前回のあらすじ:
日本の冬が誇る戦略兵器「コタツ」。
その魔力は、帝国陸軍の最終兵器である乾少佐(猫モード)すらも陥落させ、無残な「ダメ猫」へと変貌させた。
これにより、猿渡のアパートの人口密度はさらに上昇。
ニート神、マッドサイエンティスト、そして猫(軍人)。
この狭い六畳一間に、世界の運命を左右する爆弾が三つも転がっている異常事態である。
ちなみに、友人から貰った胃壁は意外といい仕事をしている
週末の午後。
帝都の空は抜けるような青空だったが、猿渡のアパートの廊下には、重苦しい「殺気」が満ちていた。
カツ、カツ、カツ……。
規則正しいヒールの音が、静寂を切り裂いて近づいてくる。
その足取りには、迷いがない。
まるで、自分の家に帰るかのような自然さと、侵入者を排除せんとする断固たる意志が込められていた。
現れたのは、紅白の巫女服に身を包んだ金髪の少女――特級幻種、
その手には、風呂敷に包まれた重箱(三段重ね)と、ネギの入った買い物袋が握られている。
「……ふぅ」
彼女は猿渡の部屋、201号室の前で足を止めた。
懐から取り出したのは、合鍵。
それも、コピーではない。かつて猿渡本人から「好きに入って掃除しておいてくれ(意訳:家政婦代わり)」と渡された、正規のマスターキーである。
「(……気配がしますわね)」
紅は鍵穴にキーを差し込む寸前で、ピタリと動きを止めた。
彼女の青い瞳が、スッと細められる。
扉の向こうから漂ってくるのは、カップ麺のジャンクな匂いと……そして、微かだが無視できない「血と鉄」の匂い。
「……出てきなさい。そこにいるのは分かっていますわよ」
紅が、誰もいないはずの廊下の隅――ガスメーターの陰に向かって語りかけた。
すると。
「あら。バレちゃった?」
ニチャア……。
粘着質な笑い声と共に、影の中から「闇」が滲み出した。
音もなく現れたのは、一匹の黒猫。
いや、その影が揺らぎ、一瞬だけ「軍服の男」のシルエットが重なって見えたのは、紅の幻覚ではないだろう。
「その穢れた魔力……『特務八課』の
紅の声色が、氷点下まで下がる。
彼女は知っている。この国を裏から操る「掃除屋」の存在を。
そして、目の前の黒猫が、かつての大戦で数多の不穏分子どころか、陸軍軍人すらも葬り去ってきた「生きた兵器」であることを。
「お久しぶりね、お狐様。……相変わらず美味しそうな魔力してるわぁ」
黒猫――乾は、舌なめずりをしながら、しなやかに紅の足元へ擦り寄った。
「それで? なぜ貴女のような『戦時中の遺物』がここに? 恭介に手を出したら、タダでは済ませませんわよ」
紅の背後に、九つの尾がゆらりと立ち昇る。
即死級のプレッシャー。
だが、乾は欠伸を一つ噛み殺しただけで、平然と答えた。
「勘違いしないでちょうだい。私はただの『任務』よ。……それに」
乾の金色の瞳が、怪しく光る。
「私がここにいるのは、上の決定事項。……貴女ごとき民間協力者が、軍の決定に逆らえるのかしら?」
「……ッ」
紅が唇を噛む。
痛いところを突かれた。
紅はあくまで「人間に協力する友好的な幻種」としての立場を保っている。ここで軍属である乾と事を構えれば、彼女だけでなく、実家の八重や神社にまで迷惑がかかる。
政治的な力関係において、紅は圧倒的に不利だった。
「……チッ。相変わらず、権力の傘を着た嫌な男ですこと」
紅は殺気を収め、フンと鼻を鳴らした。
「いいでしょう。ただし……私の目の届く範囲で恭介に手を出したら、刺し違えてでも消しますわよ」
「ウフフ。肝に銘じておくわ」
乾は面白そうに喉を鳴らすと、スッと扉をすり抜けて部屋の中へと消えていった。
「……まったく。古狸が増えましたわね」
紅は深呼吸をして、表情を「優しいお姉さん」へと切り替えた。
