自滅する天才悪役貴族に転生したけど、設定厨知識で闇堕ちフラグをへし折ったヒロインたちの様子がおかしい   作:涼暮皐

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1-24『爻印教大司教』

     †

 

 

 アビゲイルを先に向かわせたのは、結果的にはファインプレーだった。

 そんなことを、ヤミ=ダウナーは脳裏で考えた。

 

「どうも、初めまして。……初めましてでしたっけ? たぶんそうですよね」

 

 ――なんて。そんなことを()()()()告げられた段階で、ヤミはそいつが敵であり、決して油断ならない相手なのだと認識する。

 

 屋敷に入った直後のことだった。

 玄関先の吹き抜けの広間にティーヌとともに入った瞬間、今しがた自分たちが通り抜けてきた入口のほうから声をかけてきたのだ。

 これでもヤミは、ラヴィナーレによって訓練された護衛役でもある。屋敷に入ったことで少し気が抜けたのだとしても、そう簡単に背後を取らせるはずなかった。

 

 咄嗟にティーヌを抱き寄せ、背後に庇うようにして振り返る。

 幼い少女も、事態が尋常ではないと即座に察して、ヤミの袖を軽く引いた。

 

「……許可なく当家に立ち入るのはお控えいただけますよう」

 

 男の姿を確認したヤミは、小さくそう言葉を作った。

 それを聞いた男は妙に胡散臭い笑顔をしている。柔和で落ち着いた雰囲気を纏っていながら、糸のように細い眼から感情らしきものは読み取れなかった。

 ただ男がすでに玄関の扉を越えて屋敷に入っている、ということだけは確かだ。

 ヤミにとっては、それだけで敵と見做すのに充分な理由だった。

 

 一方、謎の男はやけに親しげな態度だ。

 気安い態度で――初めましてと告げたにもかかわらず、まるで古くからの隣人だと言わんばかりの調子で。

 

「おや。その分だと本当に、ご主人様からは何も聞いていない?」

「……何を」

「みたいですね。それは少し意外でした。彼も、貴女だけはそれなりに信用しているように、傍目からは見えたものでして。いや、破るなら無関係と断じましたかね?」

「…………」

 

 後半は意味がわからなかったが、前半は単なる挑発か。

 それとも、そんなつもりすらないのだろうか。いずれにせよ男の言葉は実に軽薄な響きを纏っている。調子が軽いのではなく、何ひとつ感情がないという意味で。

 金髪の男だ。かなり痩せ形に見えるが頼りない印象はない。むしろ色のわからない細い双眸と背の高さも相まって、か弱いというより単に細いイメージだ。

 身に纏うのは貴族の舞踏会でも見ないような、白一色の燕尾服。

 

「では自己紹介を。僕は爻印(こういん)教大司教が《失墜》――フォルロム=ルヴンです」

「……!?」

「君の主であるアロルド氏とは顔見知りですよ。ただ今回、彼が僕との約束をなぜか一方的に破ってしまいまして。どういうことかと訳を聞きに参上した次第です」

「アロルド様が……爻印教と……!?」

 

 思わず目を見開くヤミだったが、金髪の男――フォルロムは肩を竦めて。

 

「驚くことではないでしょう。アロルド氏のご実家であるラヴィナーレとは、我々も長い付き合いですから。いつもお世話になっていると伺っています」

「――っ」

 

 彼の言う通り。アロルドの実家であるラヴィナーレ家は、現代でもなお陰で爻印教関係者に金銭的な支援を続けている。今さら引くに引けないとも言うが。

 しかも、彼はその立場を《大司教》と名乗った。

 ヤミにも爻印教の組織図はわからない。そもそも爻印教徒はそのほとんどが集団として行動しない。内部が複数のチームに別れていると推測されており、別のチームの仲間が死のうが何しようがまったく気にせず、チームごとの単位で独自に動く。

 だからこそ厄介なのだが、その中で大司教なんて肩書きを名乗る者がいるのなら。

 

 おそらくは、ひとつのチームのトップなのだろう。少なくとも。

 黒を象徴色とする爻印教の人間が、敵対する乂印教の象徴色である白の服を纏っていることからも異質さがわかる。とても油断のできない相手なのは明らかだ。

 

「アロルド氏はいらっしゃられないようですが、ここで待たせていただいても?」

「……、信用できません。そもそもアロルド様との約束とはなんですか」

 

