荒界の静寂   作:一丸壱八

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第3章 崩壊への祭壇
第4話


1. 骨灯平原と白い鎖

 

 骨灯平原(ボーンランタン・プレイン)。その名の通り、戦死者の骨で作られた白い風車や灯籠が、どこまでも続く平原だ。風が吹くたび、カラカラと乾いた音が鳴る。それは死者たちの合唱のようでもあり、侵入者を拒む警告のようでもあった。

 

「……嫌な音だ」

 

 ピクスは耳を塞ぎながら歩いていた。ノマドに傷つけられた耳はまだ疼いている。だがそれ以上に、この乾いた音が、グラードの神経を逆撫でしないか気が気でなかった。

 グラードは無言だった。その瞳は虚ろで、焦点が合っていない。侵蝕段階・第四段階〈断層の静寂〉。彼の周囲の空間は、常にモザイクのように細かくひび割れている。近づくだけで肌が切れそうな、鋭利な静寂。彼はもう、ピクスの方を見ようともしなかった。

 

 その時。骨の風車の影から、白い鎧を纏った騎士たちが現れた。《白鎖団(ホワイトチェイン)》。表向きは「災厄者から民を守る聖騎士団」を名乗るが、その実態は「災厄者の周囲にいる弱者を狩り、災厄を孤立させる」ことを教義とする狂信的な粛清部隊だ。

 

「発見したぞ。あれが『静寂の王』……そして、その“餌”だ」

 

 小隊長である《鎖番(ケイジキーパー)》が、冷徹な目でピクスを指差した。彼らはグラードを見ない。見るのはピクスだけだ。

 

「災厄者は、守るべき弱者がいなくなれば、やがて自滅する。まずはあの小僧を殺せ。穢れた餌を絶て!」

 

2. 慈悲なき救済

 

 白鎖団の戦術は陰湿だった。彼らはグラードに攻撃を仕掛けない。グラードの静寂が届かない遠距離から、ピクスだけを狙って矢を放ち、石礫を投げつける。

 

「う、わあぁっ!?」

 

 ピクスは悲鳴を上げ、グラードの足元に転がり込んだ。矢が掠め、頬が切れる。グラードは動かない。彼にとって、遠くで飛んでいる羽虫──白鎖団──など、認識の外だ。

 

「グラード! 助けてくれ! 俺を狙ってやがる!」

 

 ピクスが叫び、グラードの足にしがみついた。その振動が、巨人の意識をわずかに現実に引き戻した。

 グラードは、ゆっくりと視線を落とした。そこに「仲間を守る」という意思はない。ただ、自分の足元で騒いでいるノイズと、その原因となっている遠くのノイズを認識し──不快だと感じただけだ。

 

「……散れ」

 

 グラードが足を踏み鳴らす。静寂が津波となって押し寄せた。

 

 ドガガガガッ! 骨の風車が粉砕され、白い鎧の騎士たちが血を吐いて吹き飛ぶ。だが、今回の静寂はそれだけでは止まらなかった。制御を失った波動は、白鎖団の後方に拘束されていた「囮として連れてこられた避難民たち」までも飲み込んだのだ。

 

 遠くで、縛られていた人影の群れが、糸の切れた人形のように崩れ落ちるのが見えた。彼らは何もしていない。ただそこにいただけだ。白鎖団の生贄にされた被害者たち。だがグラードの静寂は、敵も味方も、善人も悪人も区別しない。「範囲内にあるノイズ」をすべて消去した。それだけだ。

 

 鎖番が、血の泡を吐きながら最期の言葉を投げかける。

 

「見ろ……小僧……。これが……貴様が選んだ……王の姿だ……。貴様がいる限り……この災厄は……誰も救わない……すべてを……殺す……」

 

 鎖番は息絶えた。世界に音が戻る。

 

 グラードは、目の前に広がる死体の山を無関心に踏み越えていく。ピクスは震える足で、その後を追うしかなかった。

 

「あ……」

 

 足元を見るたびに、絶望が胸を刺す。そこには、圧死した子供や老人の姿があった。

 

(俺のせいだ……)

 

 自分がここにいなければ、白鎖団は来なかった。自分がグラードに助けを求めなければ、グラードは範囲を広げなかった。自分が生き残るために、他人が死んだ。

 罪悪感で押し潰されそうになりながらも、この背中以外に行く場所がないという事実だけが、ピクスを縛り付けていた。

 

3. 砂鐘の予言

 

 砂嵐を避け、二人が逃げ込んだのは砂鐘聖堂(アワーグラス・チャペル)だった。屋根は崩れ落ち、祭壇には首のない女神像が鎮座している。そこで、一人の老司祭が待っていた。

