死にたがりの最強物理おじさん、拾った幼女に殺されないよう守られてます   作:一丸壱八

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第3話 路地裏のナンバー708

 雨は相変わらず、特区のアスファルトを黒く磨き続けていた。

 ネオンは水たまりの上で溶け、誰かの吐いた嘘みたいに揺れている。

 

 鏑木ジンは、濡れたトレンチコートの襟を立てたまま、反対側の路地に向かって歩いた。

 仕事終わりの足取りは重い。重いくせに、やけに一定だ。

 死ぬなら派手に、そう思っている男の歩幅じゃない。

 長年の習性というのは、骨の髄まで染みついて取れないらしい。

 

 進んだ先に、ゴミ集積所があった。

 黒いビニール袋の山。家電だった鉄屑。腐った残飯。薬品とカビと、濡れた紙くずの匂い。

 この街は、吐き捨てる場所にだけは正直だ。隠そうともしない。

 

 そこで、異物が一つ、目に留まった。

 黒い袋の隙間に、ボロ布のような白が混じっている。

 布切れじゃない。細い手足だ。雨に濡れて、妙に白い。

 子供だ。

 

(……最悪だ)

 

 ジンは一瞬、視線だけで片づけて通り過ぎようとした。

 拾い物に関わる趣味はない。

 ましてやここは特区だ。捨てられたガキなんて、野良猫よりも多い。

 いちいち拾っていたらキリがないし、死に場所を探している男がガキなんぞ抱えたら、余計な未練が増えるだけだ。

 

 ……と、理屈は言う。

 

 だが、背中のどこかが、小さく痒い。

 ザーザーと降り続く雨音が、ふと、子供の嗚咽のように聞こえた気がした。

 そんなはずはない。

 泣き声なんて、この街じゃ水道の音と同じくらい日常だ。

 いちいち反応していたら耳が壊れる。

 だが、足が止まった。

 

「……チッ」

 

 ジンは大きく舌打ちをして、踵を返した。

 こういう癖だけは、いつまで経っても矯正できない。

 死ねない理由を、無意識に拾い集めてしまう。

 

 ゴミ袋の山の前まで戻り、しゃがみ込む。

 革手袋をしたまま、邪魔な袋を一つ押しのけた。

 そこにいた。

 女の子だ。年は十歳くらいか。だが、栄養失調なのかもっと幼く見える。

 肌は病的なまでに白く、銀色の髪は泥と埃で汚れきっていた。

 身につけているのは、薄汚れた白い実験着が一枚だけ。サイズが合わず、肩が落ちそうになっている。

 胸元には、無機質なフォントでNO.708と印字されていた。

 足は裸足だ。泥にまみれ、無数の擦り傷がある。

 

「……チッ。おい、生きてるか。死んでるなら焼却炉へ行くんだな」

 

 ジンは低い声で問いかけた。

 反応は鈍い。

 だが、ジンの姿を認めた瞬間、その虚ろだった瞳にわずかな光が宿った。

 恐怖ではない。(すが)るような弱さでもない。

 ジンの顔に刻まれた皺、不機嫌そうな口元、そしてその奥にある「躊躇(ためら)い」を、静かに観察するような目だ。

 

(妙なガキだ。野良猫でも、もう少し愛想がある)

 

 ジンはため息をつき、少女の細い体を抱え上げようと手を伸ばした。

 その時だった。

 

「おいおい、おっさん。そいつは俺たちのゴミだぜ?」

 

 下品な笑い声が、雨音を割って降ってきた。

 振り返ると、路地の入り口に三人の男が立っていた。

 安っぽいチンピラ風情だが、揃いのスカジャンを着ている。

 この辺りを縄張りにしているヤクザの下っ端、おそらくは「廃棄処理係」だろう。

 

 真ん中の男が、バタフライナイフをチャキチャキと弄びながら近づいてくる。

 

「そのガキはな、企業様からの『廃棄依頼』なんだよ。失敗作なんだとよ。勝手に持ち帰られちゃ困るんだなァ」

「……廃棄だと?」

「ああ。だからそこで、野良犬の餌になるのを待ってるってわけだ」

 

 男はニタニタと笑いながら、ナイフの切っ先を少女に向けた。

 ジンは腕の中にいる少女を見た。

 少女は身じろぎもせず、ただジンの胸に顔を埋めている。心臓の音を聞いているかのように。

 失敗作。ゴミ。餌。

 くだらない言葉だ。

 

「……拾ったもんにケチつけられるのは嫌いでな」

 

 ジンは少女を抱えたまま立ち上がった。

 左腕一本で体を支え、右手はポケット。

 少女の体は驚くほど軽かった。中身のない鳥の骨みたいだ。

 

「あぁ? 何だとコラ。……おい、痛い目見ねぇうちに置いてけ。ついでに指の一本くらいなら置いてってもいいぜ?」

 

 男たちが包囲するように広がった。

 右の男が鉄パイプを掌に打ち付け、左の男がメリケンサックを嵌める。

 

(子供の前だ。長引かせるつもりはない)

 

