前回のあらすじ:
スライムによる粘液地獄(ご褒美)を乗り越えたルートは、精神的なダメージを負って幼児退行していた。
一方、私の胃壁も限界を迎えていた。
そろそろ労災を申請したい。
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ダンジョンの安全地帯に、シクシクという情けない泣き声が響いている。
「うぅ……ぬるぬるした……気持ち悪かった……」
ルートは、予備のバスタオル一枚を身体に巻き付け、体育座りで小さくなっていた。
その姿は、まるで雨に濡れた捨て犬のようだ。
濡れた白髪が頬に張り付き、銀色の瞳は涙で潤んでいる。
白い肌は、先程の衝撃波ビンタと熱湯消毒(魔法)によってほんのりと桜色に染まり、湯気を立てていた。
はっきり言おう。
今の彼/彼女は、銀河最強の生体兵器には見えない。
ただの「守ってあげたい系美少女」である。
そして、そんな姿が高画質で配信されれば、インターネットの海がどうなるかなど、火を見るより明らかだった。
「俺が貰う!!」
「いや俺だ! 結納金(スパチャ)なら払う!」
「¥10,000 結婚してくれ」
「¥50,000 式場押さえた」
「S氏、その子を泣かすな! 俺が幸せにする!」
「タオルになりたい」
画面を埋め尽くす、有象無象の求婚コメント。
それを見た猿渡恭介は、冷え切った目でタブレットを操作した。
「……チッ。発情した猿どもが。民度が低すぎる」
彼は無表情のまま、指先を高速で動かした。
ポチッ。
ポチッ。
ポチッ。
「あ、コラ猿渡! 何をしている! それは吾輩への
ルートが涙目で抗議するが、猿渡の手は止まらない。
「黙れ。これは『掃除』だ。研究の場に、知性の欠片もない求婚厨は不要だ」
猿渡にとって、ルートはあくまで「
自分のペットに欲情する人間など、彼にとってはゴキブリ以下の存在なのだ。
「いいか、よく聞け。お前は神かもしれないが、今はただの『濡れた駄犬』だ。自覚を持て」
「うぅ……ひどいぞ人間……。吾輩は……吾輩は、もうお嫁に行けんのだぞ……」
「安心しろ。お前の嫁ぎ先なんぞ、保健所か動物園くらいしかない」
なんという冷徹さ。というかそもそも死神は嫁に行くのか……?
だが、この男の塩対応こそが、今のルートには一番の安定剤なのかもしれない。
……と、私が少しだけほっこりした(胃薬を飲んだ)、その時だった。
「見つけましたわよぉぉぉッ!!!」
ダンジョンの静寂を切り裂く、ヒステリックな絶叫が響き渡った。
■□■□
霧の向こうから現れたのは、紅白の巫女服に身を包んだ、金髪の少女だった。
外見年齢は十代前半。
しかし、その背後には九つの尻尾(幻覚)が揺らめき、青い瞳には修羅の炎が宿っている。
特級幻種、紅。
またの名を、猿渡恭介ガチ勢のヤンデレ狐である。
「は、破廉恥ですわ! 公衆の面前でバスタオル一枚!? 教育はどうなっていますの!?」
紅はツカツカと歩み寄ると、猿渡の胸倉(実際には届かないのでシャツの裾)を掴み上げた。
「久しぶりだな、BBA……いや、先生」
「今、BBAと言いましたわね!? 聞こえてますわよ!?」
「え、誰この美少女」
「ちょ、これ紅先生じゃね!?」
「本物? なんでこんな所に?」
「てかBBAって言ったぞ今のwww」
「修羅場の予感」
「S氏、知り合いかよw」
猿渡の失言にもひるまず、紅はまくし立てる。
「貴方という男は! 学会を追放されたと思ったら、こんな幼い幻種を連れ回して! しかもあんな……あんな破廉恥な動画を世界に発信するなんて!」
「誤解だ。あれは学術的な耐酸性実験の記録であり――」
「言い訳はあとで聞きます! 今すぐその子を保護しますわ!」
紅は猿渡を突き放すと、うずくまるルートの元へと駆け寄った。
「さあ、貴方も! こんな変態からは離れなさい! 私が保護してあげますから!」
紅はルートの二の腕を掴み、グイッと引っ張った。
グイッ。
「…………」
動かない。
「……あら?」
紅はもう一度、腰を入れて引っ張った。
グイイイィィッ!
