ホラーかと思ったら異世界召喚だった   作:絵成数基

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さよならの前に

第66話:さよならの前に

 

1 水の中の光

 

 スカイツリーの下層に水族館があることは知っていた。ただ来たことはなかった。

 チケットを買って中に入った瞬間、ファルマが立ち止まった。

 青い光だった。大きな水槽が壁一面に広がり、その中を魚の群れが流れるように泳いでいた。光が水に屈折して、床にも天井にも揺れる模様を作っている。

「……水の、中?あれ?セイレーンの指輪はないのに……」

 ファルマが呟いた。その声が、信じられないものを見る時の声だった。

「ガラスで仕切られた水槽だ。中は海水で、魚を飼育している」

「あの魚は——生きているのですか」

「生きている」

 ファルマはしばらく動けなかった。ガラスに近づいて、魚が目の前を通り過ぎるたびに顔を傾けていた。その横顔が、子供のそれに見えた。

 エリシアは水槽の構造を観察していた。

「ガラスがこれほどの水圧に耐えられる理由は」

と俺に聞いてきたので、強化ガラスと説明しようとして途中で

「後で詳しく」

と切り上げた。エリシアは

「了解です」

と頷いてから、やはり魚の方に目を戻した。その目が、普段より少し柔らかかった。

 ルーシェンは大きなエイが頭上を通り過ぎた瞬間、思わず足を止めて見上げていた。その口元が、微かに開いていた。普段の落ち着いた立ち居振る舞いが、少しだけ崩れた瞬間だった。

「あれは」

「エイだ。軟骨魚類」

「……」

ルーシェンはしばらく見上げたまま動かなかった。

「知識では知っていましたが、実物はこれほど」

「大きいだろ」

「大きいというより——」

ルーシェンは言葉を選んだ。

「優雅ですね」

 田中はファルマの隣に陣取って、魚の名前を説明していた。ファルマは少し苦笑いしながら聞いていたが、田中は楽しそうだった。山田が、

「田中、あの情熱を別のことに活かせばいいのに」

と呟き、渡辺が笑った。

 俺は少し後ろから全員を見ていた。

 ここに来ることは二度とないだろう。そう思いながら見ると、全てがやけに鮮明に見えた。水槽の青い光も、ファルマの驚く顔も、田中の騒がしさも——全部、今日だけのものだ。

 その思いを打ち消すように、俺は前へ歩いた。

 

2 浅草寺の参道

 

 スカイツリーの展望台から浅草寺の屋根が見えた時、ファルマが指さして

「あれは何ですか」

と聞いていたので、行ってみることにした。

 雷門をくぐった瞬間、ファルマが息を呑んだ。

 参道の両側に並ぶ店、その先に続く仲見世の賑わい、そして奥に構える本堂の大屋根——全部が一直線に視界に飛び込んでくる。赤と金と人の色が混ざって、独特の密度を持った景色だった。

