死にたがりの最強物理おじさん、拾った幼女に殺されないよう守られてます 作:一丸壱八
帰りの車内、息を吹き返したラジオからはノイズ混じりの天気予報が流れていた。
明日も雨。明後日も雨。
この街の天気は、住人の機嫌と同じくらい安定して悪い。
鏑木ジンはハンドルを握りながら、チラリと助手席のノアを見た。
倉庫街での「ガス漏れ事故」の後、ノアはずっと窓の外を見ている。
鼻血は止まったようだが、顔色は相変わらず青白い。
腹が減っているのか、それとも車酔いか。子供の体調管理なんて、魔導書の解読より難解だ。
「……おい。止めるぞ」
ジンは舌打ちを噛み殺し、コンビニの看板を見つけてウインカーを出した。
「車から出るなよ。誘拐されても知らんぞ」
釘を刺し、ジンは一人で店に入った。
夜のコンビニは、死んだような蛍光灯の光に満ちていた。
ジンはカゴを掴み、いつもの棚へ向かう。
栄養ゼリーとパン。俺の燃料だ。
ふと、ホットドリンクの棚が目に入った。
コーヒーの隣に、ホットミルクのペットボトルが並んでいる。いかにも甘ったるい、子供騙しのパッケージだ。
ジンはそれを一本手に取り、値段を見た。
「……チッ。水より高いじゃねぇか」
舌打ちしつつ、カゴに入れる。
ついでに、日用雑貨の棚へ向かう。
子供用の下着と、着替えのシャツ。サイズは適当だ。素材も分からない。だが「無いよりマシ」だろう。
レジで会計を済ませ、財布を開く。
中身は寂しい限りだ。小銭と、数枚の紙幣が申し訳程度に入っているだけ。
(……シケてやがる。ガキ一匹養うのも楽じゃねぇな)
これまでは「酒代とタバコ代があればいい」だった。いつ死んでもいい人間に、貯蓄など必要ない。
だが、今は違う。
あいつに食わせる飯代、着る服、もしかしたら病気になった時の薬代。
他人のための出費が、リアルな数字として脳裏をよぎる。
ジンはレシートをクシャクシャに丸め、ポケットに突っ込んだ。
車に戻り、ホットミルクを助手席へ投げる。
「飲め。高いぞ」
ノアは驚いたようにそれを受け取り、温かさに目を丸くした。
キャップを開け、恐る恐る口をつける。湯気と共に、甘いミルクの香りが車内の硝煙臭さを中和していく。
「……熱くないか?」
ノアは首を振り、両手でボトルを包み込むように持った。
一口飲むと、強張っていた表情がふわりと緩んだ。
まるで、凍りついていた心が溶け出すように、口元から白い息が漏れる。
その顔を見て、ジンは「まあ、悪くない金の使い方だ」と自分を納得させた。
エンジンをかける。
日常へ戻る。そう思っていた。
アジトのある旧市街に戻ってきた時だった。
路地裏の影が、少しだけ濃い気がした。
鉄牛を
雨上がりのアスファルト。湿った風。その中に、針のような殺気が混じっている。
またか。今日は厄日だな。
ジンは足を止め、ノアを背後に庇うように立った。
「……懲りない連中だ。出てこい」
影から一人の男が現れる。
手には拳銃。構えは腰が引けている。
どこかのチンピラか、それとも今日の倉庫街の残党か。
男は震える手で銃口をこちらに向けた。
「お、おい! 金を出せ! 出さないと撃つぞ!」
「……強盗か。間が悪いぞ、今は俺も金欠でな」
ジンは肩をすくめた。
やるなら一瞬だ。踏み込んで、手首を折る。それだけだ。
ジンが重心を前に移動させた、その瞬間。
男の指が引き金にかかる。
来る。
バン!
