第87話:試練の拳と、星の警告
1 修練所の中央
宰相からの伝達鷹が届いたのは朝食の後だった。
内容を読んで、俺は首を傾げた。
「騎士団詰所で話がしたい、か」
「ガイウスらしいですね」
ルーシェンが言った。特に疑問を持っていない顔だった。
「まあ行けばわかります」
エドワードと共に向かう。
「こっちだ」
騎士団詰所の修練所に案内された。
ガイウスは修練所の真ん中に立っていた。腕を組んで、目を閉じていた。周囲に誰もいなかった。それでもその存在感が、広い修練所の空気を変えていた。
俺たちが入った気配を感じたのか、ガイウスが目を開けた。
「来たか」
「お呼びいただきました」
「王都の一件、聞いた」
ガイウスは俺を見た。その目に感情の起伏はなかったが、言葉の重みがあった。
「孫たちも無事だった。礼を言う」
圧があった。礼という言葉が、普通の礼とは違う重さを持っていた。受け取った俺の体に、それが届いた。
「デンヴァールまで送る件についてだが……条件がある」
ガイウスが続けた。腕を組んだまま、動かなかった。
「二つだ」
「聞かせてください」
一つ目は、途中のいくつかの街で自分の用事を済ませたいということだった。その分、デンヴァールへの到着が遅くなる。
俺はファルマを見た。
「大丈夫です」
ファルマが言った。迷いのない目だった。
「兄さんはもう解放されています。急ぐことはありません」
「二つ目だ」
ガイウスが言った。その目が俺を真っ直ぐに見た。
「お前と戦え。強さを見せろ」
俺は少しの間、ガイウスを見た。
「ルーシェン」
俺は後ろに言った。
「どう思う?」
「油断すれば秒で負けますよ」
ルーシェンが静かに言った。
「受けた方がいいと思います。拳闘士と戦ったことは無いので、いい経験になるでしょう」
2 戦闘
周囲に騎士たちが集まってきた。
「私が審判をしよう」
模擬剣が用意された。エドワードが腕を組んで審判として立った。
ガイウスは腕を組んだまま、修練所の中央に立っていた。武器を持つことすらしていなかった。素手だった。
「いつでも来い」
「はじめ!」
俺は模擬剣を握り直し、エドワードの声と同時に踏み込んだ。
ガイウスが消えた。
視界からいなくなった瞬間、横から衝撃が来た。脇腹に何かが当たった。ガイウスの拳だった。いつの間にかガイウスが隣に立っていた。
一歩退いた。距離を取ろうとした。
もういなかった。
「っ」
背中に衝撃が来た。叩かれた。振り返った時には既に正面にいた。
どこにいるかが読めなかった。動く前の呼吸も、重心の移動も、何も感じさせなかった。無拍子だった。来ると思った時には、もう終わっていた。
「すごい……」
修練所の端から声が来た。騎士の一人だった。
「動きが見えない。いや意識から外れるんだ……!」
「これが伝説の拳闘士の——」
別の声が続いた。
俺は目で追うことを一度やめた。
目では間に合わない。ならば別の方法を使う。
俺は意識を体の内側に向けた。闇の力を薄く引き出した。そのまま周囲の空気と合わせるように、共鳴を呼んだ。
熱い空気を通すような歪みが、俺の周囲に薄く広がった。外から見ていたルーシェンが目を細めた。
「空気を感じているんですね」
ルーシェンが独り言のように呟いた。
「直接見るのではなく——」
「ほう……」
ガイウスが僅かに感心した声を出すと動いた。
今度は少し感じた。わずかな気流の変化が、来る前に来た。
半歩だけ避けた。完全には避けきれなかった。しかし直撃ではなかった。
「おっ」
騎士の声が修練所に響いた。
「さっきと違う動きをした」
別の声が来た。
ファルマが手を胸の前で合わせていた。心配で動けない顔だった。エリシアは俺の動きを観察していた。
ガイウスの次の動きを感じた。左から来る。踏み込むのと同時に迎えに行った。模擬剣を振った。ガイウスの腕に当たる寸前で、ガイウスの手が俺の手首を取った。
そのまま投げられた。
石の床に叩きつけられた。息が詰まった。
「ぐっ……!くそっ……!」
転がるように立ち上がった。ガイウスはそれを腕を組んで見ている。体のあちこちにダメージが積み重なっていた。足に力が入りにくくなっていた。
それでも剣を構えた。
ガイウスが来た。今度は最初からわかった。来る方向が、空気の流れで読めた。
俺は踏み込んだ。読んだ軌道の逆側から剣を入れた。
ガイウスの眉が、ほんの少し動いた。
体の側面に模擬剣が触れる寸前で、ガイウスの拳が俺の腹部に入った。
