死にたがりの最強物理おじさん、拾った幼女に殺されないよう守られてます   作:一丸壱八

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第4話 名前はノアでいい

 鉄牛(アイアン・バッファロー)が唸りを上げて停車したのは、旧市街にある雑居ビルの前だった。

 一階は潰れた質屋。二階には怪しげな占いの館が入っている。

 三階建てで、エレベーターは五年前に死んでいる。

 壁は薄く、隙間風が入るが、少なくとも特区の雨はしのげる。

 

 鏑木ジンは助手席から小さな体を抱き上げ、薄汚れたテディベアごと肩に担いだ。

 軽い。軽すぎる。

 骨と番号だけを詰めた荷物みたいだ。

 

 階段を上がり、鍵を回す。

 開いたのは、生活感のない「箱」だった。

 テーブル、ソファ、冷蔵庫。壁には予備の弾薬と、やたら頑丈そうなロープ。そして黒電話だけが鎮座している。

 寝る場所と、死ぬ場所と、仕事場を無理矢理同居させた部屋だ。

 

「……降りろ。いや、そこへ座れ」

 

 ジンは少女をソファへ下ろした。

 乱暴にはしない。

 放り投げれば反動で泥が飛ぶ。泥は掃除が面倒だ。理由はそれだけだ。

 

 少女は座ったまま、無言で室内を見回した。

 視線が速い。

 部屋の四隅、窓の鍵、クローゼットの下、そしてジンの腰にあるナイフ。

 逃げ道と危険物を数える目だ。実験動物特有の、染み付いた習性。

 

(野良猫だな。……野良猫にしては、目が良すぎるが)

 

 ジンはクローゼットから取り出したバスタオルを投げつけた。

 

「洗え。シャワーだ。床を濡らすなよ。滑ったら俺が笑う」

 

 少女はタオルを受け取り、テディベアを小脇に抱え直した。

 その耳を指でいじる。

 まだ緊張しているらしい。

 

 少女がバスルームへ消えると、ジンは作業机に向かい、濡れた革手袋を外した。

 ここからが、男の聖域(ルーティン)だ。

 拳から『パイルバンカー・ユニット』を取り外し、分解する。

 オイルと硝煙の匂いが、部屋の湿気と混ざり合う。

 ジンにとっては、泥水コーヒーよりも落ち着く匂いだ。

 ウエスで部品を拭き、撃針の状態を確認する。

 先ほどの戦闘で酷使したが、歪みはない。

 カチャリ、カチャリ。

 金属部品が組み合わさる冷たい音が、静かな部屋に響く。

 人を殺す道具を磨いている時だけは、余計なことを考えずに済む。

 死にたがりの思考も、この精緻な機構の前では沈黙する。

 

 メンテナンスが終わる頃、シャワーの音が止んだ。

 ジンは棚から古着の黒いTシャツを引っ張り出し、バスルームのドアの隙間から放り込んだ。

 

「ほらよ。俺の古着で十分だろ。……長い? 余った袖で鼻水でも拭いとけ」

 

 しばらくして、少女が出てきた。

 XLサイズのTシャツは、少女が着るとまるでテントのようだった。

 裾は膝下まであり、袖からは指先すら出ていない。

 足は相変わらず裸足で、冷えた指先が床に触れている。

 脱ぎ捨てられた白い実験着が、濡れた雑巾のように床に落ちていた。

 ジンは舌打ちした。

 

「チッ、面倒くせぇな。……おい、こっちに来い。この後コンビニ行くぞ。何か履かせねぇと、俺が変質者扱いされる」

 

 少女はテディベアを抱きしめ、黙ってついてくる。

 命令に従う癖があるのか、それとも置いていかれるのが嫌なのか。

 

 その前に、餌付けだ。

 ジンは冷蔵庫から取り出した栄養ゼリーとパンをテーブルに投げた。包装が乾いた音を立てて転がる。

 

「食え。俺のフルコースだ。感謝しろ」

 

 少女はパンを手に取り、一瞬だけ匂いを嗅いでから、小さく齧った。

 野良猫みたいに警戒心が強いが、食欲はあるらしい。

 ジンはそれを見届けたあと缶ビールを取り出し、プルタブを開けた。

 プシュッ、という音が部屋に響く。

 

 少女がパンを食べ終わり、じっとこちらを見ている。

 その瞳は、何かを訴えかけているようで、何も求めていないようにも見える。

 

「……何だ。まだ足りねぇのか?」

 

 少女は首を振った。

 そして、床に落ちている濡れた実験着を指さした。正確には、その胸元に印字された番号を。

 NO.708。

 彼女はその数字と、自分を交互に指さし、首を傾げた。

 呼んでほしいのか? 番号で?

