美しきアーベントロートを、君と。 作:ハネスキー
───少し、昔話をしましょうか。
あの人との初めての出会いは、何でもない日々の延長線の……その中でのことでした。
あれはたしか──桜の花が散り始めた月の終わり頃。
──
──
街角に展示されていた、数年後に着るであろう初等部の制服をまじまじと眺めて胸を躍らせていた、幼いわたしの手を引いて、お母様が "顔合わせ" と称して連れて行った場所。
大きな大きなお屋敷の奥。そこに設けられた大書館。
お互いの家の次期当主を会わせ、面識を作っておく。そんな将来のための "顔合わせ" 。
それが、わたしたちの初めての出会い。
「──初めまして。お話は伺っております。
「……桐藤、ナギサです」
それは少しでもその分野に伝手や繋がりがあれば、必ず一度は耳にするであろう苗字。
高品質な医療器具用品の生産・販売を生業とする業界において、不動のトップシェアを誇る "セイント・アンド・メディカル" 社。
その創立を行った三つの中心家門の一つ。
………その時は、少し怖かったのを覚えています。
いえ、聞いた苗字の背景に驚いたのではありません。
その時のあなたが見せた笑顔、安定して落ち着いた話し方と常に変わらない一定の声量。
それらがお母様や他の大人の方が、お仕事の話をしている時にするモノと全く同じで、あの時のわたしは怖くなってしまったのです。
だから初めは少しだけ……ほんの少しですが、漠然とした苦手意識を抱いてしまっていました。
「ああ…………やはり。
態々ここまで、ご足労いただき感謝します」
短い挨拶のあと、あなたは少しだけ目を細めて、じっとわたしを見つめた後にニコリと笑って握手の手を差し伸べて。
わたしたちはここで、初めて手を繋ぎましたね。
あなたの手の大きさ、伝わってくるひんやりとした体温。背中の黒い大きな翼。真っ直ぐこちらを見据える瞳。
ずっと。ずっと。覚えています。
心休まらぬトリニティでの生活の中で、いつも思い返していましたから。
忘れるはずがありません。
当時から、あなたはとても博識で。
本を閉じて書館から一歩出れば、まるで熟達し見識ある教授のようにあらゆる答えを話してくれました。
動物。植物。芸術。建築。政治。そして様々な聞いたことの無い童話や物語。
果てはキヴォトスの歴史から、見たこともないその外の世界について。
初めに抱いていた恐怖心など遠く忘れて、心を踊らせながら話に聞き入っていたのを覚えています。
その中であなたは "
帰り際に、その手作りの絵本を手渡されて。
久々に増えた同年代の友人と、向けられた善意に心が温かくなったんです。
ふふっ。
ですがこうして昔を思い返してみれば、この時からあなたは貴方のままでしたね。
慈悲を以て善き隣人を助け、争い事が起これば中立を保ってそれを鎮める。
とても思慮深く勤勉であり、信心に溢れながら柔軟で優しい。
機知に富み、礼節を弁え、道徳的で秩序を重んじる。
そして何より、己の欲を律し、人として善良である。
"
それを守り続けるのは本当に、美しく難しい在り方です。
そこからは、色々なことがありましたね。
ある日急に訪ねてきたかと思えば、一緒に居たミカさん諸共に私を抱えて街を抜け出し郊外で突発ピクニックを開催したり。
不良生徒のボスが持っていると言われていた"
ミレニアムの最新全自動調理器と料理対決をすると言い出したり。
そうして繰り返し幾度も壁を乗り越えて。
──ナギサ、私は──
ようやく。あなたは敬語を外して名前で呼んでくれるようになりました。
その時のミカさんのぽかんとした顔、見ていましたか?
