死にたがりの最強物理おじさん、拾った幼女に殺されないよう守られてます 作:一丸壱八
雨が戻ってきた。
外の世界の雨は、地面を濡らさない優等生だったが、こっちの雨は違う。落ちた瞬間から、泥と油と、古い鉄の匂いを拾って膨らむ。
窓を開けてその空気を吸い込むと、肺の奥で、錆びたバネがゆっくりと伸びる感じがした。
不健康で、有毒で、けれどどうしようもなく馴染む我が家の空気だ。
鏑木ジンは、泥まみれになった『
大破してもおかしくないような豪快なジャンプをしたというのに、サスペンションも、両側のヘッドライトも、完全に無傷だ。
外の世界で塗りたくられたワックスの輝きは、特区の雨と泥水を浴びて、瞬く間に本来のドブ色へと塗り潰されていく。
洗車されて輝くボディより、こっちの方がずっといい。傷だらけの野良犬には、傷だらけの鎧がお似合いだ。
助手席のノアは、泥のように眠っていた。
黄色いレインコートのフードは顎のあたりまで落ち、銀髪が覗いている。胸の上には、汚れたテディベアと、空になった栄養ゼリーの容器を握っていた。
呼吸は浅いが規則的で、雨音に混ざって見失いそうなほど静かだ。
あれだけの修羅場をくぐり抜けて、車の揺れをゆりかご代わりに熟睡とは。
(……図太い神経してやがる)
しばらく走ると、ライトの先に、巨大な白い長方形が浮かび上がった。
行きに野営をした、放棄されたドライブインシアターだ。
塗装の剥げたスクリーンが、相変わらず墓標のように雨の闇に突き立っている。
行きは、ここで缶詰を食いながら迷っていた。このガキをどうやって捨てようか、と。
だが今は、アクセルを緩めない。
何も映らないスクリーンを一瞥し、ジンは低く呟いた。
「……つまらねぇ映画にも、そろそろタイトルロールが出る頃だ」
色々あったが、むしろ、ここからが本編だ。
過去は置いていく。だが、このガキだけは連れて行く。
ひたすら走り続けると、旧料金所跡が近づいてきた。
肋骨みたいな鉄骨のゲート。そこに、行きに鉄牛で吹き飛ばしたバリケードの残骸。
廃車と瓦礫と鉄パイプの寄せ集めでできた、
だが、様子が違う。
連中が騒いでいないし、銃口もこっちへ向けていない。
粉々になったはずのゴミの山が、道の両端にきれいに片付けられ、中央が大きく開けられている。そしてその両脇に、ボロボロの服を着た男たちが整列していた。
雨の中で直立不動。まるで、葬式の列だ。
「……ハッ。マナー教室にでも通ったか?」
ジンは笑ってやろうとしたが、笑いは喉で止まった。
男たちが一斉に動いたからだ。
銃を構えたのではない。敬礼だ。
誰が始めたのか、全員が震える泥だらけの手を額に当て、縋るような敬礼のポーズで鉄牛を見送っている。
その顔には、尊敬などない。ただ、こいつだけは敵に回すなという恐怖と、生存本能としての服従が張り付いていた。
ジンの鉄牛は泥まみれだが、その走りは荒れ狂う獣のままだ。
奴らにとって、この装甲車は、さながら舞い戻ってきた怪物に違いない。
もしかすると、ゲートの向こう側で何をやらかしてきたのか、こいつらの耳に届いたのかもしれない。
列の端に、小さな影があった。
大人たちの足元に隠れるように立っている子供だ。
その子供が、通過する鉄牛に向かって、何かを差し出そうとしていた。
泥だらけの花か、あるいはただの石ころか。
だが、すぐに隣の大人に腕を乱暴に引かれ、列の中へと引き戻された。
子供の目は、ジンではなく、助手席のノアを見ていた。それは好奇心というよりも、泥だらけの同類を見つけたような目だった。
鉄牛がゆっくりと横を通り過ぎる。
ノアは眠ったまま動かない。
だが、ノアの腕の中で、テディベアの短い手が、ほんの少しだけ持ち上がった。
車の振動とは違うリズム。
「……風で揺れただけだろ」
ジンはそういうことにした。
武装難民たちの敬礼を背中に受けて、鉄牛は旧市街へと深く潜っていく。
特区の中心に近づくほど、匂いが濃くなる。
カビ、排気ガス、遠くで誰かが焦がした油の臭い。そこに、濡れたコンクリートの冷たさ。
はっきり言って、最悪だ。だが、息がしやすい。
やがて、ジンの事務所がある雑居ビルに着いた。
ジンは鉄牛をガレージ代わりのビル裏の路地にねじ込み、エンジンを切った。
静寂が落ちる。耳が、まだV8エンジンの咆哮の残響を探している。
助手席へ回り込み、ノアを抱き上げる。
相変わらず軽いが、なぜだか、いつもより重く感じる。たぶん、ジンの中に戻ってきた理由が増えたせいだ。
ノアが濡れないように背中で雨を受けながら、ジンが雑居ビルの玄関に入る。
階段を上がるたび、ノアのレインコートがジンのトレンチコートに擦れて、音を立てる。
普段ならここで火を点けるところだが、今はその気になれない。だから『
事務所のドアを開けた。
殺風景な部屋。テーブル、ソファ、冷蔵庫、クローゼット、作業机。壁には弾薬とロープ。窓の外には雨の街。
前と何も変わっていない。
だが、戻ってきた自分たちは、少しだけ変わった気がする。
ジンはソファにノアを寝かせ、ブランケットを掛けた。
黄色いフードが少しだけずれ、銀髪が覗く。腕の中には、テディベアとゼリーの空き容器が大事そうに抱えられていた。
そこで、黒電話が鳴った。
ジリリリリリリリン!!
