帝都の夜は、光と闇のコントラストがきつい。
表通りではネオンが極彩色の夢を垂れ流し、路地裏ではドブネズミが腐った夢を
今夜は特に
空から降り注ぐのは、大気汚染物質と魔力
もっとも、今のこの場所において、鉄の臭いの発生源は空ではない。
地面に転がる肉塊だ。
「ヒッ、ひぃッ……! くるな、来るなァ!!」
廃工場の最奥。湿ったコンクリートの上に、男が一人、腰を抜かして後ずさっていた。
彼は帝都の地下で非認可の
だが今、彼の視線の先にあるのは、積み上げられた護衛たちの成れの果てと――闇の中に佇む、一人の「掃除屋」だけだった。
「……
雨音を切り裂くように、低い声が響く。
闇の中から現れたのは、黒いロングコートを
その手には銃も剣もない。ただ、右手だけが異様に肥大化し、不気味な黒い毛皮と、
『部分的顕現』。
全身を獣化させるまでもなく、身体の一部だけを「
「た、助けてくれ! 金ならある! 魔導石も、未公開のルートも全部やる!」
男が懐から札束を掴み出し、雨の中にばら撒く。
乾は、足元の泥水に浸かる紙幣を無感動に見下ろし、小さく息を吐いた。
「勘違いするな。私は交渉に来たわけじゃない」
乾が一歩、踏み出す。
それだけで男は悲鳴を上げ、失禁した。
「それに、その金は血で汚れている。……私の手と同じだな」
乾の右手が、瞬きする間に振るわれた。
風を切る音すらしない。ただ、肉と骨が物理的に破断する鈍い音だけが、雨音に混じって響いた。
男の声が途絶える。
首から上がなくなった胴体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
静寂が戻った。
乾は肥大化した右手を振るい、付着した赤黒い液体を払い落とす。そして、ゆっくりと息を吸い込み、人間の腕へと戻した。
「……全目標の排除を確認」
誰に聞かせるでもなく呟く。
その瞳には、達成感も高揚感もない。あるのはただ、終わりのない事務作業を淡々とこなした労働者の、乾いた疲労感だけだった。
冷たい雨が、彼の頬を伝って落ちる。
いくら雨で洗っても、染み付いた血の臭いは取れそうになかった。
工場のシャッターが上がり、ヘッドライトの白い光が闇を切り裂いた。
パトランプもサイレンもない、黒塗りのセダン。
車から降りてきたのは、傘を差した男――特務八課現場調整役、
堂目木は革靴で水溜まりを踏み砕きながら現場へ歩み寄り、惨状を見回して眉をひそめた。
「……派手にやったな、乾。
「迅速な処理を優先したわ。それに、こいつらは苦痛を感じる暇もなかったはずよ」
乾は表情一つ変えずに答える。
堂目木は「ふん」と鼻を鳴らし、懐から取り出したタブレット端末に何かを打ち込んだ。
「ターゲットの死亡を確認。これで『上』への報告は終わりだ。……まったく、こんな雨の日に泥仕事とはな。お陰で俺の楽しみにしていた『秋葉原限定・極上なめらかプリン』の賞味期限が危うい」
「……中佐。私の残業代は?」
「現物支給だ。そのプリンをやる」
堂目木は呆れたように肩をすくめると、部下たちに死体の処理を指示し、再び車のドアに手をかけた。
そして、雨の中に立ち尽くす乾を振り返る。
「乗れ。送ってやる」
短い命令。
それは上官としての義務感か、あるいは長年この汚れ仕事を共有してきた相棒としての、僅かな気遣いか。
だが、乾は動かなかった。
「……いや。遠慮しておくわ」
「あ? この雨だぞ」
「血の臭いがしてるから。……それに、中佐の車を汚すと、始末書が増えるしね」
乾は自嘲気味に笑い、視線を自身のコートへと落とした。
肉眼では見えずとも、そこには数え切れないほどの
堂目木は、乾の言葉の裏にある感情――自己嫌悪と、他者への拒絶を読み取ったのだろう。
深く追求することはせず、短く息を吐いて煙草を取り出した。
「……そうか。好きにしろ」
「はい。お疲れ様でした」
乾は一礼し、
背後でドアが閉まる音と、タイヤが水を弾く音が遠ざかっていく。
再び、雨の音だけが残された。
乾はコートの襟を立て、闇の中へと歩き出す。
帰るべき場所は決まっているはずなのに、足取りは重かった。
あの暖かなアパートの光は、今の自分には
「……不器用な野良猫め」
遠ざかる車の中で、堂目木がそう呟いたことを、乾は知る由もなかった。
雨脚は弱まるどころか、強さを増していた。
