ラプラスの悪魔は静かに暮らしたい   作:赤羅

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第2話 交渉

内閣府、超常現象対策局。通称「管理局」。 その薄暗い会議室で、モニターに映し出されたグラフを見つめ、課長の榊は深く煙草を吸い込んだ。

 

「……異常だな。統計上の外れ値では済まされん」

 

画面に表示されているのは、宗教団体『天導会』に所属する会員の健康データだ。 末期がんの生存率、100%。 原因不明の難病の完治率、100%。 既存の医療常識ではあり得ない数字が、赤字で警告を発している。

 

「教祖、葛木恭介。28歳。経歴はごく普通の私大卒。前職はトレーダー……」

 

部下が読み上げる資料を聞きながら、榊は灰皿に煙草を押し付けた。 今の日本において、能力者は「都市伝説」ではない。国家が管理すべき「希少資源」であり、同時に制御不能な「兵器」だ。 これほどの出力を持つ能力者が、未登録のまま野放しになっている。 しかも、信者という名の私兵と金を集めている。

 

「放置すれば、いずれカルトによるテロか、あるいは国家転覆の種になる。……接触するぞ。あくまで『紳士的』にな」

 

***

 

翌日の午後2時。 『天導会』本部の応接室に、榊の姿はあった。 通された部屋は、高級ホテルのスイートルームを思わせる洗練された空間だった。趣味の良い絵画、手入れされた観葉植物。 そして、対面のソファには、柔和な笑みを浮かべた葛木恭介が座っている。

 

「ようこそ。入会希望の方以外をお通しするのは稀なんですがね。……政府のお役人様となれば、無下に扱うわけにもいきません」

 

恭介は自ら紅茶を淹れ、榊の前に置いた。 その動作には一切の隙がない。所作の一つ一つが計算され尽くしたかのように無駄がなかった。

 

「単刀直入に言おう、葛木さん。貴方は『能力者』だね?」

 

榊は紅茶に手をつけることなく、切り出した。 恭介の手がピタリと止まる。だが、表情は崩れない。

 

「……何の話でしょう? 私はただ、信じる者たちに心の安らぎを提供しているだけですが」

「誤魔化しても無駄だ。我々の分析班が、貴方の起こした『奇跡』の痕跡を確認している。分子レベルでの強制的な組織変化……医療行為というよりは、物質の『改造』に近い」

 

榊は懐から封筒を取り出し、テーブルに置いた。

 

「国家公務員としての採用通知だ。貴方の力は、国の治安維持に役立てるべきだよ。年収、住居、身分の保証……決して悪い条件ではないはずだ」

 

恭介は封筒を手に取り、中身を一瞥した。そして、鼻で笑った。

 

「年収1200万。……ふむ、悪くない額だ。一般的には」

「不服かね?」

「榊さん、と言いましたね。この部屋にある調度品の総額がいくらか分かりますか? このソファだけで300万はします」

 

恭介は封筒をテーブルに放り投げた。 それは、明確な拒絶の意思表示だった。

 

「私は今の生活に満足しているんです。誰にも指図されず、好きな時間に起き、最高の食事を摂り、資産運用と教団運営という『趣味』に没頭する。……貴方たちの組織に入れば、どうせ24時間体制で呼び出され、泥臭い任務に従事させられるのでしょう?」

 

「義務だ。力を持つ者には、相応の責任がある」

「ノブレス・オブリージュとでも言いたいのですか?私は納税の義務は果たしていますよ。それ以上の奉仕を求めるなら、それは搾取だ。……私の哲学に反しますね」

 

取り付く島もない。 恭介にとって、自身の能力は「自分を快適にするためのツール」でしかない。それを国家のために使うなど、コストパフォーマンスが悪すぎるという判断だ。

 

榊は目を細めた。 交渉決裂。ならば、次は脅しのカードを切るしかない。

 

「……貴方には、中学生になる娘さんがいたな。葛木千尋さん」

「彼女は、父親が『化け物』だと知っているのかな? あるいは、彼女の将来……進学や就職に、父親が『国家の監視対象』であることがどう影響するか」

 

その瞬間。 榊は、自身の喉元に冷たい刃物が突きつけられたような錯覚を覚えた。 いや、錯覚ではない。 室温が急激に下がっていた。 エアコンの風が止まり、榊の目の前にあった紅茶の湯気が、一瞬にして凍りつき、氷の華となってカップの中に落ちた。

 

「……榊さん」

 

恭介の声から、感情の色が消えていた。 ただの音波としての言葉が、鼓膜を揺らす。

 

「娘の話はやめましょう。彼女は私の将来への『投資対象』であり、育成中の大事なサンプルだ。……貴方のような無粋な人間が土足で踏み荒らすと、実験データにノイズが混じる」

 

「……ッ」

 

「それに、私を怒らせると損をしますよ。このビルの空気中の酸素濃度を、貴方の周囲だけゼロにすることもできる。心臓麻痺でも構いませんよ?『不幸』に見舞われたくはないでしょう?」

 

榊は冷や汗が背中を伝うのを感じた。 こいつは、やる。 自分の利益や平穏のためなら、国家権力相手だろうと躊躇なく排除する男だ。

 

榊はゆっくりと立ち上がった。

 

「……話は分かった。交渉は決裂だ。残念だよ、葛木さん」 「ええ。二度と来ないでいただけますか。私の平穏な午後が台無しだ」

 

恭介は冷めきった紅茶を一口啜り、興味なさげに視線をタブレットに戻した。

 

***

 

ビルを出た榊は、すぐに携帯端末を取り出した。 相手は、近隣に待機させていた実力行使部隊の指揮官だ。

 

「……ああ、私だ。交渉は失敗した。対象『葛木恭介』を、特級危険指定個体として認定する」

 

榊はビルを見上げる。 最上階の窓の奥にいるであろう、傲慢な教祖。 その傲慢さが命取りだ。

 

「『ブレイブス』を投入しろ。……ああ、構わん。多少手荒になっても、生きてさえいれば研究材料にはなる。今夜中に片付けろ」

 

***

 

その日の夜。 教団ビルから数キロ離れたビルの屋上に、三つの人影があった。 風に煽られる赤いマフラー。 中央に立つ17歳の少年、ダイキは、燃えるような瞳で『天導会』のビルを睨みつけていた。

 

「あそこにいるんだな。人々を騙して甘い汁を吸う、悪党が」

 

隣に立つ巨漢が、拳を鳴らして笑う。

「おいおいダイキ、熱くなりすぎるなよ。あくまで任務だ」

「分かってる。だが……許せないんだよ。力ってのは、人を守るためにあるはずだろ!」

 

ダイキの手のひらから、ボッと炎が吹き上がった。 彼らは政府に飼われた犬かもしれない。だが、その正義感だけは本物だった。 純粋すぎるがゆえに、止まらない。 合理性などという言葉とは無縁の「熱量」が、今まさに恭介の平穏を焼き尽くそうとしていた。

 

「行くぞ! 突入開始だ!」




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