剣鬼が弟子に人生をそのまま奪われるお話   作:@abc

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教師の密約 1

弟子ちゃんを彼女の自宅へと送り届け、安らかな眠りへと誘う言葉を投げかけたその足で、私は街の外れにある公爵家の秘密の別荘地を訪れていた。

 

中心街の喧騒が背後へ遠ざかるにつれ、街道を照らす街灯の数はまばらになり、やがて視界は深い闇に侵食されていく。馬車も通らぬほどに荒れ果てた森の道を進むにつれ、周囲の景色は急速にその色を失っていった。立ち並ぶ樹木は不自然にねじ曲がり、大気は肌に粘りつくような重苦しさを帯び始める。肺の奥が焼けるような、息詰まる独特の沈黙。そこは、生命の気配よりも「意志」の気配が勝る、不気味な静謐に支配されていた。

 

およそ人が立ち入るべきではない、あるいは「人には見えない」ように仕組まれた森の入り口に、一つ、場違いな立て看板が立っていた。

 

苔むした石の上に置かれたその看板には、公爵家の古い紋章とともに「此れより先、理の異なる地」とだけ、警告のように刻まれている。

私はその前で足を止め、肺腑の毒を吐き出すように一度だけ深く息をついた。これから踏み込む場所は、国家の法も人の倫理も及ばない、公爵家の権力が作り上げた異界だ。私は覚悟を決め、その見えない境界線を一歩、踏み締めた。

 

――その瞬間、耳鳴りとともに視界が歪み、景色が劇的に一変した。

 

先ほどまでの暗澹とした森と腐った土の匂いは霧のように消散していた。頭上には、外界の夜とは明らかに質の異なる、やけに明るく澄んだ月光が降り注いでいる。そして目の前には、現実離れしたほど煌びやかで豪華な屋敷が忽然と姿を現していた。広大な庭園には狂い咲くような大輪の薔薇が咲き誇り、噴水の音だけが一定のリズムで時を刻んでいる。外界の喧騒や汚泥から物理的にも精神的にも完全に断絶された、公爵家のみが領する「隔離された聖域」であった。

 

私は、出迎えた無口な使用人に導かれ、屋敷の最深部へと足を踏み入れた。

 

 

無口な使用人に促され、私は屋敷の最上階にある重厚な扉の前に立った。

 

黒檀の扉が開かれると、そこには芳醇な香りと、計算し尽くされた贅に彩られた空間が広がっていた。令嬢は窓際に置かれた寝椅子に身を横たえ、庭園を眺めている。

 

私が足を踏み入れると、彼女は顔だけをこちらに向け、妖艶な笑みを浮かべた。

 

「……ようこそ、先生。私の部屋へ」

 

彼女は手元のベルを鳴らし、使用人を下がらせた。

カチリ、と扉が閉まる音が、この部屋が密室になったことを告げる。

 

「ここには、あの子の耳も、有象無象の視線も届きませんわ。……さあ、こちらへ。貴方が今日、あの子の家に行った収穫を聞かせてくださるかしら?」

 

私はその問いに応じるべく、今日見てきた光景を脳裏に反芻した。無意識にこめかみを指先で押さえ、あの無機質な部屋の細部を、逃さぬよう記憶の底から引きずり出す。

 

「……先生、立ったままではお話も捗りませんわ。どうぞお掛けになって。私の隣ほどではありませんが、考察を語るには相応しい席ですわ」

 

令嬢は扇子を閉じ、対面にある豪奢なベルベットの椅子を指し示した。それは勧誘というより、有無を言わせぬ命令に近い響きを持っていた。

私が腰を下ろすと、彼女は満足げに目を細め、細い指で膝を軽く叩きながら、私の言葉を待った。

 

私は彼女の鋭い視線を受け止めながら、静かに語り始めた。

 

「……まず一つ。彼女は間違いなく、彼の行方を知っている。あるいは、その所在を把握している」

 

令嬢は眉一つ動かさず、先を促した。

 

「二つ目。あの子は、家にはほとんどいない。今日、私に食事を振る舞ってくれたが、台所の勝手口には驚くほど何もなく、井戸の水桶にも水垢ひとつない。この時期なら当然あるはずの保存用の塩すら見当たらなかった。……そして何より、台所にはうっすらと埃が積もっていた。日々使われている場所とは思えない」

 

「最後に、これは二つ目の補足になるが……買い物の途中で、馴染みの店に立ち寄った時のことだ。誰もが彼女を見るなり『おや、お久しぶりです』『しばらく見かけませんでしたが、またどちらかへ?』と声をかけた。師を失って家に籠もっているはずの娘に向ける言葉としては、あまりにも無頓着で、しかも揃っていた。……彼らは、あの子が街を離れていたことを知っていた」

 

令嬢は面白そうに首を傾げる。

 

「それは、塞ぎ込んでいたから、町の人々が気を遣って『久しぶり』と挨拶しただけでは?」

 

「いや、違う。もし本当に飯も喉を通らぬほど落ち込んでいたなら、もっと心配されるし、『またどこかへ』なんて言葉は出ない。そして本当に食べていなければ、あの子の身体はもっと……枯れているはずだ」

 

私は、今日出会った少女の感触を思い出しながら言った。

 

「だが、あの子の身体は驚くほど健康だった。肌に艶があり、芯に力がある。絶望に沈んでいるどころか、どこかで精力的に活動していたとしか思えない」

 

「……あの子も、あの家も、周囲を欺くための身代わりだと?」

 