何度言っても頑なに敬語を外してくれなかったあなたが、遂に敬語を外して呼んだのですから。
柄にもなく飛び上がって喜んだ、私の大切な温かい記憶の一つです。
本当に────私達は
だから。だからわたしは──────
──
──
「────ん、ぅ………………………ぁ…」
「──おはよう。ナギサ。
たっぷり三時間……君はよく寝ていたよ」
───彼の声が聞こえる。
ずっと聞いていたい優しい声。心に染み込んでくる暖かい声。
寝惚け眼も直らぬままに、声に導かれて瞼を開ければ、歪んだままの視界に天井の照明がじりじりと飛び込んで刺してくる。
その眩しさに思わず目を細めれば、数瞬置いて眩光が収まった。
彼の大きな翼が、横になった私の上を覆っていた。
「すまない……照明を強くしたのを忘れていたんだ」
「いえ、大丈夫です。エル…わたしは───」
「私がソファに寝かせて20秒。
連日の無茶が故か、驚く程にぐっすりだったよ」
ソファから起き上がった私を一瞥し、ばさり。と翼を伸ばして彼は言った。
「……それでも、あの派閥は引き込みました。
それに明日は、現ペトロ派の方にも予定が───」
「これではそのうち、身体を壊すよ」
「…………わかっています」
……自身の限界は、私が一番知っている。
この生活はそう長く保たないだろう。
桐藤という家の立場上、こういった事柄には慣れているが、限度はある。
このままでは遠からず、限界を迎えて倒れることになる。
それでも止まれない。派閥の違うミカさんやセイアさん。彼に任せることはできない。
今を削り取ってでも、動かなければ。
久々の睡眠のお陰で少し薄くなった隈と、相変わらず血色の悪い肌を簡単な化粧で隠して、彼に向き直る。
彼はミカさんと同じくパテル分派で、所属派閥こそ違うものの、こうして激しさを増した権力闘争の波に揉まれる私を案じて、わざわざこの
彼はいつもの様に分厚い医学専門書を手にして、一枚一枚少しずつ読み進めている。
彼が羽織っているケープコートも相まって、その姿は聖書を読む敬虔な神父にも、手帳を覗く高名な探偵のようにも見える。
聞いた話では、その生まれと治療技術の高さに目を付けた高等部の救護騎士団から、既に勧誘を受けたとか。
…………善良な彼には、私達のような権力闘争の世界ではなく、彼の両親のような医術の道の方が相応しいのかもしれない。
「ミカだって常々言っていただろう。
一人で全て抱え込むのは、昔から君の悪癖だ……私にも話せないのかい?」
「……当然です。いくら貴方でも、易々と関わらせる訳にはいきません。
疑っている訳ではないのです。しかし、こういった情報は徹底したリスク管理が必要ですから」
「そうだね。それは正しい判断だ。
なら─────私が
「───────。 今、なんと?」
さらりと爆弾発言が飛び出した。
思考が固まる───彼は今、何と言った。
「派閥の先輩方や後輩達には助けられたけれど。
それよりも、私は君の方が大切だからね。
色々と言われるのは………頑張ってなんとかするさ」
ぱたり。
彼は読んでいた本を閉じ、向かいのソファに座る私を見つめる。
……トリニティには数多くの派閥が存在している。
中でも「パテル」「フィリウス」「サンクトゥス」の三大派閥は時に対立し、時に手を取り合い、持ちつ持たれつの関係性を維持している。
そんな中で、いきなり他派閥への鞍替えが起こればどうなるか。
第一、派閥の変更などそうそう起こるものではない。
何か解決不能な問題がある人物や、致命的な害となる要素の排斥といった例外的なものにしか普段は用いられない。
しかも彼の家系は大手セイント社の中枢。政治的価値は非常に大きい。
そんな有力家系を、パテルが何もなしに手放すはずがない。
──十中八九、彼は相応の何かを要求されるだろう。
「そんな簡単なことではないのですよ!