乾いた銃声が路地に響いた。
だが、弾はジンには向かわなかった。
銃口が火を噴いた瞬間、男の手首がありえない方向にねじれたからだ。
「ぎゃあああああああッ!!」
男が絶叫し、その場にうずくまる。
撃ち抜かれたのは、男自身の足の甲だった。
「……は?」
ジンは呆気にとられ、踏み出した足を止めた。
男は地面を転げ回り、痛みに喚いている。
何が起きた? 暴発か? それともパニックになって自分で撃ったのか?
路地の空気が、一瞬だけ妙な波を打った気がした。
見えない膜が、男の手首を撫でたみたいに。
「……なに一人でパニックになってんだ? コントの練習なら他所でやれ」
ジンは呆れて、倒れている男を無視して歩き出した。
素人の自爆。緊張で筋肉が痙攣したんだろう。
そう結論づけるしかなかった。
「運が悪かったな。……いや、運が良かったか。死なずに済んだ」
隣でノアが、テディベアの目をそっと塞いでいた。
ジンはそれを見て、また勝手に納得する。
(見なくていい。子供は血が嫌いだ。それが普通だ)
事務所に戻ると、ジンはすぐに武器の手入れを始めた。
油を差しておかないと、いざという時に杭が戻らなくなる。
分解された金属部品が、机の上に並ぶ。
ノアはソファに座り、コンビニで買った着替えを抱えている。
「……お前も、自分の身くらい自分で守れるようになれよ」
ジンはウエスで部品を拭きながら、独り言のように言った。
「俺はいつまでも、守ってやれねぇ。運が尽きれば、俺も野垂れ死ぬ」
どうせ死ぬなら派手にやる。
そのはずなのに、「守れない」と言う時だけ、喉が妙に固くなる。
ノアは何も言わない。
ただ、黙って立ち上がり、ジンの脱ぎ捨てたトレンチコートを拾い上げた。
ほつれた裏地を見つけ、どこから出したのか、小さなソーイングセットを取り出して縫い始めた。
不器用な手つきだ。針が何度も指に刺さりそうになっているのに、やたら丁寧だ。
「……何やってんだ」
ノアは答えず、黙々と針を動かす。
そして縫い終わると、今度は机の上の予備弾倉を並べ始めた。
一列に、きれいに。口径別に。
「……家政婦のつもりか? まあいい、好きにしろ」
ジンは鼻で笑い、作業に戻った。
集中しないと、夢の井戸が覗いてくる。底のない落下と、守れなかった手と、自分の無力さが。
だが、その夜は、いつもより早く眠りに落ちた。
ホットミルクの匂いが部屋に残っていたせいだ。あんな甘いもんは、睡眠薬と同じだ。
ジンはそう決めた。
*
深夜。
部屋の窓の外、旧市街の暗がりに、赤い点が浮かんだ。小さな光。じっとこちらを見ている。
ドローンだ。低い羽音が、雨上がりの空気を切る。
ソファの上で、ジンは眠っている。
彼の呼吸は浅い。拳だけが、時々、無意識に握られる。
床で毛布にくるまっていたノアが、音もなく立ち上がる。
テディベアを胸に抱き、窓の前へ一歩。二歩。
赤い点が、さらに近づく。
ノアはテディベアの目を、自分の手でそっと塞いだ。
次の瞬間。
ピシッ。
ガラスが鳴いた。窓の隅に、一本の細いヒビが走る。
同時に、外の赤い点がふっと揺れ、まるで糸を切られた操り人形みたいに落下していく。遠くで、鈍い音。金属が潰れる音。
ノアは窓から視線を外し、眠るジンを見た。
ジンは一度だけ寝返りを打ち、また静かな寝息を立て始めた。
*
翌朝。
ジンは
「……ヒビ?」
指で触れる。細い線が、冷たい。
昨夜まではなかったはずだ。
「風が強かったからな。古い窓だ。こういうのは、勝手に割れる」
そう言って、ジンはそれ以上考えない。
考えたら、運の話じゃ済まなくなる。
キッチンへ向かい、やかんで湯を沸かす。
ノアは何も言わない。
ただ、テディベアを抱きしめ、ジンの背中にぴたりとついてくる。