前回のあらすじを三行で説明しよう。
猫じゃらしと肉まんに敗北した帝国陸軍の最終兵器・乾が、リベンジを誓った。
だが彼女は過小評価していた。日本の冬には、軍事用耐寒装備すら無力化する悪魔の家具が存在することを。
あと友人から良い胃膜を貰った。
深夜2時。気温3度。
木枯らしが吹き荒れる帝都の闇に紛れ、一つの影が動いた。
猿渡のアパートの窓枠。わずかに開いた換気用の隙間から、流体のように滑り込んだのは一匹の黒猫である。
闇に溶ける漆黒の毛並み。音もなく床を踏みしめる肉球。
その正体は、帝国陸軍特務八課所属、乾陸軍少佐だ。
(……侵入成功。セキュリティ、ゼロ。平和ボケした家ねぇ)
彼女の金色の瞳が、暗視スコープのように室内をスキャンする。
汚い部屋だ。床には即席麺のカップや、得体の知れない機械部品が散乱している。
これだけで家主の社会性が欠落していることが見て取れる。
そして部屋の中央には、布団を被った四角い物体――「コタツ」が鎮座し、そこから銀髪の頭(ルート)だけがはみ出していた。
(ターゲット、睡眠中。……完全に無防備ね)
乾は鼻を鳴らした。
今回の任務は、
(さて、まずは接近してデータを……ッ!?)
一歩踏み出した瞬間、彼女は身震いした。
寒い。寒すぎる。
猿渡という男は、光熱費をケチって暖房を切って寝ているらしい。人間ベースの肉体なら耐えられるが、現在の彼女は質量数キロの猫である。体積に対する表面積の比率が大きすぎて、体温がマッハで奪われていく。
(……チッ。これでは精密動作に支障が出るわね)
彼女の視線が、部屋の中央にあるコタツに向けられた。
赤いパイロットランプが点灯している。通電中だ。
(……フン。コタツ、か)
彼女の脳裏に、昔の記憶がよぎる。
戦前から存在する、日本固有の局所暖房器具。足を温めるだけの単純な構造。最新の空調に比べれば、化石のようなローテク装備だ。
人間をダメにする装置として有名だが、彼女は「所詮は熱源」と高をくくっている。精神を鍛え上げた軍人である私が、この程度の誘惑に負けるはずがない、と。
(これは『戦術的潜伏』よ。万全の状態で任務を遂行するため、一時的に熱源を利用するだけ。……そう、ただのメンテナンスよ)
彼女は音もなくコタツに近づき、掛け布団の隙間へと頭を突っ込んだ。
それが、底なし沼への入り口だとも知らずに。
コタツ内部。そこは、外界から隔絶された常夏の楽園だった。
(……っ!?)
乾が足を踏み入れた瞬間、全身の毛穴という毛穴が歓喜の声を上げた。
遠赤外線の波動が、冷え切った皮膚を透過し、芯まで優しく解凍していく。
彼女の思考回路が「帝国の最新鋭寒冷地用歩兵装備より快適」という事実に驚愕している間に、目の前に先客がいることに気づいた。
ヒーターユニットの真下。一番暖かい特等席で、腹を出して大の字(?)になっているトカゲ。
ルートのペットこと
(ッ!? 貴様は……先日の発光体!)
乾の瞳孔が、カッと開く。
こいつだ。前回の公園で、私を鉄棒に激突させた元凶は。
トカゲは「ピ……」と寝言を言いながら、幸せそうに腹を波打たせている。
(ここで会ったが百年目……! その無防備な腹、引き裂いてくれるわ!)
乾は殺意と共に、必殺の「暗殺爪」を繰り出した。
はずだった。
繰り出された前足は、ふにゃふにゃの軌道を描き、トカゲの腹を優しくタッチしただけだった。
乾は自分の手を見た。力が入らない。
コタツの熱気が、筋肉の緊張を強制的に解除しているのだ。恐ろしい兵器である。
「ピ?」
攻撃(マッサージ)を受けたルーター君が、薄目を開けた。
目の前に黒猫がいる。だが、彼もまたコタツの魔力に脳を焼かれた爬虫類だった。敵対心など湧くはずもない。
ルーター君は、挨拶代わりに尻尾を左右に振って、乾の鼻先をペシペシと叩いた。
(お、おのれ……! 私の攻撃を受け流して反撃だと……!? やるな……!)
乾は再び前足を振り上げる。だが、その拳はスローモーションのように遅く、そして柔らかかった。
コタツの中で繰り広げられる、世界で最も低レベルな攻防戦。
私の永き生でも、これほど緊迫感のない戦闘シーンは初めてだ。
数合ほど打ち合ったところで、乾の身体に決定的な異変が起きた。
(くっ……まぶたが……重い……。それに、さっきから……)
彼女の前足が、勝手に近くにあったルートの太ももを掴み、リズミカルに押し始めたのだ。
グーパー、グーパー。
(な、何をしている私の前足!? やめろ! これは敵の肉体だぞ! マッサージしてどうする!)
『フミフミ』。
それは猫科の生物が、極度のリラックス状態にある時に行う、母乳を飲む際の名残。つまり幼児退行である。
少佐の鋼鉄の精神は、猫の本能というシステムエラーの前に完全に敗北した。
(ええい……肉球が……肉球が勝手に……! くっ、撤退だ! 撤退する!)