 ジンは眉をひそめた。

 

「番号で呼ぶのは好きじゃねぇ。家畜じゃあるまいし」

 

 企業(あいつら)は人間を数字で管理したがる。効率的だからだ。

 だが俺の趣味じゃない。

 ジンは床のボロ布に書かれた数字を睨み、頭の中で適当に転がした。

 7、0、8。なな、まる、はち。

 

「……7()0()8()……ナオヤ? これじゃ男みたいな名前だな」

 

 少女が無表情のまま、瞬きをする。

 くだらなさに、口の端が少しだけ上がる。

 笑いというより、乾いた痙攣だ。

 

「ケツの『ヤ』はナシだ。『ナオ』……『ノア』。……ノアか。いいんじゃねぇか?」

 

 適当な思いつきだ。

 だが、708という冷たい記号よりは、幾分マシな響きがする。

 

「今日からお前はノアだ。文句あるか?」

 

 少女の――ノアの瞳が、わずかに見開かれた。

 検体番号ではなく、名前を与えられた瞬間。

 彼女はテディベアの手を自分の指でそっと動かし、ぎこちなく振らせた。

 ジンの方へ。

 まるで「了解」とでも言うように。

 

「……なんだそれ。芸でも仕込まれてんのか」

 

 深夜のコンビニは、特区の中で一番まともな光を出している。

 蛍光灯が雨粒を白く光らせ、店員は死んだ目でレジに立っていた。

 

 ジンは衣料棚から黒いレギンスと厚底の運動靴を引っ張り出し、カゴに放り込んだ。

 

「黒《ドブ色》にしとけ。泥も、血も、クソも目立たねぇ。この街の正装だ」

 

 少女は、ジンが選んだ黒い布切れを、じっと見つめている。

 ジンがサイズを確認し、眉をひそめた。

 

「……少しデカいか。まあいい、どうせ成長するだろ。きついのは血が止まるから駄目だ」

 

 その場でしゃがみ込み、靴を履かせてやる。

 靴紐を結ぶ時だけ、ジンの手は妙に雑にならない。

 硬い指で、結び目を二重にした。

 

「靴はこれだ。一番頑丈で、底が厚いヤツ。……逃げ足だけは速くしとけよ。俺が手を離したら、振り返らずに走れ」

 

 少女は一瞬だけテディベアの目を自分の手で塞いだ。

 見ちゃダメ、とでも言う仕草。

 それが、自分に向けられた不器用な優しさへの照れ隠しなのか、それとも「逃げるつもりはない」という意思表示なのか。

 ジンには判断できない。判断する気もない。

 

 夜が更ける。

 ジンはソファに転がり、タバコを一本だけ吸った。

 一本で止めるのは、ただの節約だ。節約は長生きに繋がる。長生きは趣味じゃないが、財布には正直でいたい。

 背中を向けると、意識が落ちた。

 ベッドはあるが、熟睡するのが怖くてソファで寝るのが癖になっている。

 

 次の瞬間、ジンの世界は暗い井戸になった。

 いつもの夢だ。

 湿った壁。底のない落下。血と鉄の匂い。

 かつて守れなかった誰かの手。自分の無力さ。恐怖で引き金を引けなかった指。

 誰か、終わらせてくれ。

 もう楽になりたい。死にたい。でも、怖い。

 死にたい。死にたい。死にたい。

 無言の悲鳴が、脳内を反響する。

 空っぽの心が、内側からバリバリと音を立ててひび割れていく。

 

(どうせ死ぬなら派手にやれ。だが、怖がって死ぬな。……誰か、俺を壊してくれ)

 

 指先に触れられて、目が開いた。

 ガバッと跳ね起きる。

 冷たい汗が背中を伝っていた。

 

 目の前に、ノアがいた。

 至近距離。

 黒Tシャツの袖が手を隠している。

 テディベアを胸に強く抱きしめ、顔を埋めている。

 その頬を、大粒の涙が伝っていた。

 

 ジンは眉をひそめた。

 理解したつもりで、すぐに結論を出す。

 子供はそういうものだ、と。

 

「……なんだ。怖い夢でも見たか?」

 

 ジンは乱れた呼吸を整えながら、ぶっきらぼうに言った。

 ノアは答えない。涙だけが落ちる。

 床に落ちる前に、テディベアの汚れた毛が受け止めた。

 

「子供はこれだから面倒だ」

 

 ジンは不器用に、ノアの頭をポンと叩いた。

 慰め方なんて知らない。知る気もない。

 それでも手が動いたのは、たぶん癖だ。悪い癖だ。

 

「寝ろ。ここは……まあ、外よりはマシだ」

 

 ジンは背を向け、そのまま二度寝を決めた。

 どうせ明日の朝には出ていくガキだ。構う必要はない。

 眠りに落ちる直前、背中のシャツの裾を、小さな手がギュッと握りしめた感触があった。

 ジンは気にしない。気にしたら負けだ。

 勝ち負けで生きてきた男は、こういう時も同じだ。

 

 だから、気づかない。

 ノアが泣いていた本当の理由を。

 

 翌朝。

 ジンが目を開けると、ノアが至近距離でじっと見ていた。

 昨日までの虚ろな目じゃない。

 何か強い意志を秘めた目だ。

 少しだけ、生きる気力が湧いたような顔をしている。

 言葉には出さない。

 テディベアの首を、指が白くなるほど強く握りしめているだけだ。

 

「……なんだその目は」

 

 ジンは欠伸(あくび)を噛み殺し、立ち上がった。

 

「腹が減ったなら冷蔵庫を見ろ。空っぽでも、見るだけはタダだ」

 

 ノアは何も言わず、テディベアを小脇に抱えたまま立つ。

 そして、ただ静かにジンの背中についてくる。

 

(面倒が、居座ったな)

 

 ジンはタバコに手を伸ばし、やめた。

 代わりにコートを掴む。どうせ今日も、地獄の呼び鈴は鳴る。

 

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