誉ある人生に幸福を。   作:まるもも

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※作者は呪術にわか
※なんでもありなので許してください


何はともあれ転生。

 

 

 

 吾輩は転生した。名前はまだない。

 ……などと、どこかで見た書き出しを真似てみたところで、知識も語彙も浅い私には、文豪の背中は依然として遠い。形だけをなぞったところで、重みまでは借りられないらしい。

 

 名前は、もちろんある。

 誉海芋(ほまれかいう)と名付けられた。元気な女の子である。

 

 人の名としては違和感のある名前だったが、十年も呼ばれ続けていれば、違和感は摩耗していく。父や母から「海ちゃん」などと呼ばれても、今ではそれなりに馴染んだ返事ができるようになった。

 

 転生した直後は、現実を受け入れるまでに少し時間がかかった。

 夢だと切り捨てるには感触が生々しく、現実だと認めるには都合が良すぎたからだ。

 

 父も母も整った顔立ちをしているせいか、鏡に映る自分も、客観的に見ても整っている。

 

 ……そういえば、父はオランダ人だ。

 日本に留学した際に母と出会い、入籍後はそのまま日本に腰を落ち着けたらしい。日本文化への傾倒ぶりはなかなかのもので、結婚式もチャペルではなく神前式を選んだと聞いた。合理性より趣向を優先するあたり、少しだけ羨ましく思う。

 

 父の遺伝子の影響か、私は金髪碧眼でありながら、どこか日本人らしい雰囲気も併せ持った外見をしている。それを見て「ハーフってすごいな」などと、今思えば随分と薄っぺらい感想を抱いたこともあった。

 

 さて、転生したとはいえ、私はもう十歳だ。

 世界は、ありふれたファンタジーに変貌することもなく、前世と同じ輪郭を保ったまま続いている。

 

 電車に乗れば、くたびれたスーツに身を包んだ中年男性が吊革に揺れ、公園では子供と保護者が、それぞれの役割を演じている。近所づきあいに疲れた主婦の表情も、どこか見覚えがあった。

 生まれ変わったはずの世界は、古い塗装を重ねただけの舞台のように、同じ光景を繰り返していた。

 

 違いがあるとすれば、今、私の視界の端に引っかかっているそれくらいだろう。

 

「お……おかあ、あ、ちゃああああああぁぁ」

「……またか」

 

 胸の奥に、濡れた布を押し込まれたような感覚がした。

 話題のアーティストを前にして、「これの何がいいのか分からない」と言い放つ親の話を聞かされるときに似ていた。途方もない嫌悪感と徒労感を、無駄に繰り返すあの感覚だ。

 

 生まれたときから、私はそれらを見ている。

 視界に入るだけで空気が一段重くなる、形容しがたい存在。醜悪な外見もさることながら、場の温度を下げるような澱んだ気配を纏っていることが多い。

 

 見つけた当初は、少しだけ浮き足立っていた。

 平凡すぎる世界に、非現実を見つけた気がしたからだ。だが、十年も付き合えば、珍奇さは日常に変わる。今では、溜息の一つも出る。

 

 これは大通りではなく、路地裏に多く集まる。

 羽の生えた無害な雑魚ならどこにでもいるが、人に害をなすそれは、そう頻繁には現れない。

 悪意や怨嗟といった、行き場を失った感情が澱のように溜まり、重なり合って形を得たような、そんな印象を受ける。

 

 そして、そういう「念」を、私は扱うことができる。

 体に纏えば、筋肉や神経の隙間に染み込むようにして身体能力を底上げできるし、外に押し出せば、細く頼りない光線にもなる。実用性を語るには心許ないが、無いよりはマシだ。

 

 一つだけ、うまく例えられない能力がある。

 

「便利ではあるんだけど……相変わらず使いづらい力だな」

 

 そうして化け物を倒したあと、私の体から、一本の糸のようなものが垂れ下がっていた。

 

 

 

  δ

 

 

 

 

「海ちゃん? あんた今日の宿題終わったの?」

「母さん……毎日、家に帰ってからやってるでしょ?」

 

