幼馴染がウマ娘になった話   作:サボテニウム

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第10話:沈黙のレッド・クリムゾン(前編)

 

 

 

「……らぁっ! あと一本、あの電柱まで……ッ!!」

 

 夕暮れの川沿いの土手。アスファルトを蹴り上げるその音は、可憐なウマ娘の足音というより、獲物を追う獣のそれに近い。全身から湯気を立て、滴る汗を拭おうともせず、クロはただ前だけを睨んで疾走する。俺は錆びついたママチャリのペダルを悲鳴を上げさせながら、必死にその横に食らいついていた。

 

「おい、アゴ上がってんぞ! フォーム崩れたら意味ねーだろ!」

「……うっせー! 分かってらぁ……ッ!」

 

 荒い呼吸。歪んだ表情。  

 

 道行く人が見れば「可憐な美少女が無理をさせられている」と眉をひそめるかもしれない。だが、俺には分かる。今、こいつは「キタサンブラック」という美しい器の中で、泥だらけの「男」の魂を燃やしているんだ。ダイヤちゃんに守られた情けない過去の自分を、この一歩一歩でアスファルトに擦りつけ、削ぎ落とそうとするように。

 

 その姿は痛々しいほど不器用で、どうしようもなく応援したくなる。

 

「……よし、ラスト! 全力で回せ!!」

「うおおおおッ!!」

 

 クロが最後の力を振り絞り、加速したその時だった。

 

「……えっ……ぁ……」

 

 突然、先を走っていたクロがガクンと膝をついた。

 

「……っ、……あ、……クソッ……」

 

 夕暮れのアスファルトの上、あいつは下腹部を抱え込むようにして、今まで見たこともないような青白い顔でうずくまっている。

 

「おい、クロ! 足か!? それとも……」

「……わかんねぇ、……急に、腹の中に熱い鉄板を入れられたみたいに……っ!」

 

 脂汗を流し、激痛に耐えるクロ。その時、俺の目に信じられない光景が飛び込んできた。クロが履いているトレセン学園指定の短パン(女子用)。その太ももの付け根から、鮮やかな、けれど重苦しい赤が、一筋、ツーッと伝い落ちた。

 

「……え?」

 

 クロも自分の足元に落ちた「それ」に気づき、動きを止めた。

 

「……血? ……なんで……。オレ、どこか切ったか……? 転んでねーぞ……。おい、なんで……止まんねぇんだよ……」

 

 クロのルビーのような瞳が恐怖に揺れる。  

 

 中1。身体が劇的に作り変わる時期。昨日まで「男」の意地で走っていたその内側で、残酷なほどに正確なリズムで、「女」としての仕組みが産声を上げたんだ。

 

「……あ、……あぁ……」

 

 状況を理解した瞬間、クロの顔から表情が消えた。「初潮」。それは、どんなに魂が「男」だと叫ぼうとも、この身体が「未来を産むための雌」であることを突きつける、絶対的な拒絶の儀式。

 

「嫌だ……。嫌だ、嫌だ!! なんでだよ!! オレは、オレは男だろ!! なんでこんな……女の、女の証拠みたいなもんが……っ!!」

 

 クロは血のついた自分の足を、まるで汚らわしいものを見るかのように、ボロボロと涙をこぼしながらかきむしった。中身が「男」のままで、外側だけが「キタサンブラック」という完成された美少女へと成熟していく歪み。

 

 その最初の「破綻」が、今この瞬間に訪れた。

 

「……見んなよ。……見るな!!」

 

 クロは震える手で、必死に太ももを隠そうとした。だけど、止まらない赤が、あいつの「男のプライド」を塗り潰していく。夕焼けが、その惨酷なコントラストを容赦なく照らし出していた。

 

 俺は無言で自分のジャージを脱ぐと、震えるクロの腰にきつく巻きつけた。

 

「……帰るぞ。歩けるか?」

 

 努めて冷静に、けれど拒絶を許さないトーンで声をかける。クロは俺の顔を見ることすらできず、ジャージの袖を力任せに握りしめ、ただ小さく頷いた。

 

 涙でぐしゃぐしゃになったその顔を、今のキタサンブラックの姿で人目に晒すわけにはいかない。ましてや、学園の寮にこのまま戻れば、すぐに騒ぎになる。俺はあいつを支え、ママチャリを押しながら、裏道を通って駅前のカラオケボックスへと滑り込んだ。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 カラオケボックスの一室。ドアが閉まり、防音の室内が無音に包まれる。クロはソファの端に座り込み、ジャージを巻いたまま膝を抱えて、じっと動かなくなった。

 

「……なぁ、カズユキ」

 

 クロが、掠れた声で話し始めた。

 

「……いつか、ルドルフ会長が言ってたんだよな。……『女の子として扱われ、それに抗えなくなった時、心が激しく揺らぐ』って。……こういうことだったのかよ」

 

 クロは自嘲気味に笑おうとして、失敗した。

 

「腹は痛ぇし、血は止まんねぇし……。これが毎月来るのか? こんな、走るのにも邪魔なもんを抱えて……。オレ、……キタサンブラックとして、あいつらに勝てるのかな。……ダイヤちゃんに、男として向き合えるのかな……」

 

 クロは顔を上げ、泣きはらした目で俺を見た。  

 

 いつぞやの夜の「男のプライドが折れた」なんてレベルじゃない。自分の存在そのものが、身体の仕組みによって否定されたような、そんな深い絶望。

 

「……なぁ、カズユキ。……お前、……オレがこんなになっても、まだ『暴れ馬』だって言ってくれるか? ……それとも、やっぱり……ただの『生理中の女の子』に見えるか?」

 

 試すような、縋るような問いかけ。  

 俺は少し間を置いて、できるだけぶっきらぼうに答えた。

 

