死にたがりの最強物理おじさん、拾った幼女に殺されないよう守られてます 作:一丸壱八
特区の朝は、夜の延長戦みたいな顔をしてやってくる。
分厚い雲が蓋をした空からは、相変わらず霧雨が落ちていた。
エレベーターが五年前に死んだままの雑居ビルの三階。
鏑木ジンは、作業机で愛用の『パイルバンカー・ナックル』の点検を終えたところだった。
オイルの匂い。冷たい金属の感触。
撃鉄のバネは良好。杭の滑りも問題ない。
革手袋に装着し、指を動かす。ギュッ、と革が鳴く音が、静かな部屋に響いた。
「……よし」
ジンは短く呟き、椅子から立ち上がった。
腰のホルスターにナイフを挿し、ヨレたグレーのトレンチコートを羽織る。
今日の現場は地下だ。
旧地下鉄の廃線跡。ネズミと汚泥と、逃げ込んだ犯罪者どもの巣窟。
スーツが汚れるのは確実だが、クリーニングに出す金はない。
ジンはソファの方へ振り返り、そこにいるはずの「同居人」に声をかけようとした。
「おい、今日は地下だ。汚れるから留守番して――」
言葉は、途中で宙に浮いた。
玄関のドアの前。
すでにそこには、黒いレインコートを着込んだノアが立っていた。
フードを目深に被り、背中には子供用のリュックを背負っている。
足元は厚底の運動靴。靴紐は、ジンが結んでやった時よりもきつく、丁寧に締め直されている。
ノアはジンの視線に気づくと、無言でリュックの側面をポンと叩いた。
チャリ、と金属音がした。
予備のマガジンと、救急キットの音だ。
さらに、反対側のポケットには、コンビニで買った栄養ゼリーがねじ込まれているのが見えた。
(……準備が良すぎるだろ)
ジンが地図を確認している間に、必要な物資を勝手に詰め込んだらしい。
しかも、「置いていく」と言うのを予期して、先手を打って玄関を陣取っている。
「……補給係気取りかよ。勝手にしろ」
ジンが吐き捨てると、ノアはレインコートの袖口から小さな指を出し、汚れたテディベアの手をパタパタと振らせた。
「行ってらっしゃい」ではなく、「行きましょう」の合図だ。
ドアを開け、廊下に出る。
並んで歩くと、ノアの頭は、ジンのコートのポケットの位置にしかなかった。
歩幅も、足音も、ぜんぶ小さい。
なのに、ついてくる気配だけは、妙に確かだ。
背中に張り付く影が、日常に馴染み始めているのが、腹立たしい。
旧地下鉄の出入口は、四番街の崩れたビルの裏手にあった。
暗い穴から、湿った息が吹き上がった。
地下は、人の肺みたいだ。悪いものを吸って吐いて、黙って腐っている。
「行くぞ。足元は滑る。……手すりは信用するな。線路は踏むな」
梯子を降り、地下鉄トンネルへ。
壁は濡れ、天井から水滴が落ちる音が、遠い銃声みたいに反響している。
懐中電灯の円だけが、世界を切り取った。
枕木が腐り果てた廃線のトンネルを数歩進んだところで、ジンは足を止めた。
妙な匂いがする。金属が焼けた匂いだ。空気に、薄くオゾンが混じる。
今回のターゲットは、この奥にアジトを構える魔導具の密造組織だ。
当然、無防備なはずがない。
「……センサー系の罠か?」
闇に沈む線路の間に、不自然な隆起がいくつも見えた。
泥混じりの砂利に半分埋もれた、平たい金属片。
表面に刻まれた術式が、ライトの光を受けて鈍く反射している。
「……魔法地雷か」
ジンは舌打ちをした。
踏めば起爆し、熱線か衝撃波で侵入者をピンポイントでミンチにする古典的な罠だ。
通路全域に、びっしりと敷き詰められている。
回避ルートはない。壁を這っていくか、空を飛ぶしかない密度だ。
ジンは背後に向けて、無造作に片手を突き出した。
掌をノアに向け、「止まれ」の合図。
「……そこで待ってろ」
ジンは振り返らずに言った。
「こいつの範囲は狭い。俺が踏んで吹っ飛んでも、そこなら肉片が飛んでくるくらいで済む。……俺がミンチになったら、そのまま回れ右して帰れ」
