第64話:帰れない街、帰りたい場所
1.地上への出口
気づいたら、階段を登り切っていた。
しかしそこにあったのは、塔の次の階ではなかった。
コンクリートの壁。手すりの冷たい感触。そして——地上へと続く出口から差し込んでくる、雑踏の音と排気ガスの混じった空気。
俺は疑った。だが、足裏の感触が現実だと告げていた。足元のタイルの固さ。手すりの錆の感触。鼻をかすめる、この街特有のにおい。
振り返ると、ルーシェンとファルマとエリシアが、俺の後ろで階段を登り切ったところだった。
ルーシェンはすぐに周囲を見渡し、何かを察したような顔になった。髪を後ろにまとめ、シンプルなシャツとスラックスを着ている。異世界の魔法使いの面影は欠片もなく、街中で出会ったら誰もが振り返るような、整った顔立ちのイケメンとしか見えない姿だった。
ファルマは全身で戸惑っていた。白いワンピースのスカートを両手で掴み、目を見開いたまま上を見て、横を見て、また上を見ていた。高い天井と剥き出しの蛍光灯の光に、どこか怯えるように身を縮めている。
エリシアは女性用スーツを着こなした姿で、一見すると完全に現代のキャリアウーマンだった。しかし目が据わっていた。情報を処理しきれていない、というより、処理を一度止めているような顔だ。
「……これは」
ルーシェンが静かに言った。
「試練ですね」
「そうだと思う」
俺はそう言って、出口へ歩き出した。
地上に出た瞬間、世界が広がった。
池袋だった。
交差点の向こうに見慣れたビルの看板が並び、横断歩道を人の波が流れていた。遠くでクラクションが鳴り、上空では広告の電光掲示板が次々と画面を切り替えている。昼間の繁華街特有の、雑多で活気のある空気が全身に押し寄せてきた。
「……知っている街ですか?」
ルーシェンが俺の隣に並んで小声で聞いた。
「ああ。よく来ていた」
俺がそう答えた時、後ろからファルマが短い悲鳴に近い声を上げた。振り返ると、目の前を横切っていったバスに後退している。
「あの——あの鉄の塊は、なんですか、榊さん、あれは、動いていて、中に人がいて——」
「バスだ。乗り物だ。危なくない」
「な——なぜ馬がいないのに動くのですか」
「エンジンという仕組みがあって——説明すると長い、今は大丈夫だとだけ思っておいてくれ」
エリシアは俺とファルマのやりとりを聞きながら、ビルの壁面に張り付いた大型ビジョンを見上げていた。
「……あの映像は」
「テレビと同じ原理だ」
「そうですか」
エリシアは頷いた。
「……ところで今、私たちは塔の何階にいますか」
「今はそれを考える段階じゃないだろ」
エリシアは一瞬沈黙した後、
「失礼しました」
情報量に頭が追いついていないのが見えた。
俺たちが立っていた場所の周囲を、通行人がちらちらと視線を向けながら通り過ぎていった。ルーシェンの整った顔に、ファルマの目を引く白いワンピース。エリシアは一見普通に見えるが、その顔立ちが明らかに浮いている。三人とも、この街の人間と少し違う何かを放っていた。
「目立つな」
「仕方ないでしょう」
ルーシェンが苦笑した。
まず落ち着ける場所に移動する必要があった。俺はポケットに手を突っ込んで、反射的に財布を確認した。ある。お金も入っている。
俺の記憶が土台になっているはずだ。なら、俺がよく行っていたあの店も——。
「少し歩くが、ついてきてくれ」
2.カラオケボックスの現状会議
よく来ていたカラオケチェーンは、記憶の通りの場所にあった。
入口のガラス扉を開けた瞬間、ファルマが音楽と冷房の空気に一歩後退した。ルーシェンは興味深そうに店内の構造を観察していた。
エリシアは
「この音楽はどこから」
と呟いて、天井のスピーカーを見上げていた。
カウンターに顔見知りの店員がいた。大学時代からよく来ていた店で、バイトの子とは何度か話したことがある。
「あ、榊さん! 久しぶりですね」
彼女は俺を見て笑い、それからすぐ俺の後ろに視線を移した。
「……え、その方たち、もしかして外国の方ですか? すごい、みなさん顔が——」
「友人です。部屋一つ、二時間で」
「あ、はい! でも、本当に顔が——特にそちらの方、モデルさんですか?」
ルーシェンの方を指さしながら聞いてくる。ルーシェンは日本語を理解している素振りを見せず、にこやかに微笑んでいた。
「違います。あと、飲み物はコーラを四つ」
「はーい。でも本当に——」