 説教も、脅しも、いらない。

 ジンは一歩だけ前に出た。ナイフ男はそれを「距離を詰められた」と理解していない。

 理解できる頭なら、こんな商売はしていない。

 

「待てよ兄ちゃん。話を――」

 

 男が言葉を続けようとした、その途中で。

 ジンはもう、間合いの中にいた。

 左足が水たまりを踏む。音を立てない角度で。右肩がわずかに沈む。

 拳は顔には行かない。顔を殴ると血が飛ぶ。飛んだ血は落ちない。落ちたとしても、ガキの実験着に染みる。

 狙うのは鳩尾(みぞおち)。肋骨の隙間。息の入口。人間が「生きてます」と自己主張する、弱い場所。

 

 ――ドゴッ。

 

 鈍く重い音が響いた。

 男の目が驚愕に見開かれた瞬間、ジンの右肘が鳩尾に深々と突き刺さっていた。

 肺の中の空気が強制的に吐き出され、男は声を上げる暇もなく、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。

 

「なッ……テメェ!」

 

 残りの二人が反応する。右から鉄パイプが振り下ろされる。

 ジンは少女を抱えたまま、最小限の動きでそれを(かわ)した。

 鉄パイプが空を切り、コンクリートの壁を叩いて火花を散らす。

 その隙だらけの脇腹へ、ジンの革靴がめり込んだ。

 

 バキッ。

 

 骨の折れる嫌な感触と共に、男がゴミ袋の山へと吹き飛ぶ。

 

「う、うわぁぁぁ!」

 

 最後の男が、恐怖に駆られてメリケンサックを振り回しながら突っ込んでくる。

 大振りすぎる。

 ジンは冷ややかな目でそれを見切り、男の手首を掴んだ。万力のような握力。

 

「……騒ぐな。ガキが起きる」

 

 ジンは短く告げると、そのまま手首を極めて投げ飛ばした。

 男は宙を一回転し、水たまりに顔から突っ込んだ。

 泥水が跳ねる。

 だが、ジンのコートにも、腕の中の少女にも、泥一滴、血一滴すら付いていない。

 

 完璧な制圧。それは暴力というより、精密な「掃除」だった。

 ジンは気絶した男たちを一瞥もしない。

 

 ふと、胸元で気配がした。

 抱えていた少女が、顔を上げてジンを見上げている。

 その瞳は、やはり怯えていなかった。

 ただ、ジンの胸の奥で響く心臓の音――圧倒的な暴力の裏にある、奇妙なほど静かなリズム――を、不思議そうに確認しているようだった。

 

「……行くぞ」

 

 ジンは短く言い、少女を抱え直して歩き出した。

 

 路地裏を抜け、鉄牛のドアを開ける。

 車内はタバコと火薬と、古い革の匂いが混ざっていた。

 生きてる男の匂いだ。褒め言葉じゃない。

 

 ジンは助手席に少女を放り込み、自分も運転席に乗り込んだ。

 少女はシートの隅で小さくなり、薄汚れたテディベアを抱きしめている。

 服も、肌も、テディベアも、すべてが泥と雨で濡れている。

 

 エンジンが一度、咳をした。

 ジンがキーをひねり直すと、鉄牛はようやく吠えた。

 走り出す。ワイパーが、雨を左右に叩き落とす。

 

 ジンは横目で少女を見て、舌打ちする代わりにダッシュボードに手を伸ばした。

 

「吐くなら窓の外にしろよ。シートは高いんだ」

 

 脅すような口調で言いながら、指先は暖房のツマミを最大に回していた。

 ゴーッという音と共に、吹き出し口から温風が溢れ出す。

 ガキの唇が紫なら、面倒が増える。だから温める。理由はそれだけだ。

 温風が車内を満たしていく。

 

 少女はテディベアに顔を埋め、小さく深呼吸をした。

 実験室の薬品の匂いでも、路地裏の腐臭でもない。乱暴で、不器用な、熱の匂い。

 少女の強張っていた肩の力が、少しだけ抜けたように見えた。

 

 信号待ち。赤。

 ジンは『赤烏(レッド・クロウ)』の透明フィルムを剥いだ。タバコを咥え、ライターを鳴らそうとして、やめた。

 車内で吸うと匂いが残る。残る匂いのせいで売る時に値が下がる。

 売る予定なんてないのに、そういう計算だけは染みついている。

 

(明日の朝には、どこかに押し付ける)

 

 孤児院でも、教会でも、裏の医者でもいい。俺の生活に、子供は必要ない。

 必要ないはずだ。

 バックミラーの中で、少女がテディベアの耳を指で(いじ)った。

 雨音とエンジン音の間で、車内の沈黙がやけに重かった。

 ジンは前を見たまま、低く呟いた。

 

「……拾っただけだ。勘違いすんなよ」

 

 言って、何に向けた言葉か分からなくなる。

 自分にか。隣の番号にか。あるいは、このクソみたいな街にか。

 

 鉄牛はネオンの海を裂いて走る。

 助手席で、ナンバー708が静かに呼吸している。

 ジンの知らないところで、関係性だけが、もう確定し始めていた。

 

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