オーバーロードにTS転生者を叩き込んでみた 作:連載として再構築
第二階層の一角に用意された会談の場は、わたしの想像とはまるで違っていた。
ナザリックの威圧的な石造りの広間を予想していたのに、そこにあったのは――木組みの部屋だった。
丸太を組み上げた素朴な壁、暖炉から漏れる橙色の灯り、磨き上げられた木のテーブルには湯気を立てる茶器が並んでいる。
鼻をくすぐる木材の匂いが、張り詰めていた肩の力をふっと抜いてくれた。
「兄さん、これ……」
「ああ、ナザリック防衛線の後にやまいこさんが昔作った休憩用のギミックフロアだ。会談っていうからもっと堅苦しい部屋を用意するかと思ったんだが……セバスがここを選んだ」
兄さんが少し照れたように頭蓋骨の後ろを掻く。
骸骨がその仕草をすると妙に人間くさくて、思わず口元が緩んだ。
「良いね。ここなら剣呑な空気にはなりにくい」
ツアーの鎧が低く唸るように呟いた。
全身鎧の巨体がログハウスの入り口をくぐるとき、天井の梁にガツンと額をぶつける。
ブレインが後ろで小さく吹き出した。
「笑わないでくれないか、ブレイン」
「いや、悪い悪い。竜王様でもぶつけるもんなんだなって」
「これは遠隔操作の鎧だ。痛覚はない」
「痛くなくても格好はつかねえだろ」
ツアーの兜がゆっくりとブレインの方を向いた。
光の奥にある視線は、たぶん少しだけ不機嫌だ。
テーブルを挟んで、向かい合う形で座る。
わたしの左にツアー、右にブレイン。
対面には兄さんを中心に、ペロロンチーノさんと茶釜さん。
その背後に控えるようにアルベドとデミウルゴス。
壁際にはセバスが影のように立ち、コキュートスは屋外で警備に就いているらしい。
メイドの一人が手際よく紅茶を注いでいく。
カップを受け取ったブレインが、一口含んで目を見開いた。
「……うまいな、これ」
「当然でございます。ナザリック地下大墳墓でお出しするものに、不出来はございません」
メイドが無表情に答える。
ブレインが小声で「怖え」と呟いたのを、わたしは聞こえないふりをした。
「さて」
兄さんが両手をテーブルに置いた。
骨の指が木の表面をこつりと叩く。
「亜理紗、まずはお前の話を聞かせてくれ。この世界のことを……お前が知っていることを、全部」
「うん。どこから話せばいいかな」
「この世界の構造から、でいいんじゃないか。俺たちはまだ何も分かっていないんだ」
わたしは紅茶を一口含んで、喉を潤した。
甘くて香りが良い。
こんな上等な茶葉、ナザリックの倉庫に眠っていたのだろうか。
「じゃあ、大きな話から。この世界には、わたしが把握している範囲でいくつかの主要な国と勢力があるの」
わたしは指で空中に大まかな地図を描くように示した。
「まず、わたしの本体がいるリ・エスティーゼ王国。人間の国で、封建制の王政。歴史は長いけど、貴族と王家の軋轢、周辺国との緊張、内部の腐敗……問題は一つずつ手を付けているけど山積みよ。文化レベルは中世ヨーロッパの後期くらいかしら。魔法はあるけど、魔導技術として体系化されているとは言いがたい」
「中世ヨーロッパ……ユグドラシルの世界観ベースとは違うのかな」
ペロロンチーノさんが黄金の嘴を傾げた。
「ベースは似てるわ。でもユグドラシルはバランス調整されていたでしょう? この世界にはそれがない。レベル差がそのまま生死を分けるし、人間の大半はレベル一桁。二十を超えたら英雄級、三十を超えたら伝説級と呼ばれるわ」
「はあっ!? レベル一桁が大半って、俺たちからしたらスライムだらけのフィールドみたいなもんじゃん!」
「そういうこと。だからこそ、ナザリックの存在はこの世界にとって途轍もない脅威になりうる。その自覚は持っていて」
わたしの言葉に、兄さんの眼窩の光がわずかに揺れた。
背後のデミウルゴスが眼鏡の奥で何か計算するような目をしているのが視界の端に映る。
「王国の隣に位置するのが、バハルス帝国。こちらは中央集権型の魔導帝国で、王国よりずっと合理的な統治をしているわ。軍の練度も高い。若い皇帝が血の粛清で貴族を排除して、実力主義の官僚制を作り上げた」
