* * *
(……。)
俺は何処とも知れぬ水底。タールのような汚泥へ全身を浸しーーただただ、横たわっていた。
きっとこの泥は。ここまで蓄積してきた俺の疲れであり……そして業なのだろう。
ようやく追いつかれる刻が来た。背負い続けた両肩からは宿痾のごとき痛みが消えてゆく。
俺はもう、何もしなくてもよいのだ。
ファントムに居た頃も。抜けた後も。いつもーー心の何処かで、待ち望んできた瞬間ではあった。
もはや遠ざかり、記憶の何処で聴いたかも思い出せぬ母子の笑い声が。耳の奥へ谺する。
血塗られた我が家でーー俺の心もあのとき、死んだのだ。
それでもこの出来の悪い悪夢の中を歩き続けてきたのは……ただの亡霊の残響に過ぎない。
復讐を果たした機械は、役目を終え鉄屑へと変わる。
(……俺も、……。)
妻と同じところへは行けないな。俺は笑った。
見上げる水面は重油の膜のようなものに覆われ、かつて見慣れた日常風景はもう二度と視界に入ることはない。
人に作られてしまった造魔の目に映るのも、きっとこんな世界なのだろう。
死んだ魂は偽りの肉体を与えられてしまい、正しき行き先を失ったまま、肉の牢獄へ閉じ込められたままだ。
世に煉獄というものが在るならば。これがきっとそうなのだろう。
自身さえ閉じ込める牢を作り上げたのは他でもない。遺された者の執着だ。
出口のない迷宮からは誰も出られない。ひとり去った母も、それを惜しむ父と子も。
だがもう関係ない。
悔恨も怒りも、復讐の炎に燃え尽きた。
俺が全てを委ねようとした時ーーその大声が響く。
「……!……ラベ! ウラベ! ねえちょっと、起きて!」
泥のような眠りから強引に引き上げられる。
どうにかこじ開けた瞼の先にはーー
もはや見慣れた、麻薬王めいた壮年男性の困り顔があった。
「……。勘弁してくれよ……」
「ちょっと!? 目覚めて人の顔を見るなり開口一番ソレ!? あまりにも失礼すぎない!?」
「あのなネミッサ。今。俺は。
悲願だった復讐をようやく果たし。そして安らかに眠るーーどう見ても、そういう流れだったろうが……」
空気読めや、と女言葉の壮年男性(雰囲気ぶち壊し)を叱ると、麻薬王は憤然と反論してきた。
「何よひとりだけシメに入っちゃって! 人生終了ってわけ!?
だいたいアンタ、そんな悟ったこと言い出すようなタマじゃないでしょう!」
ネミッサの指摘にげんなりする。言われてみれば確かに俺は、これまで生き汚いところしか見せていなかった気もする。いや、死闘を潜り抜けてきただけだろうが……!
とは言え。ネミッサの抗議ももっともだ。
確かに仕事はまだ残っている。
俺がレッドマンから依頼されたのはーー
「そもそも! アタシをマニトゥの耳元へ届ける仕事が残ってるでしょうが!」
いや、耳元て。
アーアーキコエナーイって耳を塞いでるマニトゥの手をこじ開け、すぐ耳元で死の歌を絶唱するつもりなのかこいつは。
パワータイプの歌姫だな……。
ネミッサは俺のGUMPを指さす。
「それに……、奥さんはまだそこに居るじゃない!?
一体どうするつもりよ!?
だいたい、あの可愛い坊やもどうするつもりなのよ!?」
何にも知らないネミッサは、正しいことしか言わない。
指摘された通り。妻の魂は未だ、GUMPに収納された造魔の肉体へと眠っている。生と死のはざまに縫い止められた標本が、生を偽装し死を否定するための執着の果実であってはならない。
息子は父たる俺を否定しクズノハへと預けられたままだ。もちろんこのまま放っておいていいはずがないし、それに息子が俺の判断を拒絶したのはーーそもそも、親である俺の教育が足りていなかったからだ。甘ちゃん坊やで居られる季節はとうに過ぎ去ったというのに、現実から隔絶され温室で育った息子は決してそれを認めない。
ふと、俺は結婚式場の赤絨毯を思い出す。
司祭に言われるまま繰り返した、誓いの言葉を思い出す。
“死が二人を分かつまで“。
相手の生と死に責任を持つ者をこそーー家族と呼ぶ。
「やれやれ……」
失い、傷つけられた家族を、それでも俺が大事に思いたいのであれば。
どうやらーーまだ楽にさせてはもらえないらしい。
身体中に残る力を総動員し、俺は再び起き上がった。
壁に寄りかかって立ち上がりつつ、床に転がる葉巻を見下ろす。それを吸っていたはずの肉体を見上げる。
「……。ところで、フィネガンはどうしたんだ?
