死にたがりの最強物理おじさん、拾った幼女に殺されないよう守られてます 作:一丸壱八
雨は相変わらず、特区のアスファルトを黒く磨き続けていた。
ネオンは水たまりの上で溶け、誰かの吐いた嘘みたいに揺れている。
鏑木ジンは、濡れたトレンチコートの襟を立てたまま、反対側の路地に向かって歩いた。
仕事終わりの足取りは重い。重いくせに、やけに一定だ。
死ぬなら派手に、そう思っている男の歩幅じゃない。
長年の習性というのは、骨の髄まで染みついて取れないらしい。
進んだ先に、ゴミ集積所があった。
黒いビニール袋の山。家電だった鉄屑。腐った残飯。薬品とカビと、濡れた紙くずの匂い。
この街は、吐き捨てる場所にだけは正直だ。隠そうともしない。
そこで、異物が一つ、目に留まった。
黒い袋の隙間に、ボロ布のような白が混じっている。
布切れじゃない。細い手足だ。雨に濡れて、妙に白い。
子供だ。
(……最悪だ)
ジンは一瞬、視線だけで片づけて通り過ぎようとした。
拾い物に関わる趣味はない。
ましてやここは特区だ。捨てられたガキなんて、野良猫よりも多い。
いちいち拾っていたらキリがないし、死に場所を探している男がガキなんぞ抱えたら、余計な未練が増えるだけだ。
……と、理屈は言う。
だが、背中のどこかが、小さく痒い。
ザーザーと降り続く雨音が、ふと、子供の嗚咽のように聞こえた気がした。
そんなはずはない。
泣き声なんて、この街じゃ水道の音と同じくらい日常だ。
いちいち反応していたら耳が壊れる。
だが、足が止まった。
「……チッ」
ジンは大きく舌打ちをして、踵を返した。
こういう癖だけは、いつまで経っても矯正できない。
死ねない理由を、無意識に拾い集めてしまう。
ゴミ袋の山の前まで戻り、しゃがみ込む。
革手袋をしたまま、邪魔な袋を一つ押しのけた。
そこにいた。
女の子だ。年は十歳くらいか。だが、栄養失調なのかもっと幼く見える。
肌は病的なまでに白く、銀色の髪は泥と埃で汚れきっていた。
身につけているのは、薄汚れた白い実験着が一枚だけ。サイズが合わず、肩が落ちそうになっている。
胸元には、無機質なフォントでNO.708と印字されていた。
足は裸足だ。泥にまみれ、無数の擦り傷がある。
「……チッ。おい、生きてるか。死んでるなら焼却炉へ行くんだな」
ジンは低い声で問いかけた。
反応は鈍い。
だが、ジンの姿を認めた瞬間、その虚ろだった瞳にわずかな光が宿った。
恐怖ではない。
ジンの顔に刻まれた皺、不機嫌そうな口元、そしてその奥にある「
(妙なガキだ。野良猫でも、もう少し愛想がある)
ジンはため息をつき、少女の細い体を抱え上げようと手を伸ばした。
その時だった。
「おいおい、おっさん。そいつは俺たちのゴミだぜ?」
下品な笑い声が、雨音を割って降ってきた。
振り返ると、路地の入り口に三人の男が立っていた。
安っぽいチンピラ風情だが、揃いのスカジャンを着ている。
この辺りを縄張りにしているヤクザの下っ端、おそらくは「廃棄処理係」だろう。
真ん中の男が、バタフライナイフをチャキチャキと弄びながら近づいてくる。
「そのガキはな、企業様からの『廃棄依頼』なんだよ。失敗作なんだとよ。勝手に持ち帰られちゃ困るんだなァ」
「……廃棄だと?」
「ああ。だからそこで、野良犬の餌になるのを待ってるってわけだ」
男はニタニタと笑いながら、ナイフの切っ先を少女に向けた。
ジンは腕の中にいる少女を見た。
少女は身じろぎもせず、ただジンの胸に顔を埋めている。心臓の音を聞いているかのように。
失敗作。ゴミ。餌。
くだらない言葉だ。
「……拾ったもんにケチつけられるのは嫌いでな」
ジンは少女を抱えたまま立ち上がった。
左腕一本で体を支え、右手はポケット。
少女の体は驚くほど軽かった。中身のない鳥の骨みたいだ。
「あぁ? 何だとコラ。……おい、痛い目見ねぇうちに置いてけ。ついでに指の一本くらいなら置いてってもいいぜ?」
男たちが包囲するように広がった。
右の男が鉄パイプを掌に打ち付け、左の男がメリケンサックを嵌める。
(子供の前だ。長引かせるつもりはない)
