病院での一件から、三日が経った。
世界は、相変わらず滞りなく回っている。
朝は決まった時間に目が覚め、洗面所で顔を洗い、台所ではトーストの焼ける匂いと味噌汁の湯気が、律儀に混ざり合う。母はパート先の愚痴を零し、私は意味のない相槌を返す。
どれも、昨日と寸分違わない。
床が抉れ、空間そのものが削ぎ落とされた手術室は、この家のどこにも存在しない。
それらは、私の内側にだけ沈殿していた。
美紀ちゃんは、すっかり元気になった。
咳は消え、倦怠感もなく、夜の話題に影が落ちることもない。あの夜が、彼女の時間から丸ごと切り取られたみたいだった。
三日前の帰り道を思い返す。
美紀ちゃんの回復を確かめ、家に戻った私は、母にこっぴどく叱られた。
お見舞いに行くと告げて出た娘が、衣服を汚し、傷を作って夜更けに戻ってくれば、怒りより先に恐怖が来るのは当然だろう。
私は、化け物の話をしなかった。
説明できないものを言葉にしても、安心にはならないと知っていたからだ。
あの化け物。
空間を抉り取る、あの異様な力。
今まで見てきた存在とは明らかに質が違っていた。おそらく、あれも私の“紐になる力”と同じく、それぞれに備わった特有の力なのだろう。
もし、回避できずに正面から喰らっていたら。
その想像は、喉にナイフを突き付けられたように死を連想させ、すぐに思考を切り離した。
頭を掴まれ、逃げ場のない状況で私が選んだのは力の放出だった。
私の内を流れるそれは、他の化け物たちとは異なる性質を持っているらしい。
触れたものを壊すのではなく、時間を早送りするように腐らせ、溶かし、境界を曖昧にする。
腐食か、熔解か、酸性か――正確な名称は分からない。ただ、「そうなる」力だった。
考えを巡らせていると、不意に、美紀ちゃんの声が脳裏に浮かぶ。
呪いに侵されながら見ていた夢。
私と交わしたはずの、肝試しの約束。
それらすべてを失った彼女の笑顔を思い出し、私は、歩きながら思考の縁をなぞっていた。
「海芋ちゃん!」
背後から名前を呼ばれ、振り返る。
美紀ちゃんが、少し駆け足でこちらに向かってきていた。
顔色は良い。
声も、動きも、何も問題がない。
「おはよう! 昨日ね、体育でドッジボールやったんだよ。久しぶりでさ、全然当たんなくて!」
「……そっか」
並んで歩きながら、他愛のない話を聞く。
笑うタイミングも、相槌も、以前と変わらない。
変わったのは、ひとつだけだ。
「そういえばさ、最近全然遊びに行ってないよね。前に――」
言葉が、途中で止まる。
「……前に?」
私が尋ねると、美紀ちゃんは少しだけ眉を寄せた。
「うーん……なんだっけ。思い出せないや」
それ以上、無理に思い出そうとはしなかった。
すぐに別の話題へ切り替え、笑う。
その横顔を見ながら、胸の奥が、わずかに軋んだ。
肝試し。
廃病院。
呼ぶ声。
それらはすべて、彼女の中から抜け落ちている。
恐怖も、苦しみも、
死にかけた記憶さえも。
――忘却は、救いだ。
理屈では理解している。
もし覚えていたなら、彼女は夜ごと夢に追われていたかもしれない。
それでも、私だけが知っている、という事実は、思った以上に重かった。
知らないまま歩いていく彼女と、
知ってしまったまま立ち止まる私。
その境界線は、透明なガラスのように確かで、
気づいたときには、向こう側へ戻れなくなっている。
まるで、私だけが世界の外へ押し出されたみたいだった。
ここにはもう席がないのだと、静かに告げられているような感覚。
それでも世界は続く。
私を置き去りにしたまま、何事もなかった顔で。
δ
放課後、遠回りをして帰った。
理由は、自分でもよく分からない。
気づけば、車通りの少ない道に出ていた。
昼間でも薄暗く、歩行者はほとんどいない。
そこは、地図に名前の載らない場所だった。
