死にたがりの最強物理おじさん、拾った幼女に殺されないよう守られてます   作:一丸壱八

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第20話 ただいま、最悪の街

 雨が戻ってきた。

 外の世界の雨は、地面を濡らさない優等生だったが、こっちの雨は違う。落ちた瞬間から、泥と油と、古い鉄の匂いを拾って膨らむ。

 窓を開けてその空気を吸い込むと、肺の奥で、錆びたバネがゆっくりと伸びる感じがした。

 不健康で、有毒で、けれどどうしようもなく馴染む我が家の空気だ。

 

 鏑木ジンは、泥まみれになった『鉄牛(アイアン・バッファロー)』のハンドルを握り、闇の中を走らせていた。

 大破してもおかしくないような豪快なジャンプをしたというのに、サスペンションも、両側のヘッドライトも、完全に無傷だ。

 外の世界で塗りたくられたワックスの輝きは、特区の雨と泥水を浴びて、瞬く間に本来のドブ色へと塗り潰されていく。

 洗車されて輝くボディより、こっちの方がずっといい。傷だらけの野良犬には、傷だらけの鎧がお似合いだ。

 

 助手席のノアは、泥のように眠っていた。

 黄色いレインコートのフードは顎のあたりまで落ち、銀髪が覗いている。胸の上には、汚れたテディベアと、空になった栄養ゼリーの容器を握っていた。

 呼吸は浅いが規則的で、雨音に混ざって見失いそうなほど静かだ。

 あれだけの修羅場をくぐり抜けて、車の揺れをゆりかご代わりに熟睡とは。

 

(……図太い神経してやがる)

 

 しばらく走ると、ライトの先に、巨大な白い長方形が浮かび上がった。

 行きに野営をした、放棄されたドライブインシアターだ。

 塗装の剥げたスクリーンが、相変わらず墓標のように雨の闇に突き立っている。

 行きは、ここで缶詰を食いながら迷っていた。このガキをどうやって捨てようか、と。

 だが今は、アクセルを緩めない。

 何も映らないスクリーンを一瞥し、ジンは低く呟いた。

 

「……つまらねぇ映画にも、そろそろタイトルロールが出る頃だ」

 

 色々あったが、むしろ、ここからが本編だ。

 過去は置いていく。だが、このガキだけは連れて行く。

 

 ひたすら走り続けると、旧料金所跡が近づいてきた。

 肋骨みたいな鉄骨のゲート。そこに、行きに鉄牛で吹き飛ばしたバリケードの残骸。

 廃車と瓦礫と鉄パイプの寄せ集めでできた、武装難民(ハイエナ)の縄張り。

 だが、様子が違う。

 連中が騒いでいないし、銃口もこっちへ向けていない。

 粉々になったはずのゴミの山が、道の両端にきれいに片付けられ、中央が大きく開けられている。そしてその両脇に、ボロボロの服を着た男たちが整列していた。

 雨の中で直立不動。まるで、葬式の列だ。

 

「……ハッ。マナー教室にでも通ったか?」

 

 ジンは笑ってやろうとしたが、笑いは喉で止まった。

 男たちが一斉に動いたからだ。

 銃を構えたのではない。敬礼だ。

 誰が始めたのか、全員が震える泥だらけの手を額に当て、縋るような敬礼のポーズで鉄牛を見送っている。

 その顔には、尊敬などない。ただ、こいつだけは敵に回すなという恐怖と、生存本能としての服従が張り付いていた。

 

 ジンの鉄牛は泥まみれだが、その走りは荒れ狂う獣のままだ。

 奴らにとって、この装甲車は、さながら舞い戻ってきた怪物に違いない。

 もしかすると、ゲートの向こう側で何をやらかしてきたのか、こいつらの耳に届いたのかもしれない。

 

 列の端に、小さな影があった。

 大人たちの足元に隠れるように立っている子供だ。

 その子供が、通過する鉄牛に向かって、何かを差し出そうとしていた。

 泥だらけの花か、あるいはただの石ころか。

 だが、すぐに隣の大人に腕を乱暴に引かれ、列の中へと引き戻された。

 

