前回、木星の大赤斑を物理的に破壊して(迷惑をかけながら)地球へ降り立ったニート神、ルート。
彼女が向かった先は、Cランクダンジョン『碧の岩窟』。
そこには、もう一人の「関わってはいけない人間」がいた。
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地下四階層。湿った苔の光が青白く洞窟内を照らし出している。
「グルルルルゥッ!!」
空間を震わせる咆哮と共に、トラックのような質量が突っ込んでくる。
マッド・グリズリー。
推定体重八〇〇キログラム。全身が鋼のような剛毛に覆われた暴走熊だ。
普通の人間なら、その姿を見ただけで腰を抜かし、次の瞬間にはミンチになっているだろう。
普通なら、だ。
だが、目の前の男――猿渡恭介は違った。
「いいぞ……その広背筋の可動域、素晴らしい……!」
彼は恍惚とした表情で、迫りくる死の塊を見つめていた。
熊の腕が振り下ろされるのを紙一重で回避し、流れるような動作でスライディング。
その手には武器ではなく、高性能なビデオカメラが握られている。
彼はダンジョンを探索し、そこにいる獣たちを研究する学者だった。この男にとって、眼前の熊は貴重な「サンプル」だった。
「右前脚の負傷による重心のブレ……それをカバーするための僧帽筋の異常発達。なんて美しい適応進化なんだ」
うん、少し……いやかなり気持ち悪い。
純粋に、生理的に無理だ。
死の危険よりも筋肉の美しさにハアハアするこの男、ダンジョン生態学者であり、重度の「ケモナー」である。
彼にとってこの襲撃は、ご褒美プレイらしい。警察を呼ぶべきか、病院を呼ぶべきか悩むところだ。
「ハア、ハア……もっとだ。もっと怒れ。興奮状態で逆立った毛並みの質感を、4K画質で記録させてくれ」
猿渡が地面を蹴り、最適な画角へ移動しようとした、その時だ。
突如、ダンジョンの天井が爆発した。
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落盤と共に、凄まじい砂煙が舞い上がる。
粉塵が晴れると、そこにはクレーターの中心で片膝をついた、一人の「少女」がいた。
透き通るような白髪に、漆黒のローブ。
その姿はあまりにも神々しかった。
はい、出ました。本日二度目の「スーパーヒーロー着地」。
学習しないな、このニート。膝の軟骨がすり減るぞ。
(ふふふ……見ろ、人間。これこそが「ヒーロー着地」だ!)
心の中でドヤ顔をするな。
彼女の視界には、巨大な熊に追い詰められている(ように見える)貧弱な人間が一人。
(ふっふっふ。あの人間、やはり食われる寸前ではないか。ここで吾輩が颯爽と助ければ、人間社会での好感度は爆上がり。もしかすれば、お礼に「転餌Blu-ray全巻」くらいは貰えるかも知れん!)
思考回路が欲望に忠実すぎる。あとそのアニメそんな略称なのか。
そして「助けたお礼=円盤」という発想が、昭和のオタクかと思うほど古い。今は配信の時代だぞ。
ルートはスッと立ち上がり、大鎌をバサリと翻して熊と人間の間に割って入った。
白髪がふわりと舞う。
銀色の瞳が、不遜に細められる。
「恐れよ! そして崇めよ! 吾輩は死神――」
「どけッ!! 被ってるだろバカ野郎!!」
「……えっ」
おめでとう。第一声が「バカ野郎」だ。
感動の対面どころか、撮影の邪魔をしたAD扱いである。
ルートが振り返ると、猿渡が鬼のような形相で睨んでいた。
「貴様! 今、熊の『瞬膜』が閉じる決定的瞬間だったんだぞ! 何、フレームインしてんだ! 邪魔だ!」
「は……? いや、吾輩は助太刀を……」
「助けなど呼んでいない! 僕が欲しいのはデータだ! そこをどけ、そのツルツルの肌は露出オーバーで白飛びするんだよ!」
(なんだこの人間……!?)
全くだ。私もそう思う。
だがルートよ、お前も人のことを言えないレベルで変人だということを忘れるな。
■□■□
呆気に取られるルートをよそに、ターゲットを見失って苛立ったマッド・グリズリーが、新たな邪魔者であるルートへ標的を変更した。
岩をも噛み砕く顎が、ルートの華奢な首元へと迫る。
「チッ、死んだか」
猿渡は冷徹に呟き、カメラの設定を『捕食シーン』へ切り替えた。
おい眼鏡。なぜそこで高画質録画の準備をする。
人命救助という概念が、彼の辞書には最初から印刷されていなかったらしい。
だが、ルートは焦らない。
彼女は不敵な笑みを浮かべ、身の丈を超える巨大な鎌を振りかぶった。
死神のように。アニメの主人公のように。
カッコよく、一閃。
カキンッ!
