朝5時。
まだ夜の冷気がへばりつく薄暗いトラックに、クロがふらつきながら現れた。
顔色は昨日以上に最悪だ。唇の赤みは消え、青白いを通り越して土気色に近い。 なのに、その瞳だけは獲物を狙う手負いの獣みたいにギラついてやがる。
「……よぉ、カズユキ。……遅えぞ、……早くメニュー、出せよ」
声はガラガラだ。下腹部を丸めたまま、無理やり背筋を伸ばそうとしているのが見て取れる。昨日、俺が買いに走った「黒いビニール袋の中身(羽付き)」でなんとか防備を固めているのだろうが、生理二日目の重い痛みと貧血は、中1の「元男子」にとっては未知の地獄だ。立っているだけでも、下腹部を雑巾のように力任せに絞り上げられるような激痛が走っているはずだ。
「おい、クロ。……今日は休んどけ。その顔、死人みたいだぞ」
「……うるせー。……オレが……休むわけねーだろ。……『身体が女になったから、今日は走れません』なんて……そんな情けねぇこと、死んでも言えるかよ」
クロは自分の腹を殴りつけるように押さえ、一歩、また一歩とトラックに足を踏み出す。その姿は痛々しいほど滑稽で、どうしようもなく痛ましかった。
もしこれがスポ根漫画なら「根性だ!」と叫んで終わるところだが、現実はもっと残酷で生々しい。
俺にできるのは、あいつがぶっ倒れた時に受け止める準備をしておくことくらいだ。
◇ ◇ ◇
そして、夕方。
地獄のような授業(クロはずっと机に突っ伏して死んでいたらしい)を乗り越え、再びトラックに戻ってきた俺たちを待っていたのは、身体の痛みよりもタチの悪い「毒」だった。
トレーニングの小休止中、少し離れた場所にいたウマ娘たちのヒソヒソ話が、ウマ娘特有の鋭い耳を持つクロの耳に届いてしまったのだ。
「……ねぇ、聞いた? 昨日の夜、キタサンブラックが腰をフラフラさせて、あの候補生におぶられて帰ってきたって」
「門限破りまでして、あの男のジャージを腰に巻いて……。もう、何したかバレバレだよね」
「中1のくせに、不潔……」
その瞬間、クロの耳が激しくピクンと跳ねた。
ウマ娘の聴力を呪いたくなるような、絶望的な沈黙。
顔色がさらに真っ青になり、握りしめた拳が小刻みに震えている。
「……あ、あはは。みんなひどいなー」
クロは引き攣った笑みを浮かべ、目の端に涙をこらえて、腰に巻いたジャージの袖をギュッと掴んだ。本当は今すぐ暴れ出したいだろうに。いじましく皆の前では「キタサンブラック」の仮面を被り続けている姿が、どうしようもなく哀れだった。
陰口を背中に浴びながら、それでも懸命に走ろうとした、その時。
「っ……、あ……」
一気に血の気が引いたあいつは、怒号の代わりに苦悶の声を漏らし、その場に崩れ落ちた。
「おい! クロ!」
俺が駆け寄ると、あいつは俺の腕を壊れそうなほど強く掴んだ。
目には悔し涙が溜まっている。
「……笑うなよ。……カズユキ、頼むから、……今だけは、オレを笑うな。……オレ……あいつら全員、ぶっ飛ばして……それから、消えてなくなりたい……」
怒りと、羞恥心と、そして「身体が思うように動かない」情けなさ。
噂では「男としてクロを抱いた」ことになっている俺を、クロは涙目のまま睨みつけ、縋り付いている。
「……何が『消えてなくなりたい』、ですか」
背筋が凍るような、低くて、それでいて優雅な声。
並木道の陰から、サトノダイヤモンドが静かに歩み寄ってきた。
彼女の微笑みは、いつも通り完璧だ。だが、その瞳は完全に座っている。
さっきまで噂話をしていた連中が、彼女の放つ異様な威圧感に気づき、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「カズユキさん。……昨夜から、キタちゃんの様子がおかしいと思っていましたけれど。……学園で流れているあの『下品な噂』、否定してくださらないのですか?」
