死にたがりの最強物理おじさん、拾った幼女に殺されないよう守られてます   作:一丸壱八

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第7話 診察室のポルターガイスト

 朝の事務所は、いつもより静かだった。

 雨音だけが、割れかけた窓を撫でている。

 ガラスに入ったヒビは、まるでここからこちらが「安全地帯」だと、嘘の線引きをしたみたいだった。

 

 鏑木ジンは、換気扇のスイッチを入れて、愛飲する『赤烏(レッド・クロウ)』に火を点けた。

 紫煙を肺に落とす。

 使い古されたエンジンのような肺が、ひとつ咳き込む。その拍子に、右の脇腹にある古傷が、ズキリと鈍い音を立てた。

 痛みはいつもの合図だ。身体が「まだ壊れてねぇぞ」と嫌がらせをしてくる。

 医者は完治したと言ったが、神経だけは天気予報よりも正直だった。

 湿気ると、錆びたナイフで内側から撫でられるような鈍痛が走る。

 

「……チッ。痛み止めが切れてるな」

 

 買いに行くしかない。

 

 ジンが黒電話の横にある事務所の鍵に手を伸ばそうとしたとき、視線の端で影が動いた。

 ソファの横。ノアが立っている。

 ここ数日、この拾ったガキの懐き方は異常だった。

 風呂場以外、片時も離れようとしない。

 まるで、少し目を離せばジンが勝手にくたばるとでも思っているかのようだ。

 

「留守番だ。……と言いたいところだが」

 

 ジンが言い終える前に、玄関の方で靴の擦れる音がした。

 ノアはもう、玄関で自分の靴を履いて待っていた。

 ジンは溜め息を飲み込んだ。

 こいつは言葉が少ないくせに、主張だけはやたら強い。

 無理に置いていっても、どうせ鍵をこじ開けてついてくる。

 

「……勝手にしろ。ただし、診療所(みせ)の中では静かにしてろよ。あの女はヒステリーだからな」

 

 ノアは小さく頷き、テディベアを抱え直した。

 その顔には、任務に就く兵士のような奇妙な緊張感があった。

 

 『鉄牛(アイアン・バッファロー)』を出すほどの距離でもない。

 ジンは傘も差さず、霧雨の降る迷路のような路地を歩いた。

 背後には、影のようにノアがつく。

 

 旧市街の中心を抜け、少し離れた北の路地。

 看板も出さない、崩れかけた雑居ビルの裏手。

 通称「ボロ屋」。

 特区の住人が、表の病院に行けない怪我——銃創、刺し傷、あるいは呪い——を抱えて駆け込む場所だ。

 

 重い鉄扉を押し開けた瞬間、メンソールの匂いが鼻を刺した。

 白い煙。白い壁。白いカーテン。

 そこにいる女だけが、その白さの中でいちばん汚れて見えた。

 

「まだ生きてたの?」

 

 九条レイコは白衣のまま、受付の椅子に腰掛けていた。

 素肌の上にワイシャツ、白衣。下はタイトスカートで、スリットが深い。

 足を組み替えるたび、白衣の裾が割れて、健康的な太腿の影が覗く。

 整った顔立ちをしているが、目の下には薄いクマがあり、それがかえって退廃的な色気を醸し出している。

 口元のホクロが、悪意の句読点みたいに揺れた。

 

「残念ながらな」

 

 ジンは濡れたトレンチコートを脱ぎ、パイプ椅子の背に掛けた。

 

「薬をくれ。古傷が痛む」

「……あら、何その子。拾ったの?」

 

 レイコの視線が、背後の黒い少女に向けられる。

 

「落ちてた。……おい、さっさと診ろ」

「つれないわね。診察料、倍にするわよ」

「相変わらず金の話が早いな」

「死に損ない相手だもの。取りっぱぐれたら損でしょ」

 