信号のない直線道路。
歩道は狭く、街路樹もない。昼間は車が流れ、夜になれば人影はまばらになる。
けれど、私は知っている。ここで昔、交通事故があったのだ。
被害にあったのは一人。20歳の女子大生だったそうだ。
パートナーとのデートを予定していた中、待ち合わせ場所にこの場所を指定していた。
道で立ち止まり、想い人が来るのを待っている中、そこに車が突っ込んだ。
即死だった。運転手は飲酒運転を繰り返す常習犯で、この時も居眠り運転をしており、ブレーキペダルを踏むことができなかった。
遺族による裁判は、被告人に懲役12年を言い渡す結果となった。
今も運転手は、自身の犯した罪によって判決を受けている。
そんな背景がありながらも、もうその道には面影はなかった。
花束は枯れ、標識は撤去され、
慰霊の言葉も、記憶も、時間の中に均されていた。
今や、献花を送る人もおらず、事故の悲劇は、遺族の心を痛めながらも、もうすでに忘れられていた。
――だから、ここには何もない。すべてが終わった場所である。
そう思われている場所だった。
私は、夜の風に背を押されるように、無機質なその道を、呆然と歩いていた。
一歩、二歩。
三歩目で、足が止まる。
「……」
足を止めた理由はない。
背後から音がしたわけでも、靴紐がほどけたわけでもなかった。
それなのに、進めなかった。
胸の奥で、何かが小さく引っかかる。
言葉にならない、胸にのしかかる重さだけがそこにはあった。
私は、ゆっくりと視線を落とす。
――いた。
地面に、影のようなものが滲んでいる。
形は曖昧で、人でも獣でもない。
ただ、そこに「留まっている」という事実だけが、はっきりしていた。
呪いだ。
けれど、これまで見てきたものとは違う。
ヘドロの様に薄汚い醜悪さも、人を呪う呪詛も感じられない。
殺意はない。
怒りもない。
こちらを害そうとする気配も、まるで感じられなかった。
ただ、動かない。
それだけの呪いだった。
「……もう、終わってる場所だよ」
「……」
誰に向けた言葉でもなく、そう呟く。
返事はない。
猿の様に強い化け物ではない。
話す知性も、強力な気配も感じない。
それでも、何かを訴えるかのように、私には目を離せない何かを感じていた。
事故は解決した。
遺族は泣き、時間は流れた。
世界は、ちゃんと前に進んだ。
それなのに。
この呪いは、ここに残っている。
夜風のせいだろうか。影が僅かに震えたように感じた。
声は聞こえない。
言葉もない。
それでも、伝わってくるものがあった。
――待っていた。
――もうすぐあの人が来るの。
――もう少しだけ。
それだけの感情。
私は、息を吸う。
「……誰も、もうここには来ないよ」
冷たい事実だった。
優しく言い換えることもできない。
呪いは、否定も肯定もしなかった。
ただ、そこに留まり続けている。
ここを通る人間の足を、ほんの一瞬だけ止める。振り返らせる。考えさせる。
それだけで、満足しているようだった。
誰かに覚えていてほしい。
見てほしい。
私を――忘れないでほしい。
「……っ」
――それでも。
私は、一歩前に出る。
「このままだと、前に進めない人が増える」
呪いは弱い。
けれど、長く残る。
気づかれないまま、
知られないまま、
みんなの人生をほんの少しずつ、遅らせていく。
それは、この呪いにとっても、みんなにとっても救いじゃない。
それだけは、私にも明確に理解することができた。
私は、静かに力を巡らせる。
糸が、指先からほどけていく。
他の化け物を相手取るように絡め取るためではない。締め上げるためでもない。
呪いを、解くためだ。
糸は影に触れ、
留まっていた感情を、静かに引き伸ばしていく。
抵抗はない。
悲鳴もない。
ただ、張り詰めていたものが、
ゆっくりと緩んでいく。
