教室の自称吸血鬼   作:イクラ系鮭

1 / 3
 オリジナル小説を書きたいのに! 手が勝手に!


一話

 四月。脳に花畑を持つ者共の開花時期である。

 五分で万物が腐り落ちそうな陽気の中、紅白の花紙でわざとらしく彩られた「入学式」の看板と桜を背に、親子揃って記念写真に収まる。この三歩歩けば五度見るような光景を前に、諸君は何を想うか。

 風物詩しか映っていない正に四月を体現した、いかにも平穏無事といった印象であろうか。 

 帝都東京に住んでおきながらそのような陳腐な感性を持ち合わせる哀れな魂は、これを期に自死を一度検討すべきであろう。

 こと東京において、桜とは四月を待たずして散りゆく運命にある。即ち、入学式とは桜花爛漫の最中ではなく、散りゆく花弁の只中で執り行われるものである。そして、散る桜とは言わずもがな「死」のメタファーである。

 サクラサクならぬサクラチル。願われるは合格ではなく冥福である。

 加えて、かの紅白の花紙である。御目出度さを厚かましく主張しつつも、敢えて生花を用いぬことでそれが虚飾であることを表している。いや、それどころではない。あの形状はどう見ても、葬礼に用いる菊の花ではないか。祝賀の場において、死を連想させる意匠を無自覚にばら撒くとは、なんと冒涜的で、かつ高度な皮肉であろうか。入学式の看板も、もはや芳名札と見分けがつかぬ。

 ここから導き出せる結論とはなんだろうか。

 そう、入学式とは、「子供」という存在を社会的に抹殺し、「大人」なる薄汚れた怪物へと再構築するための殺人儀式に他ならないということである。三月に自ら命を絶つ者が後を絶たぬという統計的事実を鑑みれば、もはや四月などという生温い呼称は撤廃し、いっそ死月と改名してしまったほうが辻褄が合うであろう。

 

「走れ! 走れ! 犬のように!」

「せめて馬であろう殺すぞ貴様」

「よ、単勝万馬券!」

「誅殺せしめる」

 私は現在、コンクリートジャングルをビル風の如く疾走中である。端的に言えば、寝過ごしたのだ。しかし、責任の所在は私にない。友人の窮地を救うべく定刻に叩き起こすという人として当然の義務を怠り、あまつさえ遅刻という悲劇を肴にせんと追走する「こいつ」の涙ちょちょぎれる捩じ切れた根性。そして、私の高潔なる精神を長年にわたり蝕み続けてきた、不規則極まる睡眠習慣という不可抗力こそ真因である。

「広すぎる! 教室はどこだ」

「あ、さっきあったよ名前。Dクラスだって」

「D。Dとは?」

「AからDしかないのかー。面白いこと考えちゃった。これ実は成績順で、評価がEになると落第で退学とか?」

「はは、実に面白い。で、Dはどこだ?」

 退学になったらしばらく臭い飯を食って暮らすのも吝かではないが、作業報奨金の皮算用をしている場合ではない。私を追い抜かす勢いで忍び寄る「遅刻」の二文字に尊厳を破壊されてたまるかと、私は教えられた教室へ回らぬ足を動かした。

 辛くも約束の刻限に一分遅れて後方の扉に手を掛ける。死体の如く気配を消し、ぬるりと滑り込む所存であったが、あろうことか扉は盛大な軋音を轟かせて開け放たれた。

 そして、私を待ち受けたのは動物園の珍獣を見るような、あるいは異端審問官が魔女を見るような、冷たく、それでいて興味本位な視線の束であった。

「早速人気者になれそうだね?」

 私の美貌は目に毒であろうから、早急に視線を外してもらいたい。私はいそいそと唯一空いている席に座った。黒板の前に立った女教師がこちらを一瞥して、咳払いをした。

「改めて、茶柱佐枝だ。卒業までの3年間、私がお前たちの担任をする」

 それは少々奇妙な表現だった。クラス替えはないということなのか。あるいは担任ごとクラスが変わるのか。私は眠気を誘う麗らかな光に目をしばたたかせた。

「今から1時間後に入学式が行われるが、その前にこの学校の特殊なルールについて書かれた資料を配らせてもらう。以前入学案内と一緒に送付したものと内容は同じだ」

 なるほど。では聞かなくても問題ない。そして、入学式まであと一時間ある。明快な頭脳で弾き出された結論に私は頷いた。ではおやすみ。

「え、寝るの?」

「一時間寝る。頼んだ」

「えぇ……」

 私は五感に蓋をして机に突っ伏して寝た。しかし五分も経たぬ内に、私は春眠から叩き起こされた。

仮名桐(カナキリ)、起きろ」

 女教師である。見ればなにやらカードを配っているらしい。私は緩慢な動作で立ち上がり、恭しくカードを受け取った。

「ポイントは毎月1日に自動的に振り込まれることになっている。既にお前達の端末へ10万ポイントが振り込まれているはずだ。1ポイントの価値は1円相当だから、10万円分だな」