「ありがとう、部屋の番号だけ教えてもらえると」
どうにかカウンターを切り抜けて、案内された部屋に入った。
ファルマは入ってすぐ正面の大型モニターに釘付けになった。待機画面の映像が流れているだけなのに、その色と動きに目が離せないようだった。エリシアはリモコンを手に取り、無言でじっくりと観察していた。
「座っていい。椅子だから」
全員を座らせて、俺も腰を下ろした。
「ここは——ルシエラの試練です」
ルーシェンが口を開いた。声は落ち着いていたが、その目は真剣だった。
「榊さんの元の世界、あるいはそれに極めて近い精神世界の中にいる。五感は全て機能している。これを現実と区別する方法が、今の私には見当たりません」
「俺もそう思う」
俺は言った。
「試練の意図はわからないが、少なくとも塔の次の階に繋がる出口がどこかにある。脱出方法を考える必要がある」
「出てきた階段を戻れば——」
「それが一番試す価値がある。ただ来た道を戻るだけで次の階に出られる可能性がある。後で確認する」
「もし戻れなければ?」
ルーシェンが静かに続けた。
「この世界は俺の記憶から作られているはずだから——俺が知らない場所や、細部に違和感があるはずだ。そこが出口になる可能性もある」
「では榊さんが普段見ない場所を意識して見るということですね」
「一度も行ったことのない場所に行くのも試す価値がある。記憶にない場所は、この世界が作り切れていないはずだから」
ルーシェンは頷いた。エリシアはリモコンを置いて
「出口の候補を整理すると」
と言いかけ、ドアがノックされてコーラが運ばれてきた。
グラスに氷と一緒に注がれたコーラを、ルーシェンとファルマとエリシアの前に置いた。
「飲んでみてくれ。この世界の飲み物だ」
ルーシェンが一口飲んで、目を丸くした。
「……炭酸飲料ですね。知識では知っていましたが、これが——」
ファルマは一口飲んだ瞬間、口を押さえた。
「なんですか、これ、舌が——泡立つ——」
「慣れると癖になる」
エリシアは飲んだ後、しばらく沈黙して言った。
「これが毎日飲めるのは羨ましいです」
俺は自分のコーラを一口含んだ。
懐かしい味がした。バカみたいに当たり前の、いつでも飲めると思っていたあの味が、今は胸の奥を妙にくすぐった。ここが精神世界だとわかっていても、それは変わらなかった。
3.地下鉄と、見つからない出口
飲み物が届いた後、ファルマが俺の袖を引いた。
「あの——一つお願いがあるのですが」
「何だ」
「あの機械は——」
ファルマはモニターを指さした。
「あれで歌が歌えると聞きました。せっかくカラオケというところに来たのだから——」
「この言葉は聞いた事ないはずなのに、何故か分かりますし……」
そういえば、あまりに自然で気づかなかったけど普通に日本語使っているな。
ルーシェンが小さく笑った。
「ファルマさんらしい」
「試練の最中に悠長な、と言いたいところだが」
俺は苦笑した。
「少しだけなら」
ファルマの喜ぶ顔を見ながら、リモコンで曲を入れた。ファルマが選んだのは一番上に出てきた曲で、彼女はその場で立ち上がり、モニターを食い入るように見ながら一生懸命流れる文字を追って歌った。ほとんど読めていないはずなのに、音の真似だけで懸命についていこうとする姿が、妙に可愛かった。
ルーシェンは聞きながら静かに微笑んでいた。エリシアはモニターの映像の仕組みを考えているのか、じっと画面を見ていた。
俺も一曲だけ歌った。学生の頃よく歌っていた曲。声に出すと、それだけで色々なことを思い出した。
カラオケを出て、地下鉄の入口へ戻った。
出てきた階段を降りていく。一段、二段、三段——。
改札口があった。普通の地下鉄の改札口が。
「……」
ルーシェンが俺の横に並んで、黙って見ていた。
「駄目だ。ただの駅だ」
俺は頭を切り替えて、切符を全員分買うと、改札を抜けて構内に入った。ホームに下りて、電車を待ちながら周囲を観察する。床の模様、柱の広告、天井の照明——全て自然だった。あまりに自然すぎて、どこに違和感を探せばいいのかわからないほどだった。
「こんな地下の……狭いところに、あんな鉄の箱が走るなんて……」
ホームに滑り込んできた地下鉄を見て、ファルマは思わず俺の袖を掴んだ。
低く響く走行音に肩を震わせていたが、俺が仕組みを説明すると、何とか息を整えた。