 ジンは奥のパイプ椅子に座り、シャツのボタンを外して脱ぎ捨てた。

 鍛え上げられた上半身が露わになる。

 鋼のような筋肉の上に、無数に刻まれた古い傷跡。

 その中の一つ、右脇腹の赤黒いケロイド状の傷。

 

「ゾクゾクするわね、この傷だらけの背中。見てるだけで、疼いちゃうわ」

 

 レイコが耳元で囁き、聴診器も当てずに、直接その傷に指を這わせた。

 冷たい指先。

 爪が、傷の凹凸をなぞる。

 

「……癒着してるわけじゃなさそうね。神経過敏かしら」

「手際だけはいい。性格は最悪だが」

「口ではそう言っても……皮膚は正直よ? こんなに熱くなってる」

 

 レイコが吐息混じりに笑い、さらに指を胸板の方へと滑らせる。

 ただのセクハラだ。そして、いつものことだ。

 この女は、死の匂いのする男を好む悪趣味な性癖がある。

 レイコの身体が、裸のジンの背中に触れるか触れないかの距離に寄る。

 白衣越しに、柔らかな感触と体温が伝わってくる。

 香水の甘い匂いと、タバコの苦い匂いが混ざり合った、濃密な大人の女の気配。

 

「……おい、近すぎるぞ。酒臭い」

「失礼ね。これは医療用アルコールの匂いよ」

 

 レイコは悪びれもせず、むしろ挑発するように顔を近づけてきた。

 

「黙って手を動かせ。口を動かすと唾が飛ぶ」

 

 ジンが無愛想に返し、払い除けようとする。

 その瞬間だった。

 

 ガタガタガタッ!!

 

 突然、診察室の薬品棚が激しく振動した。

 並んでいた薬瓶同士がぶつかり合い、不協和音を奏でる。

 

「……!?」

 

 レイコの指が止まる。

 同時に、天井の蛍光灯がチカ、チカ、と嫌な明滅を始めた。

 

 バチッ、バチッ。

 

 電圧が不安定になり、部屋の明暗が激しく入れ替わる。

 白い壁に、ジンの影とレイコの影が、まるで痙攣するように伸び縮みする。

 

「な、何よ!? 停電!?」

 

 レイコが天井を見上げる。

 ジンもまた、剥き出しの配管が走る天井を睨んだ。

 

「……ボロ屋め。配線が腐ってるんじゃないか」

 

 まだ現象は収まらない。

 診察台の横にあるステンレスのトレーが、ひとりでにカタカタと震え出し、乗っていたメスやピンセットがダンスを踊るように跳ね始めた。

 

「ちょ、ちょっと! 私の商売道具が!」

 

 レイコが慌ててトレーを押さえようとするが、震えは止まらない。

 

 ガシャーン!

 

 棚の上から、ぶつかり合って砕けたビーカーが滑り落ちた。

 レイコの無防備な頭上へ、ガラスの雨が降り注ごうとする。

 

「危ねぇ」

 

 ジンは反射的にレイコの腕を引いた。

 強引に自分の方へ引き寄せ、空いた手で飛来するガラス片を払い落とす。

 破片がジンの革手袋に当たって弾け、床に散らばった。

 

「きゃっ……!」

 

 レイコがジンの胸元に倒れ込む。

 

「商売道具が大事なのは分かるが、その指の代わりは売ってねぇぞ。欲張りも大概にしとけ」

 

 ジンは短く告げると、すぐにレイコの身体を離した。

 その瞬間、部屋の明滅がさらに激しくなり、まるで誰かが癇癪を起こしたかのように、壁の額縁がガタガタと暴れ出した。

 

(……チッ、揺れが大きくなってやがる。ボロ屋が崩れるか?)