 教室が俄に騒ぎ立つ。十万円。諭吉にして十人。吹けば飛ぶような額である。

「支給額の多さに驚いたか?」

 いや明らかに少ないであろう。

「この学校は実力で生徒を測る。入学を果たしたお前達には、それだけの価値と可能性がある。そのことに対する評価みたいなものだ。遠慮することなく好きに使え」

 現在の私の価値は十万円らしい。面接だけで入学した身で文句は言えないが、人身売買でももう少しは値が張るであろうに。

「但し、卒業時には回収される。現金化も出来ないから、それは覚えておけ。ポイントはどう使おうと自由だ。誰かに譲渡しても構わない。カツアゲはするなよ? 学校はそういうのだけには敏感だからな」

 いじめ以外の生徒間対立は知ったことではないとでも言うような物言いに、私は眉を顰めた。既にこの学校に対する信用は底を突き抜けている。

「これ、資本主義始まらない?」

「システム自体は共産主義のそれだがな」

 その心は、その内消えてなくなる。

「……質問はないようだな? では、よい学生ライフを送ってくれたまえ」

 教師は私に対する当てつけかのように、音を立てて前の扉から出て行った。私はゆるりと立ち上がって伸びをした。ぱきぱきと小気味よく背骨を鳴らし、再び座り込んで惰眠を貪らんとしたそのとき、一人の男子が徐に手を挙げた。

「皆、少し話を聞いてもらってもいいかな?」

 整った顔の男だった。はきはきと、まるで人生に何の負い目も持ち合わせていないような出で立ちの美男子だった。私には及ばないが。

「外出てからナルシスト悪化してない?」

 いわれのない誹謗中傷に、私は腕に顔を埋めた。

「僕らは今日からずっと同じクラスで過ごすことになる。だから今から自発的に自己紹介をして、一日でも早く友達に成れたらと思うんだ」

 やかましいのが耳元で囁く。

「ほほーん。あれはコンプレックスがあるタイプだな? あるいはトラウマ?」

 一々他人のプライベートを暴かなければ気が済まない妖怪に、私は苦言を呈した。

「その低俗な分析癖に何の意味がある。矮小な他人の人生を覗き見たところで、得られるのは己の空虚さの確認だけだろう」

「えーつまんない」

「つまらなくて結構。貴様のような低能な類人猿と私が同類と勘違いされてはたまらない」

 衆愚の視線が突き刺さる。何事だ。まさか隣の単細胞生物が、またしても何かやらかしたというのか?

「えーと。やりたくないならやらなくてもいいけど……」

 中空に投げられた言葉の先を探し、教室を睥睨してみたが、かの美男子を含めどいつもこいつも明眸皓歯たる私に釘付けである。まさかとは思うが、今の言葉はこの私に向けられていたのか?

「失敬、どうやら気を利かせてしまったらしい。どうぞ、ご勝手になさるがいい」

 私の親切心に口の先を引き攣らせつつ、美男子は気鋭に立ち上がった。

「そ、そうかい。僕の名前は平田洋介。気軽に下の名前で呼んでくれるかな。趣味はスポーツ全般だけど特にサッカーが好きで、この学校でもサッカーをやるつもりなんだ。よろしく」

 彼が座るや否や、忽ち拍手と騒音が巻き起こる。調子のいいことだ、私は再び夢の国へと旅立つことにしようではないか。

「そんなに寝たい?」

「安心して眠れるのは新鮮だ」

 豚小屋のような監視体制もなく、棺桶じみたあの狭小な箱で寝起きする必要もない。至高である。本音を漏らせば文明の利器たるベッドのスプリングに身を委ねたいところだが、亡命者たる私がそのような贅沢を望むのは僭越というものだろう。私は鞄に顔面を埋没させ、甘美なる睡眠欲に酔いしれた。

「おい。このカバン、存外枕としての機能を十分に備えているぞ。これはひょっとするとノーベル賞級の大発見かもしれんぞ?」

「寝耳にダイナマイトぶち込みたい」

 私はあっさり意識を彼方に飛ばした。

 