「……これが、神社?」

ファルマが聞いた。

「寺だ。少し違う」

「どう違うのですか」

「説明すると長いが——どちらも祈る場所だ、と思っておいてくれ」

 ファルマは頷いてから、仲見世をゆっくり見て回り始めた。並んでいる食べ物に一つずつ目を止め、何かを見つけるたびに俺を振り返った。

「あれは」

「人形焼きだ。食べられる」

「あれは」

「雷おこし。これも食べられる」

「あれは——あれも食べられますか」

「大体全部食べられる」

「食べ歩きしようぜ」

田中が言って、いくつか買い始めた。人形焼きを渡されたファルマが一口食べて、また例の顔になった。今日何度目かのその顔に、俺は笑いそうになった。

 本堂の前で、エリシアが俺の横に来た。

「榊様」

「何だ」

「さっきから、時々遠くを見ていますね」

 俺は参道の先を見ていた。観光客の流れの向こう、仲見世の屋根越しに夕方の空が少し赤みを帯び始めていた。

「……そう見えるか」

「見えます」

エリシアは珍しく、静かに隣に立ったままでいた。何かをしようとするわけでなく、ただそこにいた。

「私は——うまいことを言える立場ではありませんが」

「うまいことは言わなくていい」

「では何も言いません」

 エリシアはそのまま黙って、本堂を見上げていた。その沈黙が、妙に助かった。

 本堂の中で線香の煙が漂っていた。ファルマがおみくじに興味を持ち始め、田中が日本語で書かれた内容を翻訳しようとして山田に

「その日本語の読み方が怪しい」

と突っ込まれていた。

 俺は線香の煙を見ながら、思った。

 異世界に戻ると決めた。その決断は変わっていない。変わっていないのに、田中たちを見るたびに、何かが足を引っ張ろうとする。

その名前は、もうわかっていた。

ただ、それを認めてしまえば——決断が揺らぎそうだった。

 

3 もんじゃ焼きと別れ

 

 夕方になった頃、田中が

「腹減った」

と言い出した。

「結構食べ歩きしただろ」

山田が突っ込むが、次の瞬間山田のお腹の音が鳴った。

「もんじゃ行こう。月島まで行けばいいのあるけど、この辺でも旨い店知ってる」

 連れていかれた店は浅草から少し歩いた場所にある古い構えの店だった。鉄板を囲んで全員が座り、材料が運ばれてきた。

 ファルマが鉄板を見て、

「これで焼くのですか」

と聞いた。田中が張り切って実演し始め、外側を作って中の具を閉じ込め、堤防を崩してゆっくり広げていく。ファルマはその工程をずっと見ていた。

「……これは料理、なのですか?」

「料理だ」

俺は答えた。

「作り方が——」

ファルマは言葉を探した。

「見たことがない形の料理です」

「食べてみればわかる」

 小さなヘラで少し取って口に入れたファルマが、今度は少し違う顔をした。驚きではなく、考えながら味わっている顔だった。

「……おいしい、と思います。ただ、どう美味しいのかを説明できない」

「そういう食べ物だ」

 エリシアは一口食べて、

「これは何の食感ですか」

と聞いてきた。

「もちもちしているような、していないような」

「そういう食べ物なんだ」

「了解です」

 ルーシェンは黙って食べていた。その目が時々俺に向いた。

 食べながら田中が

「今夜は飲もうぜ」

と言い出した。俺が

「ファルマが未成年なんだ」

と答えると、田中が

「まじか」

と言いながらファルマを見た。ファルマが首を傾けた。

「……たしかに若いなとは思っていたけど」

山田が静かに言った。

「そういうわけで今日は解散にする」

「じゃあ今度ゆっくり飲もうぜ」

田中が言った。

「L〇NEもっとくれよ、返信遅いんだから」

「気をつける」

「横浜に行った時は飯誘えよ」

渡辺が言った。

「関内は飯旨い店多いから、案内するよ」

「ありがとう」

「また遊ぼうぜ」

田中が当然のように言った。

 その言葉に、俺は

「ああ」

と答えた。

 喉の奥に何かが詰まった。また遊ぼう。もう二度と使えない言葉を、田中は何の気なしに言う。そのことがわかっているのは、この場で俺だけだ。

浅草橋で電車に乗り、揺れる車内で田中たちと並んで立った。

 秋葉原で田中と渡辺が乗り換えた。

「じゃあな」

田中が手を振った。

「ほんとL〇NEしろよ」

「する」

「またな、榊」

渡辺が笑った。

 扉が閉まった。

 山田は御茶ノ水で降りた。振り返り際に

「無理するなよ」

とだけ言った。それだけだった。山田らしかった。

 扉が閉まって、車内に俺たちだけが残った。

 ルーシェンが何も言わなかった。ファルマも、エリシアも。

 電車が動いた。

 

4 上野公園、決断

 

 上野に着いた頃、空は完全に暗くなっていた。

 公園に入ると人通りが減った。街灯の光の下、木が並ぶ道を四人で歩いた。

「少し話がある」

 俺は歩きながら言った。スカイツリーでルシエラと話したことを説明した。帰れること、タイムリミットが今夜の二十四時であること、次に帰れるのは何百年も先だということ。

 誰も遮らなかった。

 話し終えた頃、前から若い男が二人、ファルマとエリシアに向かって声をかけてきた。

「ねえ、ちょっと——」

「帰ってくれ」

「……!?」

 俺は穏やかに言った。声を荒げなかった。しかし男二人は俺を一度見て、何も言わず去っていった。

 ファルマが俺を見た。

「今、何もしていませんでしたよね」

「そうだが」

「でも——あの方たちがとても怯えた顔をしていました」

 俺は少し考えた。自分の存在が、この世界の基準に合わなくなっているのかもしれない。剣を持ち、闇の力を扱い、魔物と戦う体になった俺が出す気配は——現代の人間が持てるものではなくなっているのだろう。