 ヤミは訊ねた。少しでも情報を引き出そうという彼女なりの策だ。

 フォルロムは――おそらくはそれがわかった上で、特に何を隠すでもなく、ヤミの問いに答える。

 

「簡単ですよ。――()()()()()()()()()

「なっ――」

「こんなふうに町から出て別の場所へ向かうなど論外です。いえ、我々も氏の自由を制限しようなんてつもりはありませんが、ねえ? せめて報告は頂かないと」

「…………」

「そういえば実験の報告も受けていませんね。ええ、いったいどうなったのですか? 失敗にせよ成功にせよ、経過は教えていただかなければ困りますよ」

 

 ――そういうことか……。

 とヤミは察する。おそらく《今のアロルド》ではない《元のアロルド》が、ヤミも与り知らぬうちに爻印教となんらかの取引を行ったのだろう。

 だが今のアロルドはその事実を知らない。だから屋敷を出てしまい、約束を破ったと判断したフォルロムが姿を現した。

 

 おそらく、アロルドが大怪我をした際の《実験》が、それに関わるものだ。

 その内容はヤミも知らないし――この状況では最悪なことに、当のアロルドですら今はそれがわからないわけだ。

 

「――――」

 

 だが何も全てが最悪なわけではない。

 話し振りから言って、おそらくフォルロムですら《アロルドの中身が以前と違う》なんて異常事態は想定していない。それは本当に本人とヤミしか知らないようだ。

 いや、この分だとそもそも実験でアロルドが大怪我をしたことすら、フォルロムは把握していないのだろう。つまり、屋敷にヤミの知らない監視なども存在しない。

 勝手に移動されたくない様子にもかかわらず、移動が終わってから姿を見せていることもその傍証だ。部下も連れていないし、おそらく高確率で単独行動をしている。

 ――つけ入る隙はあるということだ。

 

「では、アロルド様が帰ってきたらどうなさるおつもりですか」

 

 その上で訊ねたヤミに、フォルロムは答えた。

 やはり正直に、何も偽らず――それが必ずしも正しくはないと証明するように。

 

「決まっているでしょう。罰を与えますよ」

「――――」

「いえ、僕も心苦しいんですがね。契約ですから仕方ありません。なにせ我々は弱い組織です。裏切られたらとても困ります。――芽は早いうちに摘むべきでしょう?」

「……そうですか」

 

 腕を振り、ヤミは袖口から滑らせるように小さな得物を取り出した。

 それは手のひらほどの大きさの、刃のない柄だけの小さな剣だ。

 いや。刃のないそれを剣と呼ぶのがおかしいなら、小さな十字架と呼ぶべきか。

 

「――《刻め》」

 

 短い解放令。同調を始めた瞬間、柄だけだった剣に光る刃が発生した。

 手の中に握り込んだ十字架の頂点から、人差し指と中指の間を通り抜けるような、青白く輝く光の刃が一本。

 もしアロルドが見たら『光剣(SF)じゃん!』とか叫んだことだろう。

 

 だがそれを目にしたフォルロムは、なぜか非常に困ったように眉根を寄せた。

 ただでさえ細い眼がさらに細くなって、おろおろと手を振るように。

 

「え、えぇ……なぜ? その様子、まさか戦うつもりなのですか?」

「答える意味が、ありますか」

「そ……それは弱ったな。予想していませんでいた。なにせ貴女はもう少し賢い方のように見えていたものですから。そんな、愚かな行動に出るなんて……」

 

 フォルロムの言葉はほとんど挑発に等しかったが、やはり心底から本気で困惑しているのだと――誠に遺憾ながら、ヤミには理解できてしまった。

 本気で、本心から。なぜ無駄とわかっていながら抗うのかと疑問がっている。

 

 ヤミはそれが挑発でも侮りでもないと理解して、背後の少女に告げる。

 

「ティーヌ。貴女は屋敷の奥へ。隠れるか――さもなければ街まで逃げるように」

「ヤ、ヤミさん……」

「――おや? そちらの少女は……」

 

 そのときだ。口を開いたことで初めて認識したとばかりに、フォルロムはその幼い少女を視界に収めて――不思議そうに首を傾げた。

 

「……なんだ? オドの流れがおかしい……いや、というか……これは」

 