お前を造魔の制御に移した後、俺は意識を失ったからーーやつは身体の自由を取り戻していたはずだよな?」
それがどうしてまたネミッサに身体を奪われている?と訊ねると、肉体の簒奪者はあっさりと首を振った。
「さあ、わかんないわ。
造魔が召喚解除されてGUMPに戻ったところまでは覚えているけどーー
アタシも気がついたら、ここに突っ立っていたのよね」
……?
まあ、どんな事情かはわからないがもうどうでもいい。
依頼達成に支障がなければそれでいい。
急に背を向け、なにやら書棚の中程に置かれたモニタをいじり始めたネミッサへと訊ねる。
「……で? 俺を叩き起こした理由は何だったんだ?」
「いや別に理由無くても起こすでしょ……。敵の本拠地でいきなり意識失ったんだから……」
ぶつぶつ言うネミッサには本当にわからないのだろう。
これはアレだ、鬱の人にがんばれがんばれって解像度の低い励まし方をして自殺へ追い込むタイプだな。こういうのも悪魔の所業って言うんだろうか。とはいえ肉体が健康そのものなのに精神が具合悪いんですー、とか理解を深めさせようとしてくる上に詐病かどうかすら傍目には見分けつかん症状を理由に社務を公然と休む人間は社頭にも社家にも不要だわ(以下略)
立てる足がある内は自力で立たねばならない。それが成人としての最低限だ。
俺が仮に「もう立てない」と実感したとしても、周りはそうは思わないし、そもそも背に負う荷の量は変わらないのだ。
ネミッサは壁際でふらつく俺に、操作していたモニタの画面を指し示した。どこかの監視カメラの映像のようだ。
部屋の時計を見る限り、どうやらこれは録画再生のようで、画面下には十分くらい前の時刻表示が動き続けている。
映像の中央には、屋上のような場所を背景に、巨大な鉄塔が映し出されている。もともとはこの鉄塔をモニタリングするためのカメラのようだ。
で、なにやら。無惨にひしゃげ、根元から爆炎を吹き上げる鉄塔の前でーーいやここで何があったんだよーーとても見覚えのあるベージュのコートの人物が両手を広げ、天を仰いで哄笑している。
「ははははは! これは凄い! あの電霊たちさえ、遥かに超越する力だ! 」
桜井を中心に暴力が吹き荒れたのか、傷跡の刻まれた床面から距離を取るように。半円包囲する、クズノハの二人とナオミの後ろ姿が見える。
「この土壇場で新たな悪魔と巡り合うとはね……!
君の名は……サタナエル、というのかい?」
桜井が被っているヘッドマウントディスプレイの直上には、なんか黒い悪魔が横ざまにしがみついている。
悪魔が愉快げに口元を歪めた。
「我が名を呼んだなーーここに契約は成った。
サクライマサヒロ。お前に新たな力を授けよう。
さあ!我が力、招来せよ!
……『ペルソナ』のコールと共に!」
うん? ペルソナ……?
どこからか風が吹き荒れ、桜井の足元の床に魔法陣が光り出す。
謎めいた陣に照らし上げられ。頭は天を仰ぎ。だらんと垂らした両腕の手のひらは虚空を掴むよう上を向き。コートをはためかせつつーー(ポーズは完璧だ)ーー桜井は叫ぶ。
「ーーペルソナあああぁぁぁッ!!」
神話覚醒。
まあ、桜井のやつも男子だったという事か。
案外にノリの良い桜井が、その要求された謎コールを叫ぶとーー頭上の悪魔が片手を差し上げると共に上空から稲光が走り、どがんと目の前の床面を打ち砕いた。
落雷はタイルの破片を飛散させ、包囲者(懲罰者)三人は素早く飛び退く。
閃光にブラックアウトした画面が元に戻ると、桜井の足はすう……と宙に浮く。
くわえていた細煙草がぽとりと落ちる。
そのまま、虚ろな表情で浮遊する桜井の頭上でーー体に取り憑いたサタナエルが嗤う。
「ハハハハハッ! バカなやつめ!
こんな子供騙しに引っかかって、肉体を捧げやがった!」
うーん……。
戦いでピンチに陥った時に、味方ヅラして助けに来られたらなあ……。普通、新たな力が覚醒したとか思うだろ……。
うーん。悪質な詐欺。男子全員ひっかかるぞこれ。
手に入れたカモを宙に持ち上げるまま、サタナエルはクズノハ達に語りかける。
「さて……。こいつは、お前らの協力者だったんだろぉ?