乾は出口へ向かおうとした。
だが、ルーター君が「行かないで〜」と言わんばかりに、乾の首元に巻き付いてきた。
温かい。まるで上質な湯たんぽのように。
乾はその場に崩れ落ちた。意識が急速に遠のいていく。
(……本格的な調査は……体温が回復してからよ……。ほんの少し……仮眠を……ムニャ……)
数分後。
コタツの中には、トカゲを抱き枕にして幸せそうに喉を鳴らす、一匹の黒猫の姿があった。
報告書になんと書くつもりなのだろうか。
翌朝。午前7時。
規則正しい生活を送る男、猿渡恭介が目を覚ました。
「……ん」
隣の布団(というより万年床)を見る。ルートが半身をコタツに突っ込んで爆睡している。ここまではいつもの光景だ。
だが、猿渡は違和感を感じてコタツ布団をめくり上げた。
「…………」
そこには、奇跡の生態系が完成していた。
ルートの足。それに絡みつく黒猫。その黒猫に抱きつかれているトカゲ。
三種の生物が知恵の輪のように絡み合い、互いの体温を共有している。
まさに「平和」を具現化したような光景である。私の胃を除いて。
「……素晴らしい」
猿渡は無表情のまま、スマホを取り出した。
カメラアプリ起動。フラッシュ・オフ。連写モード。
あらゆる角度から撮影する。特に、黒猫がトカゲを枕にして、無防備に腹を見せているアングルは芸術点が高い。ルートの足が見切れている構図も、「日常感」があって実にいいらしい。この男の美的感覚は本当に理解できない。
シャッター音で、乾が飛び起きた。
全身の毛を逆立て、猿渡を威嚇する。
(貴様! 許可なく私の寝顔を撮影するとは! フィルムを没収する!)という抗議だろうが、猿渡には「寝起きで不機嫌な仔猫」にしか見えなかった。
「……失礼しました。あまりに可愛らしかったもので」
猿渡はスマホを置くと、正座をして一礼した。
そして、ゆっくりと両手を伸ばし、乾の脇の下を掴んで持ち上げた。
(な、何をする気だ!? 尋問か!? 拷問か!? 私は口を割らんぞ!)
乾が身構えた、その時だ。
猿渡は真顔のまま、乾の柔らかい腹毛に、自身の顔を埋めた。
(ッ!?!?!?)
深呼吸。
限界まで息を吸い込み、猫の匂いを肺の奥底まで充填する。
それは、現代社会が生んだ闇の儀式――『猫吸い』。
猿渡の目から光が消え、恍惚とした表情が浮かぶ。
乾は硬直した。思考回路がショートしている。
(き、きさ……貴様ァァァァッ!! セクハラだ! 破廉恥だ! 私は帝国陸軍の少佐だぞ! こんな屈辱、軍法会議にかけて銃殺刑にしてやるぅぅぅ!!)
乾が猿渡の顔面を引っ掻こうとした瞬間。
鼻先に、赤いスティック状の物体が差し出された。
「……お詫びと言ってはなんだが。出演料だ」
猿渡の手には、コンビニで売っている一番高いやつ――『プレミアム海鮮カニカマ』が握られていた。
乾の動きが止まる。
というかお前、猫飼ってないだろ。どこから持ってきた。
頭では「敵からの施しなど受けぬ」と叫んでいる。だが、昨晩から絶食状態の猫の胃袋が、暴力的なまでに反応してしまった。
(くっ……背に腹は代えられない……! これは補給よ! 略奪よ!)
「ハフッ! ハフハフッ!」
乾は猿渡の手からカニカマをひったくり、猛烈な勢いで貪った。
悔しい。変態に腹を吸われた挙句、餌付けされている自分が悔しい。だが、カニカマは涙が出るほど美味かった。
「……いい食べっぷりだ。名前は『クロ』でいいか」
「フシャーッ!(安直な名前をつけるな!)」
数十分後。
遅れて起きたルートが、あくびをしながら床から起き上がった。
「ふわぁ……。ん? おい猿渡、なんだこの猫は。拾ってきたのか?」
ルートが目線を移した先、というか目の前。
コタツの天板の上には、一匹の黒猫が香箱座りで鎮座していた。その横には、食べ終わったカニカマのフィルムと、トカゲ(ルーター君)が並んでいる。
乾は、冷ややかな瞳でルートを見下ろした。
(勘違いしないで。貴様の生活習慣があまりに自堕落だから、更生させるために監視してあげているのよ)
彼女はあくまで「任務中」の顔を崩さない。ここ(天板)は部屋全体を見渡せるし、何より温かい。戦略上の要地である。
「……ふん。まあいい。吾輩の威光にすり寄ってきたのだろう。許可してやる」
ルートは適当に納得し、コタツに入ってミカンを手に取った。そして、その皮を剥き、無造作に乾の鼻先に近づけた。
「ほら、食うか?」
乾がバッと飛び退き、ルートの指を甘噛みした。
「痛っ!? なんだ貴様、神の施しを噛むとは!」
(私に柑橘類を近づけるなと言っているのよ! 学習しなさい、このバカ死神!)
「ルート、クロさんをいじめるな。彼女はお前より高貴だ」
「解せぬ! なぜ吾輩がヒエラルキーの最下層なのだ!」
騒がしい朝。
コタツの上には、ミカンと黒猫とトカゲ。
日本の冬を象徴するその光景は、奇妙なほどに平和だった。
こうして、彼女は『24時間密着監視』という名目で、堂々とニート生活に合流した。
ミイラ取りがミイラになる典型例であるが、本人はまだ『高度な潜入任務中』だと信じている。幸せなことだ。
ちなみに、私の部屋にはコタツがない。誰か送ってくれ。
宛先は『旧YB管理区・学術惑星オルトス』まで。胃薬も同梱してくれると助かる。
まぁ、銀河間ネットワークが生きていればの話ではあるが……
第二部欲しいですか?
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欲しい
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次話で完結で良いよ