貴方は本当にそれを分かって…………いる、のでしょうけれども…」
口をついて出た言葉は、尻すぼみに消えていく。
そうだ。こんな当然のこと、聡い彼が理解していない筈がない。その上で、力になりたいと。彼はそう言っている。
強く止めたい気持ちと、嬉しい様な温かい様な……そんな気持ちが互いに混ざり、私の思考の邪魔をする。
「実を言うとね、前から少し考えていたんだ。
君はこうしないと、誰かに頼りはしないだろうから」
彼は、そういう人だ。
隣人の誰かが感じている苦しみを背負わずにはいられない、そんな善性のひと。
不意に脳裏へ思い返されるのは彼との出会いの日。
あの日だって、帰宅時間が来て彼の話を最後まで聞けずいじけてしまった私に、一つしかない本を躊躇わずに渡してくれた。
他にも、初等部の秋。
路地裏で沢山の不良生徒に追われた時は、ミカさんが聞いて駆け付けるまで傷だらけになりながらわたしを庇ってくれた。
次は、次は。次は──────
記憶に潜ればキリがない。
今日も、昨日も。一昨日も。
そんな、皆に優しい人なのだ。
わたしだけじゃない。平等に優しい人だから。
ああ。でも私は、そんな彼が────
「───派閥のこと、話をつけてくる。
こればかりは早い方が良いからね。また寮で会おう」
「………エル、───────」
言いかけて……カタン、と扉が閉まる音が鳴る。
私の心を掻き回すだけ掻き回して、彼はそそくさと出かけていった。
残されたのは、ここに置いて行かれたわたしと、人一人分の体温を喪失した二人用の
例えようのない感覚が、わたしに穴を空けていく。
──
──
「───酷い男だな、私は」
夕日の差し込む廊下に響いた開閉音へ、この声を隠すように。私はぼそりと呟いた。
寄り添い、期待させるような言葉を投げておいて、肝心な距離には踏み込まない。
極めて卑怯で悪辣な、心を利用する大人らしい会話。
重ねた自分の無責任さに反吐が出る。
ここに告白すれば、私はかつて『
元いた場所から、この
何の因果か、私の魂は同じ
それゆえ、元来存在しない来訪者たる私は、弁える所は弁えねばならない。
そんな無理やりな理屈で自分を納得させて、日々を受け流してきた。
無論人として、ある程度の好感は持たれるよう努めるべきだが……彼女との距離感をどうするべきか、未だ結論は出せないまま。
──14年。長いようで短い、瞬きの間の光。
私がこちら側にやって来てから経過した年数そのものであるそれは、未だ瞼の裏に焼き付いて離れない。
当然初めは驚愕し、同時に歓喜もした。
少々長くともふわりとした黒色の髪と、側頭から耳下まで伸びる頭翼。
灰の瞳に
どれも前の私とは似つかない。
常にずっしりと背に伸し掛る重さと、その元凶たる子供の背丈には不似合いな黒く大きな翼。
そして頭上。そこに輝く
濃紺色の光の輪が、嫌になるほど存在を主張する。
今やもう、これらの何もかもに混乱していた最初の日々すらも懐かしい追憶の一つとなり、この環境に適応した新しい私が形作られた。
自由に動かせながらも多少勝手の違う手足。
初めは違和感だらけで、就寝時にはアイマスクが手放せなかった頭上の輝きと、男女の性別差故か同年代どころか仕事で関わっている高等部の先輩方と比較しても明らかに太く大きく、飛行にも耐え得る強靭な翼。
それらにもすっかり慣れ、今やこの翼の重さに振り回されることも少なくなった。
習慣が変わり。身体構造が変わり。常識も変わり。
全てが変わったあの日から、楽しかった日々まで。
この脳裏に刻まれた思い出は、そのどれもが初めて飲んだ炭酸水が如く刺激的で、その衝撃に脳を揺さぶられる毎日であった。
家柄相応に抑圧されたモノでもあったが、結果的に得難い友人もできて、これはこれで満足だ。
そして来月。
私達は中等部を卒業し、色々な意味で馴染みある、見慣れた高等部校舎へと移ることとなる。
この十数年で───いや、それ以前から。私はよく知っている。
彼女は、桐藤ナギサは善人だ。
あの小さな背に余る程の大きな責務を抱えていながらも、その中で決して善性を失わず、己が親友を助け、時に非情な決断を迫られても逃げず。
こんな歳不相応に捻くれた、私という友人にも長年善意を持って接してくれている。
