その男子生徒は初日から異彩を放っていた。
紅一点ならぬ、黒一点ならぬ、白一点。それがファーストインプレッションだ。
ガラガラと後方の扉を開いて教室中の視線を集めた彼は、中性的で非常に整った顔立ちをしていた。筋肉の付き方から男だろうと推測できたが、線が細いから女と勘違いした人も多かったと思う。新雪のような白髪に深紅の眼という、マンガかアニメから飛び出して来たかのような風貌は、しかしぞっとするほど不自然さを感じさせなかった。
それと、開幕遅刻をかました上、担任が教壇で話しているというのに堂々と寝るその胆力に教室中が呆れていたのをよく覚えている。案の定叩き起こされていたが。
更に彼の地位を決定付けたのは、茶柱が退出し、平田洋介がクラスの団結のために自己紹介を提案した時のことだ。
平田の爽やかなリーダーシップに誰もが好意的、あるいは無関心な反応を示す中、突如として冷水を浴びせるような声が響いた。
「その低俗な分析癖に何の意味がある。矮小な他人の人生を覗き見たところで、得られるのは己の空虚さの確認だけだろう」
教室の空気が一瞬にして凍り付いた。別に平田は誰かを分析しようとしたわけではない。単に、円滑な人間関係を築こうとしただけだ。それに対するカウンターとしては、あまりに過剰で、そして痛烈すぎる侮蔑だった。
だが、仮名桐はそこで止まらなかった。続け様に平田をしっかりと見据えてこう言い放ったのだ。
「つまらなくて結構。貴様のような低能な類人猿と私が同類と勘違いされてはたまらない」
平田ですら一瞬言葉を失い、苦笑いを浮かべるしかなかった。この時点で、彼は危険人物としてクラス内で認識された。同時にこの時点で、彼の自己紹介は果たされたと言っていいだろう。しかし、自己紹介に大失敗したとはいえ、交友関係が彼とそう変わらない俺は一体何なのだろう。
ともかく、以下に彼の起こした珍事件の数々を記そうと思う。
一つ目。次に彼と遭遇したのは入学式の直後、俺と堀北がコンビニに立ち寄った際のことだ。彼もまた、そこに現れた。コンビニを知らない様子だったり、唐突に「こっちが綾小路か。先に言え」と俺に謎の愚痴を言ったり、和紙が赤黒く腐ると呟いたり、挙動不審を極めていた。通報したら逮捕されそうだった。
そして、会話に飽きたのかコンビニを出ようとしたかと思えば、急に踵を返して須藤が揉め事を起こしかけた場面に何食わぬ顔で割って入った。かと思えば「隔離病棟」「脳にドクダミが咲いている」「猿」などと雨あられのように罵声を浴びせ、嵐のように去っていった。全くもって意味が分からない。
興味深いのは、肩を掴もうとした須藤が何もないところで転んだことだ。のちに知ったことだが、彼の運動神経から、平地で躓くなんてことは考えられない。足をかけた様子もなかったので、完全に未知の方法で転ばせたことになる。今度訊いてみてもいいかもしれない。
二つ目。その一件よりもさらに不可解だったのが、プールの授業での出来事だ。
男女合同で行われた水泳の授業。授業も終盤に男子生徒たちが競泳を行っていた際、仮名桐もレーンの一つで泳いでいた。速度はともかく、その背泳ぎは美しく無駄がなかった。
異変はその隣のレーンで起きた。隣を泳いでいた男子生徒――外村が、突如として苦しげにもがき始めたのだ。足がつったのかとも考えたが、どうも様子がおかしかった。藻掻く上半身に対して不自然な角度で急速に体が沈んでいった。
「おい、大丈夫か!」
監視役の教員や平田が気付いて動こうとしたその瞬間。隣のレーンにいた仮名桐が、ふと深く潜った。プールの底へ向かって、滑らかに。
そして水中で何かをした。プールサイドに立っていたので角度的に見えなかったが、レーンを越えて外村の方に潜ったのは分かった
彼が再び水面に顔を出したのとほぼ同時に溺れかけていた外村は何事もなかったかのようにパッと顔を上げ、再び泳ぎ出しただ。