 司祭は、入ってきたグラードを見ても驚かなかった。まるで、世界の終わりが訪れることを最初から知っていたかのように、穏やかに微笑んだ。

 

「ようこそ、静寂の王よ。そして、その影を歩く者よ」

 

 グラードは司祭を無視し、壁際で座り込んだ。今の彼にとって、静かにしている人間は風景と同じだ。

 司祭は、震えるピクスに水差しを差し出した。

 

「恐れることはない。ここは時と因果の終着点。全ての運命が一度立ち止まる場所だ」

「あんた……何者だ? グラードを知ってるのか?」

 

 ピクスが問うと、司祭は女神像を見上げた。

 

「私は観測する者だ。……少年よ。お前は気づいているはずだ。あの男は、もう人間ではない。世界そのものが『静寂』を望み、あの男という器を選んだのだ」

 

 司祭の声は、不思議とグラードの静寂に消されずに響いた。

 

「あの男は最後に、必ず『静寂』を選ぶだろう。自らの命を含めた、完全なる沈黙を。それは誰にも止められない」

 

「じゃあ、俺はどうすればいいんだよ! 俺も一緒に消えるのか!?」

 

 ピクスが叫ぶ。司祭は、哀れむような、それでいて希望を託すような目でピクスを見た。

 

「あの男が静寂を選ぶ時……お前だけは、『意味』を選ぶことができる」

 

「意味……?」

 

「そうだ。あの男が何のために戦い、何を残して消えたのか。その答えを決める権利は、神ではなく、最後まであの男の背中を見ていたお前だけにある」

 

 司祭の言葉は予言のように重く、ピクスの胸に沈んだ。グラードは眠っている。その寝顔は、かつてないほど苦しげで、悪夢にうなされているようだった。

 

4. 逆流の処刑場

 

 聖堂を出た二人を待っていたのは、最後の罠だった。罅割れ平原(クラックベイン)。大地に巨大な亀裂が走り、そこから逆流する風が噴き出している異常地帯。

 そこに、奴がいた。全身の包帯を新調し、さらに禍々しいオーラを纏った《逆巻きのソルガ》。そして、彼の周囲には再集結した白鎖団の本隊が展開していた。だが、その瞳は虚ろだ。おそらくソルガの巻き戻しの中に囚われ、弾丸として利用されているのだろう。

 

「ヒャハハ! 待ってたぜ、静寂の旦那! そして小僧! ここがお前らの墓場だ!」

 

 ソルガが両手を広げる。その背後で、巨大な遺物『時喰らいの反響』が駆動音を上げ、平原全体を包む結界を展開した。

 

「ここは俺の腹の中だ。『五秒巻き戻しの連続領域』……ここじゃあ、死ぬことすら許されねえ。永遠に殺され続ける処刑場だ!」

 

 空間が歪む。白鎖団が一斉に襲いかかってくる。グラードが斧を振るい、敵を粉砕する。だが、次の瞬間には敵は無傷で戻り、再び襲ってくる。

 

「終わりがない……!」

 

 ピクスは絶望した。これは前の戦いとは違う。ソルガはグラードを倒そうとしていない。「閉じ込めよう」としているのだ。無限に続く殺戮のループの中にグラードを封じ込め、その精神が摩耗して自壊するのを待つ作戦だ。

 グラードの静寂が荒ぶる。イラつき、焦り、咆哮する獣のように、無差別に周囲を破壊し始める。しかし、壊しても壊しても、五秒後には元通りになる。

 

「ヒヒッ! どうだ! お前の大好きな静寂なんて、永遠に来ないぜ!」

 

 ソルガの高笑いが響く。グラードの瞳から、理性の光が完全に消えた。侵蝕段階が、限界点──第五段階──へと近づいていく。

 ピクスは見た。グラードの体が、内側からの圧力でひび割れ、そこから黒い霧のようなものが噴き出しているのを。限界だ。このままでは、グラード自身が爆発して消滅する。

 

(俺に……何ができる? 俺はただの観客じゃないのか?)

