転生したら博麗霊夢(自殺未遂)だった件 作:敵ゆん
鈴仙は朝から慌ただしかった。
「里の方に薬を卸しに行ってきます。夕方までには戻ると思いますけど」
そう言いながら、編み笠を頭に被せ、甚平のような着物を身に纏う彼女は、手早く支度を整えていく。
その様子を布団の上から眺めながら、俺は小さく頷いた。
「分かりました。お気をつけて」
博麗霊夢としては、きっともう少し軽口の一つも叩く場面なのだろう。
だが、どんな言葉を添えるのが正解なのか分からず、極めて無難な返事に落ち着いた。
鈴仙が部屋を出ていくと、入れ替わるように襖が開く。
「じゃあ、代打は私でいいかしら?」
何の前触れもなく、輝夜がそこにいた。
いつも通りの余裕のある笑み。
病室という空間に、まるで違和感なく溶け込んでいる。
「将棋、いつか一緒にやろうって約束したでしょ?」
「……そう、ですね」
逃げ道はなかった。
結界の内側、動けない身。
暇を持て余していたのは事実だし、輝夜相手なら、下手な気遣いもいらない。
盤と駒が用意され、向かい合う。
庭に面した襖は開け放たれていて、柔らかな光と、風に揺れる木々の音が、部屋に流れ込んでくる。
数手指したところで、すぐに分かった。
――強い。
輝夜の指し手は、無駄がなく、迷いがない。
最初から最後まで、盤面全体を把握している感覚があった。
「ふふ、随分おとなしいわね。前はもっと、無茶な手を指してた気がするけど」
「そう、でしたか」
「ええ。勢いだけで角を切ったり、王様を前に出したり。見てて面白かったのに」
それが、霊夢の将棋なのだろう。
だが、今の俺には、その「面白さ」を再現することができなかった。
最善手を選ぼうとする癖が、どうしても抜けない。
結果は、明白だった。
「詰み、ね」
盤上を見下ろしながら、輝夜が言う。
負けた。
実力差を、はっきりと突きつけられた気分だった。
「……参りました」
「素直でよろしい」
輝夜は上機嫌そうに駒を片付けながら、ふと、懐かしむように視線を遠くへやった。
「永夜異変の頃」
永夜抄。
単語自体は知っている。
だが、実感が伴わない。
「夜が終わらなくなって、原因はここにあるって。あなたと魔理沙が、文句を言いながら突っ込んでいったの、覚えてる?」
俺は、少し考えてから答えた。
「……正直に言うと、断片的にしか」
「ふうん」
輝夜はそれ以上深く追及しなかった。
ただ、少しだけ目を細める。
「記憶って、不思議よね。なくなってみると、本人が一番困るものでもない」
「そう、なんですか」
「だって、周りは覚えてるもの」
その言葉に、胸の奥がわずかに疼いた。
輝夜は続ける。
「ねえ、テセウスの船って知ってる?」
「……部品を全部取り替えても、それは同じ船か、という話」
「そう。それ」
盤の上に残った一枚の駒を指先で弄びながら、輝夜は言った。
「あなたは、どう思う?」
一瞬、言葉に詰まる。
少し考えてから、俺は答えた。
「私は……それは、テセウスの船だと思います」
「理由は?」
「名前も、役割も、周囲からの認識も、変わらないなら。中身が変わっても、同一と扱われるべきだと」
輝夜は楽しそうに笑った。
「なるほど。じゃあ、部品が全部入れ替わったことを、本人だけが知らなかったら?」
「……それでも、船は船です」
「ふふ。案外、割り切ってるのね」
その言葉が、褒めなのか皮肉なのかは分からない。
だが、少なくとも輝夜はそれ以上踏み込んでこなかった。
襖の向こうから足音が聞こえる。
鈴仙が戻ってきたのだろう。
輝夜は立ち上がり、軽く手を振った。
「じゃあ、私はこの辺で。続きは、また今度ね」
そう言って、何事もなかったかのように去っていく。
盤上には、負けたままの将棋が残された。