 九月中頃。

 身体の内側まで煮えそうだった夏の熱気も、ようやく勢いを失い、秋の気配が輪郭を持ちはじめていた。

 

 その日のことは、今でも妙に鮮明だ。

 

 パートから戻った母に掛けられた言葉と、それに返す私。

 半ば儀式のようになったやり取りを終え、二階にある自室へ向かって階段を上る。きっかけは、その途中で投げかけられた、母の何気ない一言だった。

 

「そうだ海芋、美紀(みき)ちゃんのお母さんから電話かかってきたの」

「美紀ちゃんの?」

 

 美紀ちゃん――本名を川野美紀(かわのみき)という少女は、私と同じ小学校に通う友人の一人だ。

 転生した影響で精神の成熟が同年代から大きく逸脱している私にとって、自然に付き合える相手はほとんどいなかったが、彼女のおかげで最低限の人間関係は保たれていた。

 

 彼女の母親と、私の母は同じパート先で働いている。

 

「今、美紀ちゃん風邪引いてるでしょ? 治ったら肝試しに行かないかって」

「肝試しって……シーズン、ちょっと過ぎてない? でも、今日電話してみるよ」

 

 肝試しの誘い自体は、珍しいものではなかった。

 学区から少し外れた場所に、長く放置された廃病院がある。医療事故や凄惨な事件があったわけではないが、小学生にとっては、廃病院というだけで十分すぎるほど魅力的な場所だった。

 

 夏休みの間、子供たちが頻繁に出入りしていたこともあり、休みに入る前には生徒指導の教師が、決まり文句のように注意していたのを覚えている。

 

 あの病院だろう、と当たりをつけながらも、私の感情は特に動かなかった。

 幽霊というより、人の形をしていない化け物を生まれた時から見てきたのだ。映画『リング』を美紀ちゃんと観に行ったこともあるが、怖かったのはジャンプスケアの音くらいのもので、貞子そのものには何も感じなかった。

 

 ……その夜、眠れずに母に泣きついたことは、都合よく記憶の奥に仕舞っておく。

 

 電話をかけると、美紀ちゃんは想像以上に疲弊した声で答えてくれた。

 

「あっ、海芋ちゃん? ゴホッ……ごめんね。肝試しなんだけど、もしかしたら、ちょっと先になるかも」

「大丈夫? 病院は行った? ちゃんと薬、飲んでる?」

 

 そう言うと、美紀ちゃんは困ったように言葉を選んだ。

 

「病院は行ったんだけどね……風邪が流行ってるわけでもないのに、どうしてだろ。ゴホッ……あ、ごめん」

 

 電話越しに繰り返し、機械的に響く咳の音が、妙に耳に残った。

 嫌な予感が、静かに胸の内で形を持ち始めたところで、受話器の向こうから別の声が聞こえてくる。

 

「ごめんね、海芋ちゃん。美紀、ずっとこの調子で。今日は少し楽そうだったから、治ってきたのかと思ったんだけど」

「あ……川野さん」

 

 心配を滲ませた声に向かって、私は一つ、提案を口にした。

 

「今から、美紀ちゃんのお見舞いに行ってもいいですか? しばらく会っていなかったので」

「本当? 美紀も喜ぶわ。もう日も暮れるし、お母さんに一言言っておいてね」

「はい。ありがとうございます」

 

 美紀ちゃんが体調を崩してから、すでに一週間が経っている。

 今さら見舞いに行く理由は、一つしかなかった。

 

 

 ――化け物の影響だ。

 

 

 化け物は、人を直接襲うだけではない。

 どこぞの妖怪アニメに出てくる存在のように、人に取り憑き、じわじわと生気を奪うこともある。原因不明の体調不良から、最悪の場合は昏睡、あるいは植物状態に至ることも珍しくない。

 

 美紀ちゃんは、その可能性の範疇にいた。

 だから私は、お見舞いと称して、診ることにした。

 

 

 

 ……ただし、その先に待っていたものは、私の想定を大きく超えていた。

 

 

 

「……海芋ちゃん? 来てくれて、ありがとう……」

「……ッ」

 