本人はキョトンとしていた。自分が死にかけていたことすら自覚していないように見えた。それを横目に、仮名桐はつまらなそうに鼻を鳴らし、再び優雅な背泳ぎで去っていった。
彼はどうやって外村を救ったのか。外村に聞いても覚えていないの一点張りでさっぱり分からない。結局、最下位が補講という話は無しになった。
そして、授業後のことだ。
授業が終わるやいなや更衣室へ走り、茶色の小包を持ってプールサイドへ帰還した仮名桐。次の瞬間、「学生自治! 学生自治!」とわけの分からないことを叫びながら、その小包をプールの中心に力いっぱい投擲したのだ。
教師も暫く唖然として包みが沈んでいくのを眺めていたが、直ぐに回収へ急いだ。しかし、仮名桐はプールサイドに立ち塞がり、奇怪な動きで小包が完全に沈み切るまで教師を必死にブロックし続けた。
次の授業があったので途中で帰るしかなかったが、彼を最後に見たときは顔を真っ赤にした教師に説教されていた。どこ吹く風で虚空と会話し、火に油を注いだのはいつも通りだ。
三つ目。つい先日のことだ。Dクラスの中心人物、櫛田桔梗が、孤立する仮名桐に接触を試みたのを目撃した。櫛田は完璧な優等生だ。少なくとも、表面上は。
しかし、仮名桐は彼女のアプローチを瞬時に拒絶した。続いて、彼は顔を近付け、彼女の耳元で何かを囁いた。見る見るうちに、彼女の眼は冷めていった。しかし、それも一瞬の事。直ぐに仮面を被りなおした櫛田は残念そうに去っていった。
その反応から、何を言われたのかは凡そ推測できる。櫛田の本性に気付いている人間はこのクラスにどれほどいるだろうか。それを彼は容易く看破し、躊躇なく指摘した。
単なる妄言か、それとも異常者ゆえの動物的な勘か。あるいは、本当に何かが見えているのか。確かめようにも、まともに取り合ってはくれないだろう。
四つ目。彼の異常性は入学後の小テストでも顕著だった。
学力の査定ともなる定期的なテストで、彼の答案が返却された時のことだ。まず点数以前に、答案用紙の状態が異様だった。
教壇で茶柱が珍しく声を荒げていた。それもそのはず、仮名桐の答案用紙には赤いインクで、採点欄に花丸と「100点」の文字がデカデカと書き込まれていたからだ。
実際の内容は空欄も多く、客観的にはせいぜい40点といったところだろう。
「なぜ自分の答案に自分で点数をつけている? それも赤インクで!」
問いただす茶柱に対し、仮名桐は涼しい顔で、恐ろしいことを口にした。
「赤ペンではなく私の血だ」
教室中が口の端を引き攣らせた。
「テストは自己採点が基本なのだろう? 赤インクは丁度切れていた上、バレずにカバンから新しいものを出すのも難しかった所以自分の血を使わせてもらった」
真顔だった。冗談で言っているようには見えなかった。当然、そんな理屈が通用するはずもなく、彼は赤点組の一員としてリストに銘打たれていた。
五つ目。それに関連した話がある。これは教員室で茶柱先生から聞いたのだが、前科として入試の時の話があるらしい。試験官の間で伝説になっているそうだ。
なんでも、入試当日に問題を凄まじい速度で解き終えた彼は、挙手して監督官にこう宣ったという。
「解き終わった。採点の為模範解答を早急によこしたまえ」
当然、却下された。だが彼は食い下がり、「ならば私が採点官になろう。隣の席の者の答案を持ってこい」と言い出したために、もう少しで退室処分――いや、入試資格の剥奪になりかけたらしい。
加えて、面接での一幕だ。面接官が最初の質問をするより先に、面接官は自分を面接する資格を持っているのかと逆面接を始め、結局それだけで持ち時間が終わったらしい。
にもかかわらず入学できたのは、単純な学力が合格基準を満たしていたからか、あるいは学校が彼の何かについて興味を持ったか。
