剣鬼が弟子に人生をそのまま奪われるお話 作:@abc
教師の記憶 1
かつての彼は、正に「鬼」そのものであった。
学園に連れてこられた当初、あの子の瞳には、よく研ぎ澄まされた包丁の如き静謐な、それでいて底知れぬ飢えを孕んだ鋭さが宿っていた。
あの子にとって、世界は「既に斬ったもの」と、「未だ斬れぬもの」の二つにしか分かれていなかった。立ちはだかるすべてを、いつか必ず断ち切るべき標的としてのみ見つめるその眼差しは、情愛を介在させる隙など微塵もない、純粋な「極致への執念」そのものだった。
私はそんなあの子の、剣を握ること以外を拒絶する震える拳を包み、剣は人を守るためにあるのだと、人間として生きる道があるのだと、数年をかけて説き続けた。
その教えが実ったのだと、私は確信していた。
あの子が最上級生となった年、一人の少女を連れて帰ってきた時のことを今でも覚えている。泥と血にまみれた彼女を抱え、「この子を、人間に育ててほしい」と私に託したあの子の瞳には、かつての飢えではない、寄る辺ない者への不器用な情愛が宿っているように見えた。
それからあの子が卒業するまでの身を切るような一年間、彼は不慣れな手つきで妹弟子の面倒を見ていた。
だが、世界は彼を「人間」のままにはしておかなかった。
あの子が卒業式を終え、その晴れやかな笑顔で門をくぐった正にその日、隣国との大戦が勃発したのだ。
平和な学園の記憶が硝煙に塗り潰される中、あの子は「英雄」という名の生贄として最前線へ駆り出された。数年後、妹弟子であった彼女もまた、後を追うように戦火の中へと消えていった。
あの子たちが最後に残したあどけない笑顔。私はそれを守り抜いたつもりでいたが、実際には、私が「人間」として育てたあの子たちを、戦場という名の屠殺場へ、ただ無垢なまま送り出しただけだったのではないか。
そんな後悔が泥のように心に溜まっていたあの日。静まり返った戦場で再会したあの子は、もはや私が知る教え子ではなかった。
返り血で真っ赤に染まり、積み上がった死体の上に立つ姿は、かつての、いや、それ以上の凄惨な鬼へと先祖返りしていた。
あのよく研がれた包丁のような瞳は、今や濁った殺意ではなく、狂おしいほど純粋な「飢え」を宿した剥き出しの凶器となって私を貫いていた。
かつては世界を斬るために研がれていたその刃が、今は「人間になどなりきれなかった自分自身」を、そして「自分を中途半端に人間にした私」を、根こそぎ断ち切ろうとする絶望的なまでの意志として、私の眼前に突きつけられていた。
「……あんたの力さえあれば、あんたが言葉を尽くせば、この戦争だって、アイツらが殺し合うのだってなんとか、止められたはずだろ! なんで……なんで、ただ見てたんだよ!」
喉を引き裂くような罵倒。その直後、あの子がほんの一瞬だけ見せた表情を、私は一生忘れることができない。
あの子は私に、持ちもしない「万能の力」という幻想を押し付け、呪いのように叫んで消えた。
私にそんな力がなかったことなど、あの子自身が一番分かっていたはずだ。それでも叫ばずにはいられなかった教え子の絶望を、私はただ受け止めることしかできなかった。
怒りの影に潜んだ、泣き出しそうなほどの後悔。自分の犯した大殺戮への嫌悪と、それを恩師のせいにするしか己を保てない弱さが、その瞳に一瞬だけ揺らめいた。あの子はそのまま、まるで己を罰するように、未だ戦火の燻る隣国との境界へと姿を消したのだ。
数ヶ月後、私の元に届いたのは「彼の消息が途絶えた」という一報だった。
公式には戦死扱い。生存の可能性は絶望的であるという無慈悲な報告書を、私は今も捨てられずにいる。
「先生……もう、諦めましょう。あんな激しい戦いだったんです。師匠は、師匠はもう……どこにもいないんです……っ」
あの子が散ったとされる荒涼とした廃墟で、弟子の少女は顔を覆って泣き崩れた。
彼女は、あの子の死を誰よりも深く嘆き、ことあるごとに私に「捜索を打ち切り、安らかに眠らせてあげよう」と涙ながらに説いてきた。その健気な姿に、私は自分の無力さを突きつけられる思いだった。
あの日、私があの子を引き止めてさえいれば。そんな後悔を抱えながら、私は彼女の肩を抱くことしかできない。
「……すまない。君が一番辛いのに、私まで取り乱してしまった」
「いいんです……。こうして先生と、師匠の最期の場所を巡ることだけが、今の私の救いなんですから……」
少女は痛々しく微笑み、泥にまみれた膝をついて再び祈りを捧げる。
だが、その祈りはあまりに長く、あまりに熱烈だった。彼女はひとしきり泣きじゃくった後、憑き物が落ちたような顔で立ち上がった。
「先生、少し一人で祈らせてください。……最後にお別れを、言いたいんです」
