第一話:夢の終わり
1.悪夢
俺の名前は榊荘司(さかき そうじ)。二十五歳の、しがないサラリーマンだ。
正直言って、毎日がクタクタだった。上司の無茶振り、終わらない残業、満員電車での通勤。帰宅するのはいつも日付が変わる頃で、ベッドに倒れ込むように眠る日々。
それでも俺は、まあなんとかやっていた。会社では冗談を言って場を和ませたり、後輩の愚痴を聞いてやったり。周りからは「榊さんっていつも余裕ありますよね」なんて言われる。
だが、本当は違う。
心の奥底には、常に冷静な自分がいる。感情に流されず、状況を客観的に見る自分。それが、かろうじて俺を支えていた。
そんな日常が、二週間前から少しずつ崩れ始めた。
最初は些細なことだった。夢を見るようになったのだ。いや、夢というより……何かに呼ばれている感覚。
『……来い……』
暗闇の中から、誰かの声が聞こえてくる。
『……こちらへ……来るのだ……』
目を覚ますと、背中が汗でびっしょりになっている。時計を見れば午前三時。あと二時間もすれば起きなければならない。
「また、か……」
呟いて、俺は枕に顔を埋めた。
その夜も、同じ夢を見た。
真っ暗な闇。何も見えない。ただ、声だけが響く。
『待っている……』
『お前が必要なのだ……』
男とも女ともつかない、奇妙に歪んだ声。聞いているだけで、胸の奥がざわつく。
こんな夢が、毎晩続いた。
会社では相変わらず笑顔を作っていたが、睡眠不足で体がだるい。コーヒーの消費量が増え、同僚に「榊、最近顔色悪いぞ」と心配される始末だ。
「いやあ、ちょっと寝不足でね。大丈夫、大丈夫」
そう答えながら、内心では焦りが募っていた。
なぜなら、夢の内容が日に日に変わってきていたからだ。
最初は声だけだった。それが、少しずつ形を持ち始めている。
闇の中に、何かが蠢いている。
見えそうで見えない。だが、確実にそこに“いる”。
そして、十四日目の夜。
いつものように暗闇が広がる夢の中で、俺は立ち尽くしていた。
『見つけた』
その声と同時に、闇の奥で何かが光った。
赤い光。
いや、違う。――目だ。
血のように赤い目が、闇の中からこちらを見つめている。
一つ、また一つ。
そして、その下に……口。
耳まで裂けたように大きく開いた口が、ニタリと笑った。
「ひっ……!」
思わず後ずさる。心臓が跳ね上がり、全身に鳥肌が立った。
これは夢だ。夢なんだから、目を覚ませば――
『逃がさない』
次の瞬間、闇の中から何かが伸びてきた。
腕だ。
人間のものとは思えない、灰色でごつごつした腕が、俺の足首を掴んだ。
「うわああああっ!」
あまりにも冷たい感触に、俺は絶叫した。
腕は信じられない力で俺を引きずり始める。闇の奥へ、奥へと。
「やめろ! 離せ! 離せええっ!」
必死に抵抗する。だが、夢の中には掴めるものが何もない。ただ闇だけがある。
赤い目と裂けた口が、どんどん近づいてくる。
『ようこそ』
その声が頭に直接響いた瞬間、俺の意識は途切れた。
2.知らない森
目を覚ましたとき、俺は森の中にいた。
「……は?」
最初は、状況が理解できなかった。
ベッドではない。天井も壁もない。代わりに頭上には木々の葉が生い茂り、その隙間から柔らかな日差しが差し込んでいる。
鳥の鳴き声。風が葉を揺らす音。土と草の匂い。
すべてが、あまりにもリアルだった。
「夢……じゃない?」
立ち上がろうとして、自分の格好に気づく。
グレーのスーツに黒い革靴。昨日、会社で着ていた服そのままだ。パジャマではない。
ポケットを探ると、ハンカチとティッシュだけ。スマホも財布もなかった。
「どういうことだ……」
深呼吸して、冷静になろうとする。
考えられる可能性は三つ。
一つ、これも夢の続き。
二つ、誰かに拉致された。
三つ、完全に頭がおかしくなった。
どれも最悪だ。
とにかく動くしかない。
そう思った瞬間――
ズズズズ……
背後で、奇妙な音がした。
振り向くと、地面が盛り上がっている。
土が、生き物のように蠢き、何かが這い出てくる。
「な、何だ……?」
土を割って現れたのは――
「……うそだろ」
身長は一メートルほど。緑がかった灰色の肌。老人のようなしわくちゃな顔。尖った耳と黄色い目。
明らかにファンタジーでよく見るゴブリンだった。
だが、決定的に違うのは両手だ。
手の指が、鋭い鉤爪になっている。
まるで悪夢の殺人鬼のような、五本の刃が手の指から生えていた。
さらにもう一体。
二体のゴブリンが、じっとこちらを見ている。
体が固まった。
夢だ。そう思いたい。
だが、背中を流れる冷たい汗は現実そのものだった。
片方のゴブリンが、人間のようにニヤリと笑った。
次の瞬間、二体が同時に走り出す。
「うわああああっ!」
俺は反射的に逃げ出した。
革靴は走るのに向いていない。何度もつまずきそうになりながら、必死に森を駆け抜ける。
「ケケケケケケッ!!」
背後から、甲高い笑い声。
追いつかれる。
地面に落ちていた太い枝を拾い、振り向いた。
一体が飛びかかってくる。