乾は、古びたアパートの前で足を止めた。
築四〇年、木造モルタル、防音性皆無。
セキュリティという概念が欠落したそのボロアパートの二階から、暖かな光が漏れている。窓の向こうからは、何やら騒がしい笑い声と、テレビの電子音が微かに聞こえてくる。
(……あの中は、別の世界)
乾は冷え切った指先を握りしめた。
今の自分は、死と暴力の臭いを纏まとった化け物だ。あのような
踵を返そうとした、その時だった。
「……あ? なんだお前」
背後から、
乾が振り返ると、そこにはビニール傘を差したルートが立っていた。片手にはコンビニの袋。
その肩には、小さなビニール袋をカッパ代わりに被ったルーターが乗っている。
最悪のタイミングだ。乾はとっさに身構え、殺し屋としての鋭い視線を向けてしまう。
「ッ……」
その視線を受けたルートの反応は、劇的だった。
彼女は露骨に顔をしかめ、ゴミを見るような目で乾を見下したのだ。
「うわ、なんだその目。死んだ魚の煮付けみたいだぞ」
ルートは一歩後ずさり、スマホを取り出すフリをして乾から距離を取る。
「あの、ウチ宗教とか新聞とか間に合ってるんで。あと敷地内で立ち止まるとWi-Fiの電波が悪くなるから、とっとと消えてくれません? 通報しますよ?」
氷のような塩対応。
だが、それが乾にとっては心地よかった。
(……ああ。それでいい)
乾は、胸の奥で納得する。
この少女は、本能的に理解しているのだ。目の前の男が、平穏な日常を害する「異物」であることを。
「……失礼した。すぐに立ち去る」
乾が短く告げ、雨の中へ歩き出そうとした瞬間――。
「キュイッ!!」
ルートの肩から、緑色の閃光が飛び出した。
ルーター君だ。彼は小さな身体で雨の中へダイブし、バシャリと《ruby》水飛沫《rt》みずしぶき《/ruby》を上げて着地すると、迷わず乾の足元へと駆け寄った。
「おいルーター!? 何してんだ!」
ルートの制止を無視し、ルーター君は乾の革靴にしがみつく。
そして、『ゲーミング・ヒーター・モード(暖房)』を全開にした。
七色に激しく明滅しながら、彼は必死に熱を発し、冷え切った乾の足を温めようとする。
「ギュウ、キュウ!(猫の人だ! 冷たいよ、風邪ひいちゃうよ!)」
その小さな瞳は、乾の正体を――「黒猫」としての彼を、匂いと魔力ではっきりと認識していた。
人間としての汚れなど関係ない。ただ、家族(コタツの仲間)が寒そうにしていることが、トカゲにとっては一大事なのだ。
乾の凍った心が、ほんの少しだけ揺らぐ。
汚れた靴に、七色の光が反射している。
「……お前」
乾が手を伸ばそうとした、その時。
「こらルーター! 離れろ! そいつ絶対カタギじゃないぞ!」
ルートが傘の先端で、器用にルーター君をひっくり返して回収した。
「野良犬とか野良殺し屋には触るなと言っただろ! 変なウイルスとか呪いとか貰ったらどうするんだ! 家で消毒だ、消毒!」
ルートはルーター君を懐にねじ込むと、乾に対して「シッシッ!」と野良猫を追うような仕草を見せた。
「ほら、お前もさっさと行け! ここは私のテリトリーだ!」
吐き捨てるように言い放ち、ルートは逃げるようにアパートの階段を駆け上がっていった。
バタン、とドアが閉まる音が響く。
残されたのは、雨音だけ。
「……ふっ。消毒、か」
乾は自嘲し、濡れた髪をかき上げた。
拒絶されたはずなのに、足元にはルーターが残していった「微かな熱」が残っていた。
それが、致命的だった。
一度知ってしまった温もりは、麻薬のように理性を
(……情報の整理が必要。今夜だけ。そう、今夜だけよ)
乾は物陰へと足を踏み入れ――その姿を、闇に溶かした。
数分後。
アパートのドアが、控えめに引っ掻かれた。
「ん? 誰だ、出前か?」
中からルートが出てくる。
彼女が見たのは、ドアの前でずぶ濡れになり、震えている一匹の黒猫だった。
その瞬間、ルートの表情から「人間への不信感」が消滅した。
代わりに浮かんだのは、全銀河を溶かすほどのデレデレな甘やかし顔だ。
「うわあああ! 猫! お前、どこ行ってたんだバカヤロウ!!」
ルートは叫び、自分の高いアニメTシャツが汚れるのも構わず、泥だらけの黒猫を抱き上げた。
「こんなに濡れて……! おい猿渡、お湯だ! 今すぐ風呂を沸かせ! あとタオルを持ってこい!!」
