転生したら博麗霊夢(自殺未遂)だった件 作:敵ゆん
そうと決意すれば、逃げ出せるタイミングは一つしかない。
ずばり、お便所のタイミングである。
まず、俺が結界から出られるタイミングは、飯、風呂、便所の3つしか存在しない。
そして、完全に一人になれるタイミングというのは、便所ただ一つしかないのだ。
とはいえ、当然如く便所へ行くまで鈴仙は俺の後ろをついて来るし、催しているときも戸の向こうでずっと待機している。
しかしながら、"2人"から"1人"に成る、あるいはその逆の瞬間、つまり状況が変化する・した瞬間に、隙が生まれるはずだと俺は睨んでいる。
という訳で、俺は今便所の中にいる。
もちろん本当に花を摘み、時折声を掛けてくる鈴仙にうまいこと反応しつつ、下準備を整えていざ扉を開ける。
扉を開けると、鈴仙が塞ぐようにして立っている。
この生活がそれなりに長く続いたためか、初期程の緊張は顔には現れなくなった。
そして、鈴仙が俺の通路を開けるために横へ行ったその瞬間、俺は鈴仙の眼をしっかり見つめながらこう話しかけた。
「今日は月がきれいッ!」
自身の言葉を言い終えるよりも前に右手拳を全力で突き出し、鈴仙の下腹部を殴る。
そして、間髪入れずに今度は左手拳を横っ腹を殴る。
「ぐふ、ゲホッゲホッ……!」
鈴仙は下腹部を抱えて座り込み、苦しい呻き声を上げて動かない。
いくら元月の都の軍人と言えど、長年付き添ってきた相手の不意打ちを受けるとは思っていなかったのかもしれない。
理由はともあれ、唯一にして最大の障害、監視役の無力化に成功した。
そして、やはり最後に頼れるのはフィジカルなのだなと思い知らされた。
「れい……む……さん……ゲホッゲホッ!」
「本当に申し訳ないと思っている!」
手短にこの恐るべき無礼を詫び、庭の端まで足早に駆ける。
永遠亭の外周は塀で囲まれており、塀の高さは、この永遠亭組で最も身長の高い永琳先生よりも上であると思われる。
壁際まで来たものの、やはりその高さに俺は圧倒される。
どう見てもジャンプ程度では越えられない――となれば、何か伝って越えられないか。
伝えるものがある、竹である。
「ふうん!」
元も子もない話ではあるが、これもまた霊夢さん素のフィジカルで竹をよじ登り、壁の向こう側に転がるように着地する。
そして、ひたすらのダッシュ。全力ダッシュ。
そもそも幻想郷の詳しい地理関係は分からない。
しかし、人間は水分なら3日、食料なら7日間ぐらい抜いてもなんとか生きることができ、またそもそも幻想郷自体がそれほど大きくないため、がむしゃらに進み続ければなんとかこの迷いの竹林を脱出することができるだろう。
かくして、俺はひたすらに走った。
走って、走って、とにかく走り、流石に疲れたため一旦竹藪の中に身を隠し、息を整える。
「星座見てもねえ、そもそも地理が分からないんじゃ意味ないよなあ……」
冒険活劇のような創作ものではよく、地図がない状況で自分がどの方角に進んでいるのかを確認する術として、星座を見るというシーンが登場する。
……いや、星座なんて見てもねえ、そもそも地理が分からないんじゃ意味ないよなあ……。
自嘲気味にそう呟きながら、荒い呼吸を整える。
肺が焼けるように痛く、喉の奥がひりつく。
全力疾走なんて、いつぶりだろうか。
少なくとも、今世では覚えがない。
竹林の中は、思った以上に静かだった。
風が竹を擦る音と、自分の呼吸音だけが、やけに大きく感じられる。
……追ってきて、ない?
耳を澄ます。
足音も、声も、妖気の気配もない。
だが、それが逆に不気味だった。
迷いの竹林だ。
追跡されていない=安全、とは到底言えない。
それに――。
鈴仙の顔が、脳裏に浮かぶ。
驚きと痛みに歪んだ表情。
腹を抱えて蹲り、咳き込みながら動けなくなった姿。
「……」
歯を食いしばる。
今さらだ。
やったことは、もう取り消せない。
守られていた。
閉じ込められてもいた。
それでも、あれは――少なくとも、敵意ではなかった。
それを殴って、逃げた。
胸の奥が、ずしりと重くなる。
それでも足は止まらなかった。
止まったら、きっと後悔に呑まれる。
そして後悔に呑まれたまま捕まれば、とても言葉にしがたい恐ろしいことになるだろう。
竹林の中を、当てもなく進む。
右へ、左へ、時には同じ場所をぐるぐる回っているような錯覚に陥る。
――ああ、クソ。
これが、迷いの竹林か。
理屈じゃない。
方向感覚そのものが奪われる。
焦りが、じわじわと喉を締め付ける。
酸欠とは違う、精神的な圧迫感。
その時だった。
――ぱき。
すぐ近くで、竹が踏みしめられる音がした。
反射的に身を低くし、竹の陰に身を寄せる。
心臓が跳ね上がる。
来たのか?