そう言い残し、彼女はふらつく足取りで瓦礫の向こうへと去っていった。
一人残された私は、あの子を永遠に失ったという虚脱感に支配され、その場に立ち尽くすしかなかった。
そこへ、衣擦れの音と共に、冷ややかな声がかけられた。
「先生。いつまで、あの子の三流芝居に付き合って差し上げるおつもり?」
背後で馬を止めていた公爵令嬢が、扇子で口元を隠しながら、極めて事務的な声で私を見下ろしていた。
「芝居? ……令嬢、彼女はあの子を失って、あんなに……」
「ふふ、本当におめでたい人。……あの子、自分の服に付いた『死んだはずの彼の匂い』を消すことすら忘れるほど、彼を愛でるのに夢中なのよ。死んだ人間が、あんなに生々しい熱と鋼の匂いを、今の彼女の衣類に残すかしら?」
耳を疑う私の動揺を無視し、令嬢はさらにその冷徹な眼光を、少女が去っていった方角へと向けた。
「何より、あの眼よ。……愛する者を失った人間の眼ではないわ。あれは、欲を満たし、さらなる悦びを求める渇望者の眼だもの。 瞳の奥に澱んだあのどろりとした光——。あれを絶望と履き違えるなんて、先生は少しばかり人が良すぎるわ」
令嬢は、少女が流した涙の裏側にある、異常なまでの充足感を見抜いていた。少女が泣きながら「師匠はいない」と嘘を吐くその瞬間、彼女の瞳には「自分だけが彼を独占している」という強烈な渇望が、隠しきれぬほど爛々と輝いていたのだ。
「……気づいているなら、なぜ早く教えない! ああこうなったら、今すぐにでも……!」
詰め寄ろうとする私の言葉を、令嬢の冷徹な一言が遮った。
「落ち着きなさいな。今、私たちが下手に動けば、あの子はすぐに感づいて、彼を連れてどこか遠い場所へ逃げ隠れてしまうわ。公式に死んだことになっている男を、広大な大陸のどこから探し出すおつもり? 今は刺激せず、泳がせておくのが最善よ」
令嬢は、あの子の執着心を正しく恐れ、獲物を確実に仕留めるための冷徹な算段を立てていた。
「下手に兵を動かせば彼を追い詰めるだけ。だから今は、私の手の者を影として放ってあるの。静かに、確実に逃げ道を塞ぎ……万全の体制を整えてから、必ず彼を救出しましょう。彼は国家の英雄です。相応しい場所で、相応しい精神状態へ直してから、再び世に戻すのが貴族としての配慮というものですわ。 私はただ、彼を正しい形に復元したいだけ。先生あなただってわかってくれるでしょう、私のことを。」
彼女は、自分が彼に特別な感情など抱いていないと、ただ国家の財産を管理したいだけなのだと、そう説いた。
「場面さえ整えて迎えに行けば、あの人は自力で立ち直る強さを持っているわ。それまではあの子に、仮の管理をさせておけばいいのよ。私は完璧な布陣を整え、最も効率的なタイミングで彼を『保護』します。先生、信じてくださいな。私はただ、国家の英雄に正しい居場所を与えたいだけなのですから」
令嬢はそう語り、私を安心させるように微笑んだ。
私はその言葉に従うしかなかった。あの子を今すぐ救い出す力を欠いた私は、彼女の言う「準備」が整うその日まで、偽りの弔いを続けるしかないのだ。
だが、去っていく彼女の横顔を見送ったとき、背筋に冷たいものが走った。
あの時、彼女の瞳は本当に言葉通りの「配慮」で揺れていたのだろうか。
「直して戻す」と口にした瞬間、彼女の瞳が、一瞬だけ正気とは思えぬほどどろりと濁った渇望に濡れていたように見えてしまった。英雄への配慮という言葉も、執着していないという態度も、すべては彼を完全に屈服させ、自分の支配下に置くための、残酷な計算に基づいた綺麗事に過ぎなかったのではないか。
私は、そんな考えを振り払うように首を横に振った。
……まさか。
あの子がそんなにも歪んでいるはずがない。
あの教え子が、あの子を不幸にするはずなど――。
そう、信じていたかっただけなのかもしれない。
真実を認めてしまえば、私はもう、あの子を地獄から救い出す機会を永遠に失ってしまうのだから。
教師くん
剣鬼の学生時代の担当教員。剣を極めることしか知らなかった「鬼」に、数年かけて人間性を叩き込んだという、とんでもなく難易度の高い育成をやり遂げた超人。現在の弟子の少女がいるのは、彼が剣鬼を「人間」に繋ぎ止めたからこそであり、弟子はもっと彼に感謝すべきである。
ただし武人ではないので、戦場に出るとびっくりするほどあっさりくたばる。
公爵令嬢
教師の教え子で、剣鬼とは同学年。つまり腐れ縁。
現在は失踪中の剣鬼をどうにかして目の前に引きずり出す為に、裏であれこれ画策中。
弟子の少女のことは普通に嫌いです。理由? 察してください。
なお本人は「国家のため」「英雄のため」と言い張っていますが、その熱量が本当に公的なものかどうかは、誰にも分かりません。