【書籍化】自滅する天才悪役貴族に転生したけど、設定厨知識で闇堕ちフラグをへし折ったヒロインたちの様子がおかしい 作:涼暮皐
「――アロルド様」
風呂上がり。
汗を流してさっぱりした俺が自室に戻ると、まるで後を追ってきたかのようなタイミングでヤミが現れた。
手にはトレイと、その上に載った水差しとグラス。喉が渇いているだろうことを完璧に察した、細やかなメイドの気配りだった。
「ああ、ありがとう、ヤミ」
「僭越ながら。この程度でいちいち使用人に礼を述べないでください」
「……はい、すみません……」
使用人に謝罪させられているほうが普通にダメな気もするが……俺もヤミ様って呼んだほうがいい?
まあヤミは基本、外部から見たときのことを気にしている。逆を言えば内側でのことには、そこまで目くじらは立てないのだが……。
それはそれとして仕事を奪うことには厳しく、最初は俺が入浴時に着替えを自分で用意することにすら反対していた。本気で嫌そうだったため俺も強くは言えず、夜はわかったからせめて朝風呂くらいは――と、なんとか説得した形だ。
入浴の習慣が薄く、ヤミの認識でもどちらかと言うと《趣味》に分類されたことが勝利の要因だと分析される。
この世界の身分制は、言葉のイメージほど強くはない。
偉いことは偉いが、だからって《強い権力を持った上位者》ではなく、どちらかと言えば《社会的身分が高いお偉いさん》といった感覚だ。
要は、平民だから貴族に絶対服従みたいな感じではなかった。
官僚とか国家公務員とか、大企業の社長とか。
明確に身分が違う権力的上位者と言えるのは、貴族ではなく王族と、そして宗教的要人――つまり
結局、国家の要職を血縁で継ぐわけだから、優遇されているのは事実だが。
それでも、たとえばアビ子の実家であるウィンベリー家が、祖先の功績から貴族となったように、一代での立身出世も珍しくはないのだ。
冒険者ギルドや術法学院などが、そういった才能の掬い上げに寄与するわけだ。
ただそのため、逆を言うと、いわゆる《
貴族は一般の国民の模範であり、ある程度以上の歴史があれば管理領を得て税収を担う。それを王国に納める代わりに、徴税代理の特権として一部を家の収入とする。
……まあ、そこまで行くのは(大昔のラヴィナーレ家のように)ごく一部の《大貴族》だけに限られるが、結局のところ、いい仕事をするところはそれだけ儲かる。
ゆえに金がある。そして金があれば教育を受けられる。
これは貴族の権利であるが、それと同時に義務でもあるのだ。
恵まれた環境で優れた才能を育成し、国家の繁栄を担い、全国民の規範となるべき子どもを輩出する。
それがこの王国での、貴族の在り方の根幹だ。
ヤミが気にしているのはそういう点だ。一般市民やほかの貴族に舐められるような貴族であってはならない。
それはそれとしてラヴィナーレ家は嫌われているわけだが、ヤミに言わせればそれはそれ、これはこれというヤツらしい。俺としても文句は言えなかった。
「……ふぅ。そういえば、フィーはどうだったね?」
「今のところ経過は順調かと。編纂書院も何かを言ってくる様子はありません」
「それなら――」
「ええ。今日明日中にでもこちらに戻ってこられるかと」
現在、フィーは地元の教会に預けられている。
乂印教編纂書院が編纂官、そのトップである
そのミリア様のご計らいで部下の編纂官――というか、まあ要は冥術師にその後の調子を診てもらっているのだ。
断れなかった。断る理由がない。怖いという以外に。
実際ミリアたちも、シギナスが目をつけたフィーの体質には思うところがありそうだったし。無理に引き離されないだけ有情と思うべきか、これは。
貴族なんぞよりも遥かに、ゴリゴリの特権階級だからな……乂印教中枢は。
なんだかんだ言ったところで、この国の意識や価値観の根底は、結局のところ乂印教の教えによって構成されているのだから。
自己を律し、平民を助けよという貴族の価値観もそうだし、入浴は数日に一度みたいな風習すら、水浴びが一種の宗教的な儀式であることや、
「まあ、フィーのあの能力が、どうなるかもわからんしな」
ただの個人で、星を巡る龍脈と接続を可能とする力。
現状、これはまったく制御できていない。
暴走しているという意味ではなく、完全に発動できないという意味でだ。
『おそらくは、今のところ感情によってオンオフを制御しているものとー』
というのがこれはクラウの見立てで、曰く『現在のフィーには繋がりを感じない』らしい。なんらかの回路が完全に閉じ切っており、フィー自身も開けない。
防衛本能――つまり危機や恐怖を感じることで、身を守るために無意識で発動する可能性が高いのだそうだ。
俺も、確証はないがそう思っている。
ヤミの記憶で見た《失墜》の大司教フォルロム=ルヴンが、ひと目で気がついたことも含めて、状況上ストレスがキーになっている可能性は高そうだ。
逆に今は俺たちの元に戻って精神が安定したことで、能力が発動していない。
もちろん絶対とは言えないただの分析だが、この分ならフィーが能力を暴走させて惨事に至る可能性は、少なくとも普通に生活している限りなさそうだ。
フィーを診てくれている編纂官も、なんの異常も見つけられなかったわけだし。
全員同じ格好だからモブ感が漂っているけれど、ミリアのようなトップでなくとも編纂官という時点で総じてエリートだ。当面は心配しなくてよさそうだった。
心配なのは、あとは再び
連中は集団単位で方針が違う。それはシギナスがミリアを狙ったにもかかわらず、フォルロムはあっさり逃げたことからも明らかだ。