 子供の目は、ジンではなく、助手席のノアを見ていた。それは好奇心というよりも、泥だらけの同類を見つけたような目だった。

 鉄牛がゆっくりと横を通り過ぎる。

 ノアは眠ったまま動かない。

 だが、ノアの腕の中で、テディベアの短い手が、ほんの少しだけ持ち上がった。

 車の振動とは違うリズム。

 

「……風で揺れただけだろ」

 

 ジンはそういうことにした。

 武装難民たちの敬礼を背中に受けて、鉄牛は旧市街へと深く潜っていく。

 

 特区の中心に近づくほど、匂いが濃くなる。

 カビ、排気ガス、遠くで誰かが焦がした油の臭い。そこに、濡れたコンクリートの冷たさ。

 はっきり言って、最悪だ。だが、息がしやすい。

 

 やがて、ジンの事務所がある雑居ビルに着いた。

 ジンは鉄牛をガレージ代わりのビル裏の路地にねじ込み、エンジンを切った。

 静寂が落ちる。耳が、まだV8エンジンの咆哮の残響を探している。

 助手席へ回り込み、ノアを抱き上げる。

 相変わらず軽いが、なぜだか、いつもより重く感じる。たぶん、ジンの中に戻ってきた理由が増えたせいだ。

 

 ノアが濡れないように背中で雨を受けながら、ジンが雑居ビルの玄関に入る。

 階段を上がるたび、ノアのレインコートがジンのトレンチコートに擦れて、音を立てる。

 普段ならここで火を点けるところだが、今はその気になれない。だから『赤烏(レッド・クロウ)』はポケットの中で大人しくしている。

 

 事務所のドアを開けた。

 殺風景な部屋。テーブル、ソファ、冷蔵庫、クローゼット、作業机。壁には弾薬とロープ。窓の外には雨の街。

 前と何も変わっていない。

 だが、戻ってきた自分たちは、少しだけ変わった気がする。

 

 ジンはソファにノアを寝かせ、ブランケットを掛けた。

 黄色いフードが少しだけずれ、銀髪が覗く。腕の中には、テディベアとゼリーの空き容器が大事そうに抱えられていた。

 そこで、黒電話が鳴った。

 

 ジリリリリリリリン!!

 

 地獄の呼び鈴だ。だが今夜は、その音さえも懐かしく感じる。

 ジンはゆっくりと受話器を取った。

 

「……ジンだ。ああ、生きてるぞ。残念だったな」

『あら、期待外れね』

 

 九条レイコの声だった。

 気怠くて、上質な紫煙が揺らめくような低い声。だが、その悪態の裏には、かすかに胸をなで下ろしたような気配が混じって聞こえた。

 ジンは受話器を肩で挟み、壁に背中を預けた。

 

「外の方が腐ってやがった。笑えるだろ」

『ふふ、あんなお行儀のいい世界、あなたには毒が強すぎたでしょ。……それで? あのお人形さんは無事なの?』

「ああ、今は疲れて寝てる」

『……ジン。連れて戻ってきたなら、その子がどれだけ重い荷物か、もう一度肝に銘じることね』

 

 説教をするつもりなら、もっと可愛げのある声にしろ。

 ジンは受話器の向こうへ、短く息を吐いた。

 

「分かってる」

『……もう、聞き分けが良すぎて、調子が狂うわね。いい? 企業はプライドをズタズタにされたの。今度はメンツのために、本気であなたを消しに来るわ』

「そうだろうな。だが、逃げ回るのは俺の性に合わねぇ。……次はこっちから出向いてやるさ。心配するな」

 

 そこで切れるかと思ったが、受話器の向こうの沈黙が妙に長かった。

 ライターの石を擦る硬質な音。深く煙を吸い込み、吐き出す甘い吐息。

 次に聞こえてきたレイコの声は、先ほどまでの冷ややかさを脱ぎ捨てた、ひどく濃密で熱を帯びたものだった。

 