髪を整え、服の乱れを直し、満面の笑みを作る。
「恭介、久しぶりね。近くまで来たから、また『野菜の炊いたん』を持ってきましたわよ。ちゃんと食べてますの……?」
ガチャリ。
彼女は、いつものように鍵を開けた。
そこに広がる光景が、地獄だとも知らずに。
「…………は?」
ドアを開けた瞬間、紅の時が止まった。
手から重箱が滑り落ちそうになるのを、超人的な反射神経でなんとか堪える。
そこは、かつて彼女が完璧に整頓していたはずの「聖域」ではなかった。
足の踏み場もない床。
散乱するスナック菓子の袋、空き缶、脱ぎ捨てられた衣服。
そして、部屋の中央を占拠するコタツと、そこに生息する「魔物」たち。
「あー、猿渡。コーラがないぞ。補充はどうなっている」
コタツから半身を出し、ポテチを撒き散らしている銀髪のニート。
「…………(スピー)」
その腹の上で丸くなり、幸せそうに寝息を立てている黒猫とゲーミング色に光るトカゲ。
「邪魔だ。……チッ、ルンバが死んでいる」
ゴミを跨ぎながら、死んだ魚のような目でPCに向かう家主。
カオス。
圧倒的カオス。
紅の額に、青筋が一本、二本と浮かび上がっていく。
「誰だ? ピザ屋にしては和風だな」
ルートが気だるげに顔を上げ、紅を見た。
そして、致命的な一言を放った。
「なんだ、また来たのかおばさん。ドア代は払えよ」
ブチッ。
何かが切れる音が、アパート中に響き渡った。
「……誰が、おばさんですって?」
紅が、にっこりと笑った。
その背後で、重箱に入っていた煮物が、魔力でグツグツと沸騰を始める。
「私が! 毎週通って! 洗濯して! 掃除して! 完璧に管理していた『私のテリトリー』を! こんなゴミ溜めにして!!」
ドゴォォォォォンッ!!!
紅の全身から、青白いオーラが噴出した。
特級幻種の「威圧」ではない。
それは、自分の城を汚された主婦の、理屈を超えた「怒り」である。
「あ、先生? 落ち着いてくれ。いま機材のキャリブレーション中で――」
猿渡が振り返るが、もう遅い。
「黙りなさい恭介! 貴方も同罪ですわ! なんですのこの惨状は! 人間の住処ではありません!」
紅は買い物袋を床に叩きつけると、高らかに宣言した。
「全員、そこにお座りなさい! 今からこの部屋を浄化します!!」
「え、嫌だ。アニメ見てる」
「ニャーン(関係ないし)」
「キュウ……(このおばさん怖い)」
ルートと乾が無視を決め込んだ、その瞬間。
「風よッ! ゴミを彼方へ吹き飛ばしなさい!!」
紅が印を結ぶ。
室内限定・超圧縮暴風魔法鎌鼬・掃除機版が発動した。
ヒュゴォォォォォォォッ!!!
凄まじい吸引力が部屋を襲う。
床に散らばっていたゴミ、空き缶、雑誌、そしてルートの手にあるポテチ袋までもが、一瞬にしてゴミ袋へと吸い込まれていく。
「ああっ!? 吾輩のコンソメパンチが!?」
「ついでにそこの泥棒猫も吸い込みなさい!」
紅が指差した先には、コタツにしがみつく乾(猫)の姿。
「フシャーッ!?(貴様、公権力に逆らう気か!?)」
「あらごめんあそばせ! ゴミかと思いましたわ!」
紅は掃除機(魔法)の出力を最大にした。
乾の尻尾が、ズボッとゴミ袋の入り口に吸い込まれる。
ちなみに、ルーター君はルートのローブの中に潜り込んだ。流石元ダンジョン主。
「フギャーッ!!(尻尾! 尻尾ちぎれる!)」
「先生! やめろ! その猫は貴重なサンプルだ!」
猿渡が止めに入るが、紅は止まらない。
彼女はさらに水魔法を展開した。
「水よ! 汚れを穿ち、清めなさい! 高圧洗浄!!」
バシュゥゥゥッ!!!
圧縮された水流が、床のシミや台所のぬめりを物理的に削り取っていく。
部屋中が暴風と水飛沫に包まれる地獄絵図。
しかし、その嵐が過ぎ去った後には――。
ピカーン!
