死にたがりの最強物理おじさん、拾った幼女に殺されないよう守られてます   作:一丸壱八

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第19話 九回裏のサヨナラ負けと赤い文字

 降り続く雨は、夜の外周大通り(メインストリート)を叩き続けていた。

 だが、この外の世界の道路は、特区のそれとは決定的に違っていた。

 水はけが良すぎるのだ。

 降ったそばから路面の微細な溝が水を吸い込み、タイヤがグリップを失うことを許さない。水膜現象(ハイドロ)などという物理的な不運すら、ここでは管理されているらしい。

 優等生のための道路だ。泥も、油も、予期せぬスリップも存在しない。

 

 鏑木ジンは、ワックスが光る『鉄牛(アイアン・バッファロー)』のハンドルを握りしめ、アクセルペダルを床まで踏み抜いていた。

 V8エンジンが悲鳴に近い咆哮を上げる。

 大通りは、白く磨かれた建物の谷間を、一本の刃物のように真っ直ぐに貫いて続いている。

 

「……お上品な道だ。これじゃタイヤが鳴かねぇ」

 

 ジンは不機嫌に吐き捨てた。

 右拳の中では、壊した首輪の感触がまだ残っている。

 タコメーターの針はレッドゾーンに飛び込み、速度計はとっくに限界を振り切っている。

 周囲の景色が、流れる光の帯になって後方へ飛び去っていく。

 助手席のノアは、シートに深く沈み込み、黄色いレインコートのフードを目深に被っていた。

 小さな手で、テディベアと空のゼリー容器を胸に抱きしめている。

 この速度と振動なのに、悲鳴一つ上げない。肝が据わっているのか、あるいは恐怖で声が出ないのか。

 

 その時だった。

 前方の道路情報掲示板に、赤い文字が躍った。

 

『警告:未登録車両ヲ検知。直チニ停車セヨ。』

『強制排除プログラムヲ開始スル』

 

 無機質な警告と共に、大通りの照明が一斉に赤く染まった。

 まるで血管の中を走るウイルスになった気分だ。

 

「……IDが無い暴れ牛は強制排除か。ご丁寧な挨拶だ」

 

 ジンはニヤリと笑った。

 ルームミラーで後方を確認する。追っ手の姿はない。だが、この都市そのものが牙を剥こうとしている気配が、肌を刺す。

 

 ガガガガッ!

 

 耳障りな金属音が、四方八方から連鎖した。

 大通りに接続する左右の交差点に、埋設されていた鋼鉄の防護壁が一気にせり上がる。

 さらにその先、そのまた先。

 交差点、搬入口、細いサービスレーン。逃げ込めそうな道という道が、順番に、機械的に、無慈悲に塞がれていく。

 

 ズドン、ガァン……!

 

 雨音に混じって、封鎖の音がリズムのように続いた。左右へ散っていた無数の道が消えて、残されたのは大通りの車線だけとなる。

 逃げ場のない一本道の封殺路(キルゾーン)だ。

 

 ゴゴゴゴゴッ!

 

 大通りの前方、三百メートル先の路面が、巨大な壁のようにゆっくりと隆起しはじめた。

 路面そのものが油圧でせり上がり、物理的に道を塞ぐ跳ね上げ式バリケードだ。完全に立ち上がれば、鉄牛でも突破できない絶壁となるだろう。

 完全に袋のネズミだ。いや、袋の牛か。

 

「……徹底してやがるな。だが、答えはひとつだ」

 

 ジンは減速するどころか、さらにアクセルを踏み込んだ。

 ダッシュボードにある、赤いカバーの付いたトグルスイッチを弾く。

 ――燃料増量(リッチ・モード)

 エンジンに過剰なガソリンという名の毒を無理やり流し込み、その気化熱で強引に冷却しながら、爆発的なトルクを絞り出す荒技だ。

 環境基準? 燃費? 知ったことか。

 マフラーから未燃焼ガスが噴き出し、アフターファイアの赤い火柱が闇を焼く。

 

 ドォォォォン!!

