前回のあらすじ:
山の管理人・源蔵の激怒を、「あいつは新種の
彼女は晴れて「危険な不審者」から「保護観察対象のVIP」へと昇格し、堂々と人間社会へ降り立つ切符を手に入れた。
ちなみに、私の胃薬の在庫はマイナスだ。
誰か、この茶番を止める非常停止ボタンを押してくれ。
夕暮れ時の
普段なら、ダンジョン帰りの探索者たちが戦果を自慢し合い、換金所のカウンターが騒がしく鳴り響く場所だ。汗と鉄と欲望の匂いが充満する、荒くれ者たちの社交場。
だが今は、針が落ちる音さえ聞こえそうなほど静まり返っている。
その中心にいるのは、一人の少女だった。
透き通るような白磁の肌に、星屑を散りばめたような銀髪。
本来なら「天使」と称賛されるべき美貌だが、今の彼女が纏っている空気は、そんな生易しいものではない。
彼女の瞳には、光がなかった。
深海よりも深く、虚無よりも暗い、完全なる「無」の瞳。
周囲の探索者たちは、本能的な恐怖に震え上がり、遠巻きにヒソヒソと囁き合っていた。
「おい……見ろよあの目。ヤバいぞ」
「ああ……。この世の全てに絶望し、万物を塵に還そうとしている目だ……」
「特級クラスか? まるで
違う。
あれは深夜アニメのリアタイ視聴で三徹したオタクが、早く帰って寝たいと思っているだけの目だ。
(ダルい……。帰りたい……。今の時間なら、夕方アニメの再放送に間に合うのに……)
ルートの脳内は、世界への絶望ではなく、番組編成表への未練で埋め尽くされていた。
だが、悲しいかな。
彼女の腕に張り付いたトカゲ――通称ルーター君が、ビカビカビカッ!と極彩色のゲーミング発光を繰り返しているせいで、その姿はどう見ても「終末をもたらす邪神と、その眷属」にしか見えなかった。
「あ、あのぅ……」
窓口の受付嬢が、涙目で声をかける。
「し、新規の幻種登録……ということで、よろしいでしょうか……?」
ルートは無言だった。
彼女の脳内メモリの9割は「帰りたい」、残りの1割は「プリン食いたい」で占められており、会話機能がオフラインになっていたからだ。
沈黙。
それは人間社会において、最も雄弁な威圧となる。
受付嬢の顔色が土色に変わる。
(ひぃぃッ! 無視!? それとも『貴様ごときが話しかけるな』という意思表示!? 殺される! 書類不備があったら殺されるぅぅッ!)
見かねた猿渡が、スッと横から割って入った。
「申し訳ありません。彼女は高位の存在ゆえ、
猿渡恭介は、眼鏡の位置を直しながら涼しい顔で嘘をついた。
この男、嘘をつくことに関してだけは特級の才能がある。
「は、はい! ではこちらの書類に、お名前と種族、そして職業を……」
猿渡がペンを取り、サラサラと記入していく。
名前『ルート』。種族『擬人化幻種・死神(特異個体)』。
そして職業欄。
猿渡がペンを走らせようとした瞬間、死んでいたはずのルートの手が、マッハの速度で動いた。
ガシッ。
「……おい、猿渡」
地獄の底から響くような声(寝起き)で、ルートが言った。
「勝手に決めるな。吾輩の職業は一つだ」
彼女は猿渡からペンを奪い取ると、職業欄に迷いなく書き殴った。
『自宅警備員』
「……却下だ」
猿渡は無慈悲に言った。
そして即座に二重線を引き、その横に『魔術師』と書き直す。
「な、何を消す! それは吾輩のアイデンティティだぞ!」
「黙れ。公的書類に『ニート』と書いて通るわけがないだろう。殺処分されたいのか」
「む……。魔術師などという外道に染まった労働階級は嫌だ。せめて『高等遊民』とか……」
「いいから黙って立ってろ、このポンコツ死神!」
小声で繰り広げられる痴話喧嘩(?)。
だが、周囲の目にはこう映っていた。
『見ろ……! あの猿渡恭介が、特級幻種を言葉巧みに封じ込めている……!』
『すげぇ……命知らずにも程があるぞ……』
こうして、数々の誤解と猿渡の胃壁の犠牲の上に、ルートは法的な「
「……はぁ」
猿渡の自宅兼研究所であるボロアパートに帰宅した瞬間、猿渡は今日一番の重い溜息をついた。
「とりあえず、これで憲兵に撃たれる心配はなくなった。……さて」
猿渡はコンビニ袋をテーブルに置き、振り返った。
「手続きも済んだし、お前の望む『ネット環境』も確保できた。……で、どうするんだ? お前の『
猿渡の認識では、彼女はどこかのダンジョンの深層、あるいは人の立ち入らない秘境からやってきた幻種だ。