 

 ジンは眉をひそめ、入り口の方へ視線を走らせた。

 そこには、明滅する光の中で立ち尽くす小さな影があった。

 ノアだ。

 落下物が床で砕ける音の中、ノアは一歩も動いていない。

 逃げようともせず、ただじっとこちらを見ている。

 

(怖くて足がすくんだか。……まったく、ガキを連れてくる場所じゃなかったな)

 

 ジンはレイコに背を向け、パイプ椅子の背に掛けてあったトレンチコートを引ったくった。

 揺れる床を踏みしめ、ノアの元へ歩み寄る。

 割れたガラスを踏まないよう、無造作に、しかし確実に瓦礫を蹴り退ける。

 ノアの目の前に立つと、ジンはバサリとコートを広げ、その小さな身体をすっぽりと覆い隠した。

 

「おい、ボサッとするな。頭を下げてろ」

 

 そのまま屈み込み、半裸の背中を天井に向ける。

 丸太のように太い右腕が、コートの上からノアの頭を抱え込むように守った。

 明滅するライトの下、無数の傷跡が刻まれた分厚い背筋が、岩山のように隆起する。

 頭上から小さな破片が落ちてきて、ジンのむき出しの肌を叩く。

 腕から伝わるノアの身体は、驚くほど硬直していた。小刻みに震えているようにも感じる。

 

 ――ピタリ。

 嘘のように揺れが止まった。

 蛍光灯の明滅も収まり、元の白々しい静寂が戻ってくる。

 

「……ん? 収まったか」

 

 ジンは顔を上げ、コートの隙間からノアを覗き込んだ。

 ノアの顔は前を向いていた。

 その瞳は、ジンの体越しに、呆然と立ち尽くすレイコを凝視していた。

 瞬き一つしない、硝子玉のような目だ。

 腕の中では、テディベアが無残な形になっていた。

 ノアの細い指が、ぬいぐるみの首をねじ切らんばかりの力で絞め上げていたからだ。

 そして、ノアは、そのテディベアをゆっくりと裏返し、顔を床に向けさせた。

 

(……相当ビビったな。ぬいぐるみを八つ当たりで絞めるなんざ、よっぽどだ)

 

 ジンは勝手に納得し、ノアの頭から手を離した。

 子供は異常な現象に敏感だ。教育に悪い。さっさとずらかるに限る。

 

「診察は終わりだ。薬をくれ。建物が崩れる前に帰る」

「え、ええ……ちょっと待って、今探すから」

 

 レイコはまだ状況が飲み込めない様子で、散乱した引き出しを漁った。

 取り出した薬瓶をジンに軽く放り投げる。

 シャツを着たジンはそれを片手で受け止め、懐に入れた。

 

「無茶するのもいいけど。古傷は裏切らないわよ」

「裏切るのは人間だけで十分だ」

「それって、私のことも信用してないってこと?」

「お前は信用じゃなくて、利用だ」

「ひどい」

 

 レイコは笑って、胸ポケットのメンソールを取り出した。

 火を点ける。白衣の白に、紫煙が絡みつく。

 その白さが、なぜか眩しい。眩しいものは目に悪い。

 

「代金。現金ね」

「払うさ」

 

 ジンは黙って札を置き、トレンチコートの埃を払った。

 ノアの手を引こうとして、やめる。

 引けば、逃げないことを確認するようで癪だ。

 

「帰るぞ。俺たちのクソ溜めに」

 

 ジンが歩き出すと、ノアは一拍遅れてついてきた。

 扉が閉まると、診療所の空気は完全に沈黙した。

 雨はやんでいた。

 

「……静かになったな。やっぱり地震だったか」

 

 歩きながら、ジンは空を見上げた。

 ノアは何も言わず、テディベアの首元の歪みを直しながら、ジンの背後にぴたりと張り付いていた。

 

 ジンはタバコを取り出して、火を点けた。

 紫煙が絡みつく。

 まだ脇腹は痛むが、薬があれば誤魔化せる。

 誤魔化しながら生きていくのが、この街の流儀だ。

 

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