前回、猿渡恭介の携帯端末が振動を始めたところまでお話ししたと思う。
あれから数時間。
状況は沈静化するどころか、悪化の一途をたどっていた。
私の安眠は、文明の利器によって無慈悲に破壊されたのである。
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ブブブブブブブブブブブブブブッ!!!
テントの中に、削岩機のような振動音が響き続けている。
犯人はもちろん、猿渡の懐にあるスマートフォンだ。
「……チッ。五月蝿いな」
猿渡は不機嫌そうに端末を取り出すと、画面を睨みつけた。
普通なら、これだけの通知が来れば「ウイルス感染」か「炎上」を疑うところだ。
しかし、画面に流れる文字列は、彼の予想の斜め上を行っていた。
入金通知:¥50,000
入金通知:¥10,000
入金通知:¥100,000
メッセージ:『その子に美味い肉を食わせてやってくれ』
メッセージ:『S氏、誤解してごめん。これでおやつ買ってあげて』
止まらない通知。積み上がる金額。
私が確認したところ、昨晩だけで軽く一千万円を超えている。
現代のインターネットにおける「推し活」の熱量は、時に核融合炉のエネルギー効率をも凌駕するらしい。
「……ふん」
猿渡は、積み上がった数字を見ても眉一つ動かさなかった。
狂喜乱舞するでもなく、困惑するでもない。
ただ、実験結果のデータを読み取る科学者の目で、淡々と事実を処理していく。
「予想外の反応だが……まあいい。資金源の確保は完了した」
彼は即座に専用アプリを立ち上げると、ダンジョン配送サービスの手配を始めた。
「これだけの予算があれば、ドローン配送で『あれ』を取り寄せられるな」
彼が注文したのは、高級焼肉店が開業できるレベルの食材と、最新鋭の計測機器だった。
完全に、ルートを「金のなる木」として運用する気満々である。
この男に「情」という文字はない。あるのは「研究費」という概念だけだ。
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ジュウウウウゥゥゥ……
「ん……むにゃ……。なんだ、もう朝か?」
騒音に気づいたのか、テントの隅で丸まっていたルートが目を覚ました。
寝癖で爆発した白髪。だらしなく開いた口。
銀河最強の生体兵器の寝起きは、実家の犬よりも緊張感がない。
ルートは犬小屋から出てくるかのようにテントから顔を出す。
「おい人間。腹が減った。朝食はまだか? 木星時間ではそろそろおやつの時間なのだが」
「起きたか、駄犬。ちょうどいい、餌の時間だ」
猿渡は石板の上で焼き上げたばかりの「肉」と「黄金の果実」をプレートに乗せて、ルートの目の前に置いた。
その瞬間、ルートの鼻孔に爆発的な「香り」が充満した。
「……ほう?」
ルートの鼻がピクリと動く。
そこに鎮座していたのは、ダンジョン産食材の最高峰『A5ランク・オークキングのシャトーブリアン』だ。 表面は絶妙なメイラード反応によって狐色に焦がされ、断面からはルビーのような肉汁が滲み出している。
さらにその横には、黄金の光を放つ果実――市場価格一個十万円を下らない『
総額、数十万円。 木星でポテチばかり齧っていたニートにとっては、未知との遭遇である。
「こ、これは……! ただのコンビニ飯ではないな? この暴力的なまでの芳醇な香り、そして内側から溢れ出る輝き……!」
ルートはゴクリと喉を鳴らした。 銀色の瞳が、肉の脂身に釘付けになっている。
だが、彼女はあくまで「神」としての威厳を保とうと、震える手でフォークを手に取った。
「ククク……どうやら貴様も、ようやく理解したようだな。吾輩という存在の尊さを」
彼女の脳内変換機能は、今日も絶好調だ。
「よかろう! 昨日の活躍に対する供物として、ありがたく受け取ってやる。貴様の信仰心、確かに受け取ったぞ!」
「ああ、食え。そして咀嚼しろ」
猿渡は、スマホのカメラを接写距離まで近づけた。
「対象の顎関節の可動域、および高級食材に対する唾液分泌量の変化を記録する。……いいぞ、まずは肉からだ」
「うむ。では……実食!」
ルートが厚切りの肉を口に運ぶ。
ハフッ、ジュワァァァ……
「ッ!?」
噛み締めた瞬間、ルートの動きが停止した。
彼女の口内で、宇宙が生まれていた。 香ばしい焦げ目の苦味を突き破り、濃厚かつ甘美な脂の濁流が舌の上を蹂躙する。 それは「噛む」必要すらない。舌の上で淡雪のように溶け、強烈な旨味だけを残して喉の奥へと消えていく。
「……ん、んんぅぅぅッ!!」
ルートが眉間にシワを寄せ、快楽に耐えるように身悶えした。
「な、なんだこれは……! 物理演算がおかしい! 口に入れた瞬間に固形物が液体に相転移したぞ!? まるで超新星爆発の余波を直接飲んでいるかのような……!」
「いいコメントだ。だが比喩が分かりにくい。もっと即物的に表現しろ」
猿渡が冷徹にレンズを向ける中、ルートはもう止まらなかった。
次は黄金林檎だ。 彼女は「神らしく優雅に」という設定を忘れ、大きく口を開けてかぶりついた。
シャクッ!!!
