死にたがりの最強物理おじさん、拾った幼女に殺されないよう守られてます 作:一丸壱八
一階は潰れた質屋。二階には怪しげな占いの館が入っている。
三階建てで、エレベーターは五年前に死んでいる。
壁は薄く、隙間風が入るが、少なくとも特区の雨はしのげる。
鏑木ジンは助手席から小さな体を抱き上げ、薄汚れたテディベアごと肩に担いだ。
軽い。軽すぎる。
骨と番号だけを詰めた荷物みたいだ。
階段を上がり、鍵を回す。
開いたのは、生活感のない「箱」だった。
テーブル、ソファ、冷蔵庫。壁には予備の弾薬と、やたら頑丈そうなロープ。そして黒電話だけが鎮座している。
寝る場所と、死ぬ場所と、仕事場を無理矢理同居させた部屋だ。
「……降りろ。いや、そこへ座れ」
ジンは少女をソファへ下ろした。
乱暴にはしない。
放り投げれば反動で泥が飛ぶ。泥は掃除が面倒だ。理由はそれだけだ。
少女は座ったまま、無言で室内を見回した。
視線が速い。
部屋の四隅、窓の鍵、クローゼットの下、そしてジンの腰にあるナイフ。
逃げ道と危険物を数える目だ。実験動物特有の、染み付いた習性。
(野良猫だな。……野良猫にしては、目が良すぎるが)
ジンはクローゼットから取り出したバスタオルを投げつけた。
「洗え。シャワーだ。床を濡らすなよ。滑ったら俺が笑う」
少女はタオルを受け取り、テディベアを小脇に抱え直した。
その耳を指でいじる。
まだ緊張しているらしい。
少女がバスルームへ消えると、ジンは作業机に向かい、濡れた革手袋を外した。
ここからが、男の
拳から『パイルバンカー・ユニット』を取り外し、分解する。
オイルと硝煙の匂いが、部屋の湿気と混ざり合う。
ジンにとっては、泥水コーヒーよりも落ち着く匂いだ。
ウエスで部品を拭き、撃針の状態を確認する。
先ほどの戦闘で酷使したが、歪みはない。
カチャリ、カチャリ。
金属部品が組み合わさる冷たい音が、静かな部屋に響く。
人を殺す道具を磨いている時だけは、余計なことを考えずに済む。
死にたがりの思考も、この精緻な機構の前では沈黙する。
メンテナンスが終わる頃、シャワーの音が止んだ。
ジンは棚から古着の黒いTシャツを引っ張り出し、バスルームのドアの隙間から放り込んだ。
「ほらよ。俺の古着で十分だろ。……長い? 余った袖で鼻水でも拭いとけ」
しばらくして、少女が出てきた。
XLサイズのTシャツは、少女が着るとまるでテントのようだった。
裾は膝下まであり、袖からは指先すら出ていない。
足は相変わらず裸足で、冷えた指先が床に触れている。
脱ぎ捨てられた白い実験着が、濡れた雑巾のように床に落ちていた。
ジンは舌打ちした。
「チッ、面倒くせぇな。……おい、こっちに来い。この後コンビニ行くぞ。何か履かせねぇと、俺が変質者扱いされる」
少女はテディベアを抱きしめ、黙ってついてくる。
命令に従う癖があるのか、それとも置いていかれるのが嫌なのか。
その前に、餌付けだ。
ジンは冷蔵庫から取り出した栄養ゼリーとパンをテーブルに投げた。包装が乾いた音を立てて転がる。
「食え。俺のフルコースだ。感謝しろ」
少女はパンを手に取り、一瞬だけ匂いを嗅いでから、小さく齧った。
野良猫みたいに警戒心が強いが、食欲はあるらしい。
ジンはそれを見届けたあと缶ビールを取り出し、プルタブを開けた。
プシュッ、という音が部屋に響く。
少女がパンを食べ終わり、じっとこちらを見ている。
その瞳は、何かを訴えかけているようで、何も求めていないようにも見える。
「……何だ。まだ足りねぇのか?」
少女は首を振った。
そして、床に落ちている濡れた実験着を指さした。正確には、その胸元に印字された番号を。
NO.708。
彼女はその数字と、自分を交互に指さし、首を傾げた。
呼んでほしいのか? 番号で?