 美紀ちゃんの家に着き、部屋に入った瞬間。

 

 言葉を失った。

 風邪の症状ではない。彼女の背後に、呪いのように蠢く気配がまとわりついていた。

 

 それでいて、実体はない。

 化け物そのものが憑いているのではなく、残滓だけが、醜悪にこびりついている。

 

 今まで見てきた化け物とは、明らかに格が違う。

 この場でどうにかできる力は、私にはない。それでも、確認しなければならないことがあった。

 

「美紀ちゃん。一週間前……それより前でもいい。あの病院とか、心霊スポットみたいな場所、行った?」

「心霊スポット……それなら、一週間前に、あの病院行ったよ。他の友達と」

 

「……え?」

 

 困惑が先に立った。

 あの病院にいる程度の化け物が、ここまで人に影響を及ぼせるはずがない。人を避け、人の感情が澱む場所に集まる性質を考えれば、あそこに向けられる感情など、たかがしれている。

 

 子供たちは遊び場程度にしか認識していないし、大人にとっては、噂話の一つにしか過ぎない。

 

「……でもね、海芋ちゃんとも、一緒に行きたいんだ」

「……どうして?」

 

 理由を尋ねる。

 

「夢でね、ずっと見るの。あそこ。声が聞こえて……誰かが呼んでるの。まだかな、来ないかなって」

 

「……‼」

 

 理解した。

 美紀ちゃんは、餌にされている。

 

 狡猾な化け物による、人間狩りだ。

 

 病院の記憶を見せ、弱らせ、いったん楽にする。

 そうして他人を誘わせ、次に訪れたときに狩る。獲物を衰弱させ、確実に殺す。

 

 下種だが、侮れない。

 

 これほど明確な意思を持って人間に干渉してくる存在は、初めてだった。

 今までの化け物は、自我も感情も希薄なものばかりだったのに。

 

 私はすぐに美紀ちゃんと、その母親に断りを入れ、家を飛び出した。

 他の人間を呼び寄せてから狩るつもりなら、美紀ちゃんはまだ生かされる。

 

 化け物を視認でき、なおかつ対抗できる人間を、私は他に知らない。

 

 ――私がやるしかなかった。

 

 

 

 

  δ

 

 

 

 

 廃病院についた時、私は困惑と緊張の中にいた。

 前回来た時よりも、明らかに化け物の気配が強い。数も比にならず、肌にまとわりつくような圧を感じる。

 

 敷地の前で、ほんの一瞬だけ足を止めた。

 ここまでは、まだ戻れる。理屈ではそう分かっていた。

 

 フェンスは錆びつき、注意喚起の看板は風雨に削られて判読できない。夜の空気は湿り気を帯び、肺の奥に重く沈んでいく。

 気配は、すでにある。だが、それでも外だ。建物の内側とは、どこか決定的に違う。

 

 もう日が沈む。

 夜になれば、化け物たちの動きは活発になる。

 

 意を決し、病院の正面入口へ向かった。

 扉は拍子抜けするほど軽く開いた。

 

 一歩、足を踏み入れた瞬間、背筋を悪寒が走った。

 夏のころ、汗で滲んだシャツが風で一気に冷やされ、鳥肌が荒立つ。あの感覚を、さらに研ぎ澄ましたような冷えだ。

 込み上げる吐き気を、歯を食いしばって押さえ込む。

 

 外の音が、嘘のように消えていた。

 風の音も、虫の声もない。ただ、耳鳴りに似た静寂だけが広がっている。

 

 私は努めて冷静に立ち回ることを意識した。

 聞こえてくる雑兵の声には一切構わず、本命だけを狙う。

 

 病院はそれほど大きくない。五階建てで、病室の数も多くはない。

 受付が見える位置まで進む。

 

 机の形はすでに崩れていたが、上に残された「受付」の文字が、それが何であったかを辛うじて主張していた。

 視線を向けた瞬間、気配が一段、濃くなる。

 

 ――手術室だ。

 

 はっきりと分かる。

 濃く、不気味で、汚く、ドス黒い。ヘドロのような力の流れが、廊下を伝ってこちらまで届いている。

 