いずれにせよ、彼には自重という概念が根本から欠落している。テストは「される」ものではなく、自ら「するもの」だと本気で信じている節がある。
端的に言って、狂人としか言いようがない。
「見ての通り、彼は正常じゃないわね」
かつて隣の席の堀北はそう切り捨てた。
「授業中も教科書を開かず、せっせと筆を動かして意味の分からない文字を書く。迷惑極まりないわ」
確かに、表層的な事象だけを掬い取れば、彼は精神異常者でしかない。
だが、俺は彼の才能について理解できた気がする。
彼の行動は一見無軌道だが、その芯には一貫した信念のようなものが感じ取れる。自身を言動で魅せることが目的なのではないかと俺は分析した。つまり、彼は一種のアーティストなのではないだろうか。
現代アートは意味の分からないものが多いとよく言われるが、だからと言って価値がない訳ではない。作品がああも難解なのは、絵画という手法では必ず何かの派生になってしまうからだ。絵画は既に描き尽くされている。誰かの二番手にならないように、現代アートは独自の形をとる。
彼にとって、それがあの言動であると考えれば筋が通る。
学校は彼の秘めたるアートの才を嗅ぎ付けたが、それはそれとして問題も多いためDクラスに入れられたのだろう。
しかし、日光に触れるのを極度に嫌悪しているのは一体何故だろうか。潔癖症のような強迫性を感じる避けようで、少しでも日影があるなら壁に身体を擦り付けてでも影に入ろうとする。アレルギーも考えたが、学校がそれを把握して何の対策もしていないというのは考え難い。
「……とりあえず、ポイントだけは自力で何とかしてもらいたいものだがな」
ホワイトルームで蓄積した膨大なデータの中にも、彼のようなサンプルは存在しない。
天才でも、凡人でもない。壊れているのか、完成されているのか。
もし仮に、本当に彼が演技でこれを行っているなら、俺以上の食わせ者だと言えるだろう。
ともかく、今のところは関わらないことが平穏な学校生活を送るための最適解だろう。
「……おや? 綾小路。何をジロジロと見ている?」
ふと、視線を感じたのか、墨の香りを振りまいて仮名桐がこちらを向いた。色素の薄い赤眼が、俺の眼球を射抜く。
「まさか貴様、不遜にも私の高貴なオーラに当てられた口か? 残念だが、私は男には興味がない。……貴様、何人蹴落として来た。精々足元に気を付けろ」
俺は足元を見下ろした。いつも通りの足と床だ。顔を上げた時、彼は既に前に向き直っていた。
やはり彼は、関わるべきではない側の人間だ。
紅茶も満足に買えぬ絶対零度の懐の寒さ故に、私の食事情はサバイバルの様相を呈していた。
一歩食堂へと足を踏み入れれば、芳ばしい香りが鼻孔をくすぐる。唐揚げ、カレー、ハンバーグ。節制という美徳を知らぬ俗な脂の匂いである。だが、今の私に必要なのはそんな俗物ではないのだ。
給水機でコップ一杯の水を汲み、調味料コーナーから容器に入った塩を一つ拝借する。そして食堂の窓際へ移動し、取り出したるは今朝がた往路にて採取し、熱湯消毒した名も知らぬ雑草である。
「うわあ。本気で食べるの? それ」
友人が心底ドン引きしたような不快な音を出した。
「食事などという甘えた概念を捨てよ。これは断食修行である。学校の底知れぬ闇に対抗すべく、体内の毒素を排出し、己の霊性を高めるための神聖な儀式なのだ」
私は青々とした草に塩を振りかけ、口へ運んだ。瞬間、広がる灰汁の苦味。そして青臭さ。まさに大地の味、青春の味。下だらぬ資本社会へのアンチテーゼそのものであるこのサラダは、正にモダンフレンチの体現と言っても遜色ないであろう。
それに、かつて愚か極まったゴミが食事を太陽光エネルギーに切り替えようとしたあの時期に比べれば、固形物があるだけマシというものである。
邪な視線を向ける監視カメラを睨みつけ、ぐわしと残りの雑草を掴んで口に押し込んだ。監査員共め、そこで指をくわえて見ているがいい。私が自然との調和の果てに仙人へと昇華する様を。