「ほう……有能な為政者がいるのか」
デミウルゴスが初めて口を開いた。
その声には純粋な関心が滲んでいる。
「ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス。鮮血帝と呼ばれる皇帝よ。即位時に反対勢力の貴族を徹底的に粛清して、帝国を一代で立て直した男」
「鮮血帝……物騒な二つ名だな」
兄さんが呟いた。
「実際、有能よ。冷徹で合理的で、帝国の利益のためなら手段を選ばない。軍事力も経済力も王国を上回ってる。フールーダ・パラダインという帝国主席魔法使いが後ろ盾にいて、この人が人間の中では飛び抜けた魔法の使い手」
「レベルはどれくらいだ」
兄さんの問いに、わたしは少し考えてから答えた。
「わたしの見立てでは三十台後半から四十前後。この世界では破格中の破格。数百年生きている逸話級の存在ね」
「ふむ……我々にとっては脅威とは呼べぬレベルですが、この世界では頂点に近いと」
デミウルゴスが顎に手を当てた。
「そう。だからこそ注意してほしいの。この世界の人間は弱いけれど、だからといって知性まで低いわけじゃない。ジルクニフは自分より強い存在に対しても、政治力と外交で対抗しようとする類の人間よ」
わたしはそこで一拍、間を置いた。
次の話題が少し気まずい。
「それでね……帝国との間には、ちょっとした因縁があるの」
「因縁?」
兄さんの声のトーンが変わった。
「五年前、帝国と王国の間で戦争が起きたのよ。カッツェ平野での大規模な会戦。わたしはそこに王国軍として参戦した」
「戦争にっ!? 亜理紗ちゃんが!?」
ペロロンチーノさんが椅子ごと前のめりになって、黄金のアーマーがガシャンと鳴った。
「王女なのに前線に出るなんて……危険すぎない?」
茶釜さんのスライム体がぶるりと震えた。
「必要だったの。王国軍は数こそ多くても、装備も練度も帝国に劣ってた。わたしのタレント『永遠の歌姫』の歌による広域バフが、戦力差を埋める唯一の手段だった」
暖炉の薪が爆ぜて、小さな火の粉が舞い上がる。
「結果として右翼を支えることには成功したけど、戦いの最中に帝国の四騎士――帝国最強の騎士四人に包囲されたの。兜が割られて、素顔を晒してしまった」
わたしは無意識に自分の銀髪に触れた。
サリアとしては金髪に変えているけれど、あの時は本体のアリサだったから、銀髪のままだった。
「それを……帝国の皇帝ジルクニフが、遠見の魔法で見ていた」
テーブルの空気が、微かに張り詰めた。
兄さんの眼窩がじっとわたしを見つめている。
「それで彼は、戦場でわたしを見て――」
言葉を選ぶ。
でも変に誤魔化してもしょうがない。
「見初めたの。その場で四騎士に命令して、わたしを生きたまま捕らえろと」
「は?」
兄さんの声が低くなった。
感情抑制が発動したのか、眼窩の光が一瞬緑に明滅する。
「捕まえて何をするつもりだ」
「……帝国に連れ帰って、后にしようとした。その時はブレインが助けに入ってくれたから事なきを得たけど」
わたしがブレインに視線を送ると、彼は肩をすくめた。
「あの時は間一髪だったぜ。四騎士を相手に姫様が一人で粘ってなきゃ、間に合わなかった」
「……その皇帝とやらは、今も存命か」
兄さんの声に温度がない。
感情抑制が働いているのだと分かる。
逆に言えば、抑制しなければならないほどの何かが湧いているということだ。
「存命よ。それどころか、あれ以来ずっと――」
言いかけて、わたしは少し目を逸らした。
「ずっと、なんだ」
ペロロンチーノさんの嘴が前に突き出る。
「……求婚されてるの。もう五年。贈り物も定期的に届くし、密偵を使ってわたしの動向を探ってるし。アリサとサリアが同一人物だってことも看破されてる」
沈黙。
暖炉の薪がパチリと弾ける音だけが響いた。
兄さんの骨の指がテーブルの表面をゆっくりと叩いている。
一定のリズム。
それが段々と速くなっていく。
「モモンガ様」
アルベドが一歩前に出た。
