ラプラスの悪魔は静かに暮らしたい 作:赤羅
煌びやかな摩天楼の光が、地上の星空のように広がる大都会。 その光が決して届かない場所がある。老朽化した雑居ビルの屋上だ。錆びついたフェンスと、排気ダクトの低い唸り声だけが支配するその空間に、三つの影があった。
冷たい夜風が吹き抜け、都会特有の埃っぽい匂いを運んでくる。 彼らの足元には、コンビニの袋が風に煽られてカサカサと音を立てていた。中には空になった栄養補助食品の包み紙と、飲み干されたミネラルウォーターのボトル。それは、彼らのような非正規の任務に就く者たちにとっての、侘しい晩餐の跡だった。
「……気に食わねえな」
低い、地を這うような唸り声が闇に溶けた。 声の主は、チームのリーダーを務める少年、ダイキだ。まだ十七歳という若さだが、その瞳には実年齢とはかけ離れた険しい光が宿っている。逆立った赤い髪が、風に揺れる炎のように見えた。 彼は苛立ちを隠そうともせず、錆びた鉄製の手すりを強く握りしめた。
ジュッ、という湿った音が響く。 彼の手のひらから発せられた熱が、瞬く間に鉄の融点を超えたのだ。赤黒く変色した手すりは、まるで飴細工のようにぐにゃりと歪み、彼の指の形に合わせて深く凹んだ。焦げた鉄の臭いが鼻をつく。
「あいつは、人の命を金儲けの道具にしてやがる。難病を治すだと? ふざけんな。金を持ってる奴だけ選り好みして、貧乏人は見捨ててるってことだろ」
ダイキは眼下にそびえる巨大なビル──『天導会』の本部を見下ろしながら吐き捨てた。 最新鋭の免震構造と、洗練されたガラスウォールに覆われたその要塞は、周囲の闇を嘲笑うかのように白く輝いている。
「落ち着け、ダイキ。手すりが溶けているぞ」
背後から、岩石が擦れ合うような重厚な声がかかった。 振り返れば、そこには身長二メートル近い巨漢が立っていた。ゴウ、十九歳。 夜闇に紛れても隠しきれないその威圧的な体躯は、チームにおける絶対的な盾としての役割を物語っている。彼の筋肉は鋼のように硬く、分厚い。だが、その瞳は意外なほどに理知的で、穏やかな光を湛えていた。
「俺たちの任務は対象の確保だ。私刑ではない。相手がどれほどの悪党であろうと、法の裁きを受けさせる。それが俺たち『ブレイブス』の役割であり、存在意義だ」
「分かってるよ、ゴウさん! 理屈じゃ分かってる。でも……俺は納得いかないだけだ」
ダイキは唇を噛み締め、歪んだ手すりから手を離した。 彼の脳裏に、古い記憶がフラッシュバックする。燃え盛る家、悲鳴、そして理不尽な暴力によって奪われた両親の姿。 力を持つ者が、持たざる者を蹂躙する。その構造が、ダイキは何よりも許せなかった。 彼が政府に拾われ、首輪付きの犬として飼われることを選んだのも、この世界から理不尽な暴力を根絶したいという、ただその一心からだった。
「感情だけで突っ込まないで。相手は特級よ。ミスをすれば、私たち全員が消し炭になるわ」
冷ややかな、しかし的確な指摘と共に、一人の少女が顔を上げた。 リナ、十六歳。小柄な体に大きめのパーカーを羽織り、その手には高精細のタブレット端末が握られている。黒髪のボブカットが理知的な印象を与えるが、その顔色は病的なまでに蒼白く、目の下には濃い隈が刻まれていた。
「データを見たけど……この葛木恭介という男、デタラメよ。過去に確認された『癌細胞の消滅プロセス』の映像を解析したけれど、物理的にあり得ない現象が起きている。おそらく、分子、あるいは原子レベルでの干渉能力。……私の結界でも、完全に防げる保証はないわ」
彼女の言葉に、場の空気が一層張り詰める。 リナの能力は空間断絶。指定した座標の空間を切り取り、物理的な干渉を一切遮断する、最強クラスの防御・拘束能力だ。だが、その代償として彼女の脳にかかる負荷は計り知れない。 彼女はポケットからラベルのないプラスチックケースを取り出すと、白い錠剤を二粒、掌に出した。強力な精神安定剤と、覚醒用のカフェインだ。それを水なしで飲み込む彼女の喉が、小さく動く。
「ビビってんのか、リナ」
「慎重なだけよ。……でも、やるわ。私の結界でビル全体の音と振動を遮断する。外部への被害をゼロにして、その間にダイキとゴウで制圧して」
リナの瞳に、薬効による鋭い光が宿る。 彼女もまた、自身の寿命を削りながら戦う「英雄」の一人だった。
「作戦開始時刻は午前零時ちょうど。……相手は教祖よ。信者を盾に使う可能性もあるわ。一般人を巻き込まないよう、細心の注意を払うこと」
「おう。全員守って、悪党だけぶっ飛ばす。それがヒーローってもんだろ」
ダイキはニカっと笑い、熱を帯びた拳を突き出した。 その笑顔は、年相応の少年のものだった。 ゴウが苦笑しながら岩のような拳を合わせ、リナもため息交じりに、白く細い拳を合わせる。
「行くぞ、ブレイブス! 今日も世界を守りに行く!」
彼らの誓いが夜風に溶ける。 それは、あまりにも純粋で、あまりにも危うい、正義の輝きだった。
***
時刻は二十三時五十五分。 下界の喧騒から隔絶された、『天導会』ビルの最上階ペントハウス。 数百平米はあろうかという広大なリビングには、選び抜かれたイタリア製の家具が配置され、壁一面の窓からは東京の夜景が一望できる。