ジンは懐から新しいタバコ『
火は点けない。ガスが溜まっていれば一巻の終わりだからだ。
ただの精神安定剤代わりだ。
ジンは一歩、足を踏み出した。
靴底が、砂利を踏みしめる。
その感触の中に、硬い異物の感触が混じった。
――カチリ。
地雷の信管が作動する、微かなクリック音。
(……ビンゴかよ)
ジンは奥歯を噛み締め、爆風に備えて重心を落とした。
一秒経っても、爆発は起きなかった。
ジンは眉をひそめ、足元の地雷を見下ろした。
術式の光が一瞬だけ明滅し、プツンと消えていた。
ただの鉄屑になった地雷の上で、ジンの革靴が止まっている。
「……チッ、シケてやがる。俺の湿気が移ったか」
ジンは足を持ち上げ、爪先で地雷をコンコンと叩いた。
反応はない。やはり壊れている。
地下の湿気で回路が逝ったか。
特区の機材は、雨に弱い。人間より先に心が折れる。
ジンは鼻で笑い、タバコを咥え直した。
恐怖を感じて損をした。これなら、ただの砂利道と同じだ。
ジンは振り返り、待機させていたはずのノアを見た。
ノアは、いつの間にかジンの背後一メートルの位置まで進んでいた。
ジンの「待て」など最初から聞いていなかったかのように、涼しい顔で立っている。
「……人の話を聞かないガキだな」
ジンは呆れて肩をすくめた。
「まあいい、不発だ」
ジンは再び歩き出した。堂々と、地雷原のど真ん中を。
右足が、次の地雷を踏む。
――カチリ。
今度は、ほんの少しだけ焦げ臭い。
だが爆発はしない。
「……やっぱり不発か。地雷にまで無視されるとはな。俺の人生は不発弾だらけだ」
三歩目。
――カチリ。
また、不発。
「おい、ちゃんと離れてついてこいよ。変なもん踏むなよ」
ジンが振り返らずに言う。
ノアは無言のまま、機能を停止した地雷の上を、軽い足取りで通過していく。
テディベアは小脇に抱えられ、その目は、前を行くジンの背中をじっと見つめていた。
地雷原を抜ける頃には、ジンの顔には乾いた笑みが張り付いていた。
笑みというより、乾いた割れ目だ。
一度も爆発しなかった。百発百中の不発だ。
「ハッ……全部湿気で壊れてやがる。……地下に機械持ち込む前に、天気予報を見ろ」
ジンは靴底の泥を地面になすりつけた。
運がいい、とは口にしなかった。
ただ、この街の杜撰さに呆れるふりをして、冷えた背中の汗を誤魔化すだけだ。
トンネルの最深部。
かつての変電施設だった空間の前に、分厚い防護鉄扉が立ちはだかっていた。
高さ三メートル、幅二メートルはある重厚な鋼鉄の塊。
ハンドルは錆び付き、溶接されたように固まっている。
隙間からは、微かな話し声と、鼻をつく薬物の甘い匂いが漏れていた。
ジンは鉄扉の前に立ち、革手袋のベルトを締め直した。
ギュッ、と音が鳴る。
「……引きこもりを引っ張り出すのは骨が折れる」
敵は、地雷原を抜けてきた侵入者がいるとは夢にも思っていないだろう。
あるいは、地雷の爆発音が聞こえないことで油断しきっているか。
どちらにせよ、ノックをしてやるのが礼儀だ。
ジンは右足を一歩引き、腰を落とした。
全身のバネを右拳に集約する。狙うのは、扉の中心。ロック機構のある一点。
鉄の呼吸を読む。厚み、硬度、錆の具合。
硬い。戦車の装甲並みだ。
「ノックはしたぞ」
呟きと共に、ジンは踏み込んだ。
コンクリートの床が爆ぜるほどの踏み込み。右拳が、砲弾のように突き出される。
インパクトの瞬間。
撃鉄が落ち、鋼鉄の杭が射出される重い衝撃が拳に走った。
ガギンッ、と硬質な音が響く。杭の先端が鉄板に食い込み、扉の中央がへこむ。
手首が軋む前兆が、骨の奥で鳴った。
それでもジンは引かない。壊せる。ここで止める理由がない。たとえ腕が折れても、扉は砕く。そういう計算で生きてきた。
――ドゴォォォォォォォンッ!!