「おい、入学式が始まるらしいぞ」

 誰かが私の肩を不躾に揺さぶる震動により、甘美なる眠りから現世へと引き戻された。渋々その重い瞼を持ち上げると、そこには人生の敗北者のような面相をした冴えない男と、対照的に不当なほど整った顔立ちをした女子が、あたかも凹凸コンビの漫才師の如く突っ立っていた。

「別にこんな人間に手を差し伸べる意味はないと思うのだけど」

「一応クラスメイトだぞ……」

 一応とは、またずいぶんと私の存在意義を軽んじた言い草である。もっとも、悲しいかなそれが反論の余地なき事実である以上、甘んじて受け入れるより他ないのだが。

「ありがとう。では」

 私は優雅に一礼して講堂へ歩を進めた。

「なんで目的地が同じなのに先に行ったの? 今も三メートルくらいしか離れてないし」

 黙れ。

 

 私は高尚なる惰眠を貪るのに忙殺されており、学園長含む教員団の有難いお言葉は全く耳に入っていなかった。曰く、「実力こそ全て」などという猿山レベルの思想を笑顔で振りまいていたらしい。全くもって、私はそう思わないが。

「ほら、これがコンビニだよ!」

「ほうこれがコンビニか」

 なんと素晴らしい。これぞ、我々が暗黒時代より渇望してやまなかった文明の光というやつか。眩しすぎて網膜が焦げそうである。恐る恐る入ってみると、今朝知った顔が二つ並んでいた。

「あれは堀北に綾小路だね」

「ほう堀北に綾小路か」

 どちらが堀北でどちらが綾小路なのか皆目見当もつかないが些事である。コンビニなど入った試しがなかった為、物の買い方を物見稽古していると、冴えない男の方が近付いてきた。恐らく堀北である。

「ええと、カナキリ、だっけ。やっぱり、食べ物を探しに来たのか?」

「食べ物が売っているのか」

 周囲を大観するに、目に入るは食品の棚ばかりである。なるほど。然れば、先ほどの質問は大分不自然だと言わざるを得ないであろう。実際、堀北君も微妙に顔を顰めている。

「それで、ほ――」

 おっと?

「うふな訳だな。やけに、種類が」

 危うく墓穴を掘るところであった。今のあからさまな誘導尋問に対し、「ほ」の字に微塵も眉を動かさなかったということは、彼の姓が堀北でないことは明白である。

「こっちが綾小路か。先に言え」

「じゃあ訊け!」

「……すまん、何をだ?」

 綾小路君はと言えば、顰めた眉をさらに数度下げて大層困惑している様子であった。

 それは何に対してであろうか。ああ忌々しい、だからこの妖怪が近くにいると平穏な会話まで複雑骨折を起こすのだ。

 私は戦略的撤退と称して食品棚へと視線を逸らし、卑怯にも質問を質問で返すという強硬手段に出た。

「……綾小路君は何を?」

「食べ物と、物価を確かめにな」

 物価。なるほど、盲点であった。ここが外界から隔離された閉鎖空間である以上、この購買部が富士山の頂上さながらの暴利を貪っている可能性もゼロではないということか。我々の足元を見る悪徳商法とは、油断も隙もあったものではない。

「富士山は飲み物が軒並み500円以上でバカだね」

 なんだ? 貴様、飲めもしなければ食えもしない、およそ実生活において無益極まりないガラクタ同然の代物を、その五倍以上という法外な価格で売りさばくことのみを生業としていた、私の敬愛すべき父君を愚弄しているのか?

「そうだよ」

 ならば問題ない。

「それで、どうだった?」

「それは――」

「全く、外と同じ価格だわ」

 するとそこへ、北極の永久凍土の如く冷え冷えとした空気を纏った堀北が、さも天上人か何かのような顔をして会話に乱入してきた。誰も呼んでなどいないというのに。

「それは、安心だ」

 真っ赤な嘘である。

「それに……」

 堀北の目線の先には無料と書かれた札の刺さった籠があった。その中には生活必需品がこれでもかと入っていた。これで憲法25条に違反していないと言い張るつもりであろうか。

「1カ月に3つまで。明らかに餓死対策だね。死人が出ると握り潰せないから最低限の保障はあるって感じかな」

「とすると、いよいよポイントは使い得な気がするが、そんな筈はない」

 月十万の給付金に肖りながら自堕落な生活を送り、それでいて就職率は一〇〇パーセントだと? そんなうまい話が転がっていると信じるのは、脳がお花畑の住人だけであろう。

 私の冴え渡る脳髄が導き出した推論は一つ、この「ポイント」こそが選別の篩であるという可能性だ。例えば、単位認定のための試験用紙一枚を、四万ポイントなどという阿漕な価格で買わせる地獄の沙汰などが関の山に違いない。

