荒界の静寂   作:一丸壱八

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第2章 歪む因果・集う災厄
第3話


1. 灰色の鏡

 

 グラウル荒界の北端に、巨大な硝子の針が突き立っているような岬がある。灰鏡(アッシュミラー)岬。かつての大戦時、超高熱の熱線で溶解した砂漠が冷え固まり、一面のガラス質へと変貌した不毛の地だ。その先端に、歪な塔がそびえている。観測所《灰鏡塔(グレイ・スパイア)》。無数のレンズと鏡を組み合わせ、大陸中から伝播してくる「因果の歪み」を観測しようとする、物好きな学者たちの石室である。

 

「……なぁ、グラード。本当に行くのか? こっちで合ってるんだよな?」

 

 灰色のガラス地面に足を滑らせながら、ピクスは不安げに前を行く巨人に声をかけた。グラードは答えない。ただ、その足取りには一切の迷いがなく、時折、虚空の匂いを嗅ぐように鼻を鳴らすだけだ。

 

(やっぱり、引き返すべきだったか……?)

 

 ピクスは後悔し始めていた。シェルターンで耳にした「殻狩人(シェルハンター)」という不穏な単語。災厄者を専門に狩る組織が動き出している──その情報を確かめるために、この観測所への寄り道を提案したのはピクス自身だった。敵を知れば、生存確率は上がる。それがピクスの計算だった。

 だが、グラードの様子がおかしい。ここ数日、彼はほとんど口を開かない。いや、「減った」というレベルではない。必要最小限の単語すら発さず、ただ黙々と、周囲の音を拒絶するように歩き続けている。その背中から滲み出る空気が、以前よりも「重く」なっている気がした。

 

2. 観測不能の震源

 

 同時刻。灰鏡塔の最上階。観測室はパニックに陥っていた。

 

「おい、どうなっている! 計器が壊れたぞ!」

「違います、故障じゃない! 針が振り切れてるんです!」

 

 白衣を煤で汚した学者たちが、悲鳴じみた声を上げながら観測機器にしがみついていた。中央に据えられた巨大な水晶球──因果震度計が、不気味な赤色に明滅し、今にも砕け散りそうなほど振動している。

 

「震源はどこだ!? 『逆巻き』か? それとも『ノマド』か!?」

「い、いえ……波長が違います! これはもっと純粋な……『停止』の波長です!」

「距離、ゼロ! 直下に来ています!」

 

 学者の長が、青ざめた顔で窓の外を見た。曇ったガラスの向こう。灰色の荒野を、一人の巨人がゆっくりと歩いてくるのが見えた。ただ歩いているだけだ。それなのに、空間そのものが彼を恐れ、歪んで避けているかのように見える。

 

「馬鹿な……。災害そのものが、服を着て歩いているというのか……」

 

 その時だった。轟音と共に、塔の下層が吹き飛んだ。

 

「──確保しろ! サンプルAクラスだ!」

 

 塔の入り口を爆破し、武装した集団が雪崩れ込んできた。全身を灰色の強化外骨格で覆った兵士たち。《殻狩人(シェルハンター)》の先遣隊である。

 

「ひ、ひぃッ! なんだ貴様らは!」

「退け、学者崩れども。我々は人類の防衛のために、あの災厄を回収する」

 

 隊長らしき男が、無機質な声で告げる。彼らは塔を守るつもりなどない。この塔を崩してでも、グラードを瓦礫の下に埋め、動きを止めるつもりなのだ。学者たちが逃げ惑う中、兵士たちはロケットランチャーを構え、階段を上がってくる巨人へと照準を合わせる。

 

「目標、第一層を通過。……撃てッ!」

 

3. 静寂の浸水

 

 爆発音が轟く──はずだった。

 

 ──プツン。

 

 塔内から、あらゆる音が消失した。ロケット弾が発射される音も、兵士たちの怒号も、学者たちの悲鳴も。まるで世界のボリュームを強制的にゼロにしたかのように。

 

「…………?」

 

 殻狩人の隊長は、自分の耳を疑うようにヘルメットを叩いた。次の瞬間、彼は見た。発射されたはずのロケット弾が、空中で静止し、まるで枯れ葉のように力なく床へと落ちていく様を。

 階段の踊り場に、グラードが立っていた。その表情に、怒りはない。あるのは、深い安らぎにも似た無表情。彼は、自分に向けられた殺意を「敵」としてすら認識していない。ただの、耳障りなノイズだと感じていた。

 

(うるさい)

 

 グラードは心の中で呟く。最近、世界がうるさすぎる。風の音も、人の声も、殺意の波動も。すべてが彼の感覚器官(センサー)をやすりで削るようだ。だから、消す。スイッチを切るように。