その美貌には、主の怒りを敏感に感じ取った忠臣の緊張が浮かんでいる。
「その……皇帝とやらの処分について、何なりとお申し付けください」
「アルベド、落ち着いて」
わたしは慌てて手を振った。
「過激なことはしないでね。ジルクニフは有能な為政者で、帝国の民にとっては良い皇帝なの。さすがに個人的な感情で動いたりするのは――」
「亜理紗を攫おうとした男だぞ」
兄さんの声が、地の底から響くように低い。
「妹を。俺の妹を。戦場で。捕まえて。后にする。だと」
一語ずつ区切る言い方が怖い、とてつもなく怖い。
感情抑制が追いつかないのか、眼窩が赤と緑を交互に明滅している。
「龍也も落ち着いて」
茶釜さんがスライムの触手でペロロンチーノさんの肩を押さえている。
見れば、黄金のアーマーの内側から尋常でない殺気が漏れていた。
鳥人の嘴がカチカチと鳴っている。
「いや落ち着いてるよ俺は。落ち着いてるけど。ねえ亜理紗ちゃん、そのジルクニフって奴の住所教えてもらっていいかな。ちょっと殺すだけだから」
「ちょっとでも殺しちゃダメでしょ!」
茶釜さんのツッコミが響く。
ログハウスの中が一気に騒がしくなった。
「で、でも! 亜理紗ちゃんに五年もストーカーしてる皇帝だよ!? 普通に犯罪じゃん!」
「……この世界では王族の求婚は外交行為なのよ、ペロロンチーノさん」
「犯罪だよ! 亜理紗ちゃんが嫌がってるなら犯罪だろうが!」
額に手を当てた。
こうなると思ったからあまり言いたくなかったのに。
「あのね、贈り物を送ってくるだけで、直接的な実力行使は最初の一回だけよ。あの時はまだ戦場だったし、戦時中の行動としては――」
「関係ねえよ」
ブレインが静かに口を挟んだ。
「俺もあの男は気に食わねえ。けどよ、姫様の言う通り帝国ごと潰すのは筋が違う。あの男が自分から諦めるように持っていくのが上策だ」
頼もしい援護に、わたしは内心で手を合わせた。
「ブレイン・アングラウスだったか」
兄さんが骸骨の顔をブレインに向けた。
「亜理紗をあの場で助けてくれたのはお前だな」
「ああ。あの時は偶然だったが俺は姫様の剣だ。あの程度は当然さ」
「……礼を言う。心から」
兄さんが深く頭を下げた。
ナザリック地下大墳墓の絶対的支配者が、人間の剣士に頭を下げる。
背後のアルベドとデミウルゴスが息を呑むのが聞こえた。
「よしてくれ、姫様は俺に強くなる目標をくれた恩人なのさ。前借りしただけだ」
ブレインが少し居心地悪そうに視線を逸らした。
その耳の先が赤くなっているのを、わたしは見逃さなかった。
「……話を戻すわね」
わたしは咳払いをして、場の空気を切り替えた。
「帝国の話はここまで。次は、王国と帝国に挟まれた地域にあるスレイン法国について」
兄さんたちの殺気がまだ燻っているけれど、情報は全部伝えなければならない。
「スレイン法国は六大神を信奉する宗教国家。人間至上主義を掲げていて、人間の生存圏を守ることを国是としている。軍事力は漆黒聖典をはじめとする特殊部隊が中心で、個の戦闘力ではこの大陸で最も高い集団がいるわ」
「人間至上主義……我々にとっては厄介な相手になりそうだ」
デミウルゴスの尻尾が揺れた。
「そう。ナザリックの存在を知れば、間違いなく敵対する可能性が高い勢力よ。ただ、わたしは法国とも一定の関係を築いてある。子供の頃にタレントの鑑定で訪問して、数か月間修行もした」
「修行って……法国で? 亜理紗ちゃん、いろんなところ行きすぎじゃない?」
茶釜さんの声が呆れ半分、心配半分で響く。
「いろいろあったのよ、本当に。法国への道中でエルフの国に襲われたりもしたし」
「えっ」
「漆黒聖典に助けてもらったけどね」
さらっと言ったけど、あの時は本気で死ぬかと思った。
多分詳しく言うと、またひどいことになりそうなので流しておく。
「それから聖王国。こちらは法国寄りの信仰国家で、わたしの友達の聖王女カルカが治めてる。温厚な国だけど、亜人との緊張関係を常に抱えていて、実際に何度も侵攻を受けているわ」
聖王国の名前を口にすると、カルカたちの顔が浮かぶ。