 綾小路は思考する私に会話を紡いだ。

「カナキリ? は何を買いに来たんだ?」

「えあ、ああ。ノートがないか探しに来たのだ」

 これに関しても、ほんのさじ一杯分の嘘が含まれている。悪しからず。

「……このコンビニにノートあったか?」

「少なくともここにはないわ」

「ああ、そうか……」

 ならば一体いかなる秘境で販売されているというのだ。

「和紙が一番いいと思うけど、簡易的なお札ならノート千切るだけでも十分じゃない?」

「和紙と墨で一番丁寧に仕上げたのが一瞬で赤黒くなって腐ったあれを忘れたのか?」

 戯言に言い返しながら、部屋の理想的なレイアウトを想像する。うむ、どうやらこの十万は全て使い切るのが運命らしい。

 しかし、これでコンビニに用事がなくなったのも事実。とっとと退散するのが吉である。そうして出入り口へ向かおうとしたところ、彼女が私を引き留めた。

「レジの方で誰か揉めてるよ?」

「レジとは?」

「レジスターだよ」

 ああ、あれか。それで、この私に一体どうしろと言うのか。

 彼女は目でレジの方向を指した。

「あの声、同じクラスの人間だと思うけど」

「……仕方あるまい」

 私はレジへ進んだ。そこにあったのは、何やら声を荒げる赤髪の猿。

「そこの」

 私が呼びかけると、彼は振り向いた。私は態々隣まで移動し、肩を触る。

「その致死量の阿呆を周囲に撒き散らすつもりなら、せめて人里離れた郊外の隔離病棟でやってくれないか。この狭い学内において貴様のような脳にドクダミの咲いている輩と同類項に括られるなど、私の高潔なる品位に対する致命的な冒涜なのだよ。

 見るに、命の次に大事な学生証を何処ぞの道端に遺棄してきたのであろう。自らの過失を認めて粛々と回収に赴けば事足りるものを、どうやらこのレジ前で金切り声を上げて時間を浪費することに、さぞ崇高な価値を見出していることとお見受けする。貴兄、サルか?」

 猿人はかっと茹蛸の如く顔を朱に染めた。猿に蛸とはこれ如何に。私は悠々と自動扉へと身をひるがえし、颯爽と現場を去らんとしたが、背後から響いた間抜けな音に振り向いた。見れば、茹蛸が床にひっくり返っていた。

「お前か?」

「感謝してよね。あいつ殴ろうとしてたよ。っていうか、もっとこう、説得してよ! いつもみたいに」

「あれは説得ではなく説教、いうなれば説徳であろう。誓って言うが、今後一切ああいったことはしないぞ」

「えー」

 エーではない。私が阿呆の群れに背を向け、悠然とコンビニエンスストアなる現代の宝物庫を後にしたのは、これ以上あのような瘴気に晒されては私の高貴なる魂が腐敗すると危惧したが故である。

「あーあ。あの赤髪、すごい顔してたね。完全に目が座ってたけど大丈夫?」

「心配には及ばない。猿がどれほど吠えたところで、人間の言葉など理解できまい。そもそも、私のこの怜悧な舌鋒は、あのような原始的な暴力装置を解体するために備わっているのだ」

「私に援護させた挙句、口だけで勝った気でいる……」

 私は道化の戯言を聞き流し、ケヤキモールなる巨大商業施設を闊歩する。ここには日用品から娯楽まで、ありとあらゆる物資が揃っているという。

 私の目的は一つ。生存圏の確保である。

 先程のコンビニに無かったのなら、専門店へ赴けばよい。幸いにして、この学園都市は消費の奴隷を生み出すことに余念がないらしく、画材専門店なるものが存在した。私は棚に鎮座する、手漉きの高級和紙と、鈴鹿墨の最高級品を手に取った。