小気味よい破砕音と共に、果実から蜜のような果汁が飛散する。
「あまーーーいッ!!」
ルートの絶叫が
「なんだこの糖度は! 脳が溶ける! 木星のガス雲より甘いぞ! シャクシャクとした歯ごたえの後に、爽やかな酸味が駆け抜けていく……! これは……これは……!」
ルートの目尻に、感動の涙が浮かぶ。 口の周りを肉汁と果汁でベタベタにしながら、彼女は恍惚の表情で天を仰いだ。
「これが地球の……課金の味か……!!」
台無しである。 神の威厳は、食欲の前にあえなく敗北した。
「咀嚼回数、毎秒4回。嚥下速度、正常。……いいぞ、その無防備な食いっぷり。野生動物のドキュメンタリーそのものだ」
「ふぐぅ、んぐぅ……美味い、美味すぎるぞ人間ンン!!」
「そうだ、もっと寄って見せろ。……ああ、素晴らしい。口腔内の粘膜が実に鮮明に撮れている」
ルートは一心不乱に貪り食い、猿渡はそれをマクロレンズで執拗に追い回す。
片や「信者からの極上の貢ぎ物」に涙する神。 片や「実験動物への餌やり」としてデータを取るマッドサイエンティスト。
その奇妙な光景は、高画質のまま世界中に配信され、さらなる誤解の連鎖を生んでいくのだった。
【悲報】S氏、スパチャを全額食費に突っ込む
「うわあああ! ちゃんと美味いもん食わせてる!」
「林檎食ってる死神ちゃん可愛すぎワロタ」
「S氏、口では厳しいこと言ってるけど、一番高い肉選んでるのバレバレなんだよなぁ」
「これがツンデレおじさんか……」
「尊い。追加で投げ銭するわ」
ネットの住人たちは、自分たちの見たいものしか見ない。
彼らの脳内では、猿渡は「不器用だが愛のある飼い主」に美化され、ルートは「愛されて幸せなペット」として認識されていた。
真実は「変態」と「ニート」のコントだというのに。
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だが。
そんな平和(?)な勘違い配信を、凍りつくような目で見つめる存在が一人。
場所は変わって、京都。
古都の静寂に包まれた、とある格式高い神社の境内。
朝霧が漂う縁側で、一人の少女がタブレット端末を操作していた。
透き通るような金髪に、深い知性を宿した青い瞳。
紅白の巫女装束に身を包んだその姿は、西洋人形のような完璧な美しさを誇っている。
外見年齢は十代前半。ルートと同じく、愛らしい小柄な体躯だ。
しかし、その内側から滲み出る「格」は、人間のものではない。
彼女の名は紅。
またの名を、特級幻種「金毛白面九尾」。
この国で最も古く、最も危険な「神」の一柱である。
「…………」
彼女の白魚のような指が、画面の中で肉を頬張るルートの顔をなぞる。
そして、カメラの向こうにいる猿渡の声に、耳を傾けていた。
『いいぞ、その表情……』
猿渡の、興奮を含んだ声。
それを聞いた瞬間。
「……誰、この泥棒猫」
鈴を転がすような美声が、絶対零度の冷気を帯びて呟かれた。
彼女の背後で、九つの影が揺らめく。
それは幻覚ではない。彼女の激情に呼応して漏れ出した、圧倒的な妖気の奔流だ。
「私の恭介に……餌付けされているなんて」
彼女は、猿渡恭介という男を知っている。
いや、知っているどころではない。
かつて彼に求愛し、そして「獣耳がないから萌えない」という理由でフラれた過去を持つ、重度の「拗らせ女子」なのだ。
「許せない。私の時は『君の食事風景は上品すぎてデータにならない』って言ったくせに……!」
嫉妬の炎が、青い瞳の中で揺らめく。
「パキッ」
乾いた音が響いた。
彼女が手に持っていた最新型のタブレット端末が、何の前触れもなく、粉々に砕け散っていた。
魔法ではない。
ただの握力で、強化ガラスと金属の塊を握りつぶしたのだ。
「……行きましょうか」
紅は、砂になったタブレットをサラサラとこぼし、優雅に立ち上がった。
「生意気な新入りに、この国の『礼儀』を教えてあげないとね」
京都の空に、不穏な雷雲が立ち込め始めていた。
ああ、私の胃が痛い。
変態とニートだけでも手一杯なのに、ここに「メンヘラ幻種」まで参戦するというのか。
誰か、この物語の難易度設定を下げてくれ。
もしくは、私に強力な胃薬をくれ。今すぐにだ。