プロローグ:幼馴染がウマ娘になった
夏休み明けの教室っていうのは、いつだって少しだけ嘘くさい。
みんなちょっと背が伸びて、日焼けの皮が剥けかけて、昨日までの自分とは違う何かを演じている。でも、あの日の朝の静寂は、そんなお気楽なもんじゃなかった。
「みんな、驚くかもしれないけれど……」
担任の、なんだか自分に言い聞かせているような、妙に落ち着きのない声が響く。
「今日から、北島くんは『キタサンブラック』ちゃんとして登校します」
その言葉と同時に入ってきた「彼女」を見た瞬間、教室中の空気が一気に吸い取られた。
だって、おかしいだろ。ついこの間まで——そう、一学期の終業式まで、一緒に泥だらけでサッカーして、隙あらば女子のスカートを捲ってバカ笑いしていた、あの「黒」がそこにいるはずだったんだ。
そこに立っていたのは、透き通るような白い肌と、深夜の雨に濡れたような黒髪を持つ、一人の美少女だった。頭の上ではウマ娘特有の耳が、戸惑うようにピコピコと動いている。
誰がどう見ても、文句のつけようがない圧倒的な「女の子」。
「……よ、よお、みんな! 驚かせちまって悪いな。今日からキタサンブラックだ。よろしくな!」
笑い方だけは、確かにあいつだった。けれど、無理に作ったわけじゃないその声は、俺たちの知っている「黒」の濁ったガラガラ声じゃなくて、澄んだ、高い、胸の奥を直接指で弾くような響きに変わっていた。
俺はあいつを見て、最初に何を思ったんだろう。「ドキッとした」なんて、そんな軽い言葉じゃ足りない。昨日までの親友が、触れたら壊れてしまいそうな、自分とは別の世界の住人になってしまった。
……たぶん、これが俺の「初恋」の始まりだった。
休み時間になっても、クラスの連中は遠巻きにヒソヒソと噂をするだけだ。触れちゃいけない、綺麗な壊れ物。そんな視線があいつに突き刺さる。俺は、自分の心臓がうるさく鳴るのを無視して、わざとガサツな足取りであいつの席まで歩いていった。
「……なんだよ、そんなにジロジロ見て。変か?」
黒が、少し恥ずかしそうに、でも必死に「いつものオレ」を装って笑った。
その笑顔に、俺は喉の奥がキュッとなった。
「……別に。変じゃねーよ」
俺は、喉まで出かかった「綺麗だ」という言葉を飲み込んで、わざとぶっきらぼうに言った。
「ただ、その……お前、スカートなんだな」
「おう。なんかスースーして落ち着かねーんだよこれ。先生に『女の子らしい服装で』って言われてよ……。なあカズユキ、パンツ丸見えになってねーか?」
あいつはそう言って、昨日までと同じ感覚で、ガバッと椅子の上で足を広げようとした。
「バカッ! やめろ!! 全力でやめろ!!」
俺は光の速さで飛び込み、あいつの机を全身でガードした。
「な、なんだよ急に!? びっくりするだろ!」
「びっくりしたいのは俺の方だ! お前、今からはもう、そういうの1ミリも気を抜くな! 俺が死ぬ!」
「お前が死ぬのかよ!?」
至近距離で見上げるあいつの瞳は、吸い込まれそうなほど澄んでいて、長い睫毛が揺れている。鼻腔をくすぐったのは、男子の汗臭い匂いなんかじゃなかった。石鹸のような、花の蕾が綻んだような、切なくて、甘い、女の子の匂いだ。
「……っ。お前、今からはもう、そういうの気をつけろよ」
「……あ。……おう。わりぃ」
俺の気迫に押されたのか、あいつは初めて「自分が女の子として見られている」という事実に気づいたような顔をした。頬が、じわじわと林檎みたいに赤くなる。
「……サンキュ、カズユキ。お前だけだぜ、今まで通り怒鳴ってくれたの。他のみんな、なんか俺をガラス細工みたいに見てくるからさ」
あいつは俯いて、小さな声で言った。