 廊下は途中で二手に分かれていた。

 右は病室、左が手術室。

 

 迷いはなかった。

 左へ進むにつれ、空気が粘つく。床を踏むたび、わずかに足を取られる錯覚すら覚えた。

 

 雑兵の声が、どこか遠くで反響する。

 姿は見えない。だが、確実に“いる”。

 

 手術室の前に立った時、指先が冷えた。

 ドア越しに、異様な冷気が漏れ出している。

 

 取っ手に手をかけ、深く息を整える。

 ここだ。

 

 異常に冷たい手術室のドアを、力を込めて開いた。

 

 ――そこには、何もいなかった。

 

「……えっ」

 

 困惑する。

 化け物の気配は、確かにここからしている。

 

 視線を巡らせる。

 手術台、無影灯、器具棚。どれも埃を被り、長い時間が経っていることを物語っていた。

 それでも、空気だけが新しい。――否、澱んでいる。

 

 息を吸うたび、喉の奥に苦味が残った。

 生き物のそれとは違う。だが、確実に“何か”があった痕跡だ。

 

 床に視線を落とした瞬間、部屋の隅に置かれた箱が目に留まった。

 

 他のものと比べて、あまりにも浮いている。

 埃を被っていない。位置も不自然だ。まるで、そこに置かれることを前提にしていたかのような。

 

 私は一歩、距離を詰めた。

 雑兵の声が、ふっと遠ざかる。耳鳴りだけが残った。

 

 箱の側面には、見慣れない文字が刻まれている。

 私はしゃがみ込み、目を凝らした。

 

「……催魔怨敵……?」

 

 言葉にした瞬間、空気が軋んだ。

 遅れて、理解する。

 

 ――静かすぎる。

 

 雑兵の声が、完全に消えていた。

 それどころか、自分の呼吸音さえ、どこか他人事のように遠い。

 

 嫌な汗が背中を伝う。

 それでも、私は箱から目を離せなかった。

 

 ほんの少し、文字を確かめるために――

 私は、無意識に頭を下げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の瞬間。

 

 視界が、ずれた。

 

 音が遅れて届く。

 いや、届いていない。耳鳴りのような振動だけが、頭の奥で反響していた。

 

「……?」

 

 声を出そうとして、うまくいかない。

 喉が震えた感触だけが残り、音にならなかった。

 

 床が、やけに近い。

 そう感じたのは、倒れたからではない。距離の感覚そのものが狂っている。

 

 何かを踏み抜いたような軽さ。

 同時に、背中側から押し出される感覚があった。

 

 ――何をされた?

 

 考えようとした瞬間、思考が途中で途切れる。

 頭の中に、空白が生まれた。

 

 遅れて、冷たいものが皮膚を撫でた。

 痛みではない。ただ、触れられたという事実だけがあった。

 

 視界の端で、空間が歪む。

 壁が、床が、ほんの一瞬だけ削れたように見えた。

 

 それでも、私はまだ立っていた。

 

 自分が無事なのかどうか、それすら判断できない。

 ただ一つ分かるのは、――今のは、攻撃だったということだけだ。

 

「……アレ? オマエ、シンデナイ? オレ、クッタ、ハズナノニ」

「(喋れる……いや、格が違う……!!)」

 

 そこにいたのは、言うまでもなく異形の化け物だった。

 だが、今まで相手にしてきたものより、人間に近い。四肢を持ち、全体の輪郭は猿に似ている。長い尾が、不気味に揺れていた。

 

 即座に体内へ力を巡らせ、能力を起動する。

 指が、手が、腕が――糸のようにほどけ、形を失っていく。

 

「(能力を見破られる前に、殺す!!)」

 

 そう。

 私の能力は、自分の肉体を糸状に分解するものだ。ほどけばほどくほど強度は増し、先端に近づくほど柔軟性を持つ。

 

「ンン? イママデノ、ニンゲントチガウ……アタリダ」

「……当たり? 何の話だ」

 

 臨戦態勢のまま、言葉を交わす。

 分解には時間がかかる。私には、一秒でも長く生き延びる必要があった。

 

