前回のあらすじ:
カップ麺の油揚げを「同族の肉」と勘違いして発狂した紅だったが、猿渡の思い出話により和解。
現在は、最強の神(ニート)と特級幻種(キツネ)が並んで仲良く麺を啜るという、奇跡的に平和な時間が流れている。
私の胃痛も、ようやく小康状態に入った――かに思われた。
だが、忘れてはならない。
この物語において「静寂」とは、次に訪れる「爆音」のための助走に過ぎないということを。
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♪通りゃんせ~ 通りゃんせ~……
ダンジョンの冷たい空気を震わせ、陰鬱極まるメロディが響き渡った。
紅の懐からである。
「ひぃッ!?」
紅が麺を喉に詰まらせかけながら、慌ててスマホを取り出した。
画面に表示された文字を見た瞬間、彼女の顔から先程までの幸福な表情が消え失せ、絶望の色が張り付く。
発信者:『八重』
それは、この世で唯一、紅を「躾ける」ことができる老婆の名だった。
彼女は紅が祀られている神社の現宮司だが、彼女にとっては「姉妹」であり「母」でもある特別な人間だった。
話は数十年前に遡る。
先代宮司――八重の父親が、まだ生まれたばかりの紅を拾ってきた時、八重もまた幼い子供だった。
二人は本当の姉妹のように育った。だが、不老の紅に対し、人間である八重だけが皺を刻み、腰を曲げていった。
今の紅にとって、八重はただの飼い主ではない。
自分のおねしょの回数から「痛い時期」の話まで、全ての過去を知る「生き証人」なのだ。
最強の幻種といえど、自分のオムツを替えてくれた相手にだけは、生物としての格付けで勝てないのである。
「も、もしもし……? あら八重、奇遇ですわね……」
紅は震える指で通話ボタンを押し、裏返った声で応答した。
「い、今ちょっと電波の悪い遠方におりまして……ええ、ええ。すぐには帰れませんの。ほら、ここ、海外の……」
『嘘お言い』
スピーカー越しでも分かる、ドスの効いた声が遮った。
『配信見たよ。アンタの背景に映ってた青い苔、あれ『碧の岩窟』だろ? 昔アンタが迷子になって泣きわめいてた場所じゃないか』
「ッ!? み、見てましたの!?」
『アンタの嘘なんざお見通しだよ。……で、帰ってくるのかい? こないのかい?』
逃げ場はない。
八重という老婆は、伊達に数十年この駄狐の飼い主をやっていない。画面の端に映る植生だけでGPS以上の精度で位置を特定してきやがった。
「そ、それは……その……」
紅が冷や汗をダラダラと流し、助けを求めるように猿渡を見た。
猿渡は、カップ麺の残り汁を飲み干すと、スッと手を差し出した。
「貸せ」
「きょ、恭介!?」
紅のスマホを取り上げ、猿渡は耳に当てる。
その瞬間、彼の表情から「マッドサイエンティスト」の狂気が消え、「好青年」の仮面が装着された。
「――お久しぶりです八重さん、猿渡です」
声色が、甘い。
まるで実家に帰省した孫のような声だ。
『おや、恭介ちゃんかい? 元気にしてたかい?』
「ええ、おかげさまで。……紅先生ならここにいますよ。ご心配をおかけしました、すぐに帰らせます」
売った。
この男、1ミリの躊躇もなく恩師を売り渡した。
「きょ、恭介ぇぇぇッ!? なんで売りますの!?」
『ああ、そうかいそうかい。恭介ちゃんが居てくれるなら安心だねぇ』
「はは、恐縮です。……ああ、また貴女の糠漬けを食べに伺っても?」
『おや嬉しいねぇ。最高に漬かった古漬けを用意して待ってるよ』
和やかな会話である。
背景で絶望の表情を浮かべる美少女がいなければ、ハートフルなホームドラマのワンシーンだ。
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「では、代わりますね」
猿渡はにこやかにスマホを紅に返した。
受け取った紅の手は、痙攣している。
『……さて、紅ちゃん?』
八重の声色が、一瞬で絶対零度に戻った。
『恭介ちゃんもこう言ってることだし、帰ってくるね?』
「い、嫌ですわ! 私はまだ恭介と……それに、あの不敬な死神に教育を施さねば気が済みませんの!」
紅は必死に抵抗した。
ここで帰れば、次にいつ猿渡に会えるか分からない。その執念だけが彼女を突き動かしていた。
だが、相手が悪すぎる。
『そうかい。じゃあ――大掃除だ』
「え?」