最後に残ったのは、
ほんの微かな温度だけだった。
それも、夜風に溶けて消える。
――何も、残らない。
私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
もう足は止まらない。
胸の重さもない。
ただの道だ。
ただの夜だ。
それでいい。
誰にも知られず、誰にも語られず、何もなかったことになる。
それが、正しいかどうかは分からない。
私は、まだ答えを持っていない。
それでも、
「……行こう」
そう呟いて、歩き出す。
忘れられることが、救いなのか。
覚えていることが、救いなのか。
分からないままでも、
選ぶことはできる。
知らない誰かの足取りが、これ以上、止まらないように。
世界が、前を向いて進めるように。
私は、夜の中へ進んでいった。
δ
呪術高専内部記録
管理番号:未付与
区分:経過観察案件
担当:補助監督部 第三課
発生地点
東京都内・旧市街地
地図未記載の直線道路(交通事故既往地)
発生日時
不明
※当該呪霊は目撃情報なし/被害報告なし
概要
当該地点において、微弱な呪力反応の消失を確認。
現地調査の結果、術師による祓除、結界展開、補助監督の介入記録はいずれも存在しない。
呪霊の性質は以下の通りと推定される。
等級:四級相当以下
攻撃性:なし
定着性:高
行動傾向:停滞・待機
被害:直接的被害なし(通行人の立ち止まり・注意逸脱の可能性あり)
いわゆる「残滓型」「救済後滞留型」に分類される呪霊と思われる。
特記事項
当該呪霊の消失過程において、
一名の未登録人物による呪力行使が強く疑われる。
結界痕なし
術式残滓が極めて不均一
呪力の性質が周辺呪霊と一致しない
また、破壊・圧殺・浄化のいずれとも異なる痕跡が確認された。
「祓除」ではなく、
感情の解体・解放に近い反応が見られる点は特筆に値する。
対象人物(推定)
年齢:10歳前後
性別:女性
所属:なし
登録:未確認
術式:不明(肉体変質系の可能性あり)
同一人物によるものと見られる呪霊消失事例が、
三日前、廃病院跡地でも確認されている。
ただし、当該人物が意図的に呪術高専の監視網を回避している様子はない。
隠蔽・逃走の意思は見られず、
むしろ「気づかれていない」という自覚がない可能性が高い。
評価
危険度:中
即時拘束:不要
接触:保留
理由は以下。
対象は未成年であり、呪力制御が不完全と推測される
呪霊への対処方針が一貫している
(攻撃性のない呪霊に対し、無差別な祓除を行っていない)
現段階では、周囲への被害拡大が見られない
ただし、対象の判断基準は未成熟であり、
将来的に思想の偏向、あるいは呪詛化へ転じる可能性を否定できない。
備考
本案件の特徴は、
対象人物が「守る」「救う」「祓う」のいずれにも明確な定義を持っていない点にある。
呪霊を消失させた理由は、
使命感でも、命令でも、正義感でもない。
あくまで
「立ち止まっていたものを、前へ進ませた」
その結果として呪霊が消えたに過ぎない。
この価値観が、
術師としての適性になるか、
あるいは危険因子になるかは、現時点では判断不能。
結論
当該人物は、
現段階では「保護対象」でも「排除対象」でもない。
ただし――
放置するには、あまりにも自然に呪いを扱いすぎている。
今後、
より強度の高い呪霊、
あるいは「救えない事例」に遭遇した際、
判断が大きく揺らぐ可能性がある。
引き続き、経過観察とする。
追記(私見)
忘却を与える力を持たず、
それでも人の記憶から呪いを消している。
この矛盾が、
彼女自身に向かう日が来るかもしれない。
以上。
読んでいただきありがとうございます。
海芋ちゃんがこれからどんな呪いと出会い、どんな人と関わり、どんな生き方を選ぶのか、楽しみにしておいてください。