「イロンナニンゲンノロウ、サソッテ、クウ。チカラモッテルヤツ、ウマイ」

「……なるほどな」

 

 化け物は、生き物じみた仕草で頭を掻いた。

 誘われたのは、私の方だったらしい。最初から狙いは、力を扱える人間――化け物にとっての“当たり”だ。

 

「アタリ、ヒイタラ、モウイラナイ。ゼンイ、バイバイ」

「……まさか」

 

 化け物が、両手で何かの形を作る。

 警報をならす頭が、私を動かした。

 

「させるかよ!!」

 

 糸を一気に床へと走らせる。

 細く、数多く。視界を覆うほどに。

 

 動きを制限できれば――

 そう考えたのが、最初の誤りだった。

 

「……アマイ」

 

 声が、頭の内側で鳴った。

 

 次の瞬間、糸が――落ちた。

 

 切られたわけではない。

 引き千切られた感触すらない。

 

 ただ、そこにあったはずの糸が、途中から存在しなくなっていた。

 

「……なに、これ」

 

 床に触れていた部分だけが、ごっそりと消えている。

 空間ごと、削ぎ落とされたように。

 

 理解が追いつく前に、距離を詰められた。

 

 速い。

 先ほどまでの鈍重さはどこにもない。

 

 反射的に後退する。

 だが、足が止まった。

 

 床が――抜けた。

 

「っ……!」

 

 いや、崩れたのではない。

 床そのものが、そこだけ“無かった”。

 

 踏み出した足が空を切り、体勢が崩れる。

 

「ミスった……!」

 

 それが、決定的だった。

 

 影が、覆いかぶさる。

 

 次の瞬間、頭を掴まれた。

 

 指――いや、爪が、頭蓋を締め上げる。

 視界が一気に暗転した。

 

「オマエ、コレデ、オワリ」

 

 持ち上げられる。

 足が床を離れ、宙に浮く。

 

 下には、開かれた口。

 獣臭と、腐臭が混じった吐息。

 

 噛み砕かれる――

 そう思った瞬間。

 

 私は、笑った。

 

「……ありがとね」

「?」

 

 問い返される前に、力を巡らせる。

 

 一点に。

 限界まで。

 

 身体が、ほどける。

 

 皮膚が、筋肉が、骨の感覚さえも曖昧になり、

 私という形が、糸へと変わる。

 

「――ッ!?」

 

 掴んでいた“頭”が、崩れたことで、化け物の指が絡め取られる。

 

 そのまま、巻く。

 

 腕へ、首へ、胴へ。

 

 解けない。

 ほどけない。

 

 糸の内側から、ある力を流し込む。

 

「ギ……ァ……!」

 

 遅れて、悲鳴。

 

 触れた部分から、溶けていく。

 表皮が崩れ、内側の黒いものが露わになる。

 

「ク……ウ……!」

 

 拘束が緩んだ一瞬を逃さず、距離を取る。

 化け物は、その場で動きを止めていた。

 

 私は、息を整えながら、糸の強度を引き上げ、鞭のような武器を形造る。

 しなる軌道が、確かに、“そこにあるもの”を捉えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 音が、消えた。

 

 いや、正確には――

 音が戻らない。

 

 自分の呼吸だけが、やけに大きく耳に残る。

 一度、二度。吸うたびに、肺の奥がひりついた。

 

 床に、何かが落ちている。

 黒く、形を失った塊。

 

 動かない。

 気配も、ない。

 

 それでも、私は武器を下ろさなかった。

 腕が、微かに震えている。

 

 足元を見る。

 床に穿たれた“欠落”は、そのままだ。

 

 崩れたわけでも、壊れたわけでもない。

 ただ、最初から存在しなかったかのような空白。

 

「……」

 

 喉が鳴った。

 言葉にならない。

 

 病院の奥から、風が吹き抜ける。

 割れた窓が、遅れて音を立てた。

 

 カタン。

 

 その小さな音に、身体が反応する。

 肩が強張り、視線が走る。

 

 ――何もいない。

 

 理解しても、緊張は解けない。

 