長い黒髪の間から覗く耳が、恥ずかしそうにパタパタと震えている。
その時、俺は確信してしまった。俺の親友の「黒」は、半分死んでしまったんだ。目の前にいるのは、俺が男として守らなきゃいけない、危うい「少女」なんだ。
「……当たり前だろ。俺たちは……相棒だろ?」
黒は顔を上げ、涙を堪えるようにフッと笑った。
悪友の笑顔と、美少女の表情。その二つが混ざり合った、この世で最も尊くて、そして、残酷なまでに「罪深い」笑顔だった。
◇ ◇ ◇
小6の秋。
親から聞いた風の噂で、あいつが中学から『トレセン学園』に進学すると聞いたとき、俺の心はもう決まっていた。あんな風に耳や尻尾が生えて、性別まで変わってしまった「ウマ娘」としての黒を、あいつらしくいさせてやれる場所なんて、きっとあそこ以外にはないんだ。
普通の学校にいれば、あいつはただの「綺麗なキタサンブラックさん」という記号にされて、中身の「ジャンプの発売日に命をかけてる北島黒」は誰にも見てもらえなくなる。周りの男子たちが、お姫様を扱うような敬語で話しかけているのを、俺は冷めた目で見ていた。あいつらが追いかけているのは「書き換えられた後」の表面だけで、その内側にいるヤツを愛しているわけじゃないんだ。
俺は、あいつを一人で行かせたくなかった。
放課後の教室。夕日が差し込んで、すべてがオレンジ色の嘘みたいに綺麗に見える時間。あいつは日記帳を大事そうに抱えて言った。
「オレさぁ~、中学からはトレセン学園に行くことに決めたんだ。……離れちゃうけど、忘れないでくれよな?」
「……俺も、トレーナーとしてそこに行く」
俺がそう告げた瞬間、あいつは数秒間、完全にフリーズした。
「……は? ……お前、何言ってんの?」
訝しげな顔で俺をのぞき込んでくる。
「お前確か、中学受験して名門大の付属行くんだろ? お前の母ちゃん、三者面談で『A判定です!』って鼻の穴膨らませて喜んでたじゃん」
「……名門大の付属? ああ、そんなもんあったな。昨日、よくわかんねーハガキ家に来たけどさ、ゴミ箱に捨ててきたよ」
「捨てんなよ! 受験票だろ、それ!」
俺は窓の外を眺めながら、自分でも引くくらい冷静に答えた。
母さんが毎日ヒステリックに語っていた「将来」とか「肩書き」なんて、こいつが「キタサンブラック」という異形に変えられたあの日から、俺にとってはガラクタ同然の価値しかなくなっていたんだ。
「そんなもん、お前の横にいることより価値があるとは、どうしても思えなかったんだよ」
「……。カズユキ……」
クロは言葉を失って、日記帳をギュッと抱きしめた。
夕陽を浴びた長い睫毛が、金色の針みたいに震えている。
(俺がいない場所で、こいつを「ウマ娘」として勝手に開花させて、誰かにさらわれたくない)
俺の胸の奥で、独占欲という名の黒い泥が、音もなく鎌首をもたげた。それは純粋な優しさなんかじゃない。もっとドロドロとした、共依存へ誘う呪いみたいな情念だったんだと思う。俺はあえて視線を逸らさず、まっすぐにあいつを見た。あいつの鋭敏な耳がピクンと跳ねて、石鹸のような甘い匂いが、また鼻を突いた。
沈黙が流れる。
あいつは何かを言いかけて、けれど喉の奥で飲み込んで、ただ激しく鳴る心臓の音を隠すように俯いた。
「……トレセン学園、本当に行くんだな? その、オレの、トレーナーになるために」
あいつは消え入りそうな声で、でもどこか期待を隠しきれない顔で確認してくる。
「……ああ。決めたんだ。お前みてえな暴れウマの担当は、俺以外に務まるわけねーだろ?」
「ぷはっ、なんだそれっ」
クロはケタケタと笑う。
そんなクロを見て俺もつられて笑ってしまう。
二人の、甘酸っぱくて、でも誰よりも熱い「お祭り」が、いよいよ始まろうとしていた。