広がり、まるで空に金色の染みが浮いているように見えた。

 レオはその場に崩れ落ち、喉を押さえて激しく咳き込んだ。

 

「ごホッ、ガハッ……! あ、ぁ……っ!」

 

 白いガスが晴れていく。

 露わになったレオの顔は、苦痛に歪んでいた。

 さっきまでの、不気味なほど穏やかな能面のような表情はどこにもない。

 額には血管が浮き、充血した目は涙で潤み、唇は苦悶に震えている。

 顔を上げたレオは口元の血を手の甲で乱暴に拭うと、射抜くような視線でジンを(にら)みつけた。

 

「……(いって)ぇな、クソ野郎」

 

 低く、掠れた声。

 だがそこには、確かに熱があった。

 かつて泥水を共に啜り、拳を交わし合った男の、生きた殺気があった。

 ジンは拳についた白い破片を払い、口の端を吊り上げた。

 

「ああ。……やっと人間らしい顔になったじゃねぇか」

 

 ジンは待った。

 ここからだ。首輪は外れた。

 目が覚めたなら、立ち上がって殴り返してくるはずだ。

 さあ、レオ、最終ラウンドを始めようぜ。

 

 しかし。

 

 レオの表情が、ふっと硬直した。

 そして、自分の首に触れ、そこに何もないことを確認した。

 次に、床に散らばった白い破片を見た。

 

「……あ」

 

 レオの瞳孔が、極限まで見開かれる。

 戦士の瞳が、一瞬にして、禁断症状に怯える中毒者の濁った目へと変貌する。

 

「あ、あぁ……痛い……熱い……嫌だ……」

 

 レオの体がガタガタと震え出した。

 

「嫌だ、あっち側には戻りたくない……!」

 

 レオはガラスの床に這いつくばった。

 スーツが床の酒で汚れるのも構わず、四つん這いになり、砕け散ったデバイスの破片を必死にかき集め始めた。

 

「戻してくれ……私の平穏を……! 鎮静剤(カクテル)をくれ……!」

 

 手のひらがガラスで切れ、血が滲む。

 それでもレオは、二度と噛み合わない破片を必死に組み合わせ、自分の首に押し当てようとする。

 だが、壊れた機械は二度と動かない。プシュ、と残ったガスが情けなく漏れるだけだ。

 

評価(レート)が下がる! 完璧じゃなくなる! ジン、お前のせいだ! 私を汚すな! 私を壊すなァ!」

 

 レオは破片を抱いて泣き叫んだ。

 それはまるで、飼い主に助けを求める家畜の悲鳴だった。

 

 ジンの中で、何かが冷めていった。

 怒りすら、消え失せた。

 

(……死んでたか)

 

 かつての相棒(ライバル)は、とっくの昔に死んでいたのだ。

 ここにいるのは、ただの哀れな依存症患者(ジャンキー)に過ぎない。

 

 防爆シャッターが電子音と共にゆっくりと上がっていく。

 リビングでは赤い警報ランプが回転し、無機質なアナウンスが侵入者の排除を告げている。

 

 ジンは、床で嗚咽を漏らす男に背を向けた。

 トドメを刺す価値もない。

 この男にとって最大の罰は、死ぬことではなく、首輪のない状態で、生の苦痛に晒され続けることだ。

 

「……そうかよ。てめえの痛みも引き受けられなくなっちまったんなら、選手失格(おしまい)だ」

 

 ジンは侮蔑と、ほんの僅かな憐憫を含んだ視線を、肩越しに投げた。

 

「せいぜい、新しい首輪が見つかるまで震えてな」

 

 真剣な表情に戻ったジンは、金属製の人工植物のそばで膝をついているノアに駆け寄った。

 ノアは肩で息をしながら、上がっていくシャッターを見つめていた。

 ジンは無言でノアの前に片膝をつき、その小さな体を抱き上げた。

 羽毛のように軽い。

 だが、レインコート越しの体温が、生きようとする確かな意思を伝えてくる。

 ノアは血の付いた顔を、ジンのトレンチコートの胸元に押し付け、ぐったりと身を委ねる。その手には、泥だらけのテディベアがしっかりと握られていた。

 

「……帰るぞ。ここは腐ってやがる」

 

 ジンはノアを抱いて歩き出した。

 背後では、まだ男が喚いていた。

 

「誤作動だ! 私は正常だ! 処分しないでくれ!」

 

 見えない飼い主に向かって命乞いをする声が、警報音にかき消されていく。

 通り抜けた白いリビングに、妻と娘の姿はなかった。

 

 部屋を出て、エレベーターホールへ向かうジンの足音が響く。

 漂白された世界には、泥だらけの靴跡が残っていた。

 

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