だからこそ、その道行きが茨道の悲劇であって欲しくはない。
きっと彼女は一人で道を切り拓き、茨の棘に肌を裂かれながらも自分を御して進んで行くだろう。
道を歩き切り、最後に振り返った時には "大変だったけれど報われた" と思えるのかもしれない。
友人達の為の必要な苦難であったと納得するのだろう。
それだけの善性と受け入れる器量を、既に彼女は備えている。
だが。その道すがらに彼女が拾える休息と青春は、彼女自身が対価として差し出す
側から観ていた私は、
キヴォトスでも有数の巨大校の頂点に立って秩序を維持し、後にエデン条約を進め、その果てに自分を切り崩しながら内政を行うのだ。
得られる
私は別に、この後の物語を大きく変えようなんて思っている訳ではないし、できるとも思っていない。
結局私は平均的な力しか持たず、ただ周りと性別が違うだけの半端な一生徒だ。
この有り余った時間を喰らって無駄に育った雑知識の山や本業たる医療畑ならば一線に立てるだろうが、それでは決して大筋は変わらない。
詰まるところ、何かを変えるのは結局力だ。始まりの願いがどうであれ、人は必ず "それ" に行き着き、それ相応の痛みと傷を伴う。
その覚悟の無い私が大局を動かすことなど、夢のまた夢だろう。
いつの時代も、人は身の丈に合った生き方をせねば痛い目を見る。
かつて今際を越えて死へ飛び落ちた私は、遠い日に見ていた彼女達と同じ "生徒" になった。
この再びの命。
これがそのまま、人を一から学び直せという主からの最後の慈悲──贖罪の巡礼なのか。
はたまた、ただ偶然が重なった奇跡の産物か。
それが何を意味するにしろ、キヴォトスにはいずれ "先生" が来るだろう。
数刻程しか "大人" で居られなかった私とは比べるまでもない、完成された導き手としての大人。
本来ならば、そこからが物語の始まりなのだ。
彼か彼女かはわからないが、その時が来てしまえば後は楽になる。
そのうちに、生産工場のコンベアに流される商品のように、丁寧に梱包された
だから、やるべき事は変わらず一つ。
今までやってきた様に、善き友人達の先行きが少しでも明るくなるように支えること。
美味しいご飯の提供と
高等部への進学から先生がやって来る3年の春まで影で支え、最後に『楽しかった』と言って貰えれば、それで満足なのだから。
その第一歩としてまずは彼女の……ナギサの仕事量を減らす。
心底優秀で責任感も強いのだが、どうしても抱え込み癖で悪い方向へ向かう。今回のように、多少強引にでも覚悟を見せねば取り付く隙すら作れない。
一つの教えに、生涯身を浸した者として。
こうして苦しむ隣人を捨て置く訳にはいかない。
長く受けた教えの通りに、善意を以て事を成し、親愛を以て隣人を包むのが愛ならば、私もその通りに在らねばならないのだから。
そう思考するうちに、廊下を抜け扉を開けて、落ちていく夕日と冬空の下へ歩み出る。
未だ雪こそ無いものの、もうとっくに季節は冬。
秋風よりも冷たさを増した冬の尖った風が、皮膚をちくちくと刺しては抜けてゆく。
吹き抜け風の多いトリニティでは、中々に過ごし辛い季節だ。
片手でスマホを操作して少し待てば、聞き慣れたコール音が鳴り始め──数拍のうちに声が来る。
「────お久しぶりです、先輩。一つお願いがありまして」
冷風吹き荒ぶ12月。
中等部最後の冬は、かくして風と過ぎてゆく
私思うのですが、もし男性版の羽付き生徒が居たらその子はもれなくデカ羽になると思うのですよ。
我々にも男女間の骨格の差や筋肉配列の差は存在していますから、それを元にブルアカくんはもっと飛行描写を入れても良いと思います。
現状ですとヒナしか飛んでいませんからね。
筋力と羽の大きさ、神秘のモノによっては飛べそうではありますが果たして。
ゲマトリアくん、出番ですよ。
それと、コハルタイプの頭羽はとても良い。今回も採用しています。
積み重ねられた癖というものですね、ええ。今後の健康的な生活の一助となりそうです。
──改めまして。
このインスピレーションの赴くままに筆を走らせた本作にごさいますが、様々独自補完の部分も含めて仕上げていければなと思います。
お目汚し、失礼致しました。