 

 鉄牛が猛然と加速する。

 迫り上がる路面。だが、まだ立ち上がりきってはいない。角度にして約二十度。鉄牛を空へ射出するための、極上のジャンプ台だ。

 周囲に人間の気配は一切ない。冷たいプログラムが機械的に壁を上げているだけだ。

 

「……遠慮はいらねぇな。飛ぶぞッ!」

 

 ジンは雄叫びと共に、左手でさりげなく助手席のシートベルトのロックを確かめ、鉄牛を斜面へと叩き込んだ。

 2トンを超える鉄の塊が猛スピードで斜面を駆け上がり、強烈なGを伴って雨の夜空へと放り出される。

 フロントガラスの向こうから道が消え、鉛色の雲だけが視界を埋め尽くした。

 エンジンが空転し、獣の咆哮が夜空に轟く。重力の法則に逆らい、鉄牛は絶壁を見事に飛び越えた。

 

 だが、問題はここからだ。

 2トンの質量が落下するエネルギー。本来ならサスペンションがへし折れ、乗員の首が鞭のようにしなる衝撃が待っている。

 ジンは痛む右腕でハンドルを強引に押さえ込みながら、空いた左腕を反射的に助手席へ突き出した。

 丸太のような腕でノアの小さな身体をシートに押し付ける。

 ジンの視線は、隣を見る余裕などなく、迫り来るアスファルトだけを睨みつけていた。

 

 ズドォォォォォンッ!!

 

 激しい火花が散り、アスファルトが砕ける轟音。

 ダッシュボードから正体不明のネジが数本弾け飛んだ。だがその瞬間、鉄牛を包む空気の密度が不自然に歪み、落下エネルギーのすべてが底なしの泥濘に吸い込まれたかのような奇妙な静寂が走った。

 ジンの身体を襲ったのは、予想をはるかに下回る、ありえないほど軽い衝撃だった。

 足回りが悲鳴を上げることもなく、鉄牛は荒々しくも踏みとどまり、そのまま猛然と大通りを走り続ける。

 

「……ハッ! どうだ!」

 

 ジンは快哉を叫び、ノアを庇っていた左腕を退けながら、慌てて助手席に顔を向けた。

 

「怪我はねぇか! 完璧な着地だろ、さすがは俺の鉄牛……」

 

 だが、ジンの言葉はそこで止まった。

 常識外れの大ジャンプと着地を経験したはずだが、ノアは姿勢ひとつ崩さず、シートの真ん中にちょこんと座っていた。

 ジンの太い腕で押さえ込まれていたにも関わらず、暴れ狂う遠心力も慣性もなかったかのように。

 テディベアとゼリーの空き容器を胸に抱きしめ、紫の瞳で静かに(まばた)きをして、ジンを見つめ返した。

 乱れた髪ひとつない。

 

「……お前、肝が据わりすぎだろ」

 

 ジンは呆れたように笑った。

 2トンの鉄塊を無傷で着地させたのは確かに鉄牛の馬力だ。

 だが、ノアの靴底は1ミリもずれておらず、空のゼリー容器も微動だにしていなかった。

 ジンはそれを、鉄牛の戦車並みの足腰のおかげだと一人で勝手に納得し、満足げに鼻を鳴らした。

 バックミラーの中で、完全に立ち上がった絶壁のバリケードが遠ざかっていく。

 ノアは小さく息を吐き、テディベアの耳をそっと撫でた。

 

 外周大通りの先。

 巨大な白い壁が見えてきた。特区と外の世界を隔てる境界線、行きに通った検問ゲートだ。

 ジンは奥歯を噛み締め、ハンドルを握る手に力を込めた。

 企業の追っ手とやり合って、大通りの封鎖を派手にぶち破ったのだ。当然、ゲートは完全封鎖され、重武装の私兵部隊か魔法障壁が待ち構えているに違いない。

 

 だが、ゲートは拍子抜けするほど静まり返っていた。

 合金のシャッターは下りておらず、薄暗い検問ブースの中に、警備兵が一人座っているだけだ。

 ジンは油断なく鉄牛の速度を落としながら近づく。

 エンジンの重低音に気づいたのか、警備兵が手元のモニタからガバッと顔を上げ、目を見開いた。その顔に、明らかな焦りと絶望が浮かぶ。

 

(……チッ。やっぱり手配書が回ってたか)

 

 ジンが強行突破のために再びアクセルを踏み込もうとした、その時。

 警備兵が頭を抱え、ブースの隙間から間の抜けた絶叫が漏れた。

 

「ああっ、馬鹿野郎! なんで打たれるんだよォォ!!」

 

 警備兵は机に突っ伏し、拳でコンソールをバンバンと叩き始めた。

 どうやら違法電波で受信したスポーツ中継でも見ていて、贔屓のチームが負けたらしい。

 

「…………」

 

 ジンは踏み込みかけた右足をそっと戻し、深い溜め息を吐いた。

 緊張の糸が、音を立てて切れる。

 ゲートの遮断バーは、最初から上がりっぱなしだった。

 