「騒がしいなニート……って、うわ泥だらけだな。洗ってから入れろ」
部屋の奥から猿渡が呆れたように顔を出すが、ルートは聞く耳を持たない。
彼は猫を抱きしめたまま、神の権能を使って室内の温度を上げ始めた。
「よしよし、寒かったな。すぐ乾かしてやるからな。……ルーター、ドライヤー準備!」
「ギュイッ!(了解!)」
部屋の奥から、ルーター君が嬉しそうに飛び出してきた。
乾は、ルートの腕の中で小さく息を吐く。
(……チョロい死神で助かったわ)
その瞳は、先程までの殺し屋のものではなく、完全に「飼い猫」の計算高い光を宿していた。
世界には二種類の平和がある。
一つは、争いのない理想郷。
もう一つは、コタツの中だ。
(……ふぅ。生き返るわ)
乾は、コタツの中で完全に液状化していた。
シャワーで泥と血の臭いを洗い流され、ドライヤーで毛並みをふわふわに整えられた彼は、今やコタツの一等(ヒーターの真横)を占拠している。
その背中の上には、ルーター君が乗っかっていた。
爬虫類特有のひんやりとした感触と、内蔵された発熱器官の温かさが心地よい。ルーター君もまた、乾の柔らかい毛皮をクッションにして、幸せそうに明滅している。
「あら、猫ちゃん。こっちのピザの耳、食べます?」
コタツの対面から、けだるげな声がした。
バチカンの異端審問官、ソフィアだ。彼女はジャージ姿でコタツに潜り込み、片手にはコーラ、もう片手には『週刊少年チャンプ』を持っていた。
その瞳に、いつもの聖職者の威厳はない。あるのは「怠惰」という名の原罪だけだ。
「やめろソフィア。猫に塩分過多なものを与えるな。あと私のコーラを勝手に飲むな」
ルートがポテチを
画面には深夜アニメの再放送が流れている。
外の冷たい雨が嘘のような、堕落しきった空間。
乾は、ルーター君の重みを感じながら、ぼんやりとテレビを眺めた。
「そういえばな、猫」
ルートが、不意に口を開いた。
「さっき外に、ヤバい奴がいたんだ」
乾の耳がピクリと動く。
「目が死んでて、全身から血の臭いがするような男だ。あんなのと関わったら、ロクなことにならんぞ。お前も外に出る時は気をつけろよ」
ルートは本気で心配していた。
彼にとって、先程の「人間」は排除すべき敵であり、この「乾」は守るべき家族なのだ。
その滑稽なすれ違いに、乾は小さく喉を鳴らして笑った。
「ニャー(……そうね。あんな男、私も大嫌いだわ)」
乾は同意するように鳴き、コタツの中に顔を埋めた。
ここには、殺し屋の「乾煉太郎」を知る者はいない(一匹のトカゲを除いて)。
だからこそ、この場所だけが、彼が唯一仮面を外せる安息地なのかもしれない。
その時、アパートのチャイムが唐突に鳴り響いた。
「ん? 誰だ、またピザか?」
ルートが顔を上げる。
猿渡が「頼んでないぞ」と
やがて戻ってきた猿渡の手には、高級そうな和紙で包まれた重箱のような包みがあった。
「……なんか、ウーバー○ーツが来たぞ。宛名は『そこの黒猫』。送り主は『D』だと」
「は? 猫宛て?」
ルートが包みを開ける。
中から現れたのは、美しく盛り付けられた『特上・カツオのたたき(薬味マシマシ)』の山だった。
コンビニの惣菜とは格が違う、料亭レベルの輝きを放っている。
「うおおお! 刺身だ! さすが日本の物流、猫へのサービスも手厚いな!」
ルートが歓喜し、勝手に箸を伸ばそうとする。
ソフィアも「日本酒に合いますわね」と目を輝かせる。
だが、乾だけは、その送り主に気づいていた。
『D』――堂目木(Doumeki)。
あの堅物が、わざわざ現物を送りつけてきたのだ。メールひとつ送らず、物理的な餌付けで済ませようとするあたりが、いかにもあの男らしい。
(……フン。余計なお世話よ)
乾は呆れたように鼻を鳴らしたが、その口元はわずかに緩んでいた。
彼はコタツから這い出し、その新鮮な赤身に舌鼓を打つことにした。
冷え切った身体には、他人の不器用な優しさが一番の薬だ。
第二部欲しいですか?
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欲しい
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次話で完結で良いよ