攻撃して傷つけていいのかぁ? んん?」
うん、まあ。
俺が叩き起こされた理由はだいたいわかった。
* * *
俺が屋上へ辿り着くまでの間に、サタナエルはすでにボコボコにされていた。
「……なっ……!? お前たち……!? このサクライってやつは、味方じゃないのかぁ……!?」
「いいやーー俺はこいつを半殺しにする為に来ただけだ」
「ちょっと。四分の一殺しでしょ?キョウジ」
まあ葛葉にレイにナオミと、強者が揃い踏みだからな。
ちなみにこいつら全員、ファントムの内部資料では「会敵したらスタングレネードの使用を推奨する」などとまるでネームドモンスターのような扱いをされている。逃げ一択だ。
「……半殺しでも四分の一殺しでも。
どちらにしても、もうとっくに超えてそうだが」
俺の指摘に、屋上にいた全員が振り向いた。
ナオミが片眉を持ち上げる。ちょっと怒ってるな。
「……あら。もう会えないかと思っていたわ」
「生憎となーー俺は別に、相討ちでも良かったんだが。
お前との地獄行で、随分と鍛えられたおかげでな。
……こうして生き残っちまった」
嘆息めいた返答を聞き、ナオミは満足げに瞳を閉じる。
一方、後方からはネミッサが怒気を寄せてくる。なんだよ。
ああ。相討ちでも良かったのに、とか言ったからか。
「……ところでーー。
ここには悪魔祓いの専門家が三人も居るわけだが。
どうして桜井の悪魔祓いをしないんだ?」
俺が問うと、三人は顔を見合わせた。
葛葉が代表して答える。
「まあ、悪魔祓い(物理)ならば。簡単にできるが……」
それなら俺にだって簡単にできるわ。
悪魔が取り憑いた相手を殺せば悪魔祓いにはなる。
葛葉の後方で、レイは壊れた鉄塔から目を離し、何やら俺のいる方の足元あたりを見ている。なんだ。
葛葉はちょっとわざとらしく、困ったような顔をした。
「きちんと悪魔祓いーー悪魔還しをするのなら、少々時間がかかるな。
誰か、時間を稼いでくれる奴がいればいいんだが……?」
「あーわかったわかった俺がやるよ!」
わめく俺は黒帽子を直しつつ三人の前に出た。
寝起きで連戦である。どうやらこの世界は俺に楽をさせる気がまったくない。
神はいないのか、と天を仰ぎつつGUMPを握り、神族を召喚する。
この世に神も仏もないのなら。自分で召喚すればよい。
「ーーキイイイイイイイ!」
両手で頭を抱え、髪を振り乱し、召喚光を切り裂く金切り声で天へと吠え猛る女は、狂神アラミサキである。やはりこの世に神はいなかった。
召喚するやいなや、狂神はさっそく突っ込んでいってサタナエルの胸倉を掴みヒステリービンタをかましている。
すでにボコボコだったサタナエルの頬がさらに腫れてゆく。
「「「「うわあ……。」」」」
その光景を目にした四人全員ドン引きである。サタナエルへ憐れみの表情すら向けている。この狂女を召喚した俺にうっすら非難の眼差しを向けてくるやつまでいる。うるさい。いいからお前たちはさっさと悪魔送還の準備に移れ。あとネミッサは遠巻きにしてないでさっさと戦列に加われ。
(正直あそこに混ざりたくないが)俺も突撃し、大般若長光を叩きつける。
「ちょっ!? サクライを殴れよ!? 俺の方狙ってくるなよ!?
「悪魔の本体が露出してんだからそこ狙うに決まってんだろうが!」
サタナエルは攻撃部位に文句を言ってくる。そもそも敵に文句をつけるな。敵だぞこっちは。
改めて、喚くサタナエルのステータスを確認するが……
:魔王サタナエル LV70
:HP13557 MP4010
:力15
:知19
:魔27
:耐19
:速15
:運13
: 使用魔法
:アギラオ
:マハジオンガ
:メギドラ
:サンダーボルト
:光る眼
:イビル・トランス
:生体MAG抜き
……ターン頭に魔反鏡使って攻撃手段の大半である魔法攻撃を封殺しながら時間を稼ぎ、あとは石化に気をつけて戦えばいけるなーー、などと考えてる合間にも。
「ーーキエエエエエエエ!」
狂神がサタナエルの背後に回り込んで滅多刺ししてくる。見上げれば屋上に霞むのは新月。スキル「闇討ち」による四回攻撃である。
だからなんでこの狂神、そもそもヤンデレ女みたいなスキルしか持ってないんだ……?
