死にたがりの最強物理おじさん、拾った幼女に殺されないよう守られてます 作:一丸壱八
『最適化された暴力は、暴力ではない。それは行政手続きである。迷いを排し、無駄を排し、反射的衝動を排せ。正解だけが許可される』――アーカーシャ社 安全保障局資料「行動最適化要綱」より
真銀レオは、戦闘を会話だと教わってきた。
会話には正しい文法があり、言葉の選択肢は最小であるべきだ。
だが、野良犬の喧嘩は、その文法を平然と踏み抜いてくる。
*
白い光が、ガラス張りのテラスを漂白していた。
偽りの夜景の向こうに整列した無数のドローンが、一斉にレーザーサイトを照射する。
ジンの胸と、ノアの額に、無数の赤い点が踊る。その一部は透明な床を突き抜け、遥か下の闇へと伸びていた。
逃げ場はない。背後のリビングとは、分厚いシャッターで隔絶されている。
ここは見えない床の上に浮かぶ空中の檻だ。一歩踏み外せば墜落。留まれば蜂の巣だ。
「……遅いな、ジン」
真銀レオの声が落ちた瞬間、世界が加速した。
予備動作がない。
肩も動かず、膝も沈まない。純白のスーツを着たレオの体が、氷の上を滑るように間合いを食い破っていた。
最先端の戦闘理論とテクノロジーにより、筋肉の収縮を電気信号で制御し、摩擦係数すら計算に入れた、物理法則への冒涜的なまでの最適化。
ヒュッ、と風を切る音よりも早く、レオの掌底がジンの顎を捉えていた。
ジンがガードを上げるコンマ数秒、その隙間に正確にねじ込まれた一撃。
ゴッ、と乾いた音がして脳が揺れる。
衝撃は表面ではなく、頭蓋骨の縫合線を伝って脳漿を直接揺さぶる。
「ぐっ……!」
視界が明滅する中、ジンは足元のガラス床を軋ませてたたらを踏んだ。
だが、レオの攻撃はそこで終わらない。
顎を跳ね上げられたジンのバランスが崩れた瞬間、レオの右肘が最短距離で鳩尾へ突き刺さる。
呼吸が止まる。
内臓が悲鳴を上げたのと同時に、左の蹴りがジンのふくらはぎの外側――腓骨神経を正確に捉えた。
完璧だった。
そこには無駄はおろか、躊躇いという名の人間的なノイズが一切混じっていない。数万回のシミュレーションが導き出した、芸術的なまでの暴力の数式。
鋭い痛みが全身を駆け巡り、ジンは膝から崩れ落ちた。口の中に広がった鉄錆の味を噛み締める。
レオの息は乱れず、スーツには皺ひとつない。
首元のデバイスが、青白く、規則正しく明滅している。
(……味がしねぇ拳だ)
痛みはある。骨もきしんでいる。
だが、そこには殺意という熱がない。
かつてリングで殴り合った時の、肌が粟立つようなヒリついた感覚がない。
これは、ただのデータ処理だ。ジンという障害物を排除するための、事務的な削除作業だ。
「衰えたな。それとも、あの泥水ばかり啜っていたせいで、脳の回路が錆びついたか?」
レオが構えを解かず、無機質に告げる。
ジンは口元の血を手の甲で拭った。革手袋が赤く汚れる。
「……ケッ。行儀が良いこった」
ジンは重心を落とした。
構えなどない。ただの棒立ちに見える、隙だらけの姿勢。
だが、その膝はバネのように柔らかく沈み、足裏はガラスの床を鷲掴みにしている。
「教科書通りの綺麗な動き」
ジンがニヤリと笑った。
泥沼の底から相手を引きずり込む、野良犬の目だ。
「……行くぞ!」
ジンが短く吼えた。同時に、レオが踏み込む。
ジンの筋肉の動き、視線、呼吸。すべてを解析し、次の行動を予測した上での、完璧なカウンターのタイミング。
右ストレート。ジンの眉間を撃ち抜く必殺の軌道。
――だが。
ドガッ!
鈍い、骨が砕けるような音が響いた。
レオの表情が、一瞬だけ苦悶に歪んだ。
レオが踏み込んだ左足首を、ジンの革靴の踵が、全体重を乗せて踏みつけていたからだ。
「ぐ、ぅ……!?」
痛みにレオの思考が一瞬停止する。
最適化された戦闘理論では、足を踏まれた時の対処法など優先順位の最下層にあるはずだ。
その思考の空白を、ジンは見逃さない。
ジンはさらに体を沈め、レオの懐へと深く潜り込んだ。
レオが反射的に顎を引く。
だが、ジンの狙いは顎ではない。
下から突き上げるように、自身の額の生え際――頭蓋骨で最も硬い部分を、レオの鼻梁へと叩きつけた。
ゴッ!