 ぶつぶつと口の中で何かを呟く。その瞳はすでにヤミどころかティーヌすらまるで捉えておらず、隙だらけとしか言いようのない態度で床を向いて俯いている。

 ならば遠慮なく攻撃しようかと判断したヤミは、直後、その動きを止められた。

 

「――まだるっこしい! そうなると長いのが貴様の欠点だな、《失墜》!」

「……おや、シギナスさん。交渉は僕に一任してくれるはずでは?」

「喧しい! 私はそもそも『交渉など不要』だと言ったのだ! それを貴様が聞く耳持たないから、なら勝手にしろと告げたに過ぎん!」

「はは……そうでしたかね」

「当然だろうが! そもそもここは私の担当区、お前がどうしてもと言うから滞在を許しているだけで、それ以上の勝手まで認めているつもりはない!!」

 

 唐突だった。気づけばフォルロムの背後に、見知らぬ別の男がいる。

 

 フォルロムに比べて背が低い男だ。いやそれとも、単に背筋が異様に猫背だから、低く見えるだけだろうか。苛立ちを隠さないその表情は、目の下の隈も相まって実に神経質に見える。濁った両眼と、ぼさぼさのくすんだ白髪もその印象を強めた。

 フォルロムは二十代くらいの若さに見えるが、もうひとり――シギナスと呼ばれた男のほうは年齢がもっと上だろう。四、五十代か、もっと上か。

 体格は平均的だが、いかにも研究者然としたローブ姿。その色が黒いことが不吉を象徴しており、ヤミにとっては、敵がひとりではないという絶望的な報せだ。

 

「ああもう。せっかく隠してあげたのに、隠蔽の術が取れちゃったじゃないですか。シギナスさんが騒ぐからですよ?」

「知ったことか! こんなところにいつまでもいるほうが問題だろうが明らかに!」

「そうでもないですよ。現に発見もありました。ほら、――後ろの少女」

「あのガキがなんだっていうんだ」

()()()です。――なんでしたっけ、あの癒者の名前は? 忘れちゃいましたけど、ほら。聞いていたより上手くいってるじゃないですか。――()()()()()

「……なんだと?」

 

 ギロリ、と。

 糸目のフォルロムとは正反対の、どこか飛び出したようなシギナスの眼球が。

 幼い少女をまっすぐ捉え――その表情に酷薄な笑みを作った。

 

「は、サロスめ。昨日、死んだと聞いたが――いい土産を遺してくれた」

「え? 亡くなったんですか?」

「知るか。だが編纂書院が出張ったと報告がある。捕らえられた以上は、今頃とうに土の下だろう。は――期待など何もしていなかったが、最期に奇跡を起こしたか」

「……編纂書院がここに来てるんですか? えー、それ聞いてないんですけど……」

「どころか今ここには、あの屍肉喰らいの狂狼めが来てるわ」

「え。それ、ミリアステオル=キスリンタスのこと言ってます? あのー……それは本当に言っといてほしかったんですけど……どうすんですか街中とかで会ったら」

「貴様のことなど知るか。むしろ貴様に矛先が向けば清々するわ」

「わー、ひどい。僕ら一応、仲間なんですけどー……」

「その貴様が! 私の指示に何ひとつ従わないから言ってるんだろうが!!」

 

 苛立ちを隠さず吠え、それからシギナスは再びティーヌを見据え。

 

「……フン。経緯はわからんが、ラヴィナーレの若造が一枚噛んでいたようだな」

「そうなんですかね? まあ、ここにいるならそういうことですか」

「そっちはお前の領分だろうが。どうしてくれる?」

「どうもこうも。彼に貴方のことなんて何も伝えてませんよ。噛み合いは仕方ないとするのが我々のやり方でしょう。ここでの優先権はきちっと譲ってますし」

「なら当然アレは私が貰っていくぞ。構わんな?」

「どうぞお好きに。ぼくはさっさとここから逃げますんで」

 

 爻印教徒を名乗る男ふたりは、ヤミたちのことなど無視するようにふたりで話す。

 だが今度は、もはやヤミも隙と見て気楽には動き出せない。相手が単独ならヤミも乾坤一擲を狙えるが、ふたりでは話が違いすぎる。

 