「……出るゴミには厳しいが、戻るゴミにはとことん優しい関所だ」

 

 ジンは呆れ果てた声で呟き、徐行でゲートを通り抜けた。

 警備兵は嗚咽を漏らすのに夢中で、泥と傷だらけの装甲車が通過したことすら気づいていない。

 

 白い世界の風が途切れ、湿った匂いが車内に入り込んでくる。

 泥と錆と、古い油。肺が息を吹き返す匂いだ。

 タイヤが泥水を巻き上げ、アスファルトの感触が変わる。滑らかで管理された道ではない。凸凹で、水たまりだらけの、荒れた路面。

 特区だ。

 

 バックミラーの中で、遠ざかるゲートと、外の世界のビル群が輝いている。

 一番高いビルの壁面、巨大なデジタルサイネージには、真銀レオの顔が映し出されていた。

 完璧な笑顔。完璧な家族。

 

『アーカーシャは、あなたの幸福を保証します』

 

 そんなキャッチコピーが、虚しく点滅している。

 最後に見たレオの顔が重なる。首輪を壊され、自分の痛みに怯えて泣いていた、あの目。あの顔。本物だったのは、それだけだ。

 

 ジンは窓を少しだけ開けた。

 雨が細い針になって入り込む。咥えていた赤烏(レッド・クロウ)を、指で弾いて捨てた。

 火のついていない、ただのゴミだ。

 それは風に舞い、境界線を越えて、向こう側のきれいな舗装道路に落ちた。

 白い路面に、小さな黒い染みを作る。

 たったそれだけで、白い世界が少しだけ汚れる。野良犬が残した、ささやかなマーキング。いい気味だ。

 

「……あばよ、プラスチックの楽園」

 

 ポロリと、柄にもない言葉が口を突いて出た。

 言った直後に、ジンは自分で自分の言葉にハッとして、慌てて助手席を見た。

 ノアが、黄色いレインコートのフードの奥から、紫の瞳でじっとこちらを見つめていた。テディベアを抱きしめたまま、瞬きもせずにジンの横顔を凝視している。

 

「忘れろ……」

 

 ジンは気まずそうに咳払いをして、照れ隠しのようにさらにアクセルを床まで踏み抜いた。

 V8エンジンが、ジンの誤魔化しをかき消すように爆音を上げる。

 鉄牛は、泥水を跳ね上げながら、闇の奥へと消えていく。

 国境を背中に残して、野良犬たちは愛すべき汚い世界へ戻っていった。

 

     *

 

 特区と外の世界を隔てるゲートの検問ブース内。

 ベテランの警備兵は、コンソールに突っ伏したまま嗚咽を漏らしていた。

 

「九回裏ツーアウトで、逆転満塁ホームラン打たれる抑えがいるかよォォ……」

 

 そこへ、夜勤交代の新人警備兵が、温かい缶コーヒーを二つ持ってブースのドアを開けた。

 

「先輩、お疲れ様ッス。交代の時間……って、また野球で負けたんスか?」

「うるせぇ! 俺は今、人生に絶望してるんだ!」

 

 新人は呆れながら、先輩が頭をぶつけているコンソールのモニタに目を落とした。

 画面の中央には、サヨナラ勝ちに沸くスタジアムの映像が堂々と映っている。だが、新人の目は、その裏側でひっそりと点滅しているウィンドウに釘付けになった。

 

『警告:重要対象(No.708)追跡中』

『外周大通り封鎖シーケンス:完了。強制排除プログラム:目標ロスト』

 

「せ、先輩……」

 

 新人の手から缶コーヒーが滑り落ち、床に鈍い音を立てて転がった。

 

「なんスか、これ。……赤い警告が、出っぱなしなんですけど」

「あぁ? そんなの、ただのシステムバグだろ。……それより俺の傷ついた心をだな」

「ち、違いますって! たった今、ゲートを突破した記録が残ってます! 企業からの『緊急手配』の赤文字ですよ!」

 

 先輩警備兵は、ようやく野球中継のウィンドウを最小化し、その裏に隠れていた真っ赤な警告画面を直視した。

 二人の警備兵は、顔を見合わせる。

 野球のサヨナラ負けなど吹き飛ぶほどの、本物の絶望がそこにあった。

 

「……終わった」

 

 外の世界の完璧なシステムは、末端の人間たちのあまりにも下らない怠慢によって、あっさりと抜け穴を作っていた。

 企業の静かなる激怒が、すぐそこまで迫っている。特区の夜は、相変わらず冷たい雨を降らせていた。

 

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