レオの鼻から鮮血が噴き出して、純白のスーツを赤く汚した。
鼻への衝撃が、生理的な涙を強制的に絞り出し、レオの視界を滲ませる。
「が、ぁ……っ!?」
レオが鼻を押さえてよろめき、怒りで拳を振り上げようとした、その時だった。
バチッ!
首元のデバイスが、青白い火花を散らした。
『警告。感情値の上昇を検知。非効率的行動を確認。鎮静プロセスを開始します』
無機質な合成音声と同時に、レオの体が硬直する。
「あ、が……っ、ぐ……!」
振り上げた拳が空中で止まり、痙攣する。痛みで歪む顔と、薬物で強制される笑顔が、交互に浮かび上がる。まるで壊れた信号機だ。
(……殴ってるのはレオじゃねぇ。あの首輪だ)
感情を持つことすら許さない。それがこの街の強さの正体か。
だが、戦場は二人だけではない。
ブォォォォン……!
テラスの外、強化ガラスの向こう側から、待機していたドローン群が殺意を向けていた。
レオの制御が乱れたのを察知したのか、あるいは危険分子の即時排除へとプログラムが切り替わったのか。
赤いレーザーサイトが、再び網の目のようにジンを捉える。
そしてその一部が、瓦礫の陰にうずくまる、黄色いレインコートのノアに向けられた。
ノアの額に、赤い点が灯る。
テディベアの耳を握りしめるノアの指が、白くなるほど力を込めた。
その瞬間。
キィィィィィィィン――!!
耳鳴りのような高周波音が、テラスの空気を切り裂いた。
バチバチバチッ!
屋外の照明が一斉に明滅した。まるで電圧が不安定になったかのように、激しく点滅を繰り返す。
それに呼応するように、整列していたドローンの編隊が乱れた。
ウィーン、ガガッ……!
先頭の一機が、突然制御を失ったように急旋回し、隣のドローンに衝突した。プロペラが砕け、火花を散らして落下していく。
別の一機は、味方のドローンに向けて機銃を掃射し始めた。
ダダダダダッ! ドカーン!
爆炎が上がり、偽りの夜景が黒煙で汚される。
ドローンたちは互いを敵と誤認したかのように、同士討ちを始めていた。
「……ハッ。企業の最新兵器にしちゃ、お粗末なAIだな」
ジンは口元を歪めた。
背後を振り返る。
ノアは膝をつき、うずくまっていた。
その手はテディベアの首を絞めるように強く握りしめ、肩だけで荒い息をしている。
フードの下、その整った鼻孔から、ツーッと一筋の鼻血が流れ落ち、透明なガラス床に赤い染みを作っていた。
顔色は蝋のように白い。紫の瞳は焦点が合わず、虚ろに揺れている。
「ノア、大丈夫か!」
ジンはノアがドローンに攻撃されたのだと直感した。
(限界だ。これ以上、こんな危険な場所にガキを置いてはおけない)
「う、うあぁぁぁ……っ! 私の……私の評価が……!」
レオが頭を抱えて叫んでいた。
錯乱してもなお、体は戦闘の継続を選択しようと動き出す。
焦点の定まらない目で、ゆらりと立ち上がるレオ。その姿は、誇り高い戦士などではなく、糸が絡まった操り人形のようだった。
「排除……排除しなくては……。スコアを……維持……」
その構えには、元裏格闘技ランカーとしての美しさの欠片もない。
「……哀れなもんだな、レオ」
ジンは右の革手袋を噛み、締め直した。
ギュッ、と革が鳴く。
「痛みも、恐怖も、自分の意思で飲み込めなくなった時……人間は死ぬんだよ」
ジンが踏み込む。
レオが反応する。反射的な迎撃。
鋭い右ハイキックが、ジンの側頭部を狙って跳ね上がる。
ジンはそれを避けなかった。
強引に首をすくめ、僧帽筋と肩でその蹴りを受け止める。
バシィッ!
骨がきしむ音がする。強烈な衝撃が首を走る。
だが、ジンは一歩も引かない。
蹴りの反動でレオの体勢が浮いた一瞬。
ジンは、さらに深く、懐へと侵入した。
ジンの拳が、レオの喉元へと突き出される。
狙いは一つ。
忌々しい首輪だ。
――バギィッ!!