ちなみに闇討ちの攻撃対象だがサタナエルも桜井も関係なく滅多刺しである。いや桜井本体まで攻撃するなよ! 見りゃわかんだろ! あきらかに憑依してる悪魔が頭上にふよふよしてんだからそっちだけ狙えよ! 見境なしかよ!
召喚主として命令を下してみるがアラミサキはGOしか受け付けない。性格愚鈍を通り越してただのバーサーカーかな。
俺は叫んだ。
「おいまだか!? 早くしてくれ! 時間稼ぎも限界だ!
ーーこのままだとサタナエルも桜井も死ぬ!」
「そっちかよ」
敵が先に倒されてしまう事を心配する俺へ、葛葉は呆れた声を放つ。
ともあれーー準備は完了したらしい。印を結ぶ葛葉を中心にして、天と地それぞれへ振鈴や呪具を掲げるレイとナオミ。ギリギリ間に合ったか。
夜空は新月のはずが清冽な月光の帯が降り注ぎ、輝く粒子を散らしながら屋上を覆う。その舞台に、振鈴を手に舞うのはレイである。舞は神への献供、これは降神……神降ろしであろう。対象へ神を降ろして悪魔を押し出そうとするハラか。強引だな。
依代は何使うんだと思ったが、視界の後方、爆煙を吹き上げるゆがんだ鉄塔にキラキラと光の粒子がまとわりついている。この塔を天への道と擬したわけか。召喚路だ。
一方ーー神の歩む梯子から降り注ぐ月光に照らし出され、桜井の足元へみるみる広がりゆく漆黒の影。屋上表面へ生じた不自然なほど巨大な……沼のごとき影の前に印を組むのは、キョウジである。魔力の流れから見るにどうも、やつの使える魔力召喚術サバトーーMPの低いキョウジにとってはあんまり効率がよくないーーを、逆回しにしたような術を唱えているらしい。すなわち召喚ではなく魔界への送還だ。
闇が凝ったような巨大な影がまるで鏡のごとく光ると、屋上に生じた沼はまるで階下へと吸い込まれるようにその体積を減じてゆく。
これまた依代はどうしてるんだと思ったが、沼のごとき影は、俺の足元あたりにあるエレベーターシャフトへと吸い込まれて行っているらしい。エレベーターは屋上から地の底までを繋ぐ竪穴の直通路である。これを地獄への門と見立てたのか。
ギイイイイイイ。
強引な降神と、憑魔の送還。魂に著しく負担のかかる、それらふたつを同時に行われ。桜井の口からは、まるで木綿を裂くようなーーおよそ人ならぬ悲鳴が漏れる。その向こう側で、頭を抱える狂女アラミサキが一緒に咆哮している。いやお前全然関係ないだろ。下がってろ。ああダメだやっぱりGOしか受け付けない。
神と悪魔とをその小さな器へ注ぎ込み、破裂しかける人の子の魂。それを見張り、癒し、退魔の完了まで死なせぬまま保たせるのがーーどうやらナオミの役目らしい。立ったまま痙攣を繰り返す桜井へと幾度もカプセルを解放し、例の反則技ーーソーマ神権現で全快させている。神魔の出入りに傷つき続ける身体と魂とを強制的に癒し続けているようだ。
この三人が揃っての退魔であれば正直もう他にすることがないのだが。一応、俺も印を切って、姿変異の解消術であるメタモディを桜井へ連続詠唱しておく。まあ神や悪魔に乗っ取られて人体の一部が変異してしまうケースってのも珍しくはないからな。ネミッサから聞かされたのだが、あのレッドマンもそうだったらしい。
……やがて。
桜井の足元、黒い沼の如き影が小さくなってゆくと共にーー桜井の口から漏れる機械的な悲鳴もまた小さくなり、完全に消える。
その頭上に取り憑いていたはずのサタナエルの姿は、まるで泥に覆い尽くされるように溶けて消え、最期に悔しげな口元だけが残った。
「く……。
たとえこの俺が消えようとも……ファントムは……」
捨て台詞を残して完全に消滅する寸前。サタナエルは、ネミッサーーあるいはフィネガンの方を見ていたようにも思えた。
俺はネミッサと一度視線を交わし、そしてーー悪魔の傀儡糸より完全に解放される人の子へと目を戻す。
明けかけた空。前方の三人がもう動きを終えているのを見て、ネミッサも連続使用していた回復魔法の緑光を止める。