私は黙々と草を咀嚼した。周囲から奇異な目で見られているが、それは凡人が高次存在を理解できないだけの話である。
「絶対お腹壊すよ……」
午後。放課後。
トイレに篭るのもいい加減飽きが来ていたので、私は図書室へと場を移した。
静寂。ここならば安らかに瞑想が可能であろう。
「あら。仮名桐くん」
本棚の影からひょっこりと見知った銀髪が顔を出した。Cクラスの読書家、椎名ひよりである。
「奇遇だな。貴公も修行の最中か?」
「いえ、私は普通に自習に来ただけですけど……」
彼女は私の手元にある『雑草・野草ハンドブック』を見て、不思議そうに首を傾げた。
「それ、中間テストの勉強ですか?」
「無論だ。生存のためには食用植物の知識は不可欠。歴史や数学など、文字通り腹の足しにもならぬ」
「ふふ。でも、テストに出るのはそっちじゃなくて、教科書の方ですよ」
彼女は微笑んで、自身のテキストを差し出した。
「もし赤点を取ったら退学になってしまいます。そうなれば、学校の図書館の本も読めなくなってしまいますよ?」
正論であった。必要なポイントの収集まで退学になるわけにもいかない。今回ばかりはその好意に甘んじる必要があるようだ。
「仕方あるまい。不本意ながら、現世のルールに従うとしよう」
こうして我々はテーブルに向かい合った。科目は数学から始まった。何ヶ月か振りに、私は至極真面目にペンを走らせた。
「……凄いですね。しかし、途中式は書いたほうがいいですよ?」
結果、全問正解であった。この程度の計算問題は容易いものである。教団でもアカシックレコードに半ば接続されていると揶揄された理外の演算能力は健在であった。
「いや計算してないよね。直感で当ててるよね」
「Shut up」
古来より、数学は一つの神秘体系である。神秘とは根底を流れるものであり、即ち真理であり、数多に枝分かれたとて、辿れば同じ。他の神秘から回答を逆算する程度、この万華鏡と呼ばれた私の眼をもってすれば計算より易いことであった。
「いやそれは絶対おかしい」
「おかしくない」
「仮名桐君?」
何かと振り向けば、彼女は首を傾げていた。
「集中力が切れたなら、何か別のお話をしましょうか?」
かくして話題はクラス対抗戦へと移った。
「そういえば、他のクラスとは仲良くやっていけそうですか?」
「実に低俗なサーカスだと思わぬか。人間をアルファベットで分別し、争わせることに何の意味がある」
DクラスではAクラス打倒だと意気込む輩もいるが、真滑稽と言わざるを得ないであろう。
「クラス変更には2000万が必要だが、その程度なら全学年から集金すれば容易く達成可能だ。なんなら、教師陣から回収してもいいだろう」
或いは、D以外のクラスを消し去れば自然とAクラスに昇格するであろう。手段が全くないわけではないのだ。
特別、あの事件の原因を発見できれば私の勝利は確かなものになる。
「精々、高みから見物させてもらうではないか」
「……ふふ」
彼女は嬉しそうに笑った。
「やっぱり仮名桐くんは面白いです。その考え方、とっても共感できます。争いなんて、ないに越したことはないですから」
「当然だ。我々は同志であるからな」
そう言って、再びテキストに目を落とした瞬間、奇妙な音が、耳の奥で鳴った。それは畳を摺り足で移動するような、神経に櫛を立てる摩擦音であった。
見れば、数学の教科書の文字がまるでアメーバの如く歪み始めていた。数式が踊り、記号が溶け合い、ページの上を這いまわる黒い液体となって渦を巻く。目という漢字の中央の空白が黒く塗りつぶされ、ぎろりと私を見据えた。
私は反射的に教科書を叩き閉じた。
「仮名桐くん!?」
ひよりは目を丸くした。
「ど、どうしたんですか? 急に」
「……いや。何でもない」
冷や汗が背筋を伝う。心臓が早鐘を打っている。一体今のは、なんだ?