俺はそれを見つめながら、さっきの問いを、頭の中で反芻する。
――テセウスの船。
もし、自分がその船だとしたら。
部品が変わっても、名前を呼ばれ続ける限り、俺は博麗霊夢でいられるのだろうか。
答えが出る前に部屋の外が、わずかに騒がしくなった。
誰かが、来る。
そんな予感だけが、はっきりとあった。
衣擦れの音と、聞き慣れた足音が重なり合い、やがて襖の向こうで止まった。
「失礼します」
鈴仙の声。
そして、そのすぐ後ろから。
「よう、霊夢。生きてるか?」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が、理由もなく緩んだ。
「……魔理沙!?」
声に出して、確かめるように呼ぶ。
襖が開き、庭からの光を背に、彼女は立っていた。
黒い魔女帽に、見慣れた白黒の服。
肩に掛けた箒も、記憶通りだ。
「聞いたぜ~?しばらく永遠亭から出られないんだって」
「ええ。……ご心配をおかけしました」
「はは、どうやら記憶喪失してるって話はマジなんだな」
魔理沙はそう言って、畳に腰を下ろした。
距離感も、それっぽい。
鈴仙はその様子を一瞥すると、特に何も言わず、壁際に控える。
沈黙が落ちる。
気まずさではない。
ただ、話題を探している間の、何とも言えない間。
「……で調子は、どうなんだ?」
「まだ、少しぼんやりしています。でも、身体は問題ありません」
「そっか」
それだけ言って、魔理沙はそれ以上踏み込んでこなかった。
理由を聞くでもなく、経緯を問い詰めるでもなく。
もっと無遠慮に踏み込んでくるものかと身構えてきたが、俺はその違和感を「腐れ縁の気遣い」だと解釈した。
将棋盤が、まだ畳の上に置かれている。
それに目を留めた魔理沙が、軽く眉を上げた。
「将棋?」
「ええ。少し、時間を潰していました」
「ふーん。勝ったか?」
「……いえ、負けました」
「だろうな」
即答だった。
「お前、昔から詰めが甘いんだよ。こういうのは勘じゃなくて、頭を使わなくちゃ」
笑いながら言うその調子に、懐かしさを覚える。
――ああ、魔理沙だ。
本物だ。
そう、自然に思ってしまう。
「なあ霊夢」
「はい?」
一拍置いてから、魔理沙は続けた。
「今は、無理すんなよ」
「……はい」
「元に戻るとか、戻らないとか、考えなくていい」
その言葉が、胸に引っかかった。
まるで、俺が何かを失ったことを、前提にしているような言い方。
だが、その真意を尋ねる前に、魔理沙は立ち上がった。
「じゃ、またな」
「もう帰っちゃうの?」
「長居する場所でもないだろ、ここ。それに、こっちはこっちで忙しいからな」
そう言って、軽く手を振る。
それだけだった。
引き留める理由も、言葉も見つからず、俺はただ見送った。
魔理沙の背中が、襖の向こうに消える。
鈴仙が、その後を追うように一歩前に出てから、思い出したように振り返った。
――
―
――
魔理沙が来てくれた。
それだけで、胸の奥に溜まっていた不安が少しだけ薄れた気がした。
――魔理沙死亡に伴う後追い説は、杞憂だった。
そう、結論づける。
だが同時に、別の疑問が静かに残る。
――では、なぜ博麗霊夢は自殺を図ったのか。
魔理沙の死を大前提としていた多くの仮説はこれでゲームセット、一からやり直すこととなった。
魔理沙の生存は、余計に事態をややこしくした。
庭の方から、風が吹く。
木々の葉が擦れ合う音に混じって、どこか遠くで、何かが軋むような音がした。
俺はそれを聞かなかったことにして、ゆっくりと目を閉じた。
――
―
――
恥ずかしいことに、こうなる前まで憑依(乗っ取り)型転生ってのは、もっと便利なものだと思っていた。