地獄の呼び鈴だ。だが今夜は、その音さえも懐かしく感じる。
ジンはゆっくりと受話器を取った。
「……ジンだ。ああ、生きてるぞ。残念だったな」
『あら、期待外れね』
九条レイコの声だった。
気怠くて、上質な紫煙が揺らめくような低い声。だが、その悪態の裏には、かすかに胸をなで下ろしたような気配が混じって聞こえた。
ジンは受話器を肩で挟み、壁に背中を預けた。
「外の方が腐ってやがった。笑えるだろ」
『ふふ、あんなお行儀のいい世界、あなたには毒が強すぎたでしょ。……それで? あのお人形さんは無事なの?』
「ああ、今は疲れて寝てる」
『……ジン。連れて戻ってきたなら、その子がどれだけ重い荷物か、もう一度肝に銘じることね』
説教をするつもりなら、もっと可愛げのある声にしろ。
ジンは受話器の向こうへ、短く息を吐いた。
「分かってる」
『……もう、聞き分けが良すぎて、調子が狂うわね。いい? 企業はプライドをズタズタにされたの。今度はメンツのために、本気であなたを消しに来るわ』
「そうだろうな。だが、逃げ回るのは俺の性に合わねぇ。……次はこっちから出向いてやるさ。心配するな」
そこで切れるかと思ったが、受話器の向こうの沈黙が妙に長かった。
ライターの石を擦る硬質な音。深く煙を吸い込み、吐き出す甘い吐息。
次に聞こえてきたレイコの声は、先ほどまでの冷ややかさを脱ぎ捨てた、ひどく濃密で熱を帯びたものだった。
『……ねえ、ジン。今のあなた、電話越しでもわかるくらい、すごくいい匂いがするわ』
「
『それが最高なのよ。……あの完璧な企業を本気で怒らせて、特区の泥の中に引きずり込もうとしている。今のあなたは、この街で一番死に近い特等席に立っているわ。……想像しただけで、ゾクゾクしちゃう』
レイコの声が、鼓膜を直接愛撫するように低く震える。
この女の悪趣味な性癖だ。死の淵で生命を燃やす男の、ギリギリの輝きに欲情する。
『ねえ。今からうちに来ない?』
「……あ?」
『特別に、今夜は診察料なんて野暮なことは言わないわ。企業に殺される前に、私が極上の麻酔で溶かしてあげる。……ベッドは、もう温めてあるわよ』
明確な誘いだった。
雨の夜、死地の前の静寂、女とベッド。破滅に向かう男が最後にすがるには、甘美すぎる罠。
ジンは無言で受話器を耳に当てたまま、横を見た。
ソファの上。黄色いレインコートを着た小さな塊が、テディベアを抱きしめ、規則正しい寝息を立てている。
ジンは口の端を少しだけ上げ、鼻で笑った。
「……魅力的な提案だが、生憎と手が塞がってる」
『……荷物なら、そこに置いてくればいいじゃない』
「留守番のできるタチじゃねぇんだ。俺がいねぇと気づいたら、泣き喚いて近所迷惑になる」
『……ふふっ』
電話の向こうで、レイコが自嘲するように笑った。
『つまらない男。ただの死にたがりだった頃のあなたの方が、もう少し素直だったわよ。それに……私以外の女のために、そんな覚悟の匂いをさせるなんてね』
「あの世行きの切符は手放してねぇさ。ただ、順番を後回しにしただけだ」
『そう。……いい? ジン。死ぬなら勝手に死になさい。でもね、私以外の理由で簡単にくたばるのは許さない』
「注文が多いな」
『医者だもの。命の扱いはうるさいの』
深い沈黙。雨音だけが間を埋める。
『行きなさい。せいぜい派手に暴れてきなさい。……ミンチになったら、私が拾って縫って、もう一回動くようにしてあげる』
「頼むぜ、レイコ」
『任せなさい……ジン』
そこで切れた。
優しさを、拳で包んで投げてくる。そんなところがレイコらしい。
受話器を戻し、ジンは作業机に向かった。
そこには、メンテナンス台に乗せられた『パイルバンカー・ナックル』が鎮座している。
黒光りする鉄の塊。油の匂い。
ジンは革手袋に指を通した。内部に仕込まれた分厚い金属グリップが、待っていたかのように指の付け根に吸い付く。
そのまま反対の手で、手首の革ベルトを容赦なく限界まで引き絞った。
ギュッ、と革が鳴り、内蔵された硬質なフレームが尺骨と
発射の反動で手首が逆さにへし折れるのを防ぐための、無骨なロック儀式だ。
血流が少し阻害されるような窮屈で冷たい感触。だが、その奥に熱を感じる。自分の血が通う感覚。
指先で、鉄の杭を撫でる。
そして、確かめる。こいつがまだ俺の味方かどうか。
「……さて、仕事の時間だ」
誰に言ったわけでもない。
ジンはゆっくりと窓際に移動して、窓を少しだけ開けた。
雨が部屋に入り込んだが、気にせず、深く息を吸った。
「……ただいま、最悪の街。俺たちは、まだ死んでねぇ」
最悪の街で、最高に派手な喧嘩が始まろうとしていた。