父とプリキュア
その日記には、一ページだけ意味のわからない箇所がある。それは私が今まで持っていた価値観を破壊し、私の心に少なからずダメージを与えるものだった……。
父が死んだ。
末期癌だった。
父は酒もたまにしか飲まないし、タバコもすわなかった。それなのに……とは思う。だが入院した時にはもう手遅れで、手術をして何年か存命できるかどうかと言う段階にあったらしい。
厳格で寡黙な父だった。
父は仕事のため朝早くに家を出て、夜遅くにならないと帰らなかった。だからたまにある休日にしか父の姿を見ることはなかった。
父とはあまり会話がなかった。家で会うことも少なかったと言うこともあるが、父も私もあまり喋るたちでもなかった。会話らしい会話は記憶にない。そんなだからなのか家族は誰も父の異変に気が付くことはなかった。
ある日倒れ救急車で運ばれ、そのまま帰ってくることはなかった。
病院には何度も行った。
行くたびにやつれていく父に何も思わなかったと言えば嘘になる。
「手術を受ければ元気になって家に帰れるよ…」
そんなことを言ったように思う。
言った本人も信じていない言葉だったが、父は何を言うでもなく黙って頷いてくれた。
入院していたのは三ヶ月の間だけだった。
その日、病院から電話が掛かってきたのが深夜2時。
急いで病院に行ったが、それで終わりだった。
父の日記を渡されたのは、葬式やらなんやら終わって入院先の病院に置いたままになっていた父の荷物、パジャマやらなんやらを引き取りに行った時だった。
父が入院中ノートに何か書いているのは知っていた。
それは病院から貰ったノートだった。
患者に思っていることを書かせることで整理をつけさせるためのもの。
「これ……八坂さんが書いていたノートです。思っていたことを書いていると思うので、辛いかもしれませんが読んであげてください……」
そう言われながら看護師の一人からノートを渡された。
家に帰ってからノートを開いたのだが、内容は割愛したい。
ほとんどのページが身体の苦しさや日に日に弱っていく恐怖、家族への思い、家に帰りたいと言う願望なんかでうめられていたからだ。
問題は最後のページにあった。
最後のページ……つまり死ぬ前に書いた内容が、それまでと何もかも違うものだったのである。
『来世はプリキュアになりたい』
最後のページはそんな文章から始まった。
『来世はプリキュアになりたい
プリキュア名はキュアブルーアイス
本名は龍王院菜乃花
学校では水泳部にいる中学二年の女の子……』
そこまで読んでノートを閉じた。
心臓が嘘みたいに脈打っているのがわかった。
ノートを持つ手が震えていた。
本当に震えたのだ。
その時はこれは不味いものを読んでいるぞとか、そう言ったことは思わなかった。ただただ何これ?何これ?と意味のわからなさだけが頭の中で反芻していた。
これは本当に父の書いた文章なのだろうか?
悪いイタズラじゃないのか?
イタズラだとしてもたちが悪すぎるが……。
もう一度ノートを開く。
何度確認してもしかし、震えるような文字であったが、それは父の字だ。
父が書いたのだ。
最後に……人生の最後にプリキュアになりたいと……。
「はぁ……はぁ……」
なにもしていない。なにもしていないのに喉がカラカラになっていた。
『来世はプリキュアになりたい
プリキュア名はキュアブルーアイス
本名は龍王院菜乃花
学校では水泳部にいる中学二年の女の子♥️
スリーサイズは
ちょっと胸の大きいことを気にしてる、引っ込み思案だけど芯のある恋に恋する女の子なんだ♥️
ちなみに幼少期に……』
「うわああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
ノートを投げた。
限界だった。
ノートはべちんと壁に当たり、そのまま床に落ちた。
駄目だ。
これは駄目だ。
ハートとか書いてあった。
あの父がハートとか書いてた。
駄目だこれ以上読んだら駄目だ。私はノートをゴミ箱に突っ込むと、父の日記なんてものは初めから無かったことにした。
夢を見た。
海に行った日の夢だった。
その日は父も休日で、家族で海に釣りに行くことになった。
父は入院してたときみたいな衰えた姿でなく若々しくて、母も私がおぼろげに記憶している生前の姿だった。
親子三人で麦わら帽子を被りながら釣りをする。私と母はろくに釣針に餌をつけることができなくて、それを見て父が何も言わないまま無言で餌を付けてくれる。
私が魚を釣り上げると、父は少し広角を上げて「よかったな……」と言った。
お昼になると母が握ったおにぎりを3人で食べた。
おにぎりは少し塩辛くて母は何度も私に謝った。「ごめんね。ゆいちゃん。ごめんね」そんな言葉が聞きたくなくて私は「美味しいよ。本当に美味しいよ」と言いながら食べたんだ。
おにぎりが美味しくて、太陽の光が暖かくて、私は本当に幸せな気持ちになっていた。
「お父さんが思っていたことを書いていると思うの……辛いかもしれないけど読んであげて……」
声が聞こえた。
そんなもの読めるわけがない。
私は拒絶の声をあげ自分の声で目が覚めた。
目が覚めると真夜中で、私は一人だった。
涙が出ていた。
病院でもお葬式でも出なかった涙が出ていた。
心臓がドキドキしてるし、手の先がチリチリとしている。
私は起き上がるとゴミ箱からノートを拾い上げ最後のページを開いた。
そして読んだ。
読まなきゃよかったと思いながら読んだ。
事実読まなきゃよかった。
きっといつか笑い話にすることが出きるんだろう。でも今はとても悲しくて辛かった。
窓の外を見ると空には幾つか星が見えて、ベランダに出ると身体を刺すような冷たさを感じた。
吐く息は白くなり、外は風の音すらしなかった。
「寒いな……」
私は寒さを感じながら、一人になったんだと思った。