21話:正義とは
1. 揺れる心
起きてから、俺はエリシアとともに、バエルの手がかりを求めて村を注意深く見回った。
だが、昨日セレナとバエルに言われたことが、頭の中でどうしてもチラついて、考えてしまう。
イマイチ集中できなかった。
「榊様……」
エリシアが心配そうに俺を見る。
「大丈夫か、と聞いても……意味はないでしょうけれど」
「……ああ」
俺は曖昧に頷く。
村を歩きながら、ふと──無意識に言葉が漏れた。
「もしバエルを倒してしまったら、村人はどうなるんだろうな……」
「……」
エリシアが立ち止まる。
「榊様」
「ん?」
「これらの施設は、おそらくバエルの力で維持されているでしょう」
エリシアが淡々と事実を述べる。
「そして村人たちは、その生活に慣れてしまっています。これらの施設が止まったら、生きていくのは困難になるのではないでしょうか」
「……やっぱり、そうだよな」
俺は重いため息をついた。
バエルを倒すことによって起こる悲劇。それが、はっきりと見えてしまう。
「セレナは、それについてどう思っているんだろうな」
「聞いてみますか?」
「ああ」
俺たちは、村でセレナを見かけた時に声をかけた。
「また、話がしたい」
「……分かりました。夜に、あなたの部屋に伺います」
2. 天使の正義
その夜。
セレナが俺たちの部屋に来た。また結界を張り、周囲を遮断する。
俺は、名乗ってなかった名を名乗り、ずっと考えていたことを口にした。
「……一つ、聞かせてくれ」
セレナの真っ直ぐな瞳を見て、口を開く。
「バエルを討てば、この村はどうなる?」
セレナは即答した。
「守護を失います。畑は枯れ、家畜は減り、病が流行るでしょう」
「つまり──」
「多くは、生き残れません」
淡々とした声だった。感情も、躊躇もない。
俺は歯を食いしばる。
「それを分かっていて、討てと言っているのか」
「当然です」
「……」
「彼らは悪魔の力に依存し、贅沢な生活を享受してきた。神を信じることもなく、異端の恩恵に甘えてきた人間です」
セレナは静かに、しかし明確に言い切った。
「その代償を払うのは、理です」
俺は顔を上げ、セレナを見た。
「知らなかったんだぞ」
「ええ。知りませんでした」
「知らないまま、生きてきただけだ」
「それが免罪符になると?」
セレナの眉が、ほんのわずかに動いた。
「彼らは”選んだ”のです。疑問を持たず、祈らず、感謝だけを捧げる道を」
「それは選択じゃない」
俺の声が低くなる。
「与えられた環境の中で生きてただけだ。他の生き方を、知らなかっただけだ」
「では聞きます」
セレナは一歩近づいた。
「榊様は、彼らを救えるのですか?」
「……」
「悪魔を討ち、なおかつ村を維持できる力を?」
「ない」
俺は即答した。
「だから悩んでる」
セレナは、理解できないものを見る目で俺を見た。
「理解できません」
「なにがだ」
「救えないと分かっているのに、なぜ責任を感じるのですか」
俺は言葉に詰まる。
「……もし俺が、全部壊したら」
「はい」
「その後に起きることを、知っているのは俺たちだけだ」
沈黙。
「知らないまま生きて、知らないまま死ぬはずだった人間を、“正しいから”という理由で破滅させて──」
俺は拳を握った。
「それを、俺は見過ごせない」
セレナは首を傾げる。
「理解できません」
「……」
「神の秩序において、個人が背負う責任など存在しません」
「俺にはある」
「それは、榊様が勝手に背負っているだけです」
「……それでいい」
俺は、はっきりと言った。
「勝手でも、自己満足でも、俺は”やった後の地獄”を知ってて見捨てられない」
セレナは、しばらく黙っていた。
そして静かに言う。
「あなたは、とても不合理です」
「よく言われる」
「ですが──」
セレナは目を伏せた。
「それが、人間というものなのですね」
俺は小さく息を吐いた。
「分かり合えないな」
「ええ。ですが」
セレナは顔を上げ、真っ直ぐに俺を見る。
「あなたのその迷いこそが、神が人間を”危険”と判断する理由です」
「……」
「それでも、あなたは選ぶのでしょう?」
俺は答えなかった。
だが、その沈黙こそが答えだった。
セレナは立ち上がり、結界を解く。
「……榊様は、最後には神の秩序に背かぬ選択をしてくれると、私は信じています」
そう言い残して、セレナは去っていった。
3. 孤独な決断者
部屋に、沈黙が残った。
俺は椅子に座り、頭を抱える。
「榊様……」
エリシアが、静かに俺の横に立っていた。
「……エリシア」
「はい」
「俺は、一体どうすればいいんだ」
声が、少し震えていた。
エリシアは黙っている。
「バエルを討てば、村人が死ぬ。セレナを討てば、天界から粛清されるかもしれない。何もしなければ、生贄が捧げられ続ける」
「……」
「どれを選んでも、誰かが死ぬ。どれを選んでも、俺は誰かを殺す」
ーーーー
エリシアは──榊の状態を、正確に察知していた。
思考が疲弊している。正解を探すのをやめかけている。「自分が決めなければならない」重圧に潰れそうになっている。
それが、解析ではなく、感情としての違和感が先に来た。
(このままでは、彼は壊れる)
エリシアは気づく。