カリンシャの港町で歌っていた日々、ネイアちゃん、レメディオスの不器用な優しさ。
「聖王国にはわたしもサリアとして長く滞在していたの。冒険者としてよりも、歌い手として有名になってしまったけどね」
「『歌姫』……ですか」
デミウルゴスが何かを思い出すように呟いた。
「大陸の西にはアーグランド評議国。竜を中心とした多種族国家で、ツアーの本体はそこにいるわ」
わたしがツアーに視線を向けると、彼は静かに頷いた。
「評議国は人間の国々とは異なり、種族間の協調を基本理念としている」
ツアーの声は淡々としていたが、自国を語る際には微かな矜持が感じられた。
「文化レベルは国によってまちまち。帝国が最も進んでいて、法国がそれに続く。王国は正直、遅れてる。識字率も低いし、農業技術も停滞気味。自然環境は豊かだけど、亜人やモンスターの脅威が常にあるから、人間の生活圏は限られているわ」
わたしは紅茶を一口飲んで、少し間を取った。
「以上が大まかな地理と政治の構図。細かい話はいくらでもあるけど、まずはこの全体像を掴んでほしい」
兄さんが腕を組んだ。
骨だけの腕を組むのは器用だなと場違いなことを思う。
「よく分かった。この世界は思ったより複雑で、思ったより人間の文明が低い。ナザリックの力は圧倒的だが、それゆえに軽率な行動は取れない……そういうことだな」
「そう。特に、この世界にはユグドラシルからの転移者が過去にも複数存在した形跡があるの。六大神や八欲王がそれに当たる。彼らは圧倒的な力でこの世界に干渉して、良くも悪くも歴史を大きく変えた」
デミウルゴスの瞳が鋭く光った。
「つまり、ナザリックの転移は史上初めてではない、と」
「ええ。だからこそ、過去の転移者たちの轍を踏まないでほしいの。力で支配しようとした者たちの末路は……良いものじゃなかった」
兄さんの問いかけに答えながら、わたしは自分でも驚くほど落ち着いていた。
話すべきことを整理する頭と、目の前の家族に甘えたい心が、不思議と両立している。
「それと、もう一つ。兄さんたちに伝えなきゃいけないことがある」
テーブルの上に両手を置く。
指先が少し冷たい。
「この世界に来ているのは、ナザリックだけじゃないの」
「……何?」
兄さんが身を乗り出した。
「《Voiceless Garden》の一部も、この世界に転移しているわ」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が凍った。
暖炉の火がばちりと爆ぜた音だけが、やけに大きく響く。
「……Voiceless Gardenだと?」
兄さんの声が低く、掠れている。
ペロロンチーノさんが黄金のアーマーの中で固まり、茶釜さんのスライム体の揺れがぴたりと止まった。
「正確にはギルド全体じゃなくて、大図書館の区画だけ。あの子たちが管理していた場所よ」
「あの子たちって……NPCのことか?」
ペロロンチーノさんの声に震えが混じっている。
「ええ。ハーモニーさんが作った『ライブラリ』と『シーカー』。二人とも無事よ。意志を持って、言葉を話して、この世界で生きてる。ナザリックの守護者たちと同じように」
沈黙が降りた。
兄さんの眼窩の光が激しく明滅している。
感情抑制の緑が何度も瞬き、そのたびに赤い光が押し戻そうとする。
「ハーモニーさんの……」
茶釜さんが呟いた。
声がくぐもっている。
ハーモニーさん。
《Voiceless Garden》の副ギルド長で、穏やかで温厚な男性プレイヤーだった。
種族間の融和を理想に掲げ、ギルドの知識管理システムを一人で設計した人。
わたしが配信の募集で見つけて、最初に声をかけたユグドラシルにおける相棒。
「ライブラリとシーカーから、いろいろなことを聞いたわ。ユグドラシル最後の日……あの二人は全部覚えてる」
わたしは紅茶のカップを両手で包むように持った。
陶器の温もりが、指先の冷えを和らげてくれる。
「最後の日、《Voiceless Garden》のギルドホームには、たくさんの人が訪れてくれた。かつてのギルドメンバー、取引相手だった商人プレイヤー、そして……わたしの歌を聴いてくれていたファンの人たちが」