「いや、欺くというより……私たちに情報を与えないために“普段通り”を演じている。だが、その割にはボロが多すぎる気がするけど」

 

令嬢は扇子で口元を隠し、くすりと笑った。

 

「ふふ……。素晴らしいわ、先生。あの子が精巧に作り上げた平穏という名の薄氷を、貴方はこれほどまでに見事に踏み抜いてみせた。その観察眼、そして教え子の僅かな変化すらも見逃さない執着……。流石は、あの剣鬼が唯一、自らの背を預けた御方ですわね」

 

 彼女は寝椅子からゆっくりと身体を起こし、賞賛を込めた眼差しを私に向けた。

 

「あの子はまだ、この裏にさらなる『秘密』を隠し持っているのでしょう。けれど……それを見抜かれるのは時間の問題だと思わせるほどの鮮やかな手際。本来なら時間をかけても尻尾を掴ませないあの子を相手に、これほどスムーズに綻びを暴いてみせるなんて」

 

 令嬢は愉快そうに喉を鳴らし、扇子の先をいたずらっぽく私に向けた。

 

「ふふ、先生。……いっそ、探偵の仕事でも始めてみないかしら? 貴方ならこの職業も、完璧にこなせるでしょう」

 

 その茶化すような言葉に、私は眉ひとつ動かさず、冷えた紅茶のような声音で返した。

 

「……あいにくだけど、私は真実を暴くよりも、人に何かを教えている方が楽しい性分でしてね。それに、探偵というのは他人の人生を覗き見るのが仕事だろう。私は、今度こそは他人としてではなく、教師としてあの子に自分自身の人生を、せめて自分の意志で選択させてやるべきだと思っているだけです。このまま沈んでいるのを、ただ見ているわけにはいかない。……それだけのことです」

 

 私の真面目すぎる返答に、令嬢は一瞬だけ虚を突かれたように目を見開き、やがて呆れたようにため息をついた。

 

「本当、つまらない殿方。……けれど、そのつまらなさこそが、あの子が貴方をあそこまで慕っていた理由なのかもしれませんわね」

 

 令嬢は満足げに頷き、視線を私の背後、部屋の隅へと投げた。

 

「……いかがかしら、護衛ちゃん。これほどの材料を揃えてみせた先生を、貴方はどう評価しますか?」

 

 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、部屋の空気が一変した。

 

 令嬢の問いかけに応じるように、部屋の隅、闇が凝固していた場所から「それ」は現れた。

 音もなく踏み出された一歩が、絨毯に沈み込む。現れたのは、女性としてはあまりに峻烈な、そして周囲の空気を物理的に押し潰すような、質量を持った重圧を放つ女性だった。

 

 並の男を容易に見下ろすほどの高身長。重厚な具足に包まれてなお、その立ち姿からは鍛え上げられた猛獣のような強靭さがひしひしと伝わってくる。そして、武の心得などない私なら、彼女が少し指を動かしただけで自分の命が羽虫のように散らされることを、生存本能が理解させ、警鐘を鳴らし続けていた。

 

 そして何より目を引くのは、その頭頂から覗く尖った耳と、感情を排した金色の瞳――猫科の獣人としての特徴だった。

 

彼女が視線を向けた瞬間、私の背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走った。

 

 縦に裂かれた瞳孔。獲物を逃さぬ鋭い双眸。その「怖い」という一言では片付けられない、上位の捕食者特有の冷徹な目つきに射すくめられれば、普通の人間なら呼吸を忘れ、ただ生存本能に従って萎縮し、膝をついてしまうだろう。

 彼女は腰に差した無骨な太刀の柄に手をかけたまま、私との間合いをゆっくりと詰めてくる。

 

「……見事な考察です、先生」

 彼女の声は、低く、腹に響くような唸りを孕んでいた。

 

その声、その姿に、私は強烈な既視感を覚えた。いや、見覚えがあるどころではない。私の脳裏に、数ヶ月前まで世間を震撼させていた戦火の記憶が鮮烈に蘇る。敵陣の最奥に鎮座し、一瞥だけで数万の兵を敗走させたという逸話を持つ、異国の英雄。

そして、あの子と並び称され、一国を滅ぼしうる武の頂――その最上位層に君臨する、人知を超えた武の象徴。

 

「……まさか、貴女は……北伐で数千の精鋭をその拳で粉砕したという、あの、『絶拳』なのか……」

 

絞り出した声は、自分でも驚くほど情けなく掠れていた。

 彼と同格の、歴史に刻まれた本物の怪物。なぜそんな存在が一介の護衛として、事もなげにここにいるのか。私の頭は、恐怖を置き去りにするほどの巨大な疑問で埋め尽くされていた。




先生
弟子ちゃんの正体を探るため、わざわざ彼女の自宅まで同行し、生活環境や周囲の反応から情報を集めていた。
その考察を令嬢ちゃんに報告している最中、予期せず“敵”が目の前に現れ、さすがの先生も一瞬動揺している。

令嬢ちゃん
先生の観察眼が衰えていないことに内心ほっとしている。
「そういえば護衛をまだ見せていなかったわね」と、軽い思いつきのような調子で護衛ちゃんを呼び出したが、
先生が予想以上に動揺したのを見て、少しだけ意外に思っている。

護衛ちゃん
今回新たに登場したキャラクター。
元・敵国の幹部で二つ名もちという、普通なら歴史に名を残すほどの人物が、なぜか公爵令嬢の私的な護衛としてこの場にいる。
世間的な評価では剣鬼くんと同格の実力者とされている。
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