「あ」
乾いた音が響いた。
長すぎた鎌の柄が、天井から垂れ下がる鍾乳石にガッツリと引っかかったのだ。
……言わんこっちゃない。
屋内戦で長物を振り回すなと、あれほどFPSゲーマーの間では常識だというのに。
「
(やっ、やべっ。屋内戦用の当たり判定考慮してなかった! 抜けない!?)
ルートがわちゃわちゃと鎌を引っ張っている間に、熊の鼻先は目前に迫っている。
死神(笑)の顔面に、絶望的な爪が振り下ろされる。
「ええい、鬱陶しい!」
ルートは鎌をパッと手放すと、反射的に右手を振った。
それは、まとわりつく羽虫を追い払うような、ぞんざいな「裏拳」だった。
ドガァァァァァンッ!!
次の瞬間、衝撃波がダンジョン内を駆け抜けた。
熊の悲鳴すら聞こえなかった。
ルートの拳が触れた瞬間、マッド・グリズリーの上半身が「消滅」したからだ。
……修正しよう。これは「裏拳」ではない。
ただの「質量兵器による暴虐」だ。
細胞レベルで消し飛ばされた熊に、深い哀悼の意を表したい。来世ではもっと平和な動物園に生まれてくることを願う。
ダンジョンに静寂が戻る。
ルートは手の甲をフーフーと吹き、何事もなかったかのように髪をかき上げた。
「ふぅ……危ないところだったな、人間。礼はポテチとコーラでいいぞ」
ドヤ顔を決めるルート。
しかし、砂煙の中、猿渡はゆらりと立ち上がった。
その眼鏡の奥には、熊よりも深く澱んだ「殺意」が宿っていた。
「……貴様ア」
猿渡が、粉々になったカメラの残骸を踏み越えて詰め寄る。
「僕の『グリズリー激昂サンプル・テイク4』を……よくも……! 弁償しろ! 機材代、しめて二百四十万円! 何より、この失われた学術的損失をどう償うつもりだ!!」
「べ、弁償だと? たかが紙切れの話か? あいにく吾輩は、今現在一文無しだ」
借金生活、開幕である。
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「なら身体で払え! 臓器でも売れば――」
「だが! 吾輩はこの奥にある『光る石』を取りに行くところだ!」
ルートは猿渡の言葉を遮り、ダンジョンの深層を指さした。
「そこにある石は、なんでも願いを叶える(Wi-Fiが繋がる)すごいお宝らしい。案内すれば、その道中で拾ったゴミ(ドロップ品)は全て貴様にやるぞ!」
翻訳すると、「Wi-Fiルーターを取りに行くから手伝ってくれ」と言っているだけだ。
だが、猿渡の変態的な脳みそが高速回転を始めた。
(コイツ……人間じゃない。「
常人なら即死する熊を一撃で粉砕した筋力。
衝撃波を受けても傷ひとつない皮膚。
そして、魔素波長の感じられない異質な身体。
猿渡にとって、それは「毛並みの良い獣」に次ぐ、極上の研究材料だった。
逃げろルート。そいつの目は、お前を「珍しいモルモット」として見ている目だ。
「……いいだろう」
猿渡は懐から予備の小型アクションカメラを取り出した。
「僕が奥まで案内してやる。その代わり、道中のドロップ品は全て僕がもらう。そして何より――」
猿渡はカメラをルートに向け、赤い録画ランプを点灯させた。
「道中の『記録係』及び『動画の収益管理』、その全権を僕が握る。お前は僕の指示通りに動き、僕のために戦え。それで借金をチャラにしてやる」
要するに、奴隷契約である。
動画の収益も、肖像権も、すべて搾取する気満々だ。
だが、地球の常識に疎いルートは、その言葉を脳内で都合よく翻訳してしまった。
(む! 記録係……つまり、吾輩の活躍をプロが撮影してくれるということか! 吾輩も動画デビュー?! しかも面倒な編集やアップロード作業もやってくれると!)
バカだ。救いようのないバカだ。
「ブラック事務所に騙される新人アイドル」の構図そのままである。
誰かこいつに労働基準法という本を投げつけてやってくれ。
ルートは瞳を輝かせ、鷹揚に頷いた。
「よかろう! 特別に許す。光栄に思うがいい!」
「交渉成立だ。行くぞ、
「待て、吾輩の名はルートだ! あと、もっと下から煽るように撮れ。その方が足が長く見える」
「うるさい。指示するな」
こうして、木星帰りの最強ニートと、変態マニアの生態学者は、最悪の形で手を組むことになった。
彼らがこれから起こす「配信事故」が、世界を揺るがすことになるのを、二人はまだ知らない。
そして、その配信事故の後始末をさせられる私の胃に穴が開く未来も、残念ながら確定してしまったようだ。
……あーあ。帰りたい。