声が少し震えそうになるのを堪える。
この話をするたびに、胸の奥が熱くなる。
「みんな、口々に感謝を伝えてくれたって。希少な素材や装備を、手向けみたいに置いていったって。中にはワールドアイテムまで供えた人もいたらしいわ。『引退祝いだ』『向こうでも歌ってくれ』って……」
カップの中の紅茶に、自分の歪んだ顔が映った。
泣きそうになるのを誤魔化すように一口啜る。
「亜理紗ちゃん……」
ペロロンチーノの声は、もう完全に龍也の声だった。
嘴の奥から漏れる呼吸が湿っぽい。
「そうか……そうだよな。亜理紗ちゃんは、それだけたくさんの人に愛されてたんだ。当たり前だよ、だって……」
言葉が途切れる。
黄金のアーマーが小さく揺れた。
「ナザリックにもね」
わたしはそっと付け加えた。
「ユグドラシル最後の日。ナザリックにも多くの人が来てくれたんでしょう? あの攻防戦で助けてくれた人たち、最後にお別れを言いに来てくれたんじゃない?」
兄さんが小さく頷いた。
「……ああ。来てくれた。ブラッド・エッジの連中も、歌姫親衛隊も、生産ギルドの残りのメンバーも。みんな、最後に亜理紗のアバターに挨拶をしていった」
兄さんの骨の指がテーブルの上で拳を作っている。
その力の入り方が、記憶の重さを物語っていた。
「モモンガ様」
不意に、背後に控えていたアルベドが一歩前に出た。
その声は、先ほどまでの守護者統括としての硬い調子ではなく、もう少し柔らかい何かを含んでいた。
「差し出がましいことを申し上げてもよろしいでしょうか」
「……なんだ、アルベド」
「あの日のことを、我々守護者は覚えております」
わたしは少し驚いてアルベドを見た。
彼女は静かに、しかし確かな重みを持った言葉で語り始める。
「ユグドラシルの最後の日。多くの方々が大墳墓を訪れ、『歌姫』様のアバターに花を手向けてくださいました」
アルベドが一瞬、言葉を探すように目を伏せた。
「あの日の光景だけは鮮明に記憶しているのです。プレイヤーの皆様方がアイテムを供え、言葉を残し、静かに去っていかれた。あれがただの記録ではないことは、今の我々には分かります」
デミウルゴスが眼鏡を指で押し上げ、アルベドに続いた。
「わたしも同様でございます。特に、あの攻防戦で至高の御方々と共に戦ってくださった方々……。彼らが最後の日に再び訪れ、武装を解き、ただ静かに礼をして去っていかれた姿は、言葉にしがたい印象として残っています」
デミウルゴスの尻尾が、珍しくゆっくりとした動きで揺れている。
いつもの冷徹な知略家とは異なる、内省的な空気。
「我々守護者にとって、至高の御方々は絶対の存在でございます。ですが、あの攻防戦で自らの存在を賭してまでこの大墳墓を守ってくださった方々には――」
デミウルゴスが言葉を切った。
眼鏡の奥の瞳が、わずかに揺れている。
「特別な思いを感じております。それは忠誠とは異なりますが、我々の根幹に刻まれた……畏敬とでも申しましょうか」
セバスが壁際から静かに頷いた。
「あの方々は、至高の御方々が守ろうとしたものを、共に守ろうとしてくださった。たとえ自らの全てを失うことになろうとも」
セバスの声は穏やかだが、一語一語に力がこもっている。
「その意志の重さは、今の我々であれば理解できます。あの方々は——」
セバスはちらりとわたしの方を見た。
「『歌姫』様への想いによって、至高の御方々と同じ戦場に立ったのですから」
ログハウスの中が静まり返った。
暖炉の炎が揺れ、壁に影が踊る。
兄さんの眼窩の光は安定した赤に戻っていたが、その骨の手は膝の上で強く握りしめられていた。
ペロロンチーノさんは俯いたまま微動だにしない。
茶釜さんのスライム体が、透明な雫を一滴、テーブルに落とした。
ナザリックのNPCたちが、あの日を覚えている。
プログラムだった頃の記憶として、断片的に、けれど確かに。
そしてその記憶が、今の彼ら彼女らの中で「意味」を持っている。
