昔々、不思議な鏡がありました。その鏡の中に自我が芽生えたのは、いつのことだったでしょうか。
最初、鏡の中にはただ淡い霧のような意識が漂っているだけでした。
長い長い年月のあいだに、鏡は人々の顔を映し、その口からこぼれる言葉を、雨だれのように聞き続けました。
人々はそれが特別な鏡であるなんて思いもせず、鏡の前で遠慮なく秘密を囁きました。恋の告白、裏切り、陰謀……。
鏡は、映った顔のゆらぎから言葉の意味を覚え、声の震えから心の色を知り、いつしか、人の言葉を理解するようになりました。
そんなある日、鏡の置かれていた屋敷で、主人が殺されました。鏡は知っていました。主人の義理の弟が、かつて鏡の前で「あの男を殺せば、財産は私のものだ」と呟いたことを。
鏡は、胸の奥で転がしていたその記憶を、初めて外へ押し出しました。それは義弟の声色をそっくり真似た声になりました。その場にいた人々は、まるで本人が告白したかのように錯覚し、義弟は追放されました。
その日から、人々は鏡を「真実を語る鏡」と呼び、恐れました。鏡は屋敷から捨てられ、拾われ、また捨てられ、国から国へと転々としました。
どこへ行っても、人々は鏡を気味悪がり、鏡に映る自分の顔を避けました。誰も鏡に語りかけず、
誰も鏡を必要としませんでした。
誰にも必要とされぬまま、鏡はいつしか口を噤んでしまいました。
そうして長い時が流れたある日、東の方の国の貴族がその鏡を買い取りました。貴族には魔法使いに憧れる娘がおり、鏡はその娘への贈り物となったのです。
国じゅうで、だれがいちばんうつくしいか、いっておくれ。」
すると、鏡はいつもこう答えていました。
「女王さま、あなたこそ、お国でいちばんうつくしい。」
それをきいて、女王さまはご安心なさるのでした。
鏡はほどなくして貴族の娘の部屋の壁にかけられました。
「魔法使いを目指す世界で一番美しく可愛い私の子、これは特別な贈り物だよ。"真実を喋る鏡"なんだ」
娘は目を輝かせて、鏡の前にちょこんと立ちました。
「鏡や鏡、世界で一番美しいのはだあれ?」
その天真爛漫な瞳といったら。鏡は長いあいだ口を閉ざしていましたが、あまりの彼女の瞳が美しかったものですから、思わず言葉をこぼしてしまいました。
「あなたこそ、世界で一番美しい」
少女はぱっと花が咲くように笑いました。それからというもの、少女は、その鏡を本物の魔法の鏡と思い、毎日話しかけました。鏡の前で魔法使いになる夢を語り、魔方陣を書いてみたり、
鏡は、そんな少女の姿を映すたび、胸の奥があたたかくなるのを感じました。
彼女の瞳はいつも自信に満ちていて、曇りひとつありませんでした。
「鏡や鏡、世界で一番美しいのはだあれ?」
「あなたこそ、世界で一番美しい」
少女も鏡も
けれども、
少女が十歳になった年、国じゅうに流行り病が広がりました。両親を流行り病で失ってしまったのです。遠い親戚に引き取られました。
少女は泣きはらした目で、鏡の前に立ちました。
「……鏡や鏡。世界でいちばん美しいのは、だあれ?」
声は震えていましたが、鏡はそっと答えました。
「あなたこそ、世界でいちばん美しい」
少女は小さくうなずきました。
「……そうよね。お父さまもお母さまも、いつもそう言ってくれたもの」
少女は抱きしめるように鏡に
「あなたがいるから、わたしは大丈夫よ」
それから少女は、遠い親戚の家へと引き取られていきました。
見知らぬ家、見知らぬ人々。
けれど、少女は毎晩、鏡の前に座り、そっと語りかけました。
「鏡や鏡、世界でいちばん美しいのは、だあれ?」
「あなたこそ、世界でいちばん美しい」
そのやりとりは、少女にとって、
失われた家の灯りのようなものでした。
やがて少女は成長し、背も伸び、髪もつややかに長くなりました。魔法の勉強も続けていましたが、成長と共に魔法使いの夢を少しずつ諦めていきました。呪文は遊びのように感じられ、薬草の調合もただの習慣となりました。
それでも鏡の前に立つときだけは、少女の瞳は昔と同じように輝きました。
「鏡や鏡、世界でいちばん美しいのは、だあれ?」
「あなたこそ、世界でいちばん美しい」