「地面に鉄の道を敷き、その上を鉄の箱が走る。さらに人を乗せて定期的に運ぶ……これは画期的ですね」
ルーシェンは相変わらずだった。イケメンがそんな子供みたいに目を輝かせるな。無駄に注目を浴びる。
いくつかの駅で乗り降りして、普段は特に意識しなかった部分——路線図の細かい字、表示板の端の汚れ、ホームの端の構造——を確認して回った。記憶の細部を確かめるように。
しかし何も見つからなかった。
この世界は精巧だった。あるいは、俺の記憶がそれだけ細かいのかもしれなかった。
また池袋に戻って来る。
一度地上に出て、別のルートから歩いてみることにした。
4.変わらない三人
地上に出て少し歩いたところで、声をかけられた。
「あれ——榊?」
振り返ると、田中が立っていた。
変わっていなかった。あの顔のまま、あの笑い方のまま。その後ろに山田と渡辺もいて、渡辺は田中の声に気づいて一緒にこちらを見ていた。
「……田中」
「なんだよ、久しぶりじゃん! 連休だからみんなで来てたんだよ。お前もか?」
田中はそう言いながら、俺の後ろにいるルーシェンたちを見て動きを止めた。
「え——」
田中の視線がルーシェンを捉え、次にファルマを捉え、エリシアで止まった。
「え、誰? この人たち、誰?」
「友人だ」
「友人、って——榊、お前こんな友人いたの?」
山田が穏やかな声で割り込んだ。
「榊くん、久しぶり。その方たちは——外国の方?」
「まあそんなところだ」
「そっか、でも本当に綺麗な人たちだね」
山田はさらりと言って、それからファルマを見てルーシェンを見た。
「特にそちらの方——モデルさんとかじゃないの?」
渡辺が苦笑しながら田中の背中を叩いた。
「田中、じろじろ見るな。失礼だろ」
「いや見るだろこれは普通——」
田中はファルマの方に一歩近づいた。
「あの、もしよかったら連絡先——」
「やめとけ」
山田が静かに、しかしきっぱりと言った。
「榊くんの友人に対してその態度はどうかと思うよ」
「ちょっとくらいいいじゃん——」
「田中」
渡辺が肩を掴んで引き戻した。
「本当に失礼だから」
この三人のやりとりが、何一つ変わっていなかった。田中がやらかして、山田が毒を一言混ぜながら止めて、渡辺が体で引き戻す。何度も見てきた光景だった。
俺は渡辺に向かって
「そういえば——インフルエンザで入院してたんじゃなかったか」
と聞いた。
「何それ、いつの話? もう半年以上前だよ」
渡辺が苦笑した。
「ちゃんと完治してる。心配してくれてたなら早く連絡しろよ」
呆れたような、しかし嬉しそうな声だった。
「……そうだな」
「せっかくだから飯行こうぜ」
田中が気を取り直したように言った。
「俺の行きつけの寿司屋あるんだよ、安くてうまいとこ。外国の方も来てくれていいから、ね?」
三人が並んで俺を見ていた。
田中の変わらないお調子者の顔。山田の穏やかな、しかし何でも見透かしているような目。渡辺の日焼けした、さわやかな笑顔。
三人は、いつもの距離で立っていた。
それだけで——何かが胸の奥で崩れた。
泣きそうになっていた。自分でも驚くくらい、突然。
俺がいなくても、この三人はこうして笑っていたのだと思うと——。連休に集まって、飯を食いに行って、田中がやらかして山田が突っ込んで渡辺が止めて——そういう日常を続けていた。それが当たり前のことのはずなのに、今の俺にはそれがたまらなかった。
「……榊?」
渡辺が眉を寄せた。
「どうした」
「目にゴミが入った」
「え? 大丈夫か」
「大丈夫だ。行こう、寿司屋」
俺は目の端を拭って、歩き出した。
後ろから、ルーシェンの視線を感じた。
何も言わなかった。ただ静かに、俺の後に続いて歩いていた。その目が何を見ていたか——確かめるのが怖かった。
榊の同僚三人
田中:榊とほぼ同じ背丈。お調子者で女好きだが、相手の嫌がる線は決して踏み越えない妙な律儀さがある。飲み会では必ず場を回し、空気が沈むと無意識に冗談を放り込むタイプ。憎めない男。
山田:三人の中で最も小柄。穏やかで人当たりもいいが、時折、場の核心を突く毒をさらりと吐く。田中の暴走を止める役回りだが、その実いちばん冷静に周囲を観察している。
渡辺:一番背が高く、爽やかなスポーツマンタイプ。営業先からの評判も良い。田中と山田の掛け合いを楽しみながら、少し離れた位置で全体を見ている。三人の中では最も感情を表に出さない男だった。