轟音。
それは打撃音というより、巨大な何かが決壊する音だった。
分厚い鉄扉の中央が、杭の威力で大きく内側にへこむ。その変形に耐えきれず、錆びついた蝶番とロック機構が一斉に悲鳴を上げて破断した。
支えを失った鉄の巨体が、回転しながら部屋の中へと弾き飛ばされる。
ガガガガガッ! と床のコンクリートを削り、火花をちらしながら、それは猛スピードで滑走していった。
「うわあああああっ!」
中にいた男たちの悲鳴が重なる。
暴走する鉄板は、部屋の中央にあったテーブルをへし折りながら巻き込み、奥の壁にドォン! と激突してようやく止まった。
巻き込まれた数人が、ガラクタのように転がっている。
砂埃が舞い、ジンの革手袋から白い煙が上がる。
ジンは拳を振り抜いた姿勢のまま、首を傾げた。
「……ん?」
自分の拳を見る。骨に響くような痛みがない。
本来なら、強烈な反作用が来るはずだった。だが、その衝撃はなかった。
「……手応えが消えたな。蝶番が先に死んでたか」
固定金具が腐っていた上に、扉の中身も錆びてスカスカだったに違いない。
そうでなければ、弾け飛んで、ホッケーのパックみたいに滑っていくわけがない。
特区の建材は、地雷と同じで見掛け倒しだ。
「……ま、いいか」
ジンは肩を回し、悠然と部屋の中へ歩み入った。
部屋の中は阿鼻叫喚だった。
生き残った構成員たちが、化け物を見る目でジンを見上げている。
「な、なんだテメェ……! あの扉を素手で……!?」
「ば、馬鹿な! あの扉は『物理防御』と『魔法反射』の複合結界を張っていたんだぞ! 戦車砲だって弾くはずだ!」
「ただの扉だろ。鍵が開かなかったから、少し強めに叩いただけだ」
ジンは瓦礫を踏み越え、部屋の中央へ進む。
「さて。……店仕舞いの時間だ」
ジンが拳を鳴らすと、男たちは戦意を喪失し、武器を取り落として後ずさった。
戦う前から勝負はついていた。
仕事を終え、地上に戻った頃には、雨足は少し強くなっていた。
そのまま鉄牛に乗り込む。
運転席に座ったジンは泥だらけになった靴を見て、ため息をついた。
「最悪だ。やっぱり汚れた」
助手席を見ると、ノアがレインコートのフードを脱いでいた。
髪も服も濡れていない。泥一つ跳ねていない。
まるで遠足から帰ってきた子供のような涼しい顔をしている。
「……お前だけ綺麗でいいご身分だな」
ジンが憎まれ口を叩くと、ノアはリュックのポケットから食べかけの栄養ゼリーを取り出し、ジンに差し出した。
「……いらん。泥の味がしそうだ」
ジンは断り、キーを回した。
小さく付け足す。
「帰るぞ。腹が減った」
ノアはゼリーをリュックにしまい、テディベアの頭を撫でた。
V8エンジンが重厚な咆哮を上げ、鋼鉄の猛獣が雨の路地へと滑り出す。
赤いテールランプが、湿った闇の奥で滲んで消えた。