 

 ズズズズ……ッ。

 

 音のない領域が、グラードの意志を超えて膨張した。これまでは「敵」だけに限定されていた範囲が、塔全体へと無差別に広がっていく。それは攻撃というより、浸水に近かった。重く、冷たい、沈黙の水が、塔の中の生命すべてを飲み込んでいく。

 殻狩人たちが、喉を掻きむしりながら膝をつく。強化外骨格がミシミシと悲鳴を上げ、内側からの圧力に耐えきれずひしゃげていく。抵抗? 不可能だ。これは戦闘ではない。「環境の激変」だ。深海一万メートルに放り出された人間が、水圧に勝てるはずがない。

 

 グラードは、道に転がる空き缶を蹴るように、隊長を軽く戦斧の腹で払った。グシャリ。音もなく、強化服ごと人体がひしゃげる。血飛沫さえ、静寂に押さえつけられて遠くへ飛ばない。

 グラードはそのまま、音のない世界をどこか快適そうに歩き、塔の最上階へと消えていった。

 

4. 三魔殻の名

 

 数分後。静寂が去った塔の中で、生き残った学者たちが瓦礫の中から這い出していた。殻狩人たちは全滅。塔の構造材は歪み、もはや使い物にならない。それでも奇跡的に観測室の人間だけは──グラードの進路から外れていたため──生き延びていた。

 

「はぁ、はぁ……。なんてことだ」

 

 学者の長が、砕けた因果震度計の前で震えていた。そこへ、息を切らしたピクスが駆け上がってくる。

 

「おい、あんたたち! 大丈夫か!?」

 

 ピクスは床に転がる殻狩人の死体──プレスされた直後のように平らになったそれ──を見て、顔を引きつらせた。まただ。また、グラードは「何もしていない」。ただ通り過ぎただけで、精鋭部隊が全滅している。

 

「……少年。あいつは、何者だ?」

 

 学者が、亡霊を見るような目で問いかけた。ピクスは言葉に詰まる。何者か。そんなの、自分が一番知りたい。

 

「あいつは……グラード。ただの、乱暴な……」

「違う」

 

 学者は首を振った。恐怖と、ある種の学術的な畏敬を込めて断言する。

 

「あれは人間じゃない。我々が追い求めていた、この世界のバグそのものだ。あらゆる抵抗を否定し、万物を沈黙させる王の力……」

 

 学者は、震える唇でその伝説上の名を紡いだ。

 

「『強制の静寂(サイレンス・プレッシャー)』。……三魔殻の一角が、目覚めてしまったんだ」

 

 三魔殻──その単語を聞いた瞬間、ピクスの脳裏に、あのシェルターンで出会ったノマドの不気味な声が蘇る。

(三つの災厄……。グラードは、その中の一つだってのか?)

 

 ピクスは窓の外を見た。灰色の荒野を、すでに遠くへと歩き去っていく巨人の背中。その周囲だけ、空気の色がわずかに鈍く沈んでいるように見えた。

 

 もはや、ただの暴力自慢の男ではない。あれは、世界を壊しながら歩くシステムだ。そして自分は、そのシステムのエラーログを記録するためだけに生かされている、小さな部品に過ぎないのかもしれない。

 ピクスは身震いし、それでもなお、磁石に引かれるように走り出した。まだ、離れるわけにはいかない。その先に待つのが、「逆巻き」の地獄だとしても。

 

5. 逆鳴きの地

 

 灰鏡塔を後にした二人が足を踏み入れたのは、すり鉢状に大地がえぐれた広大な盆地だった。逆鳴き盆地(リヴァーブ・クレーター)。ピクスは一歩足を踏み入れた瞬間、強烈な吐き気に襲われた。

 

「うっ、ぷ……。な、なんだよここ。気持ち悪ぃ……」

 

 視界がぐにゃりと歪む。いや、ピクスの目が狂ったのではない。風景の挙動がおかしいのだ。風が前から吹いてきたと思った次の瞬間には、後ろへ吸い込まれていく。崩れ落ちた砂の斜面が、まるでビデオの巻き戻しのように、サラサラと音を立てて上へと駆け上がっていく。

 

「おい、グラード! やっぱ迂回しようぜ! ここは空気が腐ってる!」

 

 ピクスは必死に叫ぶが、グラードは止まらない。彼の感覚器官(センサー)は、この空間の異常性を「不快」とは感じていても、「脅威」とはみなしていない。ただ通り抜けるべき道としか見ていないのだ。

 だが、その道はすでに何者かのテリトリーだった。

 

「ヒャハ! 獲物だ! 今日はツイてるぜ!」

 