『天袋の結界箱、開けるよ。中に入ってる……そうさね、まずはこの黒い革装丁のノートからいこうか』
紅の顔色が、白から透明になった。
『タイトル……漆黒の堕天使クリムゾン、第4巻』
「~~~~ッ!?」
『書き出し……「ククク、我が右腕が疼く……これが原罪の痛みか……」』
「や、やめ……!」
『あと、こっちの薄い本もいいねぇ。表紙は……おや、これ恭介ちゃんに似た男の子が、お姉さんにイタズラされている絵だねぇ? 作・紅って書いてあるけど』
「あ、あ、あ……」
『来週の公民館の朗読会、演目はこれにするよ』
核兵器のボタンが押された。
社会的死。
いや、尊厳の完全なる消滅。
「やめてええぇぇぇぇッ!!!」
ダンジョンに、悲鳴とも咆哮ともつかない絶叫が木霊した。
「か、帰ります! 音速で帰りますから! 朗読だけは勘弁してぇぇぇぇッ!!」
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通話が切れた後、そこには燃え尽きた灰のような狐がいた。
「……ううっ……覚えてらっしゃい恭介! 八重に媚びを売るなんて卑怯ですわ!」
紅は涙目で立ち上がると、悔しげに地団駄を踏んだ。
そして、未だにカップ麺の容器を舐めているルートを睨みつける。
「あとダメ死神! お揚げの礼はいつかしますわ! ……なんか嫌な予感がするから気をつけるのよ!」
「ん? おかわりか?」
「会話になりませんわね! ごきげんよう!」
ドヒュンッ!!
衝撃波を残し、紅の姿がかき消えた。
文字通りの神速。
最初からその速度で動けば、私の胃痛も半分で済んだというのに。
嵐が去った後の静寂の中、ルートがきょとんとした顔で呟いた。
「……いなり寿司か。美味そうだな。今度行ってみるか」
「ああ。八重さんの飯は、このキツネの百倍価値がある」
「ほう、貴様がそこまで言うとは。……よし、このダンジョンを攻略したら連れて行け」
能天気な会話を交わしながら、彼らは再び歩き出す。
だが、彼らは知らない。
紅が感じ取った「嫌な予感」が、すぐそこまで迫っていることを。
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時刻は深夜。
Cランクダンジョン『碧の岩窟』の麓は、虫の声だけが響く静寂に包まれていた。
だが、その静けさは異質だった。
本来ならいるはずの夜回りの管理人や、野良探索者の姿が一人もいない。
ざり、と砂利を踏む音と共に、紅が山から飛び出してくる。
「はぁ、はぁ……間に合った……」
息を整える彼女の前に、闇に溶け込むように佇んでいた黒服の男たちが、無言で現れた。
総勢十名。
全員が同じような没個性的なスーツを着ているが、その身に纏う空気は、紅のような「人外」に近い鋭さを放っている。
「……紅殿。帝都からの緊急呼集です」
先頭に立った男が、抑揚のない声で告げた。
紅は乱れた巫女服を直し、スッと目を細めた。
「なるほど、そういうことですか」
「えぇ、八重様にお話を伺ったところ、こことのことでしたので」
先程までの「ポンコツな駄狐」の雰囲気は消え、「土地神」の威厳が戻る。
「……こんな山奥まで出迎えとは。いつものスタンピードではありませんわね?」
「肯定します」
男は声を極限まで潜め、周囲の闇にすら聞かれぬよう、
「大本営より、『駿河
その単語を聞いた瞬間、紅の表情が凍りついた。
「……正気? あれはただの『保険』でしょう? 予算獲得のための御伽噺……」
「米国からの“親切な”情報共有により、条件が満たされました。……これ以上は、車中で」
男はそれ以上語らず、待機していた黒塗りのセダンのドアを開けた。
『条件が満たされた』
その言葉だけで、紅は状況を察したようだった。
紅は、背後のダンジョンのある山を一度だけ振り返った。
その瞳には、恭介への未練はなかった。
「……分かりました。私の国で好き勝手はさせませんわ」
紅はシリアスな顔で車に乗り込む。
重厚なドアが閉ざされ、車列は音もなく走り去った。
――一方その頃。
「あー、うどん食ったら甘いもん食いたくなった。猿渡、コンビニ寄ってくれ」
「ダンジョンの中にコンビニがあるわけないだろ。苔でも舐めてろ」
「えー。……あ、そうだ。あの『限定プリン』が食べたい」
日本政府が総力を挙げて警戒し、最強の戦力を結集させつつある『
今まさに、コンビニのプリンを心配していた。