シギナス亡き今、しばらくは安全――と、思っておきたいところだった。
「――ところで。アロルド様は、それは何を……?」
「うん?」
グラスの水を飲んで考え込んでいた俺に、ふとヤミが言った。
その視線は近くのテーブルの上。俺が投げ出していた一冊の手帳に注がれている。
いや、正確には開きっ放しで置かれた、俺の文字の練習帳である。
――やっべ、手帳を買ったことヤミには言ってないんだった。
先日、アビ子とインフィディアの街を散策していたとき、俺は街で怪しげな老婆と出逢っていた。
そのとき彼女から手帳を一冊買ったのだ。そこそこ値は張ったが、あとから調べてみたところ、紙が異常なくらい高品質な手帳だったため結果的には割安だった。
正直、現代日本にあっても不思議じゃないくらいの、割と謎の手帳である。
ちなみに老婆は、なぜかレアな武器*2も俺に託してくれており、かなり意味深な謎の存在だったのだが――イースティアに戻ったこともあり、今の動向は不明である。
「……文字の練習、ですか?」
「ああ。まあ……そうかな」
どうやらヤミは、手帳自体より開きっ放しの紙面に書かれた字を気にしたらしい。
俺はこの世界の文字を読めない。
だが、この世界の言語は耳で聞いて頭で理解できる。
文字が違うのだから当然、言語も違う。本来ならそのはずだ。
けれど俺の見る限り、ヤミもアビ子も、ほかの誰もが――明らかに日本語を喋っている。
もちろん設定上は別言語だ。
いったい何がどうなっているのか研究してみたのだが、おそらくこれは、あらゆる認識が
たとえば、
「ヤミ。――この手帳、なんて書かれてるか読めるか?」
「それは……まあ。意味はよくわかりませんが『あいうえお』と書かれています」
「なるほど。ちなみに『あいうえお』って何?」
「……聞き覚えがございません。ただの音、としか」
「うん、そうだね」
ちなみに手帳には《あいうえお》と
それがヤミには、謎の《あいうえお》という表記が
おそらく近しい種類の表音文字に自動翻訳されている、といった感じなのだろう。
たぶん、であって確証はない。というか俺の頭じゃ得る方法がわからない*3。
――おかしいと思っていたのだ。
この『Cross Lord』の設定で王国の公用語はそのまま《王国語》だ。
日本語の作品だからどんな言語かまで知らないが、とにかく少なくとも設定上では日本語じゃない。
にもかかわらず俺には日本語にしか聞こえないし、口の動きも同様だった。
ならそれは果たしてどちらだ?
そんなはずがないのにそうなっているのか、それとも、そんなはずがないのだから何か違う理由があるのか。
見たものを信じるのか、それとも設定の知識を信じるのか。
答えは、たぶん後者なのだ。
誰も日本語など話していないのに、俺にはそうとしか認識できない――。
耳で聞く言語はもちろん、それを視認する視覚的認識すら、なんらかの理由で
それが唯一、文字にだけは働いていなかった。
だがそうと気づいた瞬間、今度は突如として急に
なんの術も使わなくても――否、まるで初めからそういう術がかかってでもいるかのように。
自動的な翻訳、認識の補正がかけられる。
そしてこれは逆も然りだ。
日本語しか話していないはずの俺の言葉もヤミたちには王国語に聞こえるし、それ以外だと認識すること自体がない。違和感を消し去られている。
だからこのように、俺が日本語で文字を書いても、彼女たちはそれを《この世界の言語》として認識するわけだ。
英語でたとえれば《AIUEO》に見えている、といったところだろう。たぶん。
読めるが、概念がないので意味はわからない――みたいな。
「――あ、づ……っ!?」
と。その瞬間、頭に割れるような痛みを感じて思わずふらついた。
ヤミがわずかに慌てた顔でこちらに近づき、咄嗟に背中を支えてくれる。
「アロルド様、やはりまだ体の調子が――?」
「いや、……すまん、大丈夫。ちょっと立ち眩みが出たようなもんだ」
この事実を認識しすぎると頭に痛みが走る。
そうと知ったせいで、つい先日まで《謎の言語》にしか見えていなかった文字が、今では日本語として理解できる。なんなら気を抜くと日本語に見えてくるほどだ。
耳で聞くほうに至っては、どうがんばっても日本語以外に聞こえない。
……おそらく、これは俺が最初にこの世界へ来たときからの問題だ。
その際になんらかの認識補正が俺にかかった。俺が入る前にアロルドがやっていたという謎の実験関係かもしれないし、異世界から来たこと自体が原因かもしれない。
たぶん、耳で聞く言語は初期設定の時点でおかしくなったのだと思う。
俺が最初にヤミと話した際に設定が行われたのだとしたら、俺がここをクロスロの世界だと認識していなかったから、なんの違和感もなく日本語に翻訳して聞こえた。
ただし文字に関しては、それを初めて見たとき、すでに俺はここがゲームの世界だと知っていた。だからそのまま《読めない王国語》として見えていた。
だが補正されている可能性に思い至ったことで、補正が働き言語にも翻訳がかかることになった。
……あくまで設定内の
そういう効果の、おそらくは
という辺りだろうが、確証は何もなかった。
「こういうの、あれか? 世界の修正力みたいな話なのかね……?」
「アロルド様?」
呟きの意味がわからなかったのだろう、ヤミが首を傾げたが、俺もメタ的(むしろエンタメ的)予想から言っただけで真実はわからない。
考えすぎると頭痛が起きるため、この世界そのものが余計なことを考えないように邪魔をしているのかもしれない*4。そう思っただけだ。
ともあれ。
俺がこの世界へ来たことにさえ、なんらかの設定的理由はあるのかもしれない。