ジンは眉をひそめた。
「番号で呼ぶのは好きじゃねぇ。家畜じゃあるまいし」
だが俺の趣味じゃない。
ジンは床のボロ布に書かれた数字を睨み、頭の中で適当に転がした。
7、0、8。なな、まる、はち。
「……
少女が無表情のまま、瞬きをする。
くだらなさに、口の端が少しだけ上がる。
笑いというより、乾いた痙攣だ。
「ケツの『ヤ』はナシだ。『ナオ』……『ノア』。……ノアか。いいんじゃねぇか?」
適当な思いつきだ。
だが、708という冷たい記号よりは、幾分マシな響きがする。
「今日からお前はノアだ。文句あるか?」
少女の――ノアの瞳が、わずかに見開かれた。
検体番号ではなく、名前を与えられた瞬間。
彼女はテディベアの手を自分の指でそっと動かし、ぎこちなく振らせた。
ジンの方へ。
まるで「了解」とでも言うように。
「……なんだそれ。芸でも仕込まれてんのか」
深夜のコンビニは、特区の中で一番まともな光を出している。
蛍光灯が雨粒を白く光らせ、店員は死んだ目でレジに立っていた。
ジンは衣料棚から黒いレギンスと厚底の運動靴を引っ張り出し、カゴに放り込んだ。
「黒《ドブ色》にしとけ。泥も、血も、クソも目立たねぇ。この街の正装だ」
少女は、ジンが選んだ黒い布切れを、じっと見つめている。
ジンがサイズを確認し、眉をひそめた。
「……少しデカいか。まあいい、どうせ成長するだろ。きついのは血が止まるから駄目だ」
その場でしゃがみ込み、靴を履かせてやる。
靴紐を結ぶ時だけ、ジンの手は妙に雑にならない。
硬い指で、結び目を二重にした。
「靴はこれだ。一番頑丈で、底が厚いヤツ。……逃げ足だけは速くしとけよ。俺が手を離したら、振り返らずに走れ」
少女は一瞬だけテディベアの目を自分の手で塞いだ。
見ちゃダメ、とでも言う仕草。
それが、自分に向けられた不器用な優しさへの照れ隠しなのか、それとも「逃げるつもりはない」という意思表示なのか。
ジンには判断できない。判断する気もない。
夜が更ける。
ジンはソファに転がり、タバコを一本だけ吸った。
一本で止めるのは、ただの節約だ。節約は長生きに繋がる。長生きは趣味じゃないが、財布には正直でいたい。
背中を向けると、意識が落ちた。
ベッドはあるが、熟睡するのが怖くてソファで寝るのが癖になっている。
次の瞬間、ジンの世界は暗い井戸になった。
いつもの夢だ。
湿った壁。底のない落下。血と鉄の匂い。
かつて守れなかった誰かの手。自分の無力さ。恐怖で引き金を引けなかった指。
誰か、終わらせてくれ。
もう楽になりたい。死にたい。でも、怖い。
死にたい。死にたい。死にたい。
無言の悲鳴が、脳内を反響する。
空っぽの心が、内側からバリバリと音を立ててひび割れていく。
(どうせ死ぬなら派手にやれ。だが、怖がって死ぬな。……誰か、俺を壊してくれ)
指先に触れられて、目が開いた。
ガバッと跳ね起きる。
冷たい汗が背中を伝っていた。
目の前に、ノアがいた。
至近距離。
黒Tシャツの袖が手を隠している。
テディベアを胸に強く抱きしめ、顔を埋めている。
その頬を、大粒の涙が伝っていた。
ジンは眉をひそめた。
理解したつもりで、すぐに結論を出す。
子供はそういうものだ、と。
「……なんだ。怖い夢でも見たか?」
ジンは乱れた呼吸を整えながら、ぶっきらぼうに言った。
ノアは答えない。涙だけが落ちる。
床に落ちる前に、テディベアの汚れた毛が受け止めた。
「子供はこれだから面倒だ」
ジンは不器用に、ノアの頭をポンと叩いた。
慰め方なんて知らない。知る気もない。
それでも手が動いたのは、たぶん癖だ。悪い癖だ。
「寝ろ。ここは……まあ、外よりはマシだ」
ジンは背を向け、そのまま二度寝を決めた。
どうせ明日の朝には出ていくガキだ。構う必要はない。
眠りに落ちる直前、背中のシャツの裾を、小さな手がギュッと握りしめた感触があった。
ジンは気にしない。気にしたら負けだ。
勝ち負けで生きてきた男は、こういう時も同じだ。
だから、気づかない。
ノアが泣いていた本当の理由を。
翌朝。
ジンが目を開けると、ノアが至近距離でじっと見ていた。
昨日までの虚ろな目じゃない。
何か強い意志を秘めた目だ。
少しだけ、生きる気力が湧いたような顔をしている。
言葉には出さない。
テディベアの首を、指が白くなるほど強く握りしめているだけだ。
「……なんだその目は」
ジンは
「腹が減ったなら冷蔵庫を見ろ。空っぽでも、見るだけはタダだ」
ノアは何も言わず、テディベアを小脇に抱えたまま立つ。
そして、ただ静かにジンの背中についてくる。
(面倒が、居座ったな)
ジンはタバコに手を伸ばし、やめた。
代わりにコートを掴む。どうせ今日も、地獄の呼び鈴は鳴る。