ラプラスの悪魔は静かに暮らしたい   作:赤羅

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第1話 日常

東京都港区、一等地に構えられた会員制サロンのようなビル。 看板には控えめなフォントで『天導会』とだけ記されている。

 

その最奥にある「謁見の間」で、葛木恭介は白衣も法衣も纏わず、仕立ての良いダークネイビーのスーツ姿で、ソファに足を組んで座っていた。 目の前には、土下座せんばかりに頭を下げる初老の男がいる。誰もがニュースで顔を知る、与党の大物議員だ。

 

「先生……! どうか、どうかお救いください。大学病院ではもう手遅れだと……」

「頭を上げてください、議員。ここは病院ではありませんし、私は医師ではない」

 

恭介は淡々と、しかし相手を安心させるような落ち着いたトーンで告げる。

 

「ただ、あなたが真に救いを求め、対価を支払うつもりがあるのなら……『奇跡』は起きる。それだけのことです」

 

恭介が議員の方へ掌を向ける。 触れはしない。距離にして2メートル。 恭介の視界の中で、世界は精密な図面へと変わる。議員の腹部、膵臓の奥に巣食う悪性の腫瘍。その細胞の一つ一つの熱運動が、手に取るように知覚できる。

 

(……気持ちが悪いな。この不快さには慣れん)

 

恭介は、心の中で指揮棒を振るように、指先を僅かに動かした。 サイコキネシス。彼は腫瘍細胞の分子運動だけをピンポイントで「凍結」させ、瞬時に細胞膜を破壊。さらに、壊死した組織を微細な振動で粉砕し、血流に乗せて排出可能なサイズまで分解する。 所要時間、わずか15秒。

 

「……終わりましたよ」

「え……?」

「痛みは消えたはずだ。次回の検査が楽しみですね」

 

議員は呆然と腹をさすり、やがて涙を流して感謝の言葉を並べ立てた。 後日、教団の隠し口座に「寄付金」として5000万円が振り込まれる手はずだ。

 

***

 

客を帰した恭介は、秘書も置かない執務室で、タブレットの数字を眺めていた。 信者数158名。 設立から2年。口コミだけで集めた、選りすぐりの富裕層たちだ。

 

「宗教法人とは、実によくできたビジネスモデルだ」

 

独り言が漏れる。 当初、恭介はこの力をどう金に変えるか悩んだ。 暗殺者はリスクが高い。大道芸人は単価が安い。 辿り着いた答えが「教祖」だった。 原価ゼロ、税制優遇あり、そして顧客は勝手に「奇跡」を有難がって金を置いていく。 彼が求めているのは、世界征服でも崇拝でもない。 「誰にも縛られず、最高品質のベッドで眠り、食べたいものを食べる生活」。 その維持コストを、最も効率的に稼ぐ手段がこれだった。

 

時計を見る。19時。 「今日はここまでだな。……帰って、千尋の夕食を作らなければ」

 

彼は残業をしない。 父親としての業務(家事)もまた、彼にとっては生活の質を保つための重要なタスクの一つだった。

 

***

 

自宅は、教団ビル最上階のペントハウスだ。 広々としたリビングに入ると、ソファでスナック菓子を食べている少女――養女の千尋と目が合った。

 

「お帰りー。パパ、今日の夕飯なに?」

「豚肉と茄子の味噌炒めです。……千尋、またスナック菓子ですか。夕食前に血糖値を上げると味覚が鈍ると言ったはずですが」

「いいじゃん別に。あ、テスト返ってきたよ。数学80点」

「計算ミスが3箇所ありましたね? 見直しを怠るのは怠慢です。後で解説します」

 

恭介はジャケットを脱ぎながら、キッチンへと向かう。 千尋は「うげっ、なんで見てないのにわかんの……」と毒づいているが、恭介の聴覚(空気振動の感知)にかかれば、カバンの中の答案用紙の摩擦音から点数を読み取ることなど造作もない。

 

キッチンで包丁を握りながら、恭介はリビングの娘を横目で観察する。

 

(……さて、今日の実験結果はどうかな)

 

彼は千尋を、単なる娘としてだけでなく、「商品開発のプロトタイプ」としても見ていた。 もし、自分の能力による脳への微細干渉で、他者に「後天的な能力」を発現させることができれば? それはもはや「奇跡の治療」どころの話ではない。 『神の力の一部を授ける』という名目で、会員権の価格を一桁、いや二桁跳ね上げることができる。

 

今のところ、千尋に劇的な変化はない。 昨晩も、脳の松果体付近のシナプス結合を少しイジってみたが、スプーンが曲がるような兆候は見られない。

 

(まあ、いい。焦る必要はない)

 

恭介はリズミカルに野菜を刻む。 もし能力が目覚めれば、教団の広告塔として利用する。 目覚めなければ、ただの「手のかかる娘」として、然るべき大学に入れて就職させる。 どちらに転んでも、恭介の懐が痛むわけではない。彼女の養育費など、先ほどの議員の寄付金で一生分賄えるのだから。

 

「千尋、皿を出してください」

「はーい」

 

ダラダラと歩いてくる娘の背中を見ながら、恭介は満足げに目を細めた。 トラブルのない職場。適度な距離感の家族。潤沢な資産。 この完璧に管理されたエコシステムこそが、葛木恭介の幸福の形だった。

 

しかし、彼はまだ気づいていない。 その「管理された数値」の異常さに、国家という巨大なシステムが、既に警戒レベルを引き上げていたことに。

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