 岩陰から、ボロボロの装備を身に着けた盗賊の残党が数人、飛び出してきた。飢えた野犬のような目つき。彼らはグラードの巨躯を見ても怯まず、錆びた剣を振りかざして襲いかかってくる。

 

「……退け」

 

 グラードは億劫そうに腕を振るった。『強制の静寂』が発動する。音もなく衝撃波が走り、先頭の盗賊が上半身を砕かれて吹き飛んだ──はずだった。

 

 ザザッ、とノイズのような音がした。

 

 次の瞬間。砕け散ったはずの血肉が、空中で停止し、凄まじい勢いで収束する。そして。

 

「──だ! 今日はツイてるぜ!」

 

 盗賊は、無傷で立っていた。何事もなかったかのように、最初と同じ台詞を叫び、同じ軌道で剣を振りかざしてくる。

 

「は……?」

 

 ピクスの思考が凍りつく。幻覚か? いや、違う。今、確かにこいつは死んだ。死んだはずなのに、「死ぬ数秒前」の状態へ因果ごと引き戻されたのだ。

 グラードがわずかに眉をひそめる。彼は再び腕を振るった。今度はより速く、より重く。ドグシャァ! 盗賊は完全な肉塊と化した。だが、再びノイズが走る。肉塊がまた元の人の形へと戻り、「──てるぜ!」と叫んで突っ込んでくる。

 

 無限ループ。あるいは、死の否定。殺しても殺しても、世界が「なかったこと」にしてしまう。

 

6. 時を喰らう者

 

「ヒヒッ……。いい腕力だねぇ。でも、それじゃあ『結果』には届かないよ」

 

 ねっとりとした声が、空間の歪みから響いた。盆地の中央、陽炎が揺らぐ場所に、その男は立っていた。全身に包帯を巻き、背中には巨大な「逆時計」のような円盤状の遺物を背負った男。《逆巻きのソルガ》。

 彼の周囲だけ、時間の流れが完全に狂っている。舞い上がった砂塵が空中で静止し、あるいは逆流し、奇妙な渦を描いていた。

 

「あんたが『静寂』の旦那かい。噂通り、乱暴なご挨拶だ」

 

 ソルガが指を鳴らすと、何度も殺されていた盗賊たちが、糸の切れた操り人形のようにパタリと倒れた。今度は起き上がらない。ソルガが「巻き戻し」をやめたからだ。盗賊たちは、自分が何度も死んだことすら知らず、ようやく訪れた死に安堵しているようにさえ見えた。

 

「俺の『時喰らいの反響(タイド・オブ・エコー)』はね、過去の美味しいところだけを摘み食いするんだよ。傷ついた事実を食って、傷つく前の時間を吐き出す。だから、いくら殴っても無駄さ。あんたの暴力は、最初から『なかったこと』になる」

 

 ソルガが挑発的に両手を広げる。グラードの瞳孔が、縦に裂けた獣の形へと変貌した。理屈などどうでもいい。目の前に「壊れない障害物」がある。それが不快でたまらない。

 

 ドンッ! グラードが地面を蹴った。巨体が砲弾のように突っ込む。間合いを一瞬で詰め、戦斧を横薙ぎに振るう。必殺の一撃。岩山さえ砕くその威力が、ソルガの胴体を捉え──。

 

 キィィィン……!

 

 甲高い音が響き、斧はソルガの体をすり抜けた。いや、当たってはいる。当たった瞬間に、ソルガの体が「当たる前の位置」へズレたのだ。残像ではない。過去の位置情報への強制置換。

 

「くっ……痛ぇな! 記憶だけは残るんだよ、クソが!」

 

 ソルガは冷や汗を流しながら、ニヤリと笑った。肉体は無傷だが、精神には「斧で断ち切られた激痛」が焼き付いている。だが、彼はその痛みさえ楽しんでいるようだった。

 

「なるほど、右からの水平斬りか。速度はコンマ二秒。予備動作なし……覚えたぜ」

 

 グラードが再び同じ軌道で斧を振るう。ソルガは今度は動かなかった。ただ首を僅かに傾けただけで、斧の刃が鼻先を掠める。「見えている」のだ。何度も時間を戻して食らった攻撃だ。軌道もタイミングも、すでに学習済み。

 

7. 噛み合わない歯車

 

 静寂 vs 巻き戻し。三魔殻同士の衝突は、奇妙な膠着状態を生んでいた。

 

 グラードは止まらない。何度無効化されようと、何度避けられようと、感情を排して斧を振り続ける。彼にとって、これは戦闘ではない。壊れるまで叩き続ける作業だ。

 対するソルガは、防戦一方に見える。だが、その瞳は狂気じみた光を帯びて観察を続けていた。巻き戻すたびに、彼の精神はすり減っていくが、同時にグラードの攻略データが蓄積されていく。