俺は本能的に枝を振るった。
嫌な硬質音が響き、鉤爪が弾かれた。
考える暇もなく、もう一体が迫る。
枝を横に払い、ゴブリンの爪を打ち払う。
だが枝は爪と打ち合うたびにどんどん削られ、限界が近い。
一体が低く飛び込み――
鉤爪が脇腹をかすめた。
「ぐあっ!」
スーツが裂け、血がにじむ。
転倒し、枝が手から転がり落ちた。
終わりだ。
そう思った瞬間――
ゴブリンの鉤爪が振り下ろされる。
俺は両腕で顔を庇った。
だが、痛みは来なかった。
代わりに、冷たく、しかし柔らかい感触。
目を開けると、俺の両腕が黒い靄のようなものに覆われていた。
煙とも液体ともつかない、不定形の闇。
鉤爪は触れた瞬間、滑るように逸れていた。
「……なんだ、これ」
恐怖と困惑。
だが、その時――
炎の矢が空を裂いた。
いや、矢というより、炎そのものが矢の形をして、空気を切り裂いて飛んでくる。
それが一体目のゴブリンに直撃した。
「ギャアアアッ!」
ゴブリンは燃え上がりながら吹き飛び、地面に叩きつけられた。そして…崩れた。文字通り、土の塊のように崩れ落ちたのだ。
残った一体のゴブリンが、炎矢の飛んできた方向を見る。
俺も、同じ方向を見た。
そこに、人影があった。
深い青色のローブを頭からすっぽりと被り、顔はフードの影で見えない。右手には、三十センチほどの短い杖を持っている。
魔法使い、としか言いようがない格好だった。
その人物が、杖を再び掲げた。
杖の先端に、炎が集まる。
「炎矢」
低く、しかしはっきりとした声。
炎が矢の形になり、もう一体のゴブリンに向けて放たれた。
ゴブリンは逃げようとしたが、間に合わない。
炎矢が命中し、先ほどと同じように吹き飛んで、土塊と化した。
静寂が戻った。
俺は呆然と立ち尽くしていた。
今、目の前で起きたことが、現実とは思えない。
魔法。
本物の、魔法を見た。
ローブの人物が、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
「あ、あの…助けて…」
俺は声を振り絞った。礼を言わなければ。この人がいなければ、俺は死んでいた。
だが、その人物は予想外の速さで近づいてきた。
ローブのフードが外れ、顔が見えた。
若い男だった。二十代半ばくらいだろうか。端正な顔立ちで、長い黒髪を後ろで束ねている。整ったイケメンと言ってもいい顔だが、その表情が…
笑っていた。
でも、それは喜びの笑いではなかった。
「今のは間違いなく闇の力…」
男は呟き、杖を俺に向けた。
「やっと、やっと見つけましたよ。星詠はやはり正しかった」
その目。
まるで、珍しい実験材料を見つけた研究者のような目。
モルモットを見るような目。
「え…?」
背筋が凍った。
ゴブリンから逃れたと思ったのに、今度はこの男が…
「君、名前は?」
男が尋ねる。声は丁寧だが、目が笑っていない。
「さ…榊、荘司…です」
答えながら、俺は後ずさった。
「榊荘司君。初めまして。私はルーシェン。魔法研究者です」
ルーシェンと名乗った男は、ローブに杖を仕舞いながら近づいてくる。
「あなたの持つ力、非常に興味深いです。闇の力を、意識的にか無意識にか、防御に転用していた。普通、闇の力は攻撃にしか使われたことがないはずなのですが…」
「ま、待ってください。俺、何も分からないんです。ここがどこなのか、なぜ自分がこんな力を…」
「そうでしょうね。召喚されたばかりのようですし」
「召喚…?」
「ああ。あなたは、私たちの世界に召喚された。いわゆる、異世界からの来訪者というやつです」
ルーシェンは淡々と説明する。
「そして、召喚に選ばれる条件は、特殊な力を持つ者と言われています。あなたの場合はその闇の力です。普通は人間が使えない極めて稀な、貴重な力です」
貴重、という言葉の響きが嫌だった。
まるで、高価な商品を見つけたような言い方。
しかし学生時代やサラリーマンをしていた時に、こんな力は無かったはずだ。どういうことだ?
「私の研究所に来てください。そこで詳しく調べましょう」
まるで決定事項のように言う。
「いや、俺は帰りたいんです。元の世界に」
「無理ですね」
あっさりと、ルーシェンは言った。
「召喚魔法は一方通行と言われています。そもそも過去の歴史記録以外の、文献が残っていないのです」
「そんな…」
膝から力が抜けそうになる。
帰れない。
もう、帰れない。
会社も、友人も、家族も。全てが、遠い世界の話になってしまった。
「さあ、行きましょう。あなた一人では、この森を抜け出すことも難しい。魔物がうようよいますからね」
ルーシェンが手を伸ばしてくる。
俺は、その手を見つめた。
これは…助けではない。
捕獲だ。
実験動物として、連れて行かれようとしている。
腕の黒い靄が、再び現れた。
まるで、俺の恐怖に反応するかのように。
ルーシェンの目が、さらに輝いた。
「素晴らしい。感情に反応して発動するのですか。これは本当に面白いですね」
彼の笑顔が、俺には悪魔のように見えた。
森の中に、俺の絶望だけが響いた。