「すまない、ひより君。少し、瘴気に当てられたようだ。今日の修行はここまでとする」
「え……? はい、分かりました。お大事に……」
心配そうな彼女を残し、私は逃げるように図書館を後にした。
目は監視の暗示、あの書物は図書館の蔵書であるからして、主体は本ではなく文字。聴覚に続いて視覚異常と考えて問題はないが、件のメッセージとは別物である。
私は携帯のメッセージを確認した。
「やっぱり今日も届いてるね……」
あの日から、謎の音声は毎日不定の時間に送られてきていた。勿論、一度としてそれを聞いたことはないが。
「そろそろスパムとして通報したらどうなるのか興味が湧いてきた」
「審査する人が死にそう」
無論その可能性もゼロではない。その場合これは拡散するのであろうか。
「否、そもそも適任がいるではないか」
私は騒音妖怪を見やった。
「私は嫌だよ?」
即断とは恐れ入る。ともすれば、いよいよこの騒音妖怪はメダルに圧縮してトイレの鍵を外から回して開ける以外の用途が消滅したわけであるが、考えてみればそれはドライバーの一本で事足りる為、驚異のプライスレスとなる。
「今物凄い事考えた?」
「おい、ワースレス。外でこれを聞いて来い」
「ヒッ◯とドラゴンかな?」
歯どころか肉体がないワースレスはそれでも拒否した。
「というか、これ学校のどこにも怪異の情報がないんだよね? じゃあお前が持ち込んだんじゃないの?」
「聞いて呆れる」
聞いて呆れるが、若干そんな気がしている。ここに来るまで、携帯は愚か書物に触れる機会も禄に存在しなかった為に気付けなかったが、初めから自身の周囲にそういった物の怪が蔓延っていたという奇説も考慮せねばならぬ段階である。
「下手に対策も取れぬ。面倒だ」
「そうだねぇ……おい何してんだ」
私は部屋中に貼り付けた護符と盛り塩の写真を撮って、謎のアカウントに送りつけた。
「なんで舌の根が乾かない内にそんな事するの?」
「神秘がそう言ったのだ」
「もう万華鏡から日食グラスに改名しろ」
「それではまるで私が何も見えていないようではないか」
「そう言ってんだよ」
「おお、返信が来た」
「おおじゃないが」
やいのやいのと騒ぐ妖怪を背にメッセージを確認する。
日頃よりサービスをご利用頂き、大変ありがとうございます。
お前の利用契約に反する行為は禁止されています。
端末による受信を拒否した為、規約第103条に基づき、担当者が向かいますのでその場でお待ちください。
「は?」
この部屋の壁は世間一般的に厚い側に分類され、防音性に優れる。しかし、部屋の外から、遠くからぺたぺたと裸足で走っているような音がはっきりと聞こえた。それは次第に大きくなっている。
「おお」
「おおじゃないが」
足音は急速にこの一三号室に近づいてきている。あと十秒もしない内に辿り着くであろう。
私は未成年につき法定代理人の同意を得ない契約は無効であると送り付けてみた。
その瞬間、ぴたりと足音は止まった。それは丁度、扉の前だった。
「分かってるよね?」
「ああ」
止まったが、モノの気配は依然として玄関扉の先に張り付いていた。そこで、私はさらにメッセージを一通送った。
「あれ、消えた。今なんて送ったの?」
私は画面を見せてやった。
親権者の追認があれば当該契約は有効となる。私の親を探してみればいい。
「親って……」
諸君に補足しておこう。私の親は教団ごとさっぱり消失している。理由は不明である。
「しかし、あの様子では、どうやら見つけられなかったようだな」
私は新たなメッセージが届いていないか確認したが、私の発言に対する既読を最後に、一切の動きを見せなかった。いかに怪異と言えども、民法の理からは逃れられぬと見える。
「もし担当者がお父さんを見つけ出して、そこにサインをもらってきたらどうするの?」
「その時はその時だ。久しぶりの親子対面、感動のあまり刺殺でもしてやろう」
夜はまだ長い。そして私の腹は、タンポポと水だけで構成されているおかげで絶えずオーケストラを奏でている。
「空腹を紛らわすために一眠りするとしよう。夢の中であれば、特上のステーキも食べ放題だ」
「虚しすぎる……」
私は部屋の電気を消し、ベッドへと潜り込んだ。静寂が戻る。だが、私の目は冴えていた。
先ほど足音が止まった扉の向こう。分厚い鉄の扉一枚隔てた廊下に、本当に誰もいなくなったのであろうか。
じっと耳を澄ます。何の音も気配もない。護符で守られたこの城塞は、今宵も完璧な守りを私に提供している。そのはずなのだ。
ふと、枕元の端末が微かに震えた。だが、暗闇の中でチカチカと明滅する通知LEDの赤い光は、目玉の如く私の眠りを見下ろしていた。
後日、玄関扉を開けると、黒いタールめいた物質が手形の形でエレベーターから一直線に我が十三号室の扉の前まで続いていた。加えて、ドアノブにもべったりと当物質がへばりついており、大変気分を害した。どうにかして訴えたい。
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