死にたがりの最強物理おじさん、拾った幼女に殺されないよう守られてます 作:一丸壱八
朝の旧市街は、夜よりも性格が悪い。
ネオンが消えた分だけ、街の汚れや傷跡が露骨に見えるからだ。
雨は止んだふりをしているが、鉛色の雲は低く垂れ込め、壁の隙間から湿気がじわじわと滲み出している。
鏑木ジンは、事務所前に停めた愛車『
雑居ビルのドアの影に、小さな影が張り付いている。
昨日コンビニで買った、黒いレインコート。黄色いレインコートが欲しかったが、売っていなかった。
サイズが大きすぎて、てるてる坊主か死神のなりそこないに見える。
フードの下から、ノアがじっとこちらを見上げていた。よく見ると左右の高さが微妙に違う二つ結び。
その胸には、薄汚れたテディベアが押しつぶされるほど強く抱きしめられている。
(……今日は少し危険なヤマだ。ガキは置いていく)
ジンは無言で視線を送ったが、ノアは動かなかった。
テコでも動かない。
その瞳には「絶対に離れない」という、静かだが頑固な光が宿っている。
ジンは舌打ちをした。
「……チッ。勝手にしろ。車から一歩も出るなよ」
どうせ無理に置いていっても、こっそりついてくるか、部屋で餓死するだけだ。
それなら目の届く範囲に置いておいた方が、死体処理の手間が省ける。
ジンはそう結論づけ、運転席に乗り込んだ。
ノアは小さく頷き、テディベアを抱えたまま助手席に滑り込んだ。
鉄牛のエンジンが唸りを上げる。
ワイパーが、フロントガラスに張り付いた雨の残骸をぎこちなく剥がしていく。
向かうのは南。湾岸エリアの倉庫街。
コンテナと倉庫が迷路のように並び、密輸と取引、そして死体の隠蔽に都合のいい場所だ。
どうせ死ぬなら派手にやる。
そう思っている男ほど、こういう日は妙に安全運転になる。
倉庫街に入ると、空気が変わった。
潮風と重油と、濡れた鉄の錆びた匂い。
積み上げられたコンテナの壁が音を反射し、遠くの怒号が二倍に増幅されて響く。
すでに乱戦だった。
依頼は、敵対組織が隠している「ブツ」の破壊。
だが、現場はすでにドンパチの真っ最中だ。
銃声と、魔導師が放つ炸裂音が不協和音を奏でている。
ジンはコンテナの影に車を寄せ、ドアを開ける前に助手席へ視線だけ投げた。
「……言ったぞ。一歩も出るな」
ノアは小さく身じろぎしただけで、テディベアを抱いたまま沈黙した。
その沈黙が、やけに「従順」な感じで腹が立つ。
反抗しろ。泣け。
子供はもっと面倒でいいはずだ。
(面倒なのは、俺か)
ジンはトレンチコートの襟を立て、雨の匂いがする戦場へと踏み出した。
最初の一人を、殴った。
顔じゃない。顔は血が出る。血は飛ぶ。飛んだ血は運悪く白いものに付く。白いもの――例えば、車内にいるガキの顔とかに。だから血はいらない。
ドゴッ。
拳が重い音を立てるたび、相手の体が不自然な形に畳まれていく。
ジンの頭の中では、これは戦闘じゃなくて処理だ。
面倒なゴミを分別して、袋を縛って、回収場所に置く。そういう作業。
「……雑魚ばかりだな」
ジンは足元の泥水を蹴り、次の敵へ向かおうとした。
その時だった。
ズルッ。
踏み込んだ右足が、ありえない滑り方をした。
まるで地面の摩擦が突然消滅したかのように、軸足が大きく流れる。
「……おっと」
体勢が崩れる。
無様だ。元王者が聞いて呆れる。
そう考えた次の瞬間。
パァン、と乾いた音が頭上で弾けた。
何かがコンテナの角を削り、火花が散る。
狙撃弾だ。死角から。
ジンの肩越しを、弾が虚空を切り裂いていった。
ほんの数センチ。ジンの頭蓋骨を貫通するはずだった弾が、なぜか「少しだけ」外れている。
空気が一瞬、変な波を打った。濡れた鉄板の上を、透明な指で撫でたみたいに。
ジンは眉をひそめ、見えもしない弾道を目で追った。
「危ねぇな。下手くそで助かった」