「受け入れる」と言うだけでは、彼を”孤独な決断者”にしてしまう。
榊が一番怖れているのは、選択そのものではなく──結果の責任を一人で背負わされること。
もしここで「どんな選択でも、私は受け入れます」と言ったら──
榊は一瞬、救われたように見えるだろう。
しかし同時に、それは判断材料を一切与えない。つまり「全部お前が決めろ」と同義になる。
(それは、彼を一人にするということだ)
エリシアは自覚する。
「選択肢」を示してはいけない。でも──「自分がどこに立っているか」は言うべき。
「……榊様」
エリシアが、ゆっくりと口を開く。
「私は──」
榊が顔を上げる。
エリシアは、少し俯きながら続ける。
「私は、あなたが誰かを切り捨てることを選ぶのが、怖いです」
「エリシア……」
「それが正しいとしても、私は悲しい」
エリシアの声が、少しだけ震える。
「それでも──あなたが選ぶなら、私はあなたの側にいます」
榊は、エリシアを見つめた。
「……お前も、辛いんだな」
「はい」
エリシアが頷く。
「私には、答えが分かりません。でも、榊様が一人で背負う必要はありません」
「……ありがとな」
榊が小さく笑う。
「少しだけ、楽になった」
エリシアも、ほんの少しだけ微笑んだ。
「今日は、休んでください」
「ああ」
4. 悪魔の誘惑
俺はベッドに横になった。
疲れていたのか、すぐに眠りに落ちた。
再び、暗闇だった。
底の見えない闇。足元すら、どこにあるのか分からない。
「……また、来たか」
俺が呟くと、闇の向こうから重い気配が滲み出る。
「逃げなかったな」
低く、落ち着いた声。バエル=クラウスが、ゆっくりと姿を現した。
「……話すことは、もうない」
「あるさ」
バエルは首を振った。
「お前は、天使の言葉に納得していない」
「……」
否定できなかった。
「神はな、信仰する者しか救わない」
俺は眉をひそめる。
「……それは、セレナも言っていた」
「そうだ」
バエルは淡々と続ける。
「知らずに恩恵を受け、疑問を持たず、祈らぬ者。神の秩序において、それは”救済対象外”だ」
「……それが、正しいと?」
俺は問い返す。
バエルは少しだけ、困ったように角を揺らした。
「正しいかどうかなど、俺は知らん」
「だが──」
バエルの声が低くなる。
「それが”現実”だ」
沈黙。
「天使とは何だと思う?」
バエルが問う。
「神の使い……だろ」
「違う」
即答だった。
「天使とは、神の判断を実行するための端末だ。感情は不要。迷いはバグ。共感はエラー」
俺の胸が、ちくりと痛んだ。
セレナの言葉が、脳裏をよぎる。
──理解できません。
──なぜ責任を感じるのですか。
「……あいつは」
俺が呟く。
「人を”数”で見ている」
「そうだ」
バエルは頷いた。
「だが、それは天使に限った話ではない。神も同じだ」
「……」
「救う価値のある群れと、切り捨てる群れを選別する」
「じゃあ、お前は違うのか」
俺は睨みつける。
「生贄を取ってるお前が?」
バエルは、否定しなかった。
「俺は悪魔だ」
「奪って、生きる存在だ」
「だが──」
バエルは、俺を見据えた。
「俺は、あの村を”維持”している」
「……」
「神は、あの村を救わない」
「天使は、切り捨てる」
「俺だけが、存続を与えている」
俺の喉が鳴る。
それは──事実だった。
「……だからって」
俺は歯を食いしばる。
「お前に協力する理由にはならない」
「分かっている」
バエルは穏やかに言った。
「お前は賢い。だから迷っている」
「……」
「天使を排除するリスクを、正確に理解している」
俺の背筋が冷える。
「天界に、どんな目があるか分からない」
「天使一体を失った時、何が”異常”として検知されるか分からない」
「……」
「そして──」
バエルの声が、わずかに低くなる。
「その先にある”粛清”が、どの規模かもな」
俺は、はっきりとした恐怖を感じた。
村どころじゃない。自分も、エリシアも、世界ごと消される可能性。
「……くそ」
「だからお前は、選べない」
バエルは責めるような口調ではなかった。
むしろ、理解している者の声音だった。
「俺に傾いている自覚があるからこそ、踏み出せない」
俺は俯いた。
「……俺は」
声が、少し震える。
「正しいことがしたいだけなんだ」
「だが、どれも正しくない」
「どれかを選べば、必ず誰かを殺す」
沈黙。
「なあ、榊」
バエルが名を呼ぶ。
「お前はもう、気づいている」
「この世界に──」
「“誰も傷つかない正解”など、存在しない」
俺は、答えなかった。
答えられなかった。
「考えろ」
バエルは、闇へと溶けていく。
「天使を斬るか」
「悪魔を斬るか」
「あるいは──」
最後の言葉が、耳に残る。
「“人間であること”に、縋り続けるか」
俺は、闇の中で一人立ち尽くしていた。
それでも、目を逸らしたまま立ち続けることだけは──もう、できなかった。
自分が、どこまで落ちかけているのかを、はっきりと自覚しながら。
人によっては榊がすごく優柔不断に見えるかもしれません。しかし、実際に同じ場面になったとしたら、自分も簡単に答えを出すことができない…というか、ことなかれな方向に流されると思います。責任感が強いがための苦悩ですね。