『……ねえ、ジン。今のあなた、電話越しでもわかるくらい、すごくいい匂いがするわ』

生憎(あいにく)、数日風呂に入ってないんでな。泥と火薬の匂いしかしないぞ」

『それが最高なのよ。……あの完璧な企業を本気で怒らせて、特区の泥の中に引きずり込もうとしている。今のあなたは、この街で一番死に近い特等席に立っているわ。……想像しただけで、ゾクゾクしちゃう』

 

 レイコの声が、鼓膜を直接愛撫するように低く震える。

 この女の悪趣味な性癖だ。死の淵で生命を燃やす男の、ギリギリの輝きに欲情する。

 

『ねえ。今からうちに来ない?』

「……あ?」

『特別に、今夜は診察料なんて野暮なことは言わないわ。企業に殺される前に、私が極上の麻酔で溶かしてあげる。……ベッドは、もう温めてあるわよ』

 

 明確な誘いだった。

 雨の夜、死地の前の静寂、女とベッド。破滅に向かう男が最後にすがるには、甘美すぎる罠。

 ジンは無言で受話器を耳に当てたまま、横を見た。

 ソファの上。黄色いレインコートを着た小さな塊が、テディベアを抱きしめ、規則正しい寝息を立てている。

 ジンは口の端を少しだけ上げ、鼻で笑った。

 

「……魅力的な提案だが、生憎と手が塞がってる」

『……荷物なら、そこに置いてくればいいじゃない』

「留守番のできるタチじゃねぇんだ。俺がいねぇと気づいたら、泣き喚いて近所迷惑になる」

『……ふふっ』

 

 電話の向こうで、レイコが自嘲するように笑った。

 

『つまらない男。ただの死にたがりだった頃のあなたの方が、もう少し素直だったわよ。それに……私以外の女のために、そんな覚悟の匂いをさせるなんてね』

「あの世行きの切符は手放してねぇさ。ただ、順番を後回しにしただけだ」

『そう。……いい? ジン。死ぬなら勝手に死になさい。でもね、私以外の理由で簡単にくたばるのは許さない』

「注文が多いな」

『医者だもの。命の扱いはうるさいの』

 

 深い沈黙。雨音だけが間を埋める。

 

『行きなさい。せいぜい派手に暴れてきなさい。……ミンチになったら、私が拾って縫って、もう一回動くようにしてあげる』

「頼むぜ、レイコ」

『任せなさい……ジン』

 

 そこで切れた。

 優しさを、拳で包んで投げてくる。そんなところがレイコらしい。

 

 受話器を戻し、ジンは作業机に向かった。

 そこには、メンテナンス台に乗せられた『パイルバンカー・ナックル』が鎮座している。

 黒光りする鉄の塊。油の匂い。

 

 ジンは革手袋に指を通した。内部に仕込まれた分厚い金属グリップが、待っていたかのように指の付け根に吸い付く。

 そのまま反対の手で、手首の革ベルトを容赦なく限界まで引き絞った。

 ギュッ、と革が鳴り、内蔵された硬質なフレームが尺骨と橈骨(とうこつ)を万力のように挟み込んで固定する。

 発射の反動で手首が逆さにへし折れるのを防ぐための、無骨なロック儀式だ。

 血流が少し阻害されるような窮屈で冷たい感触。だが、その奥に熱を感じる。自分の血が通う感覚。

 指先で、鉄の杭を撫でる。

 そして、確かめる。こいつがまだ俺の味方かどうか。

 

「……さて、仕事の時間だ」

 

 誰に言ったわけでもない。

 ジンはゆっくりと窓際に移動して、窓を少しだけ開けた。

 雨が部屋に入り込んだが、気にせず、深く息を吸った。

 

「……ただいま、最悪の街。俺たちは、まだ死んでねぇ」

 

 最悪の街で、最高に派手な喧嘩が始まろうとしていた。

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