「…………」
やはり、動かない。
ルートは体育座りのまま、1ミリたりとも移動しなかった。
当然だ。
こいつの体重(質量)は可変式であり、その気になればブラックホール級の密度を持つことすら可能なのだから。
「な、なんなのですの、この重さは!? 岩!?」
「……ん? なんだ、騒がしいな」
ルートがようやく顔を上げた。
涙で濡れた瞳が、目の前で顔を真っ赤にして踏ん張る美少女(中身50代)を捉える。
そして、ルートは首を傾げ、爆弾を投下した。
「誰だ? このおばさんは」
ピキッ。
空間に亀裂が入る音がした。
いや、紅の理性がひび割れる音か。
「あ」
「言っちゃった」
「放送事故確定」
「その人はあかんwww」
「死神ちゃん逃げてェェェェ!!」
「地雷をタップダンスで踏み抜いた」
「……お、おば……?」
紅の動きが止まる。
痙攣する笑顔。
彼女のこめかみに、青筋がピキピキと浮かび上がる。
「あーら、聞き間違いかしら? 私はまだピチピチの美少女(外見)ですわよ? さあ、復唱しなさい。お姉さんと」
「ふむ……。知らんが、邪魔だ」
ルートは興味なさそうに紅の手を振り払うと、ヨロヨロと立ち上がった。
そして、あろうことか猿渡の背中に抱きついたのだ。
ギュッ。
「さわたりぃ〜。腹減った〜。ポテチ食いたい〜」
濡れたバスタオル越しの、柔らかな感触。
そして、石鹸の香りと共に押し付けられる体温。
「おい、離れろ。濡れる」
猿渡は眉をひそめ、汚いものを触るかのようにルートを引き剥がそうとする。
だが、その光景は、紅の目には「イチャつくカップル」にしか映らなかった。
「…………」
プツン。
今度こそ、完全に切れた。
「離れなさいッ! この泥棒猫ォォォォォッ!!!」
ドォォォォォンッ!!!
紅の背後から、青白い狐火が噴き上がった。
「私の恭介に! 私ですら指一本触れさせてもらえなかったのに! そのふしだらな身体を擦り付けるなんてぇぇぇッ!!」
嫉妬の炎が、物理的な炎となってルートに襲いかかる。
「うわっ、熱っ!? なんだ貴様、急に!」
ルートは猿渡の背後に隠れながら、飛来する火の玉を「シッシッ」と手で払った。
パァン! パァン!
特級幻種の放つ高密度の魔力弾が、ただの平手打ちでバドミントンのように叩き落とされる。
「なっ!? 私の狐火を素手で!? どういう理屈ですの!?」
「ええい鬱陶しい! 吾輩は今、スライムのせいで機嫌が悪いのだ! 消えろおばさん!」
「またおばさんって言ったぁぁぁ!! 死になさい! 社会的に死になさい!」
紅は我を忘れて印を結んだ。
狙うは、二人の「物理的な切断」。
「風よ! 二人を引き裂きなさい! 鎌鼬!」
ヒュオオオオオッ!!!
ダンジョンの狭い通路に、局地的な竜巻が発生した。
真空の刃が、ルートと猿渡の間に割り込むように殺到する。
猿渡はとっさに身を伏せた。
「チッ、馬鹿が! 屋内で広範囲魔法を使うな!」
だが、ルートは避けなかった。
いや、避ける必要を感じなかったのだ。
「ふん、そよ風が」
ルートは鼻を鳴らし、仁王立ちで風を受け止める。
この程度の風圧、木星の大赤斑(巨大嵐)に比べれば、赤子の吐息にも等しい。
だが。
一つだけ、計算外のことがあった。
彼女が今、身につけているのは「最強の神の装甲」ではなく――。
ただの、「結び目の甘いバスタオル」だったということだ。
ヒュンッ。
風が、ピンポイントでその「結び目」を通り抜けた。
「あ」
ルートの声。
スルリ。
重力に従い、白い布切れがハラハラと落ちていく。
そして。
風が止んだ。
ダンジョンに、完全なる静寂が訪れた。
「…………」
「…………」
「…………」
時間は、おそらく三秒ほど止まっていただろうか。
猿渡が、ゆっくりと顔を上げた。
紅が、口をあんぐりと開けて固まった。
そしてルートは、自分の足元に落ちたタオルを見下ろし――自分が今、生まれたままの姿で、高画質のカメラの前に立っていることを理解した。
徐々に。
ルートの顔が、耳まで真っ赤に染まっていく。
コメント欄が、文字として認識できない速度で加速した。
「!?」
「うおおおおおおおおおお!!」
「解禁」
「白ッ!!」
「神回」
「¥50,000 眼福」
「スクショした」
「運営仕事しろ(遅い)」
「BAN不可避www」
人類の欲望が爆発した、その直後。
「見ぃぃぃるぅぅぅなぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!!」
銀河を砕く絶叫が、カメラのレンズを、タブレットの画面を、そして世界中の視聴者の鼓膜を破壊した。
プツン。
唐突に、配信が途切れた。
真っ暗になった画面には、呑気なBGMと共に、以下の文字だけが表示されていた。
【しばらくお待ちください】
……合掌。
私は静かに胃薬の封を切った。
誰か、東京行きのチケットをくれ。
彼らの葬式に出席しなければならないからな。