「がはっ!」
息が全て出た。足が折れ倒れた。
立ち上がれなかった。
修練所の空が見えた。ファルマが走ってくる気配を感じながら目の前が暗くなった。
3 救護室
目が覚めた時、白い天井だった。
「俺は……」
「三十分ほどです」
ルーシェンが言った。俺が目を開けたのを見て、椅子に座ったまま静かに言った。
体が重かった。腹に鈍い痛みがあった。しかし動けなくはなかった。
ファルマが横から手を伸ばして、傷の具合を確認した。その手が少し震えていた。
ガイウスが壁際に立っていた。腕を組んで、いつもの顔をしていた。
「最初の対応が甘かった」
ガイウスが言った。
「ただ——後半は悪くなかった。最後の読みは本物だ」
「合格ですか?」
「合格だ」
ガイウスは短く言った。
「準備ができたら知らせろ。ファルマの伝達鷹で伝えるといい」
ファルマがガイウスに伝達鷹の印をマーキングした。ガイウスはそれを確認してから、修練所の方へ戻っていった。
俺は天井を見たまま、体の感覚を確かめた。
さっきの戦いで、空気を読む感覚が確かに機能していた。今まで使ったことのない使い方だったが、それが動きに対応できた。自分が少し変わったことを感じた。
しかしガイウスは、最後まで一筋の汗だけで終えた。まだ届かない場所が、いくらでもあると知った。
悔しかった。
だが、それ以上に——少しだけ楽しかった。
4 星詠の館
「星詠から連絡が来ています」
ルーシェンが言ったのは、救護室から出た後だった。
「館に来るよう、伝達鷹で」
体はある程度動いた。ファルマが傷薬を塗ってくれていた。
星詠の館に向かった。
入口の前に、大柄な戦士が立っていた。以前と同じ護衛の男だった。
「よく来てくれました」
戦士が丁寧に頭を下げた。
「王都騒乱の件は大丈夫でしたか」
と俺が聞くと、
「私が星詠様をお守りしておりましたので」
戦士は胸を張って言った。
「館にも特に大きな損傷はございません」
そんな戦士に見送られ館に入った。
星詠は水晶の前に座っていた。
いつものヴェールが薄明かりの中で淡く光っていた。俺たちが来た気配を感じたのか、口元が動いた。
「待っていました」
水晶の中に光が揺れていた。
「旅について、伺いたいことがあって来ました」
俺は言った。
「聞きましょう」
星詠は水晶から視線を外さずに言った。
「ただ——今夜の星は、重いものを見せています」
「重い、とは」
「赤の会合が今週、起きます」
星詠の指が水晶の縁を静かに撫でた。
「彼岸星と暁星が交わる時、それは——眠りから何かが起き上がる兆しです」
「邪悪なものが目覚めようとしている、ということですか」
「星は嘘をつきません」
星詠の口元が、わずかに動いた。
「ただ——時を選びません。近い、とだけ申し上げます」
「旅の途中に何か待ち受けているということでしょうか」
「暁の前には必ず影があります」
星詠はそこで少し間を置いた。水晶の光が揺れた。
「あなたの道が穏やかであることを星は保証しません。気を抜かずに進みなさい」
ルーシェンが静かに頷いていた。ファルマは手を胸の前で合わせていた。エリシアが星詠の言葉を処理するように目を細めた。
「一つだけ直接聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「邪神がいずれ復活するということ——知っていますか」
星詠は答えなかった。ただ微笑んだ。
その微笑みが、肯定でも否定でもなかった。
俺は礼をして、館を出た。
5 引き締まる気持ち
館の前の通りに出ると、夕方の空が広がっていた。
「邪神の復活が近いのかもしれない」
俺は言った。
「その余波が、デンヴァールの旅の途中で来るかもしれない」
「おそらく邪神の復活は止められないでしょう」
ルーシェンが言った。
「ただ、来た時に対応できる状態でいることが大事です」
「道中に何かあることも示唆していましたね」
エリシアが言った。その声は冷静だったが、その目は既に先を考えていた。
「気をつけましょう」
ファルマが言った。小さな声だったが、その目が真剣だった。
「旅を続けながら——でも無事に帰りましょう」
俺はファルマを見た。
デンヴァールへ向かうことと、邪神の脅威が近いこと。二つが同時に動いていた。
「気を抜かないようにしよう」
俺は言った。
四人で頷いた。
夕空の下を、俺たちはエドワードの館へ向かって歩いた。