「逃げる? 逃げるだと? 勝手に来ておいて、貴様、いきなり……」

「いや、だって編纂書院に追われることになったら動きづらいですし。それどころか夜戒の神兵まで来てるんでしょう……? つい先頃、彼女に《因斬》を()られたのを貴方も忘れたわけではないでしょうに。また減ったら困っちゃいますよ」

「その枠に入った新参がお前だろうが。ここで怖気づくのか? 逆にわからんわ」

「慎重と言ってください、そこは」

「フン。――まあいい、好きにしろ。お前の顔を見ずに済むのなら構わんわ。だが、去るなら対価は置いていけよ」

「わかってますよ。ここの件はもう僕の手を放します。素材にはなるでしょう。もし急ぐならなおさら――どうですか? 僕が手間をかけるくらいには優秀ですよ」

「……いいだろう、対価は受け取った。好きに消えろ」

「そうさせてもらいます」

 

 そこまで語って、フォルロムはゆらりとヤミに向き直った。

 こちらの事情など一切斟酌しない会話を、ついさきほどまでしていたくせに。

 そのことを一秒で忘れたみたいに、彼は長年の友のように笑って。

 

「ということなので、すみません。僕は逃げます。アロルド氏には今日までの感謝を貴女から伝えておいていただければ。たぶん、もう会うこともありませんから」

「――、――」

「心配なさらずとも貴女は殺されませんよ。そうでしょう、シギナスさん? 貴女は使いませんからね。あはは、これで契約違反はお互い様ですが、まあ先に破ったのはそちらということでご勘弁ください。――それと、氏への伝言をもうふたつほど」

「――おい」

 

 ぺらぺらとよく喋るフォルロムを、叱責するようにシギナスが短く言う。

 だがフォルロムはシギナスの静止を完全に無視して、ただヤミにだけ語りかけた。

 

「ひとつ、その子を返してほしければ会いに来い。――あ、場所はシギナスさんから聞いてくださいね。僕は関知しないので。で、ふたつ。乂印教会には伝えるな」

「何を……」

「交渉は僕のほうで、という話でしたからね、シギナスさん。置き土産とでも思ってください。念のため表の門に《聖人払い》でも張っておきますよ。もし編纂官が来るようなことがあれば、それで伝わるでしょうし」

「フン。余計なことを」

「そのほうが貴方も動きやすいでしょう。ということで、黒髪のメイドさん。以上が伝言です。お伝えを。破ったらその女の子を殺します、という感じで。――では」

 

 それだけを語るなり、フォルロムは本当に踵を返して屋敷から出ていこうとする。

 ヤミは何かを言おうと思ったが、引き留める理由がなさすぎる。すでにティーヌを人質にでも取ったかのような発言に思うことはあれ、敵が減るなら歓迎だ。

 

 かくしてヤミは去っていくフォルロムをそのまま見送った。

 あとに残ったシギナスは、ようやく清々したとばかりに鼻を鳴らして。

 

「……下らん話を。奴とはまったく相容れんな。だがこの幸運の前には些事か。ではそこの女」

 

 見下すようにヤミを睥睨するシギナス。

 わけもなく友好的なフォルロムと比べるなら、明らかにこちらを見下しているこの男のほうが、まだしもわかりやすいとヤミは思う。

 が、それは別に、与しやすいというわけではなかった。

 

「そのガキをこちらに引き渡せ。面倒だが、せっかく《失墜》が残した仕事だ。一度だけ奴の顔を立ててやる。もし素直に従うならお前は無傷でここに残そう」

「……頷くとでも?」

 

 当然に断るヤミ。

 それを、――けれどシギナスは歓迎して。

 

「そうか。――話が早くて助かる」

「ッ――!」

 

 刹那。湧き上がる生命力の気配に反応して、今度こそヤミは腕を振るった。

 手の中に握る小さな十字架のアクセサリーのような剣。それを柄として伸びた光の刃が、腕の振りに合わせて投げ槍のようにまっすぐシギナスに向かっていく。

 

 武器としての銘を《十字剣クオリア》。

 魂術による同調で、持ち主の望む形の刃をオドによって形成する特殊な武装だ。

 これはヤミが本気になったときにだけ使う武器である。

 なにせこの武器はオドを消費する。自力ではオドを回復できないという、人としてあり得ない欠陥を持つヤミが、気軽に使える武器ではなかったのだから。

 