 床に残った塊が、じわりと沈む。

 染みのように、輪郭を失っていく。

 

 終わった。

 はずだ。

 

 それでも。ここは、静かすぎた。

 

 化け物が消えた後の静寂は、勝利の余韻ではなく、次の異変が起きるまでの間にしか思えなかった。

 

 私は、ゆっくりと息を吐いた。

 

 

 

 

 

  δ

 

 

 

 

 

 

 病院を出たとき、空はすでに深い夜色に染まっていた。

 やけに優しい風が、私の頬を撫でる。

 あれほど冷たかった空気も、今はただの夜風に感じられる。

 

 一歩、踏み出す。

 地面は、ちゃんと私を支えている。

 

 振り返る。

 廃病院は、何事もなかったかのように沈黙していた。

 

「……もう、終わったよ」

 

 誰に言うでもなく、そう呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 インターホンを鳴らすと、すぐに足音がした。

 

「海芋ちゃん?」

 

 扉を開けたのは、美紀ちゃんの母親だった。

 

 その表情を見た瞬間、

 私は、胸の奥がほどけるのを感じた。

 

 疲労はある。

 だが、恐怖がない。

 

「こんな時間にごめんなさい……美紀ちゃんは」

 

「――元気よ」

 

 その一言で、十分だった。

 

 奥から、軽い足音が聞こえる。

 

「海芋ちゃん!」

 

 走ってきた美紀ちゃんは、

 先ほど見た“病人”とはまるで別人だった。

 

 顔色は良く、声に掠れもない。

 

「もう大丈夫なの? 本当に?」

「うん! なんかね、急にすっきりしたの!」

 

 笑う。

 心から、何も知らない顔で。

 

 私は、その笑顔から目を離せなかった。

 少し話をして、体調の確認をする。

 

 熱はない。

 咳もない。

 倦怠感も、頭痛も。

 

 そして何より。背後に、何もいない。

 あの、呪いのような残滓は、完全に消えていた。

 

「肝試しについてなんだけど……」

 

 あそこに行くのはやめておいたほうがいい。そう声を上げようとして。

 

「……なんのこと?」

 

 まるでなにも記憶していなかったかのように、美紀ちゃんはそう言った。

 とぼけている訳ではない。私に何か気を遣っているような様子もない。

 

 ただ、そこには最初から何もなかったかのような空白があった。

 

 

 ――なるほど。

 

 

 あの化け物が消えたことで、記憶もなくなってしまったのか。

 私は、少しだけ微笑んだ。

 

「……ううん、なんでもない。お大事に」

 

 それ以上、言葉を重ねることはしなかった。

 

 美紀ちゃんは、少し不思議そうにしながらも、

 やがて小さく頷いて、笑った。

 

 その笑顔には、

 もう夜の影は映っていない。

 

 私は玄関を出て、静かに扉を閉める。

 

 かちり、と小さな音がして、

 それだけで、ひとつの出来事が世界から切り離された気がした。

 

 夜道を歩く。

 

 街灯の下、影は長く伸び、

 私の歩調に合わせて、遅れもせず、先走りもせず、ついてくる。

 

 振り返らない。

 振り返る理由は、もうなかった。

 

 遠くで、風が鳴る。

 

 それは、世界が何事もなかったかのように息をする音だった。

 

 忘却は、

 罰ではなく、救いとして与えられることがある。

 

 夜は、まだ深い。

 

 そして私は、

 その深さを、ひとりで知っていればいい。





 読んでいただきありがとうございます。拙く、稚拙な文でありながらもこれからも執筆を続けていきたいと思います。

 さて、猿の呪霊ですが、等級に分類するなら準一級呪霊といったところでしょうか。
 本体の低いフィジカル、耐久力を術式の強力さと知性でカバーしています。
 術式は「空間の削除」。ジョジョ三部のクリームを想像してしただくとわかりやすいと思います。

 現在の海芋ちゃんじゃあ100回やって一回勝てるかどうかですが、その1回を引けるのが海芋ちゃんです。まあ舐めて雑に食おうとしたからですね。ガオン連打で普通死にます。
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