時間が経てば、いずれ元の身体の持ち主の記憶を思い出す――と考えていたのだが、都合が良いのだか悪いのだか、一向に思い出す気配がない。
会話等のやり取りを、原作知識をフル動員して霊夢に成りきるという力技で、どうにか乗り切ってきた。
一応、今のところは記憶障害として扱われているが、人格そのものが文字通り別"者"になっていることを見抜かれているかどうかまでは、俺の視点からは判別しかねる。
しかし間違いなく、自殺を図った博麗霊夢は記憶障害を患い、未遂以前の記憶――思い出が消し飛んでしまったという扱いは、公然のものとなりつつある。
それは、ここ最近でより顕著となっている"新しい霊夢としての接し方"に現れていると言える。
端的に言うと、明確に距離を感じるようになったからだ。
それでも、華扇や早苗、慧音なんかが見舞いに来てくれ、霊夢不在の博麗神社やら人里の情勢を教えてくれる。
しかしながら、「今代の巫女は脆い」と吐き捨てたあの紫は、あれ以来一度も"自分の前には"姿を現さなかった。
もしかしたら、永琳や華扇と接触して色々と打ち合わせをしているかもしれないが、それは憶測の域を出ない。
また、魔理沙はあの日以来一度も来ない。
魔理沙は何をしているのか見舞いに来るたびに問うが、皆揃いも揃って「忙しいのでは?」とか「分からない」などと、なんとも判断に困る曖昧な回答しか返ってこない。
何か魔理沙に関することをみんなで団結して隠しているのか、はたまた、魔理沙は本当に忙しくてただ単に人前に出でてないだけという、ただの杞憂なのかもしれない。
いかんせん、あまりにも情報が少なすぎてどうしようもできない。
俺が真実に辿り着くことを、世界が全力で拒んでいるとさえ邪推してしまうほどに。
……もし、その邪推が真実であったとすれば、自殺を図った博麗霊夢が知ったらまずいことになると判断してのことだろう。
では、その知ったらまずい事とは?
誰がそう仕向けた?
なんとなくだが、それを知れば、芋づる式に真相が明らかになりそうな気がする。
で、その真相というのが「そっか、幻想郷は滅ぶべきなんだ……!」みたいなバッドエンドに直結するものじゃなければいいな、と淡い期待を寄せている。
それでも、碌でもないことになることを薄々察しているんだ。
そして、恐らくそれが、スタートラインに立つにすぎないということも。
……ともかく、永遠亭に来てから、かれこれ2週間以上?3週間以下が過ぎた。
その間、鈴仙は常に俺の側にいてくれる。
起床した時も、ご飯を食べる時も、風呂に入る時も、就寝する時も、一切の例外なく常に傍らにいてくれる。
人里へ薬を卸しに行く等どうしても永遠亭から出なくてはならないときは、永琳や輝夜、てゐなんかが代わりを務めてくれる。
このように、トイレの中以外、1人になるタイミングが絶対に生まれないような生活スケジュールが組まれているのだ。
一見すると、慎重でたゆまない献身的な治療のように見える。
しかし同時に、一挙手一投足、全ての行動を監視していることを示している。
それすなわち、現段階で余計な行動を起こさないかを見張っているということ。
そして、いざ余計な行動をしようとすれば、止めにかかるということだ。
そのようにして何もさせないことで、少しずつ、しかし確実に牙を抜かれていっている気がしてしまう。
と言いつつも、日に日に規制は緩まっていっている。
最初の内は布団から出られないほどガチガチに結界で拘束されていたが、今はこの部屋の中であればそれなりに自由に移動できる。
また、「本が読みたい」とリクエストすれば、お見舞いの差し入れとして本を持ってきてくれるようにもなった。なお、本は人里の名家の娘、稗田阿求がアガサクリスQ名義で執筆している小説しか持ってきてくれないのだが……(曰く、これ以外ないとのこと)