 西郷像の前まで来た。

 像は変わらずそこに立っていた。犬を連れた、重たい体の像。

 ファルマが立ち止まって俺を見た。

「榊さん」

「何だ」

「帰っても——いいと思います」

 その言葉の重さを受け取りながら、俺はファルマを見た。

「この世界が、こんなに穏やかで綺麗なところだと知りました」

ファルマは俯いていたが、声はしっかりしていた。

「榊さんにはここに戻る権利があると思います」

「私も同じ意見です」

エリシアが続けた。言葉はあっさりしていたが、その瞳は揺れていた。

 心が、揺れた。

 揺れながら——俺は首を振った。

「戻らない」

 自分の声は、思ったより落ち着いていた。

「理由は一つじゃない。でも——俺はあっちに戻る」

 ファルマが唇を結んだ。エリシアが前を向いた。ルーシェンは最初から何も言わなかった。

 俺は西郷像を見上げて、目を閉じた。

 心の中で名を呼んだ。

ルシエラ。

 世界が止まった。

 音が消えた。公園を歩く人の足音も、遠くの車の音も、木を揺らす風も——全部が、ある瞬間を境に動かなくなった。止まった世界の中で、四人だけが息をしていた。

 銀色の光が集まった。

 ルシエラが現れた。半透明の白いローブで、目を閉じたまま、像の前の空気の中に立っていた。

「決まりましたか」

「ああ」

「もう二度と、この世界には戻れません」

「わかっている」

「後悔しませんか」

 俺は少し間を置いた。嘘をついても仕方ない。

「後悔はすると思う。でも、それでもだ」

 ルシエラは目を閉じたまま、わずかに頷いた。

「では——塔の最上階で待っています」

 その声が終わると同時に、世界が動き出した。

 足音が戻った。車の音が戻った。風が木の葉を揺らした。

 ルシエラはいなかった。

 俺たちは上野公園の夜の中に立っていた。

 

5 最上階

 

 気づいた時、石の床に立っていた。

 塔の中だった。

 同じような作りの、いくつかの階を通ってきた記憶の延長として、俺たちはその階の中央に戻っていた。元の服に、元の装備に戻っていた。手に持った水の剣の感触が、現実を確かめさせた。

「……戻りましたね」

ルーシェンが静かに言った。

「ああ」

「大丈夫ですか」

「大丈夫だ」

 大丈夫ではなかった。でも大丈夫だと言わなければならない理由があった。思わず、もう無いはずのポケットから、スマホを取り出そうとして――手が空を切った。

「あそこに階段がある。行こう」

 誤魔化すように言いながら、階段を登り始めた。

 今度の階段は、今まで来た階のどれとも違った。崩れていない。埃も少ない。まるで誰かが手を入れているような、清潔な石段が続いていた。

 登りながら、俺は目を細めていた。

 にじんでいた。視界が少しだけにじんでいた。拭いても、またにじんだ。仕方ないので、そのまま登った。後ろから心配そうな気配がしたが、振り返らなかった。

登り切った先は、部屋だった。

 今まで来た階とは全く違う空間だった。埃がなく、窓から月の光が差し込んでいた。壁に彫刻が刻まれていて、床の石畳は整然と並んでいた。

 部屋の中央に、棺桶があった。

 古い石造りの棺桶が一つ、ただそこに置かれていた。

 その上に、銀色の光が浮かんでいた。

 半透明のローブをまとった姿が、宙に静かに浮いていた。目を閉じている。

 俺たちが部屋に入った気配を、その存在は感じ取ったようだった。

「待っていました」

 ルシエラの声が、石の部屋に静かに響いた。

 

 

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