用が済んだなら、自分のテリトリーへ戻るのが野生動物の習性というものだろう。
だが。
「……ん? 帰る?」
ルートは、当然のようにコタツの中に半身を埋没させ、猿渡が買ってきた「なめらかプリン(限定品)」の蓋を開けながら、キョトンとした顔をした。
「馬鹿を言え。あんな何もない僻地になど戻らんぞ」
ルートが言う「僻地」とは、木星のことである。
あそこはガスと嵐しかない。Amaz○nもなければ、○MMとのやり取りも難しい。コンビニスイーツなど夢のまた夢だ。
だが、猿渡はそれを「
(……まあ、そうだろうな。魔素が濃いだけの岩場より、この駄犬にとっては文明社会の方が快適に決まっている)
猿渡が勝手に納得していると、ルートはスプーンを指揮棒のように振りかざし、高らかに宣言した。
「それに、ここには『
「……は?」
「Wi-Fiよし。食料よし。そして面倒な手続きを代行する下僕よし。……うむ、決めたぞ」
ルートは瞳をキラキラと輝かせ、ビシッと猿渡を指差した。
「よって、吾輩はこの部屋を『前線基地』として占拠する! 家賃と光熱費は、吾輩の動画収益から勝手に引いておけ! 以上だ!」
「…………」
猿渡の思考が停止した。
占拠? この狭いワンルームを? この災害指定級のニートが?
「ふざけるな! 俺は静かな研究生活を送りたいんだ! 出て行け!」
「嫌だ。外は寒い」
「知るか!」
「なら、このアパートの隣に『新しい穴』を開けて増築してもいいが?」
ルートの腕で、ルーター君がギューン……と不穏なチャージ音を立てる。
「……ッ!!」
猿渡は言葉を飲み込んだ。
こいつはやる。平気でやる。
もしここで追い出せば、近隣住民を巻き込んだ「マップ兵器」が発動し、猿渡は保護責任者として社会的に抹殺されるだろう。
(……詰んだ)
猿渡は膝から崩れ落ちた。
これは契約ではない。脅迫だ。
「……分かった。部屋の隅なら貸してやる」
猿渡は震える手で胃薬の瓶を取り出し、錠剤を三粒、水なしで飲み下した。
「その代わり……死ぬ気で稼いでもらうぞ。ニートは許さん。明日から馬車馬のようにダンジョンへ潜らせてやる」
「ふん、望むところだ。スパチャのためなら多少の労働は厭わん」
ルートは勝ち誇った顔で、プリンを一口頬張った。
その顔は、間違いなく今日一番の「良い笑顔」だった。
市ヶ谷。地下深く。
一般の地図には存在しない区画に、紫煙と、鼻をつく線香の匂いが立ち込めていた。
「特務八課」。
表札にはそう書かれているが、そこを訪れる者はいない。
そこは帝国のゴミ捨て場であり、同時に、決して開けてはならないパンドラの箱だった。
作戦室のデスクで、初老の男が報告書を広げている。
頬に古傷のある強面。特務八課を統べる古狸、葛城剛一郎陸軍中将である。
「……『空から降ってきた』幻種か。きな臭いな」
葛城が呟くと、部屋の隅にある濃密な「影」が、ドロリと動いた。
「ウフフ……。いい匂いがするわねぇ、中将」
闇の中から音もなく現れたのは、旧式の軍服にマントを羽織った青年将校だった。
病的なまでに白い肌。
口元は包帯で覆われ、その隙間からは鋭い牙が覗いている。
そして何より異様なのは、その瞳。
右目が金色、左目が赤色。
人間のものではないオッドアイが、妖しく光っている。
「この写真の白い子……。可愛いわねぇ。幻種かしら? とっても美味しそう……。真空で干からびた死体のような、乾いた味がしそうねェ」
男――
「ああ、
殺気が室内に充満する。
それは生物としての格の違いを見せつける、絶対強者のオーラ。
常人ならば、その場にいるだけで発狂するほどのプレッシャーだった。
だが、葛城は眉一つ動かさず、懐から一本の「ペン」を取り出す。
「……乾」
「なぁに? 今、食欲で忙しいんだけど……」
カチッ。
葛城が無言でスイッチを押す。
ペン先から放たれた赤いレーザーの点が、床の上をチロチロと走った。
その瞬間。
乾のオッドアイが、カッ! と見開かれた。
爬虫類のように細かった瞳孔が、黒目勝ちの真ん丸な目に変わる。
「ニャッ!?」
理性が消し飛んだ。
乾は四つん這いになり、猛烈なスピードで床を走る赤い点を追いかけ始めた。
「あっ、待て! その動き卑怯よ! チョロチョロすんじゃないわよ!」
ズサーッ!