それは設定に書かれた忠誠や服従とは全く別の、自発的な何かだ。
わたしは背筋がぞくりとした。
畏怖ではない。
ただ、その事実が胸に響いたのだ。
「……ライブラリとシーカーも、同じことを言ってたわ」
少し間を空けてから、わたしは口を開いた。
「あの二人は、最後の日にギルドホームに来てくれたプレイヤーたちのことを、一人残らず覚えている。名前も、装備も、供えてくれたアイテムも、言ってくれた言葉も。全部、記録じゃなくて……記憶として」
指先でカップの縁をなぞる。
陶器の滑らかな感触。
「ライブラリはこう言ってた。『あの光景は、我々にとっても生涯忘れ得ぬ美しいものでした』って」
アルベドの目が見開かれた。
サキュバスの美貌に、明確な感情の波紋が広がっている。
それは同族意識と呼ぶべきものかもしれなかった。
自分たちと同じように転移し、自分たちと同じように創造主の記憶を胸に抱いて生きている存在が、外にもいるという事実。
「そのライブラリとシーカーという者たちは、今はどこに?」
デミウルゴスが訊いた。
その声には、知略家としての関心だけでなく、もう少し個人的な興味が滲んでいる。
「アベリオン丘陵の山岳地帯に隠れているわ。大図書館を守りながら」
「ずっと……」
兄さんが呟いた。
「二人だけで?」
「ええ。周囲は亜人の勢力圏。戦闘職ではない彼らが、隠蔽と知恵だけで図書館を守り通してきたの」
ツアーが低く唸るように声を出した。
「僕もライブラリには一度会っているが、確かな知性を持つ存在だった」
「ツアー殿も、彼らと面識があるのですか」
セバスの問いにツアーが頷く。
「サリアと初めて出会ったときにね。ナザリックと同様にユグドラシルから転移した存在としての彼らの話は興味深かった。この世界と前の世界を繋ぐ、貴重な証人ではあるね」
兄さんが腕を組み直した。
骨の指がガチリと噛み合う小さな音。
「亜理紗。そいつら……ライブラリとシーカーは、今のままで安全なのか」
「正直に言えば、綱渡りよ。大図書館にはワールドアイテムを含む貴重な収蔵品があって、既に一つが一度管理から外れているの。さすがに、あの二人だけでは限界がある」
兄さんの眼窩が静かに明るくなった。
何かを決断しようとしている時の光り方だ。
「……分かった。その話は後で詳しく聞かせてくれ。場合によっては支援も検討する」
「兄さん……」
「当然だ。あいつらは、亜理紗の……俺たちの仲間が作った存在だ。見捨てるわけがない」
ペロロンチーノさんが顔を上げた。
嘴の奥の瞳が、さっきとは違う光を帯びている。
「ハーモニーさんのNPCが頑張ってるのに、俺たちが何もしないわけにいかないだろ。なあ、悟さん」
「ああ……ああ、その通りだ」
兄さんが深く頷いた。
「茶奈さん」
「言わなくても分かってるわよ」
茶釜さんのスライム体が、決意を固めるようにきゅっと形を引き締めた。
「あの子たちの創造主は、もうこの世界にはいないかもしれない。だったら、残されたわたしたちが面倒を見るのが筋でしょ」
その言葉に、アルベドがわずかに目を細めた。
至高の御方々が、他の至高の御方が創りし存在をも慈しもうとしている。
その姿が守護者にとってどう映ったのかは、彼女の表情からは読み取れなかった。
ただ、深く一礼した所作だけが、何かしらの感銘を受けたことを示していた。
「さて」
わたしはテーブルの上に手を広げ、息を整えた。
まだ話すことは山ほどある。
けれど、一番重要なことは伝えられた。
「世界の話はひとまずここまで。ここから先は、わたしのこと……この世界に来てからのことを話すわ。でも……」
窓の外を見る。
ログハウスの小窓から差し込む光は、ナザリック内部の人工照明だが、時間の感覚がある程度再現されているらしく、温かみのある色に変わりつつあった。
「その前に、ひとつ聞いてもいい?」
わたしは兄さんの顔を真っ直ぐ見た。
「兄さんたちは、この世界でどうするつもり?」
その問いに、兄さんは答えなかった。
眼窩の光が揺れ、テーブルの上の自分の骨の手を見下ろしている。