 

(やばい……。グラードの攻撃が、通じてない)

 

 ピクスは岩陰で震えていた。今まで、グラードの暴力は絶対だった。どんな敵も一撃で黙らせてきた。だが、こいつには通じない。それどころか、グラードが斧を振るえば振るうほど、周囲の空間がおかしくなっていく。巻き戻された衝撃の余波で地面がランダムに陥没し、何もない空間から血が噴き出す。

 

「チッ……。まだデータ不足か」

 

 数十合の攻防の末、ソルガが舌打ちをした。彼の鼻からツー、と鼻血が垂れる。巻き戻しの代償──精神摩耗が限界に近づいているのだ。

 

「いいだろう、静寂の旦那。今日はここまでにしてやるよ。次に会うときは、あんたのその腕……へし折り方を完成させておくからな」

 

 ソルガが背中の遺物を駆動させる。空間がグニャリとねじれ、彼の姿が陽炎のように薄れていく。グラードが最後の一撃を叩き込むが、それは虚空を切り裂いただけだった。

 

 ──シーン……。

 

 敵が消え、盆地に静寂が戻る。だが、それはいつもの「終わった後の静寂」ではなかった。グラードは斧を下ろさず、誰もいない空間を睨み続けている。

 解決していない。障害物を排除できていない。その事実が、グラードの中にある獣性を苛立たせていた。

 

「……グラード?」

 

 ピクスが恐る恐る声をかける。グラードはゆっくりと振り返った。その瞳は、まだ人間のものではなかった。周囲の静寂が、いつもより粘着質に、肌にまとわりつく。

 

(……怒ってる? いや、違う)

 

 ピクスは直感した。グラードは、静寂に飢えている。敵を完全に破壊し、世界を黙らせるという快楽を中断された禁断症状。そのストレスが、彼の内側で遺物の侵蝕を加速させている。

 グラードは無言のまま、斧を担いで歩き出した。その後ろ姿は、以前よりも一回り大きく、そして恐ろしく見えた。もはや、ただの乱暴な男ではない。満たされない破壊衝動を抱えた、歩く爆弾だ。

 

8. 檻の中の街

 

 逆鳴き盆地を抜けた二人が辿り着いたのは、奇妙な形をした岩山の麓にある街、歪角市(ワープホーン)だった。街に入った瞬間、鼻を突くのは獣臭さと安っぽい香水の匂い。ここは「見世物」の街だ。捕獲された怪物や、力の弱い魔王遺物の所有者──なり損ないの災厄者──を檻に入れ、金を取って客に見せる悪趣味な興行で栄えている。

 

「いらっしゃい! 見てってくれ! 『火吹きの双頭蛇』だよ!」

「こっちは『顔なしの踊り子』だ! 遺物の呪いで顔が溶けちまった女さ!」

 

 呼び込みの声。檻を叩く音。観客の下卑た笑い声。ピクスは眉をひそめた。砂都シェルターンの「血の市」が暴力的な地獄なら、ここは陰湿な地獄だ。他人の不幸と異形を安全圏から眺めて楽しむ、腐った好奇心の掃き溜め。

 

「……趣味わりぃ。早く水と食料を買って出ようぜ、グラード」

 

 ピクスは吐き捨てるように言い、巨人の顔を見上げた。グラードは無表情だった。だが、その無表情の質が以前とは違う。ソルガとの戦いで満たされなかった破壊衝動を内側に溜め込み、それを無理やり「静寂」という蓋で押さえつけているような、張り詰めた空気。

 その異様な気配は、すぐに街の人々の目に留まった。

 

「おい、見ろよあいつ。すげえデカブツだぞ」

「あの斧……もしや、あれも災厄者か?」

「珍しいな。檻に入ってない野良の災厄者だ!」

 

 最初は数人だった。だが、すぐに十人、二十人と人が集まり始める。彼らはグラードを恐れながらも、それ以上に「タダで珍しいものが見られる」という野次馬根性で、遠巻きに二人を取り囲んだ。

 

「おいデカいの! なんか芸を見せてみろよ!」

「石でも投げてみようぜ、怒るかな?」

 

 小石が飛んできた。ピクスの肩に当たる。「痛っ」とピクスは声を上げる。だが、グラードは動じない。怒号も上げず、斧も振るわない。ただ、立ち止まって周囲を見回しただけだ。

 

 その瞬間。ピクスの肌が粟立った。

 

(……あ、れ? 空気が……)

 

9. 無音の見世物

 