「しめて五千ポイントか。……高いな。高すぎる」

「十万あるんだからいいじゃない。あ、こっちのノートなら一冊百ポイントだよ」

「馬鹿め。量産品のパルプ如きで奴らの侵入を防げるなら苦労はしない。これは出費ではなく投資だ。城壁を段ボールで築く愚か者がどこにいる?」

「段ボールは思ってるより堅いよ」

「Shut the fuck up」

 私は震える指先を叱咤し、レジスターの前に立つ店員へカードを突き出した。電子音と共に、私の全財産の五パーセントがただの紙切れと黒い塊へと変換される。

「あーあ」

 背後で溜息が聞こえた気がしたが、私は厳然たる態度で店を後にした。

 学生寮への帰路は、意外にも平穏であった。与えられた部屋は一三号室。カードキーをかざして扉を開くと、そこにはおよそ八畳程度のワンルームが広がっていた。ベッドに机、エアコンにユニットバス。必要最低限にして十分。いや、私にとってはこれ以上ない要塞である。

「お邪魔しまーす。……殺風景だねえ」

「これから私が住みやすく改良するのだ。見ろ、この真っ白な壁を。まるで私の手によって彩られるのを待っているキャンバスではないか」

 私は荷物を床に置き、恭しく墨を擦り始めた。

 静寂が部屋を満たす。硯に水を含ませ、黒い棒を溶かし込む。この単調な運動こそが、精神統一の要である。滲みゆく黒墨は我が精神、忘れるなかれ、これは意識を紙へと写す儀式なのだ。鼻腔をくすぐる松煙の香りが、私の中に眠る力を呼び覚ますような錯覚を覚えるが、これは本能ではなく、単に幼少期から叩き込まれた習性によるものである。不本意極まりない。

「ねえ、何書くの?」

「黙れ。気が散る」

 墨が十分に濃さを増した頃合いを見計らい、私は筆を執った。和紙を床に広げる。真っ白な紙面に、黒々とした軌跡が走る。筆致は迷いなく、力強く。そこに描かれるのは、かつて私が父――いや、あの忌まわしき妄言製造機から強制的に暗記させられた意味不明な文字列と紋様、そして彼女から教わった呪文の羅列である。

 どれもこれも、専門家が見れば失笑を禁じ得ない迫真の出来であろう。しかし、笑いたい奴には笑わせておけばいい。コンビニの天井を這う肉塊も先程のエレベーターの隅で呻いていた影も、私の浄眼にははっきりと映っているのだ。

 奴らは隙あらば私の領域を侵食し、この平穏な生活を脅かそうとする。私は筆を走らせる手を止めない。一枚、また一枚。和紙は次々と、黒々と護符へと姿を変えていく。

「……うわぁ」

 友人が心底引いたような声を上げた。心外である。

「なにこれ。下手くそな習字の展示会?」

「結界だ」

 畢竟、体裁が整ってさえいればいいのである。シナジーも相互作用も何もない文言であれ、それを用いて結界を築いたという事実が重要なのである。

 私は最後にサンスクリット語と曼荼羅の一枚をとびきり大きく書き上げた。そして、玄関の扉の内側に叩きつけた。べしゃりと糊代わりのテープが歪な音を立てる。続けて、窓枠、通気口、そしてベッドの四隅。ありとあらゆる開口部を墨染めの和紙で封鎖していく。

 ついでに、部屋のインテリアも少々手を加えてゆく。ネット知識と睨めっこしながら風水をコントロールせしめ、霊道なるインチキ臭い代物が曲り間違っても室内に構成されないよう手心を加える。

 こうして、西日が差し込む無機質な一室は、またたく間にミミズの這ったような字が四方八方をのたうつ聖域へと変貌を遂げた。

「よし」

 私は額の汗を拭い、自らの仕事に満足げに頷いた。これでいいのである。外の世界がいかに狂気に満ちていようとも、ここだけは私の城だと言えよう。

「……あのさ」

 友人が、呆れとも哀れみともつかぬ声で呟いた。

「これ、誰か来たらどうすんの? 完全にヤバい奴じゃん」

「愚問だな。そもそも私の部屋に、他人が訪れることなどありえない」

 私は自信満々に断言した。この私が言うに欠いて他者と友好的な関係を築き、自室へ招き入れる未来など、天変地異が起きても想像できない。つまり、この異様な光景が露見するリスクは全くゼロである。

「あそう。ならいいけど」

 その視線の先で、私が施した通気口の封が若干黒く滲んだ。

 そんなことには気付きもしないふりをして、私はベッドへ倒れ込んだ。

 さて、経歴不問の四字に踊らされ、まんまと入学試験に飛び込んだ私の憂鬱にして鬱屈な監獄生活の幕開けである。

 壁一面に貼られた御札の群れに見下ろされながら、私は泥のように眠った。




 またシリーズ増やしてる……。
 モチベーション等の理由より、感想や評価を募集しています
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。