その中央にあるソファで、この館の主、葛木恭介はくつろいでいた。 手には分厚い哲学書。琥珀色の間接照明が、彼の手元だけを優しく照らしている。
「……ふむ」
恭介はページをめくる手を止め、ふと天井を見上げた。 静かだ。 あまりにも静かすぎる。
このペントハウスは最新の防音設計が施されているとはいえ、ここは東京のど真ん中だ。本来であれば、遠くを走る首都高速のタイヤノイズや、風がビルに当たる風切り音、あるいは地殻の微細な振動といった「世界の鼓動」が、彼の鋭敏すぎる感覚には届くはずだった。 だが今、それらが唐突に消失した。 まるで、このビルだけが世界から切り取られ、真空の宇宙に放り出されたかのように。
「空間結界、ですか。外からの音を遮断し、こちらの音も外へ漏らさない。典型的な隠密行動用のフィールドですね」
恭介は本を閉じ、サイドテーブルに置く。 その動作一つにも、一切の無駄がない。 一般人ならば絶対に気づかないレベルの違和感。だが、空気中の窒素分子の振動すら肌で感じ取れる彼にとって、この静寂は大音量のサイレンが鳴り響いているのと同じだった。
彼はゆっくりと立ち上がり、リビングの奥にある寝室の方角へ目を向けた。 その分厚い樫の木のドアの向こうには、娘の千尋が、無防備な寝顔で眠っているはずだ。 反抗期で口うるさい娘だが、寝ている時だけは天使に見える。その安らかな呼吸音だけが、今の恭介にとって許容できる唯一の音だった。
「千尋を起こされるのは困りますね。……玄関で迎撃して、穏便にお帰り願うとしましょう」
恭介は首元のネクタイを少しだけ緩め、リビングの入り口へと歩き出した。 その足取りは軽い。 恐怖も、緊張もない。 彼にとって、これから押し入ってくる侵入者たちは敵ですらない。 夜の安眠を妨げる羽虫を、窓から追い払う程度の退屈な雑事に過ぎないのだから。
***
「……ここだな」
ビルの最上階、ペントハウスのエントランスホール。 リナが展開した結界によって、張り巡らされた監視カメラも、赤外線センサーも、すべてが凍りついたように機能を停止していた。 ゴウが分厚い特殊合金製の鉄扉の前に立ち、深く息を吸い込む。
「開けるぞ」
ゴウが巨大な掌を扉の鍵穴付近に当てた。 彼の能力は衝撃操作。 ただ力任せに殴るのではない。筋肉の収縮によって生み出した極小かつ超高密度の衝撃波を、鍵穴の内部構造へピンポイントで浸透させる。 外側には傷一つつけることなく、内部のシリンダーだけを粉々に破壊する職人芸だ。
カチャリ、と乾いた音がした。 ロックが解除される。 ゴウが目配せし、ダイキが頷く。
重厚な扉が、音もなく開かれた。
暗闇に包まれた広いリビングが広がる。 その中央に、一人の男が立っていた。 背後には一面の夜景。逆光となり、男の表情は読み取れない。 だが、その立ち姿からは、侵入者を前にした者が抱くはずの動揺や恐怖が、欠片ほども感じられなかった。 ただただ、不気味なほどに自然体だった。
「……こんばんは。予約はしておられますか?」
男──葛木恭介は、まるで高級レストランのウェイターのような、恭しく落ち着いた口調で言った。 その声は静かで、よく通る。 だが、歴戦のダイキたちには分かった。 この男の周囲だけ、空気が異質だ。まるで深海のような重圧が、肌をチリチリと刺してくる。
「葛木恭介……!」
ダイキが一歩前に出る。 彼の身体から溢れ出る熱気で、周囲の空間が陽炎のように揺らぐ。 張り詰めた空気が、熱によって歪められる。
「政府からの命令だ。大人しく投降しろ。さもなくば、実力で連行する!」
「実力で、ですか」
恭介は呆れたように肩をすくめた。 その仕草は、駄々をこねる子供をあやす大人のそれだった。
「深夜零時に他人の家に土足で押し入っておいて、随分と野蛮な言い草だ。……君たちの親御さんは、訪問のマナーを教えてくれなかったのかな?」
ピクリ、とダイキの眉が跳ね上がった。 親。 その単語が、ダイキの古傷を抉る。顔も覚えていない両親。理不尽に奪われた温もり。
「テメェ……!」
「ダイキ、挑発に乗るな!」
ゴウが制止の声を上げるよりも早く、ダイキの理性は弾け飛んでいた。 床を蹴る。 爆発的な加速。 特殊繊維のブーツが床を焼き、右手に纏った炎が暗闇を一瞬にして紅蓮に染め上げる。
「黙りやがれえええッ!」
放たれた炎の拳。 ロケットのような推進力を得たその一撃は、直撃すれば分厚い鉄骨の柱すら一瞬で溶解させる熱量を持っていた。 回避は不可能。防御も無意味。 必殺の一撃が、恭介の顔面へと迫る。
だが、恭介は一歩も動かない。 防御の構えすら取らない。 ただ、冷ややかな瞳で、目の前に迫る死の炎を観察していた。 まるで、出来の悪い生徒を眺める教師のように。
「騒がしい」
恭介が、指先をわずかに振る。 たったそれだけの動作。
その瞬間、世界を構成する物理法則そのものが、強制的に書き換えられた。
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