ただ、外が今どうなってるのか知りたいから新聞が欲しいと要望すると、「うち(永遠亭)は文屋と契約してないからない」とのことで、残念ながら読むことができない。
華扇等定期的に見舞いに来てくれる人にリクエストしても、どこも取ってないの一点張りだった。
不便のない生活である。
衣食住があって、常に傍に人がいて、ルーティン化された、変化のない日々。
「いつになったら退院できるんだろう……」
ふと、俺は漏らした。
徐々に規制は弱まっていっているとはいえ、明確に退院日が決められていないため、この生活が永遠に続くのではないのかと疑う自分がいる。
なぜ?を誰もが明確に答えず、されど日常の事細かな動作に伏線が仕込まれていて、俺は死に物狂いでそれを拾い上げ、途方もない大きさのジグソーパズルの額面に、小さな小さなピースをちまちまハメていく。
それは、ゆっくりと、優しく殺されていく感覚だった。
――このままでは埒が明かない。
そこまでして明かしたくないのなら、こちらから大胆なアクションを起こす必要があるのでは?という考えに至るのは、それほど不自然な事ではないはずだ。
かくして俺は、ちょっとした博打に打って出ることを決意した。
「ぐぬぬ……!」
「くおお……!」
俺は鈴仙とちゃぶ台越しに向かい合い、今こうして腕相撲をしている。
鈴仙が迫真の演技で力加減をしているのか、それとも霊夢さんの素のフィジカルが強いためか、一進一退の互角の勝負が、この小さな卓上の上で繰り広げられている。
「く、く!くうう!やばいっ」
「んどりゃあ!」
相当長い間膠着が続き、先にへばったのは鈴仙の方だった。
力が緩まったタイミングを見逃さなかった俺は、ここぞとばかりに持てる全ての力を振り絞って鈴仙の右手を押し倒す。
腕相撲は静かに白熱し、もはや勝利の余韻に浸かる余裕さえなく、二人して布団の上にへばった。
ありふれた、暇つぶしの光景だった。
そんなことをしていると、襖の向こうから控えめな足音が迫ってくる。
「失礼します」
聞き慣れた、穏やかな声。
襖が開き、そこに立っていたのは――
「華扇……さん」
手に包みを一つ抱え、いつもと変わらない柔らかな表情の茨木華扇だった。
「お加減、いかがですか?霊夢」
「ええ、だいぶ……」
一瞬、言葉に詰まってから続ける。
「……良くなってきました」
嘘ではない。
だが、全部を言っているわけでもない。
華扇は軽く頷き、部屋に入ってきた。
鈴仙が一歩下がり、控えに回る。
その距離感が、妙にきっちりしている。
「今日は少し、様子を見に来ました。それと……博麗神社のことも」
その単語が出た瞬間、胸の奥が小さく反応した。
「神社は……どうですか」
努めて平静を装って訊ねる。
「大きな問題はありませんよ。結界も、参拝者の数も」
華扇はそう言ってから、少し言い淀んだ。
華扇は包みを差し出す。
「差し入れです。甘味ですが……食べられますか?」
「ありがとうございます」
受け取りながら、ふと気づく。
彼女の視線が、こちらの顔だけでなく、姿勢や呼吸、手の動きにまで向いていることに。
――観察されている。
永琳ほど露骨ではないが、それでも、ただの見舞いではない。
「……華扇さん」
呼びかけると、彼女はすぐに視線を戻した。
「はい」
「私、いつまでここにいるんでしょうか」
一瞬、空気が止まった。
華扇はすぐには答えず、静かに息を整える。
「焦る必要はありません。今は、しっかり休むことが――」
「それは分かっています」
言葉を遮る。