 グラードが何もしていないのに、『強制の静寂』が滲み出していた。戦闘時のスイッチを入れるような鋭い発動ではない。コップの水が溢れるように、あるいは重たい霧が立ち込めるように、音のない領域がとろりと周囲へ広がっていく。

 

 ザワザワ……と騒がしかった野次馬たちの声が、遠のいていく。いや、実際に音が消えているのだ。口笛を吹いていた男が、酸欠の金魚のように口をパクパクさせている。小石を投げようとした子供が、腕を振り上げたまま、糸が切れたように白目を剥いて倒れた。

 

 バタッ、バタッ。一人、また一人。グラードに近い位置にいた者から順に、意識を刈り取られていく。静寂の圧力に、三半規管も脳も耐えきれなくなったのだ。

 

「…………」

 

 グラードは、倒れていく人々を見ても眉一つ動かさなかった。むしろ、騒音が消え、静寂に満たされたその空間に、深い安らぎを感じているように見えた。彼にとって、今の世界は「うるさすぎる」のだ。だから、自分の周りだけを切り取って、快適な無音の部屋に変えてしまった。そこにいる他人がどうなろうと知ったことではない。

 遠巻きに見ていた残りの観客たちが、悲鳴を上げようとして──喉が凍りついたように沈黙する。恐怖で動けないのではない。彼らもまた、グラードという巨大な「現象」の一部として取り込まれ、背景と化してしまったのだ。

 街の一角が、完全な死の世界のように静まり返る。その中心に立つグラードだけが、正常な呼吸をしている。

 

(……違う。これはもう、戦いじゃない)

 

 ピクスは、倒れた野次馬たちの間を縫って歩くグラードの背中を見つめ、戦慄していた。以前のグラードなら、邪魔なら殺していたし、邪魔でなければ無視していた。だが今は。「存在しているだけ」で、周囲を塗り替えている。

 まるで、深海の底を歩く巨大生物だ。彼が歩けば、水圧で周りの小魚は勝手に死ぬ。彼はそれに気づきもしない。この静寂は、グラードにとっての羊水であり、防壁であり、世界を拒絶するための殻なのだ。

 

「……行くぞ」

 

 不意に、グラードが振り返らずに言った。その声は驚くほど穏やかで、しかし酷く空虚だった。

 

「ここはうるさい」

 

 静寂の犠牲となり、倒れ伏した人々の山を残し、グラードは再び歩き出す。ピクスは慌ててその後を追った。もう、気軽に話しかけることさえ躊躇われた。うっかり話しかけて、その「快適な静寂」を破ってしまったら──次は自分が、あの野次馬のように押し潰されるのではないか。そんな予感が脳裏をよぎったからだ。

 

10. 影で見つめる目

 

 静まり返った広場を、建物の陰から見つめる視線があった。全身を灰色のローブで包んだ小柄な男。《殻狩人》の情報屋、通称「帳簿鬼(レッジャー・グール)」である。

 彼は手元のメモ帳に、震える手で何かを書き殴っていた。

 

「……計測完了。対象『強制の静寂』、侵蝕深度──レベル3へ移行中。戦闘行動なしでの広域展開を確認。……これは急がないとマズいぞ」

 

 帳簿鬼は、冷や汗を拭った。彼らの組織の目的は「人類防衛」。三魔殻のような危険すぎる遺物を管理・封印することだ。だが、グラードの進化速度は想定を超えている。

 

「ソルガとノマドをぶつけて消耗させる作戦だったが……逆に『静寂』を肥大化させちまったか。こうなれば、次は『共鳴』で自滅させるしかない」

 

 帳簿鬼は懐から通信機を取り出し、短い暗号を送った。宛先は、次の目的地──裂環平原(スプリット・リング)に展開している本隊へ。

 

「餌は向かった。……最大の地獄を用意して待て」

 

 男が姿を消すと同時に、街には再び騒音が戻ってきた。だが、グラードが通り過ぎた道だけは、いつまでも奇妙な寒気が残り続けていた。

 

11. 鐘の鳴らない森

 

 歪角市を後にした二人が夜営の地に選んだのは、かつて「静寂教団」という宗教の本拠地だった廃墟、廃都ナデラだった。奇妙な場所だ。街のいたるところに、枯れ木のような細長い塔が林立している。かつては鐘楼だったらしいが、鐘はとうの昔に落ちて砕け、今はただの虚ろな筒として風を吸い込んでいる。

 

「……なんか、変な感じだな」

 

 焚き火の準備をしながら、ピクスは身震いした。この廃都は静かだ。だが、グラードがもたらす「強制的な静寂」とは違う。音が死んでいるのではなく、音が「抜け落ちている」ような、空虚な静けさ。グラードは瓦礫に腰を下ろし、目を閉じていた。彼はこの場所を気に入っているようだった。ソルガとの戦い以降、彼の内側では常に遺物の衝動──反動の咆哮──が鳴り響いているはずだ。外の世界が静かであればあるほど、その内なるノイズとの均衡が保てるのかもしれない。

 

(グラードは、もう寝てるのか……?)