暖炉の薪がまた一つ爆ぜた。
ペロロンチーノさんも、茶釜さんも黙っている。
アルベドとデミウルゴスが息を詰めるように主を見つめている。
兄さんが顔を上げた。
「……正直に言う。まだ、決めていない」
その声には、虚勢も計算もなかった。
ただ、正直な人間の――いや、元人間の骸骨の、率直な告白。
「この身体になって、まだ数日も経っていない。NPCたちが意志を持って動いていること、この世界が現実であること、全部がまだ頭の中で整理しきれていない」
骨の指がテーブルを叩く。
こつ、こつ、と思考のリズムで。
「ただ一つだけ、確かなことがある」
兄さんがわたしを見た。
その赤い光は、揺らいでいなかった。
「俺は、ナザリックを守る。俺を信じてくれている者たちを、絶対に守る。それだけは決めている」
背後でアルベドが小さく息を呑む気配がした。
デミウルゴスの尻尾が嬉しそうに揺れた。
「……うん。それでいいと思う」
わたしは微笑んだ。
「焦る必要はないよ、兄さん。この世界にはまだ時間がある。ゆっくり考えて」
兄さんが小さく首を振った。
「そこまでゆっくり考える暇は多分ないんだろうな……お前の話を聞いて、それはよく分かった。帝国も法国もいる。この世界は、思ったより物騒だ」
ブレインが小さく笑った。
刀の柄に手を乗せたまま、壁に背を預けている。
「安心しろよ、骨の旦那。物騒なのは、その妹さんのせいでもあるぜ」
「ブレイン!」
わたしが声を上げると、ブレインは肩をすくめて口笛を吹いた。
「事実だろ? 皇帝に惚れられて追い回されてる姫様なんて、そうそういねえぜ」
兄さんの眼窩が再びちかちかと光り始めた。
「その話は後で詳しく聞く。帝国の皇帝のことはまだ終わっていないぞ、亜理紗」
「……はい」
わたしはそっと視線を逸らし、冷めかけた紅茶に口をつけた。
ジルクニフの話題が出るたびに兄さんの殺気が膨らむのは、しばらく続きそうだ。
メイドが新しい茶菓子を運んできた。
小さなクッキーの甘い匂いが、張り詰めた空気をほんの少しだけ和らげてくれる。
ペロロンチーノさんがクッキーを一枚つまみ、嘴でかじった。
「……うん、うまい。って、俺このアバターで食えるのか? 味わかるのか?」
「食べられてるじゃない、それ」
「マジだ。すげえな、世界」
ペロロンチーノさんの間の抜けた声に、場の緊張がふっと緩んだ。
兄さんの殺気もほんの少しだけ和らぐ。
わたしは膝の上で拳を握り、次に話すべきことを胸の内で整理した。
この世界でのわたしの歩み。
王女としての日々。
ブリーシンガメンの降臨。
欠片の回収の旅。
まだまだ話すことは尽きない。
でも今は、この穏やかな間が心地いい。
暖炉の火が揺れ、木の壁に温かな影を落とす。
兄さんが隣にいて、龍也と茶奈さんがいて、ナザリックの守護者たちが控えている。
わたしはクッキーに手を伸ばした。
バターの香りが鼻をくすぐる。
一口かじると、甘さの中にほんのりと塩気があって、現実世界で食べた代用クッキーとは雲泥の差だ。
「これ、誰が焼いたの? すごく美味しい」
「第九階層のメイドたちが調理を担当しております」
セバスが静かに答えた。
「至高の御方々の妹君にお出しするものですから、通常以上に腕を振るったかと」
「妹君って……わたし、まだ正式にそう認められてないんじゃ」
「モモンガ様が妹と仰るのであれば、それは我々にとって真実でございます」
セバスの声に迷いはなかった。
その断言に、わたしは返す言葉を失った。
兄さんがこちらを見て、少しだけ——本当に少しだけ、骸骨の口元が笑ったように見えた。
「食べ終わったら、続きを聞かせてくれ。王女としてのお前の話を」
「うん。覚悟しててね、長いから」
わたしはもう一枚クッキーを取り、ブレインにも一枚投げた。
彼は器用に片手で受け取り、無造作に口に放り込んだ。
ながーい(^^;
読者皆様のアリサの相手候補の意向確認
-
モモンガ
-
ペロロンチーノ
-
ジルクニフ
-
ガゼフ
-
ラナー
-
クレマンティーヌ
-
イビルアイ
-
ラキュース