もう追いつかれたのか?
呼吸を殺し、音のした方向を見る。
「霊夢!」
「……八雲紫」
そこには、八卦の萃と太極図を描いた紫色の前掛けを着た八雲紫がいた。
涙目の心配そうな顔つきで、一歩一歩着実にこちらへ迫ってきている。
――なんで、いつからそこにいた!?
俺が紫を視認した時には既にそこに立っていて、スキマ妖怪の代名詞とも言える無数の眼が浮かぶ空間は見当たらなかった。
しかし、いまは紫がどうやって現れたかなんてさほど重要ではない。
「く、来るな……!」
絶対に逃げられないことを理解し、腰が抜ける。
一歩一歩、確実に距離が縮まる。
そしていよいよ、月光に照らされる顔が陰で見えなくなるほど目の前に来たとき、俺は覚悟して目を瞑った。
しかし、意外な事に、どういう訳か紫は俺に抱き付いてきた。
それはもう、がっちりと。
「ごめんね、ごめんね霊夢……酷いこと言っちゃってごめんね」
横からゆかりの声が聞こえてくる。
その声色はまさに涙を堪えている様な質感で、ひとつひとつの言葉遣いに繊細なものであろうことを容易に察せられた。
「もう信じてくれないかもしれないけれど、私は貴女のことが好きだった。大好きだった」
「ゆ、紫……?」
「背負わせ過ぎちゃったね、いろんなことを」
「離して?ね、面と向かって話し合おう……?」
「ごめんね、本当にごめんね、貴女の辛さを察することができなくて、ごめんね」
彼女の話を聞けば聞く程、徐々に違和感が増幅していく。
まるで、ペットに話しかけるような一方的な語り。
そして、抱き着く力が徐々に強まっているということを。
「だから、貴女がもう二度と辛い想いをしないように、楽にしてあげる」
そう言った瞬間、紫の腕に、ぎゅっと力が籠もった。
逃げようとした。
反射的に身を捩り、肩を引き、腕の隙間を探す。
だが、びくともしない。
――強い。
単純な筋力の話ではない。
空間そのものが、俺を彼女の腕の中に縫い止めている感覚だった。
「大丈夫、大丈夫よ霊夢」
耳元で、優しく囁かれる。
子どもをあやすような声色。
泣いているはずなのに、不思議と声は震えていない。
「怖くないわ。苦しくないようにするから」
「……っ、はな……せ……!」
声が、情けないほど弱い。
腕に力を込めようとするが、身体が言うことをきかない。
体全体がプレス機に掛けられるように圧迫される。
息を吸おうとすると、紫の胸元に顔が押し付けられ、うまく空気が入らない。
「ねえ、覚えてる?」
紫は構わず話し続ける。
「貴女、いつも余裕そうにして、でも隠れて無茶ばかりしてた。結界も、異変も、責務も……全部一人で背負って」
ぐ、と、さらに力が強まる。
「私はね、貴女が壊れる前に止めるべきだったの」
肺が、きしむ。
呼吸が、短く、浅くなる。
――まずい。
さっきまで全力で走っていた身体だ。
酸素の余裕なんて、もう残っていない。
「でも、もう大丈夫」
紫の手が、背中に回る。
まるで、逃げ道を完全に塞ぐように。
「もう誰にも、何も背負わせない」
視界の端が、じわりと暗くなる。
音が、遠のく。
陸に打ち上げられた魚のように、口が勝手に動く。
だが、息は入らない。
――また、これか。
首を吊った時と、よく似た感覚。
違うのは、今度は"優しさ"に包まれているということだけだ。
「……や……く……も……」
名前を呼んだつもりだった。
でも、それが声になったのかどうか、自分でも分からない。
「なあに?」
紫は、即座に応じた。
「ちゃんと聞いてるわよ、霊夢」
その言葉が、どうしようもなく恐ろしかった。
意識が、ほどけていく。
身体の輪郭が、曖昧になる。
――ああ。
ここまでして、守りたかったのか。
幻想郷も。
博麗の巫女も。
そして、"霊夢"という役割そのものも。
最後に浮かんだのは、永遠亭の天井でも、博麗神社でもなかった。
ただ一つ。
「霊夢として生きる」と決めた、自分自身の感覚だった。
それが、ぷつりと途切れる。
紫の腕の中で、俺の身体は、力を失った。
――
―
――
「……おやすみ、霊夢」
月明かりの下。
迷いの竹林で。
八雲紫は、もう動かなくなった巫女をいつまでも抱き締めていた。
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