 

 ピクスは毛布にくるまり、炎を見つめた。会話はない。最近、グラードと言葉を交わした記憶がない。ただついていくだけ。影のように。その事実に、ピクスは言いようのない孤独を感じていた。

 

12. 脳を裂くノイズ

 

 深夜。ピクスは不快な耳鳴りで目を覚ました。

 

 ──キィィィィィン……。

 

 金属を擦り合わせたような、高く鋭い音。風の音かと思った。だが、音は耳の外からではなく、頭蓋骨の内側から響いてくる。

 

「……っ、う……?」

 

 ピクスは耳を押さえて起き上がった。耳鳴りは止まない。それどころか、ノイズの中に人の声が混じり始める。

 

『……ねぇ、聞こえるかい?』

『いい音だ。怯える心臓の音は、いつ聴いても極上の音楽だねぇ』

 

 粘着質な囁き声。ピクスの心臓が跳ね上がる。知っている声だ。シェルターンの路地裏で聞いた、あの化け物の声。

 

「ノ、ノマド……!?」

 

 ピクスは弾かれたように周囲を見回した。誰もいない。林立する鐘楼の影が、月明かりに長く伸びているだけだ。グラードは数メートル先で微動だにせず、眠っているのか、あるいは瞑想しているのか。

 

『探しても無駄だよ、小ネズミ。俺はお前の“認識”の中にいる』

 

 声は、右耳から聞こえたかと思えば、次は左耳から、そして脳天から響く。『囁断の連鎖(レンディング・カスケード)』。感覚と位置情報を撹乱し、自我の境界を曖昧にする魔王遺物の力。

 

『可哀想にねぇ。お前はずっと一人ぼっちだ。あの“静寂の王”は、お前のことなんて見ちゃいない。あいつが見ているのは、自分だけの静かな世界さ』

 

「う、うるさい……! 出てこい!」

 

 ピクスは短剣を抜いて虚空を切り裂いた。だが、手応えはない。ノマドの笑い声が、何重にも重なって脳内を反響する。

 

『あいつにとって、お前はただのノイズだ。お前の呼吸も、足音も、その怯えた鼓動も……すべてが邪魔な雑音なんだよ!』

 

 キィィィィンッ!! ノイズが爆音に変わる。ピクスは悲鳴を上げ、地面に頭を打ち付けた。痛い。耳が裂ける。世界がぐにゃぐにゃに歪んで、自分がどこにいるのか、生きているのか死んでいるのかさえ分からなくなる。

 

「あ、あああ……っ! グラード! グラード、助けてくれェッ!」

 

13. 拒絶の咆哮

 

 ピクスの絶叫が、廃都の夜を引き裂いた。

 

 その瞬間。闇の中で、二つの光が灯った。獣の形に裂けた、グラードの瞳孔だ。

 彼はゆっくりと立ち上がった。ピクスを助けるためではない。眠りを妨げられたからだ。そして何より、自分の領域(テリトリー)である静寂の中に、土足で踏み込んできた他人のノイズが、不快で、不快で、たまらなかったからだ。

 

「……静かにしろ」

 

 低く、地を這うような呟き。だが、それは言葉としての意味を超えていた。『強制の静寂』が、最大出力で叩きつけられたのだ。

 

 ドォンッ!!

 

 見えない巨大なハンマーが、空間そのものを殴りつけたかのような衝撃。ピクスの脳内で響いていたノイズが、物理的な圧力によって無理やり圧し潰される。同時に、ピクス自身の鼓膜も悲鳴を上げた。

 

「が、はっ……!?」

 

 ピクスは呼吸ができなくなり、地面に這いつくばった。グラードの静寂は、もはや「音を消す」という生易しいものではない。「音を出す存在を許さない」という、世界そのものへの拒絶。そこには、ノマドへの攻撃意識もなければ、ピクスへの配慮もない。ただ「黙れ」という暴力的なエゴだけがある。

 

『ヒャ、ハ……ッ! すげぇ……!』

 

 虚空から、ノマドの喘ぐような声が漏れた。幻聴ではない。実体としての声だ。グラードの圧力が強すぎて、認識のズレの中に潜んでいたノマド自身が、物理空間へと引きずり出されそうになったのだ。

 

『怖いねぇ! 全部壊して、全部黙らせる気かい? いいよ、最高だ! その調子で世界を空っぽにしな!』

 