「でも……私は博麗の巫女です。もはや貴方達の知る以前の博麗霊夢ではなくても、博麗の巫女であることには変わりありません。幻想郷が平穏でも、神社が空いていること自体が、問題になる」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「もしも異変が起きたら、誰が解決しに行くのですか!?いつまでも、ここで守られる立場じゃ――」
そこまで言って、華扇の目が、ほんの僅かに細くなる。
「霊夢」
名前を呼ばれる。
「あなたは、今――」
その続きを聞く前に、視界が唐突に揺れた。
首の後ろに、鋭い衝撃。
意識が、思考を追い越して暗転する。
――あ。
そう思った瞬間には、もう遅かった。
畳が遠ざかり、音が歪む。
最後に見えたのは、黒い靄と、その隙間から困ったように眉を寄せた、華扇の顔だった。
――
―
――
目を覚ますと、見知った天井がそこにあった。
障子越しの光は、いつもと同じ角度で畳を照らしている。
時間帯も、たぶん変わっていない。
「……」
天井を見つめたまま、数回瞬きをする。
意識ははっきりしている。
頭痛も、眩暈もない。
――不自然なほど、何もない。
「あ、霊夢さん起きました?」
すぐ横から、鈴仙の声。
視線を動かすと、彼女は座布団に座り、いつものように薬包を整理していた。
慣れた手つきに、穏やかな表情。
「……鈴仙」
「はい?」
即答だった。
何の含みもない。
胸の奥が、ひくりと引き攣る。
「私……さっき……」
言葉を選びながら、口を開く。
「華扇と、話してて……」
「華扇様、ですか?」
鈴仙は不思議そうに首を傾げた。
「かなり魘されてましたが、まさか華扇様と話していたとは……」
――違う。
即座にそう思った。
「でも……」
「まあまあ霊夢さん、お疲れが溜まっているんだと思います」
鈴仙は被せるように言う。
俺は、確かに覚えている。
華扇の声も、表情も、首の後ろに走った衝撃も。
――夢じゃない。
「……私、どれくらい寝てました?」
「どれぐらいって……それはもう昨日の夜からぐっすりと」
「その間……誰か、来ましたか」
「お師匠様や輝夜様、あとてゐなんかが様子を見に来たぐらいです」
即答。
「私、ずっとここにいましたし、霊夢さんより早く起きてましたから。……本当ですよ?」
視線が合う。
鈴仙の赤い瞳は、揺れていない。
嘘をついているようには、見えなかった。
だが、真実を語っているとも、思えない。
――どちらでもない。
「……そう、ですか。すみません、ちょっと寝起きで頭が回ってなくて……」
それ以上、言葉は続かなかった。
鈴仙は一度だけ俺の顔をじっと見てから、穏やかに微笑む。
俺は布団の中で、そっと右手を動かした。
首の後ろ。
撫でるように触れる。
首を括った跡以外、腫れも熱もない。
まるで、最初から何もなかったかのように。
だが、確かにそこに、「触れられた」という感覚だけが、微かに残っていた。
――消されたのは、出来事か。
それとも、単なる夢だったのか。
それが分からない。
夕方になると、襖の向こうから足音がした。
規則正しく、迷いのない歩調。
聞き慣れたそれに、胸の奥がわずかに強張る。
「入るわよ」
返事を待たず、襖が開く。
白衣姿の八意永琳が、薬箱を手に部屋へ入ってきた。
「具合はどう?」
いつも通りの声音。
淡々としていて、感情の起伏は感じられない。
「……悪くはありません」
「そう」
それだけ言って、永琳は俺の脈を取り、瞳を覗き込み、喉の状態を確認する。
一連の動作は無駄がなく、正確で、機械的ですらあった。
異常なし、という結論が最初から決まっているかのようだ。
診察が一段落したところで、俺は口を開いた。
「……永琳先生」
「なに?」
視線は、手元の記録用紙から離れない。
「いつ、退院できるんでしょうか」
一瞬。
本当に一瞬だけ、ペンの動きが止まった。