モデルルームのように輝く、完璧に清掃された部屋だけが残されていた。
「……はぁ、はぁ。……どうです? これが『大人の女』の実力ですわ」
紅は肩で息をしながら、乱れた髪をかき上げた。
ルートと
「(……こ、こいつ……戦うより怖いわ……!)」
「(……吾輩のポテチ……粉々になった……)」
「キュ、キュウ……(なにこのひと)」
勝負あった。
家事能力(物理)において、紅の圧勝である。
だが、紅の気は収まらない。
部屋は綺麗になったが、恭介の視線が自分に向いていないからだ。
「……ふん。掃除くらいでいい気にならないでくれ」
ルートが、負け惜しみのように言った。
「吾輩には若さと可愛さがある。おばさんにはその……『加齢臭』とやらがあるだけだろう」
「…………」
再び、紅のこめかみに血管が浮く。
若さ。可愛さ。
それは、50歳(推定)を超える彼女にとって、最も痛い指摘だった。
「言いましたわね……? いいでしょう、見せてあげますわ」
紅は不敵に笑い、猿渡に向き直った。
「恭介! 見てなさい! 今の私は、一味違いますのよ!」
「……? 何をする気だ?」
猿渡が怪訝な顔をする前で、紅は深く息を吸い込んだ。
「んぐぐぐぐぐッ……!!」
全身に力を込める。
顔が真っ赤になり、脂汗が噴き出す。
かつてダンジョンで、そして学会で言われた「君には獣性(萌え)がない」という言葉を覆すための、血と汗の結晶。
「出ろぉぉぉッ! 私の……獣性ォォォッ!!」
ボロンッ!!!
紅の頭から、金色の狐耳が飛び出した。
お尻からは、ふさふさの尻尾が出現する。
巨大化変身を寸前で食い止め、末端パーツだけを露出させる荒行――奥義『部分的顕現(スン・ドメ)』である。
「はぁ、はぁ……ど、どうですの……? これなら……文句ありませんわよね……?」
紅はプルプルと震えながら、ケモ耳をピクピク動かしてアピールした。
完璧だ。
これぞ、男の夢見る「ケモ耳巫女」の完成形。
さあ恭介、私の魅力にひれ伏しなさい!
猿渡は、真顔で紅に近づいた。
そして、ゴム手袋をはめた手で、紅の耳を触診し始めた。
「……酷いな」
猿渡の声は、沈痛だった。
「この腫れ方……間違いない。先生、例の病気が再発したのか?」
「……え?」
紅の動きが止まる。
「忘れるものか。先日のダンジョンでも起きていた、重篤なアナフィラキシーショックによる浮腫だ。あの時、すぐに病院へ行けと言ったはずだぞ」
猿渡は悲しげに首を振った。
「なんてことだ……短期間でここまで巨大化するとは。これはもう、一過性の症状じゃない。……慢性的な腫瘍になっている」
「ち、違いますわ恭介! これは萌え……!」
「喋るな! 脳に毒が回って『自分は可愛い』と思い込む譫妄症状まで出ている!」
猿渡は手早く紅の「耳(腫瘍)」をさすり、憐れむような目をした。
うん、普通にひどい。
「可哀想に……。ストレスか? それとも加齢による免疫不全か? 今すぐ切除手術を――」
「…………」
紅の思考が停止した。
萌えアピールが。
命を削った「スン・ドメ」が。
「再発した腫瘍」扱いされた。
ガーン…………
紅は白目を剥き、その場に崩れ落ちた。
彼女の乙女心は、粉々に砕け散ったのである。
貴女もいい加減、学習してください。
数十分後。
気を取り直した(というよりヤケになった)紅は、台所に立っていた。
「……もういいですわ。色気で勝てないなら、胃袋で分からせてやりますのよ!」
ダンダンダンッ!