 捨て台詞とともに、不快な気配が霧散していく。ノマドは逃げた。グラードの底知れない「飢え」に触れ、本能的な恐怖と、狂気的な歓喜を抱いて撤退したのだ。

 

14. 届かない声

 

 ノマドが消えても、静寂は消えなかった。グラードは立ったまま、周囲の闇を睨みつけている。その背中は、怒っているようにも、何かに怯えているようにも見えた。遺物の代償──内側で暴れ狂う獣の咆哮を、外側の静寂で必死に押さえ込んでいるのだ。

 

「ぐ、ぅ……はぁ、はぁ……」

 

 ピクスは震える手で耳を触った。ツーと、赤い血が流れていた。ノマドのノイズのせいか、それともグラードの静寂の圧力のせいか。おそらく両方だ。耳がキーンと鳴り続け、自分の呼吸音さえ遠い。

 

「グラード……」

 

 ピクスは掠れた声で呼んだ。だが、巨人は振り返らなかった。焚き火のそばに戻り、また何事もなかったかのように座り込む。

 

(聞こえてない……のか?)

 

 ピクスは戦慄した。物理的に声が届いていないのではない。グラードの意識が、もうピクスの声を「意味のある音」として捉えていないのだ。風の音や、虫の音と同じ。ただの背景ノイズ。

 ノマドの言葉が、呪いのように蘇る。『あいつにとって、お前はただのノイズだ』

 

「……くそっ」

 

 ピクスは膝を抱え、血の滲む耳を塞いだ。ノマドの幻聴は消えたはずなのに、世界との繋がりを断たれたような孤独感だけが、冷たく胸に残っていた。

 この男の隣は、安全地帯──台風の目──なんかじゃない。ここは、世界の終わりの最前線だ。そして自分は、そこから逃げ出すことさえできずにいる。

 

 静寂の森で、ピクスは一睡もできないまま朝を待った。次の戦場──裂環平原で、三つの災厄が激突する刻が、刻一刻と迫っていた。

 

15. 裂環の罠

 

 裂環平原(スプリット・リング)。そこは、かつての大戦で数百発の戦略魔法が撃ち込まれた跡地だ。大小無数のクレーターが鎖のように連なり、大地は歪に隆起している。ここでは磁場も因果も狂っており、羅針盤はぐるぐると回り続け、風は常に悲鳴のような音を立てている。

 その平原の中央に、数十名の《殻狩人(シェルハンター)》が潜伏していた。灰色の強化外骨格に身を包んだ精鋭部隊。彼らは巨大な「共鳴増幅装置」を設置し、緊張した面持ちでモニターを監視している。

 

「……目標三体、予定通り接近中」

「北より『静寂』。東より『反響』。南より『連鎖』」

 

 指揮官が汗を拭う。狂気の作戦だ。世界を滅ぼしかねない三つの魔王遺物を、偽の情報と微弱な因果誘導でおびき寄せ、一箇所でぶつける。互いの力を干渉させ、共倒れになったところを特製の封印檻で捕獲する──それが彼らの計画だった。

 

「来るぞ……! 遮断フィールド、最大展開!」

 

 指揮官の号令とともに、平原の空気がビリビリと震えた。

 

16. 三つの地獄

 

 最初に現れたのは、時間を歪める砂嵐だった。《逆巻きのソルガ》。彼はニヤニヤと笑いながら、空間の断層から滑り出るように現れた。

 

「ヒヒッ……。ここに来れば『静寂』の攻略データが手に入ると聞いたが……なんだ、随分と賑やかじゃないか」

 

 次に、耳障りなノイズが響き渡る。《耳裂きのノマド》。何もない空間から、ボロ布を纏った姿が滲み出るように実体化する。

 

「いいねぇ。あちこちから、罠と欲望の臭い音がするよ」

 

 そして最後に。ズシン、という重い足音とともに、その男は現れた。グラード・バロッグ。彼の背後には、青ざめた顔で必死についてくるピクスの姿がある。

 三者が対峙した瞬間。平原の因果が臨界点を超えた。

 

「──始めようか!」

 

 殻狩人の一斉射撃が合図だった。だが、その弾丸が誰かに届くことはなかった。

 

 『時喰らいの反響』。ソルガが指を鳴らすと、着弾したはずの爆炎が逆再生され、弾丸が砲身へと戻っていく。『囁断の連鎖』。ノマドが鈴を鳴らすと、兵士たちの方向感覚が狂い、味方同士で撃ち合いを始めた。『強制の静寂』。グラードが歩を進めると、そもそも火薬が爆発することをやめ、ただの鉄屑となって地面に落ちた。

 

「な、なんだこれは……! 制御できない! 出力が違いすぎる!」

 