ダイヤちゃんが、俺たちの目の前で止まった。
彼女はまだ知らない。クロの身体に起きた、あまりに生々しい「現実」を。
ただ、彼女の目には、俺に縋り付いて震えているクロと、それを支える俺という構図が、この世で最も許しがたい不浄な光景に見えているらしい。
「……否定も何も、俺たちはただのトレーニング仲間だ」
「……そうですか。……なら、その腰に巻いた『あなたのジャージ』を今すぐ解いていただけますか? キタちゃんに、そんな……他人の匂いのする汚れたもの、相応しくないです」
ダイヤちゃんの手が、クロの腰に巻かれた俺のジャージに、容赦なく伸びる。まずい。ここでジャージを解かれたら、噂以上の「生々しい現実(経血の漏れ)」が白日の下に晒される。そうなれば、クロの精神(メンタル)は木っ端微塵だ。
「悪い、ダイヤちゃん。クロが嫌がってる」
俺はダイヤちゃんの手首を掴むまではしなかったが、その指先が俺のジャージに触れる直前で、クロを庇うように身体を割り込ませた。
「……え?」
ダイヤちゃんの手が空を切る。彼女の瞳に、信じられないものを見たような、激しい動揺が走った。あの「サトノ」の令嬢が、言葉を失って立ち尽くしている。
「……離せよ、カズユキ。オレなら、大丈夫だ……」
クロが掠れた声で強がるが、俺の服を掴む手の震えは止まっていない。こいつは今、生理の激痛と、噂による屈辱と、そして親友であるダイヤちゃんへの申し訳なさで、ボロボロなんだ。
「大丈夫なわけねーだろ。……ダイヤちゃん、悪い。今のこいつに、その手の気遣いは逆にキツいんだ。……今は俺に任せてくれ」
俺はそう言い切ると、クロの身体を横から抱えるようにして支え、強制的に立ち上がらせた。
「カズユキさん……。私より、あなたの方が、キタちゃんのことを理解していると……そうおっしゃるのですか?」
背中越しに聞こえるダイヤちゃんの声が、低く、震えている。それは嫉妬なんて言葉じゃ足りない、もっと暗くて重い……「執念」に近い響きだった。
「……理解してるかどうかは知らねーよ。ただ、今こいつの隣にいるのは俺だ。……行くぞ、クロ」
「……っ、……あぁ」
クロは一度だけ、振り返りそうになった首を必死に固定して、俺に体重を預けた。俺たちは、夕闇の中、背後に立ち尽くすダイヤちゃんの視線を背中に突き刺されながら、トラックを後にした。
◇ ◇ ◇
数分後、校舎の裏。
「……ハァ、ハァ……っ。……おい、カズユキ……」
人目がなくなったところで、クロががっくりと壁に手をついた。ジャージの下の脚はまだガクガクと震えているが、あいつは苦しげに顔を歪めながら、俺を睨みつけた。
「……あんな言い方ねーだろ。……ダイヤちゃん、あんな顔……見たことねーぞ。……オレのせいで、あいつが……」
「お前のせいじゃねーよ。……それに、あそこでジャージを脱がれてみろ。……血が漏れてたら、それこそ言い訳できなくなったぞ」
「…………。……クソッ。わかってるよ、そんなこと……」
クロは壁に頭を打ち付け、絞り出すように言った。
「……なぁ、カズユキ。……オレ、もう決めた。……秋のデビュー戦、ダイヤちゃんに勝つ。……『女の子』として競うんじゃねぇ。……圧倒的な実力差で見せつけて、あいつに……オレを、一人の『ランナー』として認めさせてやる。……そうしなきゃ、オレは……あいつの隣に立っちゃいけない気がするんだ」
腹痛に耐えるその顔には、中1の男子が抱くような、不器用で真っ直ぐな決意が宿っていた。 俺はため息を一つつき、またコンビニまで鉄分入りのドリンクを買いに走る覚悟を決めた。
とんだ「パシリ」生活の始まりだ。