説教も、脅しも、いらない。
ジンは一歩だけ前に出た。ナイフ男はそれを「距離を詰められた」と理解していない。
理解できる頭なら、こんな商売はしていない。
「待てよ兄ちゃん。話を――」
男が言葉を続けようとした、その途中で。
ジンはもう、間合いの中にいた。
左足が水たまりを踏む。音を立てない角度で。右肩がわずかに沈む。
拳は顔には行かない。顔を殴ると血が飛ぶ。飛んだ血は落ちない。落ちたとしても、ガキの実験着に染みる。
狙うのは
――ドゴッ。
鈍く重い音が響いた。
男の目が驚愕に見開かれた瞬間、ジンの右肘が鳩尾に深々と突き刺さっていた。
肺の中の空気が強制的に吐き出され、男は声を上げる暇もなく、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
「なッ……テメェ!」
残りの二人が反応する。右から鉄パイプが振り下ろされる。
ジンは少女を抱えたまま、最小限の動きでそれを
鉄パイプが空を切り、コンクリートの壁を叩いて火花を散らす。
その隙だらけの脇腹へ、ジンの革靴がめり込んだ。
バキッ。
骨の折れる嫌な感触と共に、男がゴミ袋の山へと吹き飛ぶ。
「う、うわぁぁぁ!」
最後の男が、恐怖に駆られてメリケンサックを振り回しながら突っ込んでくる。
大振りすぎる。
ジンは冷ややかな目でそれを見切り、男の手首を掴んだ。万力のような握力。
「……騒ぐな。ガキが起きる」
ジンは短く告げると、そのまま手首を極めて投げ飛ばした。
男は宙を一回転し、水たまりに顔から突っ込んだ。
泥水が跳ねる。
だが、ジンのコートにも、腕の中の少女にも、泥一滴、血一滴すら付いていない。
完璧な制圧。それは暴力というより、精密な「掃除」だった。
ジンは気絶した男たちを一瞥もしない。
ふと、胸元で気配がした。
抱えていた少女が、顔を上げてジンを見上げている。
その瞳は、やはり怯えていなかった。
ただ、ジンの胸の奥で響く心臓の音――圧倒的な暴力の裏にある、奇妙なほど静かなリズム――を、不思議そうに確認しているようだった。
「……行くぞ」
ジンは短く言い、少女を抱え直して歩き出した。
路地裏を抜け、鉄牛のドアを開ける。
車内はタバコと火薬と、古い革の匂いが混ざっていた。
生きてる男の匂いだ。褒め言葉じゃない。
ジンは助手席に少女を放り込み、自分も運転席に乗り込んだ。
少女はシートの隅で小さくなり、薄汚れたテディベアを抱きしめている。
服も、肌も、テディベアも、すべてが泥と雨で濡れている。
エンジンが一度、咳をした。
ジンがキーをひねり直すと、鉄牛はようやく吠えた。
走り出す。ワイパーが、雨を左右に叩き落とす。
ジンは横目で少女を見て、舌打ちする代わりにダッシュボードに手を伸ばした。
「吐くなら窓の外にしろよ。シートは高いんだ」
脅すような口調で言いながら、指先は暖房のツマミを最大に回していた。
ゴーッという音と共に、吹き出し口から温風が溢れ出す。
ガキの唇が紫なら、面倒が増える。だから温める。理由はそれだけだ。
温風が車内を満たしていく。
少女はテディベアに顔を埋め、小さく深呼吸をした。
実験室の薬品の匂いでも、路地裏の腐臭でもない。乱暴で、不器用な、熱の匂い。
少女の強張っていた肩の力が、少しだけ抜けたように見えた。
信号待ち。赤。
ジンは『
車内で吸うと匂いが残る。残る匂いのせいで売る時に値が下がる。
売る予定なんてないのに、そういう計算だけは染みついている。
(明日の朝には、どこかに押し付ける)
孤児院でも、教会でも、裏の医者でもいい。俺の生活に、子供は必要ない。
必要ないはずだ。
バックミラーの中で、少女がテディベアの耳を指で
雨音とエンジン音の間で、車内の沈黙がやけに重かった。
ジンは前を見たまま、低く呟いた。
「……拾っただけだ。勘違いすんなよ」
言って、何に向けた言葉か分からなくなる。
自分にか。隣の番号にか。あるいは、このクソみたいな街にか。
鉄牛はネオンの海を裂いて走る。
助手席で、ナンバー708が静かに呼吸している。
ジンの知らないところで、関係性だけが、もう確定し始めていた。