続けて、ぼそりと独り言が漏れる。
「……ん? 今、弾が曲がって見えたな。老眼か? まあいい、避けれたなら運がいい」
運がいい。ジンはそう片づけるのが癖だ。
自分の命に、意味を付けたくないから。
それっきり、狙撃は来なかった。
来るはずの角度からの追撃がない。妙に静かだ。
ジンは「ビビって逃げたか」と結論づけ、また殴り続けた。
拳が仕事を終える頃、倉庫街は一瞬だけ静まり返る。
残っているのは奥の部屋。数が多いと面倒だ。
ジンはドアの前に立つと、ため息を一つ吐いた。
どうせ死ぬなら派手にやる。派手にやるなら、前口上はいらない。
ドアを蹴破った。
バン、と鈍い破裂音。木の破片が飛ぶ。
――そして、ジンは足を止めた。
部屋の中には数人の男たちがいた。武装した魔導師もいる。
だが、全員が床に転がっていた。
泡を吹いている。白目。痙攣。喉の奥で、息が引っかかる音。
倒れた連中の指は、空を掻いている。何かに追われた形のまま固まっている。
壁には爪で引っかいた跡があり、誰かが最後に「逃げ道」を探したのが分かる。
なのに、部屋の空気は妙に澄んでいた。
薬品臭も火薬臭も、いつもより薄い。
ジンは鼻をひくつかせ、天井の配管を見上げる。
「……なんだこれ? ガス漏れか?」
古い倉庫だ。配管が腐って、ガスでも漏れたんだろう。
特区じゃよくある事故だ。
「ついてるな。手間が省けた」
運がいい。
そういうことにしておけば、面倒な説明が不要になる。
ジンは肩をすくめ、目的のブツ――違法な魔導具の入った木箱――に近づき、パイルバンカーの一撃で粉砕した。
任務完了。
敵は自滅した。理由は知らないが、勝手にラリって倒れてくれた。
ジンは一人ずつ脈を確認し、必要な程度にだけ縄をかけた。
死んでるなら楽だが、まだ死んでない。なら生かしておけばいい。生かしておけば、誰かが拾って処分する。
仕事を終え、鉄牛に戻る。
コンテナの影から車が見えた瞬間、助手席の小さな影が微かに動いた。
ノアは窓に額を寄せていた。顔は見えない。
テディベアがクッションみたいに押しつぶされている。
ジンがドアを開けると、ノアはふいっと視線を逸らした。
「終わったぞ。……チッ、待ちくたびれたか?」
ジンはノアを見て、呆れたように言った。
ふと、ジンの目が止まる。
ノアのレインコートの袖口が、少しだけ赤く滲んでいる。
黒い生地の上でも分かる、生々しい赤。鼻の下にも、拭き残したような薄い赤がある。
「……おい。どこかぶつけたか」
ジンの声が少しだけ低くなった。
ノアは答えない。
代わりに、テディベアの目を、手でぎゅっと塞いだ。
(……子供は、怖いもんを見ると目を塞ぐ。そういうもんだ)
ジンは勝手に解釈し、勝手に納得する。
車が揺れた時に、どこかに顔をぶつけたんだろう。
「見なくていい。終わった」
ジンはポケットから汚れたハンカチを取り出し、乱暴にノアの鼻の下を拭いてやった。
ノアはされるがままになっている。
ハンカチについた赤を見て、ジンは眉をひそめたが、それ以上は聞かなかった。
運転席に座り、キーを回す。
鉄牛が再び吠え、倉庫街の湿った空気を踏み潰して走り出す。
バックミラーに、倉庫の壁が小さくなっていく。
ジンはタバコの箱を指で叩き、仕事の後の一本を取り出しかけてやめた。
今日は、やめとく。車に子供が乗ってる。しかも鼻血を出してる。煙たいと文句を言われるのも面倒だ。理由はそれだけだ。
助手席で、ノアが袖を握りしめた。萌え袖みたいに手が隠れる。
その指先が、ほんの少し震えているのが見えた。
ジンは前を見たまま、乾いた声で言う。
「……運が良かったな。今日は」
ノアは返事をしない。
ただ、テディベアの毛並みを、指で一度だけ撫でた。
ジンはそれを「落ち着いた合図」だと思うことにした。
自分が、守られた側かもしれない可能性は、見ないふりをしたまま。