「関係ねぇよ。お前の中身は、あの日ニンジン齧ってた『クロ』だろ。血が出ようが腹が痛かろうが、それは変わらねぇ」

 

 俺がそう告げると、膝を抱えていたクロの肩が、びくんと跳ねた。

 俯いたまま、あいつの身体から少しだけ力が抜けるのが分かった。

 

「……あのにんじん、泥臭かったな」

「文句言うな」

 

 少しだけ鼻を啜りながら、クロが自嘲気味に笑う。

 さて、ここからが「男」の、いや「相棒」としての俺の仕事だ。

 

「……待ってろ。生理用品、買ってくるわ」

「なっ……!?」

 

 俺が立ち上がると、クロの顔が瞬時に真っ赤になった。  

 さっきまでの絶望はどこへやら、目をひんむいて、ぶんぶんと手を振っている。

 

「バ、バカ! お前、男だろ! 中1の男子がそんなもん買いに行くなんて……! 羞恥心ってのがねーのかよ!」

「お前こそ、そのままで寮に帰るつもりか? 俺が恥をかくのと、お前がそこで血まみれで固まってるの、どっちがいいんだよ」

「う……。そ、それは……」

 

 クロはぐぬぬと唸り、悔しそうにソファに沈み込んだ。

 

「……わかったよ。……頼む。……あと、その、羽付き……とかいうのがいいらしいぞ。なんか、保健の授業で聞いた気がする……」

「……了解。任せとけ」

 

 俺は防音扉を背にして、戦場(ドラッグストア)へと向かった。

 

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 15分後、夜のドラッグストア前。

 

 レジ袋の中には、店員さんの「お大事に」という無言の(そして多分、誤解を含んだ)気遣いで丁寧に包まれた黒いビニール袋。中1の俺にとって、これをレジに持っていくのは、正直に言えば心臓が口から飛び出てマカレナを踊るくらいの大冒険だった。周りの視線が全部「あいつ、中1のくせに彼女のために……やるなぁ」あるいは「パシリか?」と刺さっている気がして、耳まで熱かった。だが、あの部屋で泣いていたクロの顔を思えば、これくらいの「男の恥」なんて安いもんだ。

 

 カラオケボックスにて再度合流する。

 

「……ほら、これ。トイレでやってこい」

 

 俺がビニール袋を差し出すと、クロはひったくるように受け取り、そのまま小走りで個室のトイレに駆け込んでいった。数分後。出てきたクロは、俺のジャージをしっかりと腰に巻き直し、少しだけスッキリした、けれどどこか居心地が悪そうな顔で戻ってきた。

 

「……サンキュ。……お前、一生の貸しだからな。これ、誰かに言ったら、今度こそマジで、ええと……」

「あぁ、分かってるよ。腹、まだ痛むか?」

「……まぁ、少しな。でも、……なんか、お前のその平然とした態度見てたら、悩んでるのがアホらしくなってきたわ」

 

 クロはソファに深く腰掛け、俺を真っ直ぐに見つめた。

 

「身体がどうなろうと、オレが『クロ』だって、お前が忘れないでいてくれるなら……。オレ、……まだ、戦える気がする」

 

 ルビーのような潤んだ瞳が俺を捉える。

 俺は無言のまま視線を外し、部屋にある備え付けのマイクを手に取った。

 

 しんみりした空気は俺たちには似合わない。

 

「歌、一曲歌ってから帰るか?」

 

 俺が無理に明るい声を出してリモコンを差し出すと、クロは少しだけ笑って、力なく首を振った。

 

「……いいよ。今は、そんな気分じゃねーわ。……こんな声だしな」

 

 そう言って、あいつは自分の喉元をさすった。「キタサンブラック」としての透き通るような高い声。中1の男子なら声変わりが始まっていてもおかしくない時期に、あいつの声は逆に、残酷なほど「女の子」として磨かれていく。

 

「それにさ、今歌ったら……多分、北×三郎じゃなくて、なんか情けない西×カナになっちまいそうだしな」

 

 クロは自嘲気味に笑い、ソファに背中を預けて天井を仰いだ。モニターに流れるカラオケのデモ画面が、無機質な光をあいつの横顔に投げかけている。

 

「……なぁ、カズユキ」

「ん?」

「……オレがもっと、お前みたいに普通の男で、お前と並んで普通に部活して、普通にバカやって……。そんな未来もあったのかな。……もし、あの日、オレがこの姿になってなけりゃ」

 

 一瞬の沈黙。  

 

 その言葉の重みに、俺は返す言葉が見つからなかった。

 

 中1の俺たちが背負うには、あまりに重すぎる「もしも」の話だ。

 

 パラレルワールドの俺たちは、今頃ゲーセンで格ゲーでもしていたんだろうか。

 

「……なんてな! 湿っぽぇのはオレらしくねーな! 忘れてくれ!」

 

 クロはバシバシと自分の頬を叩いて、無理やり立ち上がった。  

 

 俺のジャージの袖をギュッと結び直し、ベルトの位置を確認する。その動作一つ一つが、もう迷いを断ち切ろうとしているように見えた。

 

「行くぞ。門限ギリギリだ。……帰り道、もしダイヤちゃんに会ったら……今度は、お前が上手いこと誤魔化せよ。……オレ、もう嘘つくエネルギー、残ってねーから」

 

「……あぁ、分かってるよ。任せとけ」

 

 カラオケボックスを出ると、夜の空気は少しだけ冷たくなっていた。歩き出したクロの足取りは、まだ重い。けれど、俺の隣を歩くその肩は、どこか「戦う者の顔」に戻っていた。俺たちは、また一つ秘密を共有した共犯者として、夜の道を歩き始めた。

 

 

 

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