 指揮官が絶叫する。計算外だった。三つの遺物は互いに反発し合うどころか、それぞれのベクトルで勝手に現実を侵食し、この平原を「物理法則の墓場」に変えてしまったのだ。

 

「う、わぁぁぁぁっ!」

 

 ピクスは頭を抱えて地面に這いつくばった。地獄だ。右を見れば時間が巻き戻り、左を見れば味方が殺し合い、正面では音が消滅している。脳が処理落ちを起こし、吐き気が止まらない。

 

17. 全部、黙れ

 

 混戦の中心で、グラードは立ち尽くしていた。苛立ちが、限界に達していた。

 ソルガの巻き戻しによる空間の歪み。ノマドの精神を逆撫でするノイズ。殻狩人たちの恐怖と殺意の波動。

 

 うるさい。うるさい、うるさい、うるさい。どいつもこいつも、俺の世界に勝手な音を流し込むな。

 

「……ヒヒッ! どうした静寂の旦那! その顔、随分と参ってるみたいじゃねえか!」

 

 ソルガが挑発し、時間をずらした死角からの斬撃を放つ。ノマドが不快な笑い声を脳内に響かせる。

 グラードの中で、何かが切れた。理性ではない。手綱だ。内側で暴れ狂う「反動の咆哮」を、外側の世界へ解き放つための栓を、自ら引き抜いた。

 

「──全部、黙れ」

 

 それは、言葉というよりは、爆発だった。

 

 ドォォォォォォォォンッ……!!

 

 音がしたわけではない。世界そのものが「停止」させられた衝撃だ。グラードを中心にして、黒いドーム状の静寂が爆発的に膨れ上がった。

 ソルガの「巻き戻し」が、強制的に停止させられる。時間が戻る前に、空間ごと固定されたのだ。ノマドの「ノイズ」が、物理的な圧力によって圧殺される。音の伝わる媒体である空気そのものが、コンクリートのように凝固したからだ。殻狩人たちは、悲鳴を上げる暇もなく、強化外骨格ごとペシャンコに潰れた。

 

「ガ、ハッ……!?」

 

 ソルガが血を吐いて吹き飛んだ。時間を戻そうとしても、戻るための「過去」が静寂に塗りつぶされて認識できない。

「馬鹿な……! 理屈が、通じねえ……!」

 

 ノマドもまた、両耳から血を流して膝をついた。

「あ、ああ……! 俺の音が、聞こえねぇ……!」

 

 相性? 関係ない。理屈? 知ったことか。圧倒的な質量(暴力)の前では、どんな搦め手も無意味だ。グラードは、ただ「うるさいから叩き潰した」。それだけだ。

 

18. 災害の痕跡

 

 数分後。静寂が引いた平原には、更地が広がっていた。クレーターの凸凹さえも平らに均され、殻狩人の基地は鉄屑の絨毯に変わっている。

 ソルガとノマドの姿はない。彼らは致命傷を負いながらも、三魔殻としての意地──あるいは生存本能で、次元の裂け目へと逃げ延びたようだ。だが、もはやグラードに正面から挑もうとは思わないだろう。それほどの恐怖と、圧倒的な暴力の格差が、この地に刻まれていた。

 

 荒野の真ん中に、グラードが立っている。その瞳孔は完全に開ききり、獣の形をしたまま戻らない。全身から湯気のように静寂の余波を立ち昇らせ、虚空を睨み続けている。

 

「……は、はは……」

 

 ピクスは、生き残っていた。グラードが守ったわけではない。たまたま、静寂の発生源──台風の目──に転がっていたから、圧死を免れただけだ。一歩ずれていれば、殻狩人と同じ鉄屑になっていただろう。

 

(人間じゃない……)

 

 ピクスは震える体で立ち上がり、巨人の背中を見つめた。今まで、心のどこかで思っていた。「グラードも人間だ、話せば分かるかもしれない」と。だが、今のでハッキリした。あれは、人の形をした災害だ。意思疎通などできるはずがない。地震や竜巻に「止まってくれ」と頼むようなものだ。

 それでも。ピクスはグラードの背中に向かって歩き出した。恐怖で足がすくむ。逃げ出したい。だが、この世界のどこに逃げ場がある? ソルガやノマド、殻狩人……あんな連中が跋扈する世界で、たった一人で生き延びられるわけがない。

 

(地獄の底まで、ついていくしかねえんだ)

 

 ピクスは涙を拭い、覚悟を決めた。それは希望への覚悟ではない。この「神話的な破滅」を、最後まで特等席で見届けてやるという、やけっぱちの決意だった。

 グラードが動き出す。ピクスが続く。静まり返った平原には、二人の足音だけが、不気味なほど鮮明に響いていた。

 

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