 だがその分、武装としての性能は強力無比。

 ゆえにその青白い光の刃は、命を使ってコトを為すという、少女の決意が形を成す牙。ただ振るうだけが能ではなく、斬るのではなく飛ばして使う投擲武器。

 見るからに後衛術師タイプだろうシギナスでは、躱すこともできず串刺しに――、

 

「――馬鹿が」

「か、ぁ――……っ!?」

 

 ――ならない。シギナスはヤミの渾身の投擲を、首を逸らすだけで軽く躱した。

 どころかひと息に距離を詰め、ヤミの首を片腕で掴むと、その小さな体を力任せに持ち上げる。

 

「っあ、づ……!?」

 

 息がしづらい。首を掴む腕が呼吸を阻害する。

 その膂力にヤミは抵抗できない。信じられないほどの腕力だった。

 まさかの武闘派――否、シギナスの身体の周りには、いつの間にか赤い靄のようなものが、何本かの筋に別れて立ち上るように纏わりついている。

 身体能力を補助する術だろうか? 正体は掴めない。ただエネルギーの気配に反応した、ヤミの反射が仇となった。それは決して、油断ではない即断だったが――。

 

「やはり殺すか。《失墜》からの土産が、どこまで期待できるかもわからん」

「――きざ、」

「させるわけないだろうが」

「ぁ、あ――くっ、ぶ、っうぁあ……っ!!」

 

 それでもなお抗おうと、解放令を口に出そうとするヤミ。

 その喉元をシギナスは万力の強さで絞める。言葉そのものを封じるように。

 いや、それだけではまだ足りない。

 次いでシギナスは、空いた左腕でヤミが武器を持つ右腕を、

 

「っあ、ぐ、っ……ぁあああぁぁ――ッ!!」

 

 本来なら曲がるはずのない方向へ、強引に折り曲げた。

 苦悶の声が、絞められた喉から零れ出す。悲鳴さえも満足に上げさせない暴力は、もはや拷問にも近かった。

 

「ん……?」

 

 そのとき、ふとシグナスは何かに気づいたかのように顔を上げ。

 それからしばらく黙り込んだあと、何かに納得するかのように小さく。

 

「――仕込みの多い屋敷だな。なんだこれは? ……まあ、殺すまでもないか」

 

 シグナスは、その眼をまっすぐヤミに向ける。

 ギロリと転がるような、零れ落ちそうな眼球を少女に向けて。

 

「《蜘蛛が踊る(ヴィダム・ディライ)煉獄に誘う(ワゥ・トゥ・クルゥ)》――」

 

 かつて《煉獄の蜘蛛(ヴィダム・クルゥ)》と名づけた、固有命術(オリジナル)を発動した。

 

 紅き血の紋様が、ヤミの背中に刻まれる。毒蜘蛛が住処を定めるように。

 瞬間、――想像を絶するような()()がヤミの全身で暴れた。

 

 眼球が沸騰する。熱された鑢が脊髄を削っている。神経の一本一本を、小さく這い回る毒のある蜘蛛が、その牙でもって引き抜いていく――。

 

「あああああぁぁぁ――ッ!!」

 

 叫びが口から漏れたのは、シグナスの腕から離れたから。

 床に落とされ、そのことを自覚もせず力を失っていく少女を、男は感情もなく蹴り抜いて壁際へと叩きつけた。

 ――だが頭部を蹴られた痛みよりも、背中を痛打した衝撃よりも、何よりも距離が離れたお陰で、死にたくなるほどの痛みがなくなったことのほうに涙が零れる。

 

「っあ、え……、けほっ」

 

 意志の力の問題ではなく、単純に体を動かせない。

 意識が、落ちる。――ヤミは己が仕事を果たせなかったのだと悟った。

 

 それが責められることではないという客観と、ヤミが己を責める主観は両立する。

 だから遠のいていく意識の中、拷問にも近しかった痛みへの恐怖を飲み下し、黒い髪の少女は最後まで情報を拾い続けた。

 己がそれを知って生き残るなら――主に渡せる土産ができる。

 

「来い。逆らうなよ。その場合はお前ではなくこの女を殺す」

 

 ティーヌは賢い少女だ。

 この状況でも泣いて取り乱したりせず、自分が素直であることがヤミを守るのだと理解して従うだろう。それでいい。それなら取り返す目が必ず残る。

 

「――祭壇を作る。構うまいよ。ほかがなくとも、これひとつで釣りが来よう」

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