ある男は旅をしている。

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六畳一間の屋根の下

 轟々と降りしきる雨は、段々と僕の体を濡らしてきていた。

 

 屋根があるから多少はましではないかと逃げ込んだゴミ捨て場だったが、こうも風が強くては意味がない。

 顔に付着していく雨粒は、その冷たさと共に僕を寂しさの中へと埋めていく。

 

 最初は固くて嫌だったゴミ袋の山も、柔らかいものを見つけると煎餅布団ほどには楽になる。

 こうして過ごしてもう三十分にはなるのに、雨は止むどころかいよいよ嵐へとなってくる。

 

 どこか逃げ込める先があればよかったけれど、そんな店は近くにはない。

 ここはアパートや一軒家ばかりで、こうして寒さを堪えながら寝転がるしか僕にできることはなかった。

 

「……ねぇ、大丈夫?」

 

 傘を差して歩いてきた彼女は、黒髪の少し強気な容貌をした人だった。

 手には買い物袋を持っていて、この雨の中歩いてどこぞまで行ったはいいけれど、帰りに思ったより雨が強くなってきたのだろう。

 スカートの下に覗く足はびしょ濡れで、冷たそうだった。

 

「こんなところで行き倒れてるなんて、女にでも捨てられた? 可哀想、野良犬みたいな目をしてる」

 

 僕はそんな理由でここにいるのではなかったけれど、野良犬のような目というところには少し感じるものはあった。

 僕は誰かを求めて彷徨いている。

 

 それは特定の誰かでもなく、この目の前にいる彼女でもない。

 概念だ。

 

 決して得られることのないものを、僕は探し求めて、そしてここで倒れている。

 

 僕は彼女に目を向け、寝転がったまま少し頭を起こした。

 手を広げて、その瞳を向けて彼女に懇願する。

 

「お願い。どうか、僕に抱きしめさせて。それ以外何もしないから。体温が欲しいんです。温かい、君の肌に触れさせて」

 

「……馬鹿な男。そうやって、寂し気で、拾ってほしそうな目をするのね。どこか切ない目で、私を見てくるのね」

 

 彼女はそう言うと、僕の手をつかんで引っ張り上げた。

 

「傘には入れないわよ。ここから数分だから、歩いてついてきなさい」

 

 僕は彼女に腕を引かれて、ひどい猫背で歩いて行った。

 本当に彼女は僕を傘に入れてくれることはなくて、ただ繋いだ手の、その触れ合った肌だけがぬめりとした感覚を伝えてきた。

 

 降りしきる雨は、僕の全身を濡らしていた。

 伸びた髪の先から雫が落ちて、また水たまりを揺らしている。

 

 僕は彼女の部屋にいて、髪をドライヤーで乾かしていた。

 

 彼女が服を貸してくれて、シャツとズボンを着ることが出来た。

 僕が瘦せている体格だったのも幸いして、服には問題がなかったけれど、パンツだけはどうしようもなかったので一緒にドライヤーで乾かした。

 

 なんとも言えない惨めな気持ちになるけれど、仕方ない。

 

 僕はベッドに腰かけて彼女にもたれかかる。

 

 僅かな香水の匂いがして、この人はこんな香りを纏いたい人なんだと思う。

 ムスクの匂いと、微かに残るローズの芳香。

 

 愛に飢えている人なんだ。

 

 そっと彼女は僕に腕を添えてきた。

 僕は右手を彼女に絡ませる。

 

 体勢を変えて、僕は彼女をベッドに押し倒す。

 

 右手は首の後ろに回して、左手を腰に沿わせる。

 そのまま深く抱きしめる。

 顔を彼女の首に当てて、体温を感じる。

 

 深く感じたい。

 

 彼女が自然と衣服をはだけさせ、脱ぎ捨てても。

 僕は彼女を一層抱きしめるばかりで、その求めに答えてあげることはできない。

 

 鼻筋を鎖骨に当てると、その固さが僕に彼女の実在を伝えてくる。

 ただ僕はひたすら彼女の全てを感じるだけだ。

 

 手を握る。

 強く握り返される。

 

 キスをする。

 舌を絡めて、彼女の胸が僕にふくよかな感触を与えてくるのをただ享受する。

 

「も、っう、良い、よ! 来て……も!」

 

 彼女の声が耳に届いているような気もする。

 届いていないような気もする。

 

 どこかそれが凄く遠い世界のように感じられて、それでも彼女の身体が今ここにあることを確かめたくて、僕はただ深く抱きしめていたい。

 

 生命の実存を僕は体温を通して感じる。

 彼女のその温度が、僕に彼女が生きていることをどうしようもなく理解させる。

 生命はここにあるのだと。

 

 溶け合うように、すべてが無くなってしまうように。

 

 僕は彼女を抱きしめ続け、そして意識を失っていった。

 

 

 

「にしても、律儀というんだかなんて言うんだか」

 

 彼女のボヤきと共に、顔に冷たい感覚が走る。

 それが冷えた缶ジュースだと理解するまでにそう時間は要らなかった。

 

「すいません。抱き締めるだけって言ったのに、キスしてしまって」

 

 ぼんやりとした意識の中で、謝罪をする。

 最初に言っていたのに、つい我を失ってしまった。

 

「いいよ、そんなの。結局手は出さなかったしね」

 

 ゆっくりと身体を起こす。

 ベッドに腰かけて、渡されたジュースを飲む。

 

「それで、なんであんなところに居たの? 君」

 

「いえ、大した理由では……ないんです。ただ、ぼんやりと歩いていて、気づけば、あそこに」

 

 嘘くさ〜! と軽く笑いながら彼女は自分のジュースを飲み干した。

 

 僕もジュースを飲んで、少しの寂しさを覚える。

 

 僕は、これまでも、これからも。

 どこにも居場所はないし、行くところもない。

 

 仕事はなければ、なにかやるべきこともない。

 

 そんな根無し草なのだ。

 

「これからどうするの? ずっとは無理だけど、少しでいいなら置いてあげよっか」

 

 彼女がそんなことを言ってくる。

 嬉しい申し出だけど、僕は断らないといけない。

 

 僕には居つくところがあってはいけない。

 

「大丈夫です。ありがとうございます」

 

 そう断って、少し湿っぽい元の服に着替える。

 カーテンがかかった窓から差し込む光は真っ白で、外は快晴みたいだ。

 

 まだびしょ濡れの靴を履いて、僕は外に出る。

 水たまりに太陽が反射して、眩しかった。

 

 ぐちゃぐちゃと音を立てて歩き出す。

 どこか遠くへ行こう。

 

 僕はきっと死ぬまでこうするのだろう。


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