 

 その時。白鎖団の矢が、殺戮の嵐を縫ってピクスの足を貫いた。

 

「が、ぁっ……!」

 

 ピクスが倒れ込む。その悲鳴が、グラードの耳に届いた──のかどうかは分からない。だが、グラードはピクスの方を向いた。その虚ろな瞳が、ピクスを映す。

 そして、終わりの時が動き出す。

 

5. 無限の処刑台

 

 五秒。それが、この世界に残された時間のすべてだった。

 

「ヒャハハハハ! 戻れ! 何度でも死んで、何度でも戻れぇ!」

 

 《逆巻きのソルガ》の狂笑が響くたび、世界がガクリと揺れ、巻き戻る。白鎖団の剣がグラードの肉を裂く。グラードが斧を振るい、白鎖団をミンチにする。──ノイズが走り、全員が無傷で元の位置に戻る。

 永遠に続く殺し合い。グラードの足元には、現実改変の負荷に耐えきれなくなった地面がドロドロに融解し、黒い沼のようになっている。

 

「が、ぁ……っ」

 

 ピクスは泥の中で悶えていた。足に刺さった矢の痛みだけは、巻き戻っても消えない。脳が焼き切れそうだ。何度も死にかけ、何度も生かされ、痛みだけが蓄積していく。

 

(グラード……もう、だめだ……)

 

 巨人の背中を見る。その背中は、ボロボロだった。敵の攻撃ではない。内側からの崩壊だ。終わらないループへの苛立ちと、極限まで高まった静寂への飢えが、グラードの肉体という器を内側から食い破ろうとしている。全身の皮膚がひび割れ、そこから黒い煙のような“虚無”が漏れ出している。

 

 侵蝕段階・第五段階〈虚寂(きょじゃく)〉。限界点だ。

 

6. 絶対静寂

 

「仕上げだ! おい白鎖団! あの小僧を狙え!」

 

 ソルガが叫んだ。歪んだ空間の向こうから、白鎖団の兵士たちが一斉にピクスへ狙いを定める。グラードを精神的に追い詰めるための、卑劣な一手。

 

「死ね、災厄の餌よ!」

 

 数十本の矢と、魔術の弾丸がピクスへと放たれる。逃げ場はない。足は動かない。ピクスは反射的に目を閉じ、名を呼んだ。

 

「グラードッ──!」

 

 その悲鳴が、巨人の鼓膜を打った。グラードがゆっくりと振り向く。その瞳に、理性はなかった。獣の光すらなかった。あるのは、底なしの暗い(ホール)

 

 うるさい。邪魔だ。俺の通り道を、俺の静寂を、これ以上汚すな。

 

 グラードは、斧を捨てた。そして、ひび割れた両手を広げ、世界そのものを鷲掴みにするように虚空を握りしめた。

 

「──消えろ」

 

 音が消えたのではない。存在が消えた。

 

 ブツンッ。世界中の電源が落ちたような、唐突な暗転。

 

 ピクスに迫っていた矢が、空中で灰になって崩れ落ちた。白鎖団の兵士たちが、悲鳴を上げる間もなく、輪郭を失って砂へと還る。彼らは殺されたのではない。「最初からいなかったこと」にされたのだ。

 

「な、あ……!?」

 

 ソルガが目を見開く。彼の『時喰らいの反響(タイド・オブ・エコー)』が軋みを上げる。巻き戻そうとした。だが、巻き戻すための「時間」そのものが、グラードの静寂に食われて消滅している。

 

「ま、待て……! 俺の時間は……俺の因果は……!」

「うるさい」

 

 グラードが一歩踏み出す。その足音だけで、ソルガの遺物が砕け散った。時の檻が壊れる。因果の逆流が止まる。

 ソルガは何かを叫ぼうとして、口を開けたまま、ゆっくりと炭化していった。絶対的な“停止”の前に、過去への逃避は許されなかった。

 

7. 崩壊

 

 敵は消えた。ループは終わった。平原には、風の音ひとつしない、完全な静寂だけが残された。

 グラードは、立ち尽くしていた。その体は、ボロボロと黒い粒子になって崩れ始めていた。自身の存在を維持する力さえも、静寂の燃料として使い果たしてしまったのだ。器が壊れる。魔王の遺物が、宿主を食いつくして自壊していく。

 

「グ、グラード……?」

 

 ピクスは這いずりながら近づいた。グラードが、ゆっくりと膝をつく。その巨体が、枯れ木のように傾く。

 倒れる寸前。グラードの視線が、ピクスを捉えた。虚ろだった瞳に、最期の瞬間だけ、わずかな光が宿る。それは慈愛でも、後悔でもない。ただ、自分の背後でしぶとく生き残り続けた「小さな機能」への、客観的な評価だった。

 

「おまえは……」

 

 グラードの唇が動く。掠れた、だがはっきりとした声が、静寂の底に落ちた。

 

「……よく走ったな」

 

 ドサリ。巨体が大地に崩れ落ちた。土煙が上がり、やがて静まる。

 もう、動かない。呼吸もない。圧倒的だった威圧感も、世界を歪めていた因果の重みも、嘘のように消え失せていた。

 ただの、物言わぬ肉塊。それが、かつて「災厄」と呼ばれた男の最期だった。

 

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