だが、すぐに再開される。
「まだ早いわ」
即答だった。
「自分、身体的には、回復していますよね」
「ええ」
あっさりと肯定される。
「じゃあ……」
「問題は、身体じゃない」
そこで、ようやく視線が上がる。
冷静で、理知的で、医師としての目。
「あなた自身よ」
胸の奥が、微かに軋んだ。
「……私、ですか」
「そう」
永琳は淡々と続ける。
「衝動性、自己認識の揺らぎ、感情の鈍麻と過敏の混在。自殺未遂後としては、典型的な経過よ」
――典型的
その言葉が、妙に引っかかる。
「でも、私は……」
「焦燥感も強い」
被せるように言われる。
「早く元の場所に戻らなければならない、役目を果たさなければならない。そう思い込むことで、均衡を保とうとしている」
「……思い込み、ですか」
「ええ」
永琳は、はっきりとそう言った。
「今のあなたに必要なのは、役割じゃない。安全な環境で、余計な刺激を遮断すること」
余計な刺激。
その言葉が、頭の中で反響する。
「博麗神社は、刺激が多すぎるわ。人里、妖怪、異変、責務、期待。今の状態で戻せば、再発のリスクが高い」
「……再発」
「そう」
永琳は一切言葉を濁さない。
「もう一度、同じ選択をする可能性がある」
心臓が、ひとつ強く脈打つ。
「だから、退院の判断は――」
「私が、危険だから?」
問いというより、確認だった。
永琳は、少しだけ考える素振りを見せてから答える。
「危険、というより」
間。
「不安定」
静かな断定。
その言葉に、反論は浮かばなかった。
だが、納得もできない。
「……この治療は、いつまで続くんですか」
「必要な間」
「それは、どれくらいですか」
永琳は、わずかに眉を寄せる。
「数日かもしれないし、数週間かもしれない」
「……もっと、長い可能性は?」
一拍。
「否定はしないわ」
その答えは、あまりにも率直だった。
俺は、布団の上で拳を握る。
「理由を、教えてください」
「理由?」
「なぜ、ここまで厳重なんですか」
監視。
情報遮断。
外界との隔離。
「……普通の治療とは、思えません」
永琳は、じっと俺を見つめた。
その視線は、患者を見るものではない。
もっと別の――
「あなたが壊れれば、博麗神社は機能不全を起こす。それは、幻想郷全体のバランスに直結する」
それは、説明のようでいて――答えではなかった。
「つまり……」
言いかけて、言葉に詰まった。
光のない眼で俺の顔を見つめる永琳に気圧されそうになる。
「私は、治療されているんじゃなくて」
永琳は遮らない。
「……管理、されている?」
数秒の沈黙。
そして、永琳は微かに笑った。
「治療と管理は、必ずしも矛盾しないわ」
その言葉で、全てが腑に落ちてしまった。
永遠亭から出れない理由。
情報が与えられない理由。
常に誰かが傍にいる理由。
――回復を待っているんじゃない、"問題が起きない状態"を維持しているだけだ。
「……分かりました」
俺は、そう言うしかなかった。
「そもそも、あなたは今まで頑張りすぎたのよ。だから少しぐらい休んだって……っと、今日は、これで終わりよ。無理なことは考えないで。今はそれが一番の治療だから」
永琳は記録を閉じ、立ち上がる。
そう言い残して、部屋を出ていく。
襖が閉まった後、しばらく俺は動けなかった。
――
―
――
……恐らく、永琳たちの言うとおりにしていれば、いずれ真相を明かしてくれると俺は予想している。
しかしそれは、餌を等間隔に設置して獲物を導き出すような、いわば"作り上げた真相"だろう。
本当にそれでよいのだろうか?
読者年齢層調査
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