闇色の消えた清浄な屋上へと倒れ伏す桜井の横顔には……既に邪悪の影はない。退魔は為され、憑魔は桜井から無事離れ、あの大悪魔は魔界へと送り返されたのだろう。
サタナエル討伐ーー悪魔祓い、完了だ。
空に消えゆく明星を見送り、俺はようやく煙草へ火をつけた。
紫煙を大きく吸い込み、緊張していた身体と精神の隅々へ行き渡らせてから吐き出す。戦闘後のこの一服が一番うまい。
大仕事を終えた女たちはそれぞれにリラックスしているようだったが、キョウジも何やらポケットをごそごそやりながら歩み寄ってきたので貰い火させてやる。二人で並んで紫煙を吐き出す。曙光に照らされゆく天海市街を見下ろす。
「! これは……ばかな……!」
そこへ。
困惑と失望の声とともに。屋上へ踏み込んできたのはーー二色染めの頭髪に白スーツの男。あの門倉だった。
階下の会議室で頭を抱えていた、あの時の弱々しさとは別人のようにーー怒気も露わに、屋上の惨状を眺めている。
視線を向けはするが俺たちの誰も戦闘態勢を取らない。
どうやら。門倉の困惑の対象は、サタナエルが俺たちに敗北した事実に対してではなくーー破壊されゆがんで黒煙を噴き上げる、あの鉄塔の無惨な姿に対してであるらしい。
「マニトゥはネットワークを通じ、全世界から魂を収奪するはずだった……!
それなのに……!」
門倉のその嘆きからすると。どうもこの鉄塔には、マニトゥによる廃人化の対象を全世界へと拡大する手段としての役割が与えられていたようだ。
門倉は俺らを憎々しげに睨みつけるが、俺らは煙草をくわえたまま首を振る。別に鉄塔壊したのは俺らじゃない。
そのとき。屋上へ、かすかな笑い声が響いた。
皆が視線を向けた先ではーー屋上へ横たわるままの桜井が、いつしか瞼を上げ。
その門倉の狼狽を認め、勝利の笑声をあげていた。
桜井の満面の笑みに俺は理解する。
ーーああ。
ーーこれ、わかっててやったんだ。
「! 桜井、貴様……!
貴様如き凡才が! この私の歩みを、遅滞させるだと……!
ーー他の足を引っ張るしか能の無い、ハッカー風情がッ……!」
とりすました門倉の激昂も、天才の口から飛び出す自分の名前も、取るに足りないはずのハッカーへの非難も、もう桜井にはすべてが可笑しくてしょうがないらしい。
涙を流し腹を押さえて笑い続け、ごろりと天を仰いでしまう。
その視界にすでに門倉はいない。
「、貴様ぁ……!」
怒りに任せて詰め寄ろうとする門倉と、その事実すらおかしくて笑い続ける桜井の間に、俺は何気なく体を割り込ませた。
門倉は足を止め、憎々しげに俺を睨みつける。
桜井の気持ちがちょっとだけ理解できる。
ーー門倉はようやく、俺を見た。
「もういい……こんなところで馬鹿どもに関わりあっている場合ではない……!
かくなる上は……! この私自ら、マニトゥを……!」
喚き散らしつつ門倉は屋上から去ってゆく。
その後姿を見て、背後からネミッサが問う。
「あの男、明らかにマニトゥの支配下にあるように見えるけどーーここで止めなくていいの?」
「……どのみち。お届けには上がるんだろう?」
俺が答えると、そうね。と死の歌は答えた。
それにーー
こっちはそもそも、俺の復讐ではないのだ。
俺は、門倉が去った後も笑い続けている桜井へと歩み寄る。
明け空を背景に屈み込み、その顔を覗き込む。
煙草を口から離し。ひとつだけ訊ねる。
「桜井。
ーー満足したか?」
「ああ……!」
何か吹っ切れたような。とてもいい笑顔で肯定の返事を返した桜井は……そのままゆるゆると、瞳を閉じてゆく。
「そうか。後のことなら、俺らに任せておけ」
「……ありがとう……」
そのまま安らかに眠り始める桜井。
もちろん生きてはいるのだが……ある意味においては、こいつの人生はここで終わったのだ。一旦。
今はせめて、静かに眠らせてやるべきだろう。
屋上に夜明けを告げる風が吹く。
静かに見つめてくるネミッサへ視線を合わせ、俺は再び立ち上がった。
ーーさて。残る依頼は。
ーー届け物が一件……それだけである。