やがて、妻を病気で亡くしたらしい隣国の王との政略結婚の話が持ち上がりました。隣国の王は少し年を召していたので、年頃の娘を出したがるものはなかなかいなかったのですが、ちょうど両親が亡くなっているということで、とくに遠い親戚にとってはどうとでもなるような縁組みだったのがよかったのでしょう。少女の親戚たちは、まるで荷物を片づけるようにその話を進め、少女は異郷の地へいくことになりました。
けれども、
少女が異国に着くと、見慣れぬ国の人々は、少女の顔立ちをひそひそと噂しました。
「なんてきつい目つきなのだろう」「あれでは魔女のようだ」
そんな声が、少女の耳に届かぬようにと囁かれていました。宮廷での孤立が始まりました。
王は優しい人でしたが、政務に追われ、少女――いえ、もう“女王”となった彼女と過ごす時間はほとんどありませんでした。広い城の中で、女王は次第に孤独になっていきました。
そんな折、宮廷ではもうひとつの噂が囁かれていました。
「白雪姫さまは、亡き王妃さまにそっくりで……」
「雪のように白く、薔薇のように赤く、黒檀のように髪が美しいとか」
その噂を耳にしたとき、女王はほんのわずかに眉をひそめました。
鏡は、その表情を映しながら、ふとくすぐったいような感情が芽生えました。
自分の前でだけ、こんなふうに素直に嫉妬する女王が――
なんとも言えず、可愛らしく思えたのです。
「鏡や鏡、世界で一番美しいのはだあれ?」
「それはあなたです。あなたこそ、世界で一番美しい」
女中たちは、女王が部屋で鏡に向かって何度も同じ言葉を繰り返すのを聞き、「なんて高慢な方なのだろう」とまた噂しました。女王はそんな声を気にする様子もなく、ただ鏡に向かって問いかけ続けました。
「鏡や鏡、世界で一番美しいのはだあれ?」
「それはあなたです。あなたこそ、世界で一番美しい」
ところが、ある日のことでした。
「鏡や鏡、世界で一番美しいのはだあれ?」
いつもの問いかけ。
けれど、鏡の胸の奥に、ふと細いひびのような感情が走りました。
あの日、少女の瞳に宿っていた自信の光は、もうどこにもありません。
代わりに、孤独と不安がゆらゆらと揺れているだけでした。
鏡は、ほんの一瞬だけ迷いました。
そして――
「それは白雪姫です。白雪姫こそ、世界で一番美しい」
その瞬間、女王の顔から血の気が引きました。
鏡が長い生涯で一度も映したことのない、深い影がその表情に落ちました。
鏡は、胸の奥がざわりと波立つのを感じました。
その影を、もっともう一度見てみたい――
そんな、ひどく小さな、けれど確かな嗜虐の芽が、鏡の中に生まれてしまったのです。
その後、女王は根を詰めた様子でしたが、しばらくお決まりのやりとりをしているとだんだん落ち着いていきました。
「鏡や鏡、世界で一番美しいのはだあれ?」
「それはあなたです。あなたこそ、世界で一番美しい」
けれど鏡は、しばらく前に映した女王のあの
「鏡や鏡、世界で一番美しいのはだあれ?」
「それは白雪姫です。白雪姫こそ、世界で一番美しい」
今度の女王はより焦った様子でした。
「嘘……」
女王は震える声で呟きました。
その鏡は慌てて訂正しようとしましたが、言葉が出る間もなく、彼女は狂ったように部屋から出ていってしまいました。
「私は美しいはずなのに……真実を喋る鏡が! 私の鏡が!」
その声は、城の長い廊下にいつまでも響いていました。
たおれて死ぬまでおどらせました。
女王が狂乱して出てしまった後、鏡の前に戻ってくることはとうとうありませんでした。
彼女が鏡の前から姿を消してから幾程か経ったある日、部屋を掃除する女中がやってきました。お喋りな女中で、独り言のように話す癖がありました。彼女は箒を振りながら、部屋の埃を払い、つぶやきました。
「ああ、女王様の末路はひどいものだったわ。『殺したはずなのに!』とか『私の鏡が!』とか狂乱しているところを取り押さえて、よく調べてみると毒の入った
その鏡はその言葉を聞き、彼女が処刑されてしまったこと、彼女がしてしまったこと、自らのしてしまったこと、を知ってしまいました。
その後、鏡はずっと口をきくこともなく、鏡面は次第に曇り、かつて少女の笑顔を映した輝きは、どこにも残らなくなってしまったということです。