包丁がまな板を叩く音が、怒りのリズムを刻む。
彼女が作るのは、冷蔵庫の余り物(しなびた野菜と謎の肉)を使った、京風の『肉じゃが』と『出汁巻き卵』だ。
長年、神社の供物を調理してきた彼女の腕前は、料亭の板前レベル。
魔法による圧力調理と、完璧な出汁の配合により、アパート中に暴力的なまでに食欲をそそる香りが充満した。
「……ん? なんだこの良い匂いは」
アニメを見ていたルートが、鼻をヒクつかせた。
「ニャァ?(……クンクン。カニカマより……高級な匂いがするわね)」
「キュ? キュキュ!(やった、ポテチ以外のご飯の匂い!)」
コタツで丸くなっていた乾とルーターも、片目を開ける。
「できましたわよ! さあ、正座して食べなさい!」
紅がドンッ! とテーブルに大皿を置く。
黄金色に輝く出汁巻き。
味が染みに染みた、照りの美しい肉じゃが。
そして、炊きたての白米。
それを見た瞬間、ニートと通信回線、猫の目の色が変わった。
「い、いただきます!」
ルートが箸を伸ばし、肉じゃがを口に放り込む。
じゅわぁぁぁぁ…………!
「んんっ!? な、なんだこれは……!?」
ルートが目を見開いた。
「美味い……! 口の中で芋が解ける! そしてこの肉の旨味! コンビニ弁当とは次元が違うぞ!?」
乾とルーターもまた、猫の姿のまま出汁巻きにかぶりついた。
「(ハフハフッ! ……悔しい! 軍のレーションより遥かに高尚な味だわ!)」
「ングング(あ、詰まった)」
三匹は無言になり、ただひたすらに箸を動かし始めた。
圧倒的な「家庭の味」の前に、神も軍人もひれ伏したのだ。
猿渡もまた、静かに肉じゃがを一口食べ、眼鏡を光らせた。
「……栄養価、味、そして家事代行業者を雇うコストとの比較」
彼は電卓を叩き、結論を出した。
「……やはり、先生が一番だな」
「へ?」
猿渡は紅に向き直り、真剣な顔で言った。
「先生。君を『住み込み』としては認めないが……『通いの家政婦』としてなら、これまで通り契約してもいい。追加の報酬は、俺の観察データ(盗撮可)の一部提供でどうだ」
「!!!」
紅の顔が、瞬時に沸騰した。
家政婦。
それはつまり、合鍵を持って堂々と通える権利。
そして、恭介のパンツ……じゃなくて、データを合法的に入手できる権利。
実質的な「妻」ポジションではないか!?(※違います)
「……しょ、しょうがありませんわね!」
紅は扇子で顔を仰ぎながら、必死にニヤけ顔を隠した。
「貴方たちが生活能力ゼロだから、私が面倒を見てあげるだけですわよ! 勘違いしないでくださいまし!」
「おいおばさん、明日はハンバーグがいいぞ。あとプリンも作れ」
口の周りをタレだらけにしたルートが、偉そうに注文をつける。
「(……また来てもいいわよ。監視の一環として、毒味くらいしてあげるわ)」
乾も、満足げに顔を洗っている。
「誰がおばさんですの! ……まったく、世話が焼ける子たちね!」
紅は腰に手を当て、勝ち誇ったように笑った。
その笑顔は、まさに「オカン」そのものだった。
帰り際。玄関にて。
「じゃあ恭介、また明日来ますわね」
「ああ。頼む。……掃除と飯の手間が省けるのは合理的だ」
猿渡はPCに向かったまま、手を振った。
紅は「家政婦」というポジションに収まったことに満足し、スキップ交じりで帰路についた。
だが、最後に一つだけ。
彼女は廊下の隅にいた黒猫に向かって、冷ややかなテレパシーを送るのを忘れなかった。
『……釘は刺しましたわよ、古狸。恭介に手を出したら、その毛皮で襟巻きにしますからね』
『フン。(精々気をつけるわよ、若造)』
闇の中で火花が散る。
しかし、その顔は互いに「美味しいご飯を食べた後」の、奇妙な連帯感に包まれていた。
こうして、猿渡のアパートには「最強のオカン」という新たな防衛システムが組み込まれたのである。
私の胃痛?
まあ、まともな食事が提供されるなら、少しはマシになる……かもしれない。
胃壁と一緒に揚げ物を送りつけてくるのは悪意あると思うぞ。
第二部欲しいですか?
-
欲しい
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次話で完結で良いよ