硬質な破砕音が、テラスに響き渡った。
ジンの拳にプラスチックと金属、そして微細な回路が悲鳴を上げて砕け散る感触が伝わる。
プシュゥゥッ……!
砕けたデバイスから、圧縮されていた白いガスが漏れ出し、霧のようにレオの顔を包み込む。
「が、はっ……!?」
衝撃でレオの体が弾かれたように、テラスの隅にあるガラスのバーカウンターに激突した。
高級なボトルが砕け、琥珀色の液体が透明なガラス床に広がり、まるで空に金色の染みが浮いているように見えた。
レオはその場に崩れ落ち、喉を押さえて激しく咳き込んだ。
「ごホッ、ガハッ……! あ、ぁ……っ!」
白いガスが晴れていく。
露わになったレオの顔は、苦痛に歪んでいた。
さっきまでの、不気味なほど穏やかな能面のような表情はどこにもない。
額には血管が浮き、充血した目は涙で潤み、唇は苦悶に震えている。
顔を上げたレオは口元の血を手の甲で乱暴に拭うと、射抜くような視線でジンを
「……
低く、掠れた声。
だがそこには、確かに熱があった。
かつて泥水を共に啜り、拳を交わし合った男の、生きた殺気があった。
ジンは拳についた白い破片を払い、口の端を吊り上げた。
「ああ。……やっと人間らしい顔になったじゃねぇか」
ジンは待った。
ここからだ。首輪は外れた。
目が覚めたなら、立ち上がって殴り返してくるはずだ。
さあ、レオ、最終ラウンドを始めようぜ。
しかし。
レオの表情が、ふっと硬直した。
そして、自分の首に触れ、そこに何もないことを確認した。
次に、床に散らばった白い破片を見た。
「……あ」
レオの瞳孔が、極限まで見開かれる。
戦士の瞳が、一瞬にして、禁断症状に怯える中毒者の濁った目へと変貌する。
「あ、あぁ……痛い……熱い……嫌だ……」
レオの体がガタガタと震え出した。
「嫌だ、あっち側には戻りたくない……!」
レオはガラスの床に這いつくばった。
スーツが床の酒で汚れるのも構わず、四つん這いになり、砕け散ったデバイスの破片を必死にかき集め始めた。
「戻してくれ……私の平穏を……!
手のひらがガラスで切れ、血が滲む。
それでもレオは、二度と噛み合わない破片を必死に組み合わせ、自分の首に押し当てようとする。
だが、壊れた機械は二度と動かない。プシュ、と残ったガスが情けなく漏れるだけだ。
「
レオは破片を抱いて泣き叫んだ。
それはまるで、飼い主に助けを求める家畜の悲鳴だった。
ジンの中で、何かが冷めていった。
怒りすら、消え失せた。
(……死んでたか)
かつての
ここにいるのは、ただの哀れな
防爆シャッターが電子音と共にゆっくりと上がっていく。
リビングでは赤い警報ランプが回転し、無機質なアナウンスが侵入者の排除を告げている。
ジンは、床で嗚咽を漏らす男に背を向けた。
トドメを刺す価値もない。
この男にとって最大の罰は、死ぬことではなく、首輪のない状態で、生の苦痛に晒され続けることだ。
「……そうかよ。てめえの痛みも引き受けられなくなっちまったんなら、
ジンは侮蔑と、ほんの僅かな憐憫を含んだ視線を、肩越しに投げた。
「せいぜい、新しい首輪が見つかるまで震えてな」
真剣な表情に戻ったジンは、金属製の人工植物のそばで膝をついているノアに駆け寄った。
ノアは肩で息をしながら、上がっていくシャッターを見つめていた。
ジンは無言でノアの前に片膝をつき、その小さな体を抱き上げた。
羽毛のように軽い。
だが、レインコート越しの体温が、生きようとする確かな意思を伝えてくる。
ノアは血の付いた顔を、ジンのトレンチコートの胸元に押し付け、ぐったりと身を委ねる。その手には、泥だらけのテディベアがしっかりと握られていた。
「……帰るぞ。ここは腐ってやがる」
ジンはノアを抱いて歩き出した。
背後では、まだ男が喚いていた。
「誤作動だ! 私は正常だ! 処分しないでくれ!」
見えない飼い主に向かって命乞いをする声が、警報音にかき消されていく。
通り抜けた白いリビングに、妻と娘の姿はなかった。
部屋を出て、エレベーターホールへ向かうジンの足音が響く。
漂白された世界には、泥だらけの靴跡が残っていた。