赤い点が壁を登ると、乾もまた重力を無視して壁に張り付き、爪で壁紙をガリガリと引っ掻いた。
「フシャーッ! 捕まらない! なんで捕まらないのよこの赤い虫ィィッ!」
軍服の裾が乱れ、マントが絡まり、威厳もへったくれもない。
ただの「デカい猫」である。
「……本能には抗えんか。やはり、まだ躾が必要だな」
葛城は無表情でポインターを動かしながら、やれやれと溜息をついた。
これが、帝国の暗部を担う特務八課の実態である。
数分後。
ハァハァと息を切らせながら、乾は乱れた軍服を直した。
「……コ、コホン。取り乱したわ」
顔を真っ赤にして咳払いをする乾。
彼は気を取り直すようにマントを翻した。
「とにかく、その『死神』には興味があるわ。……挨拶に行ってくる」
「その姿で行くのか? 憲兵が騒ぐぞ」
「まさか」
乾が指を鳴らすと、彼の身体がドロドロとした黒い霧に包まれた。
骨が組み替わる不快な音。
肉が再構成される湿った音。
霧が晴れると――そこに「軍服の男」はいなかった。
代わりに立っていたのは、フリルたっぷりの黒いドレスを着た、黒髪の可憐な少女。
その頭には、ピョコピョコと動く「猫耳」が生えている。
「……どう? これなら、誰でも『可愛らしい幻種』だと油断するでしょ?」
見た目は完璧なゴシックロリータ美少女。
だが、その瞳だけは、獲物を狙う猛獣のままだった。
「待っててね、可愛い死神ちゃん♡ お姉さんが可愛がってあげるから」
少女はスカートを翻して闇の中へと消えていった。
猿渡のアパート。
コタツで丸くなり、幸せそうに寝息を立てるルート。
その横で、電卓を叩きながら胃薬を噛み砕く猿渡。
神はコタツを手に入れ、男は胃痛を手に入れ……
そして街には、猫なで声の殺意が解き放たれ始めていた。
最強のニートと、最凶の猫被り。
二つの厄災が出会う時、物語は加速する――たぶん、変な方向に。
第一章・地球降下編 完
ここまでお読みいただきありがとうございました。これにて、第一部「地球降下編」は完結となります。
ルートは日本のコタツと戸籍を手に入れ、猿渡は諸刃の剣(自律式)を持ち運ぶことになりました。本当は紅ちゃんも出したかったのですが、尺と展開の都合上厳しかったので断念しました。赦せ、お稲荷様。
第二部連載の可否を問うアンケートは実施中ですが、現段階では連載を希望する方の方が多いようなので、一応、そのつもりでこちらは動いています。まだの方は、是非とも投票していただけると幸いです。投票していただいた方は、本当にありがとうございました。これを連載できたのも、「あ、読んでくれてるんだ」と実感させてくれた読者の方々のお陰です。感想や評価、お気に入り登録も嬉しかったです。
とりあえず、第二部の連載開始までは少し時間が空くと思われるので、ここでしばらくお別れとなります。最後にもう一度、ここまで読んでくださった全ての方々に感謝の気持ちを表します。ありがとうございました。それでは、また第二部でお会いしましょう。
二〇二六年一月二十二日 佐竹福太郎
第二部欲しいですか?
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次話で完結で良いよ